小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年〈明治35年〉4月11日[注釈 1] - 1983年〈昭和58年〉3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家、美術・古美術収集鑑定家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。[要出典]アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学などにも造詣と鑑識眼を持っていた。[要出典]
妹の高見沢潤子[注釈 2]は、作家・随筆家。夫は『のらくろ』で知られる漫画家の田河水泡。
長女・明子の夫は、白洲次郎・正子の次男・兼正。従弟は英文学者の西村孝次、西洋史学者の西村貞二。文藝評論家の平野謙は又従弟[注釈 3]。
1902年(明治35年)4月11日、東京市神田区(現在の東京都千代田区)猿楽町に小林豊造、精子の長男として生まれた。本籍地は兵庫県出石郡出石町鉄砲町。父豊造は[注釈 4]、ベルギーアントワープ市でダイヤモンド加工研磨の技術を学び、日本にその技術と機械とを持ち帰り、「洋風装身具製作」の先駆者となった[1]。また日本で最初に蓄音機用のルビー針を作るなど、数々の技術を開発している。1915年(大正4年)3月、白金尋常小学校を卒業。同年4月、東京府立第一中学校入学。同期に迫水久常、西竹一ら、一期上には富永太郎、蔵原惟人、河上徹太郎(神戸一中から編入)らが在学していた。1920年(大正9年)3月、府立一中卒業。第一高等学校受験、不合格。1921年(大正10年)3月、父豊造没。同年4月、第一高等学校文科丙類入学。
1925年(大正14年)4月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。同級生に今日出海、中島健蔵、三好達治らがいた。同月富永太郎を通じて中原中也を識る。同年11月、長谷川泰子と同棲。1928年(昭和3年)2月、富永の弟次郎を通じて大岡昇平を識る[注釈 5]。同年3月、東京帝国大学卒業。同年5月、単身家を出て大阪に行く。後に奈良に住み、志賀直哉家に出入する。長谷川泰子との同棲関係は解消。1929年(昭和4年)9月、『様々なる意匠』が『改造』懸賞評論第二等入選作として発表された。なお一等は宮本顕治『「敗北」の文学』であった[注釈 6]。1930年(昭和5年)4月、『アシルと亀の子』を『文藝春秋』に発表、以後翌年3月まで文芸時評を連載、批評家としての地位を確立した。1932年(昭和7年)4月、明治大学に文芸科が創設され、講師に就任し、日本文化史、ドストエフスキー作品論などを講じた。
1933年(昭和8年)10月、文化公論社より宇野浩二、武田麟太郎、林房雄、川端康成らと『文學界』を創刊。1935年(昭和10年)1月、『文學界』の編輯責任者となり、『ドストエフスキイの生活』を連載し始める。
1938年(昭和13年)3月、「文藝春秋」特派員として中国大陸に渡り、上海を経て27日、杭州で火野葦平に第六回芥川賞を渡す。小林秀雄は6月に明治大学文芸科教授に昇格した[3]。
1940年(昭和15年)4月、『文學界』の編輯委員を辞任する。
1946年(昭和21年)2月、 「近代文学」で座談会「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」[注釈 7]。同月『無常といふ事』を創元社より刊行。同年5月、母精子没。同年8月、明治大学教授辞任。同年12月、青山二郎・石原龍一と『創元』を編集、「第一輯 梅原龍三郎特集」で『モオツアルト』を、「第二輯 幸田露伴特集」で『「罪と罰」について』を発表。1948年(昭和23年)4月 - 創元社取締役就任。1951年(昭和26年)3月、第一次『小林秀雄全集』により日本芸術院賞受賞[4]。1953年(昭和28年)1月、『ゴッホの手紙』により読売文学賞受賞。1958年(昭和33年)12月、『近代絵画』により野間文芸賞受賞。1959年(昭和34年)12月、日本芸術院会員となる。1961年(昭和36年)10月、創元社取締役辞任。1963年(昭和38年)11月、文化功労者に顕彰。1965年(昭和40年)6月、『本居宣長』を「新潮」に連載開始(1976年(昭和51年)まで)。1967年(昭和42年)11月、文化勲章を受章。1978年(昭和53年)6月、『本居宣長』により日本文学大賞受賞。
1982年(昭和57年)3月、尿道痛と血尿のため川崎市立川崎病院に入院。膀胱腫瘍と診断される。7月、慶應義塾大学病院で膀胱全摘出手術を受ける。9月末、退院し自宅静養。1983年(昭和58年)1月、腎不全を起こしたと見られる。慶應義塾大学病院に再入院したが2月末に容体が悪化し、1983年(昭和58年)3月1日午前1時40分、腎不全による尿毒症と呼吸循環不全のため慶応義塾大学病院で死去[5]。
父・豊造の洋行土産のレコードと蓄音機の影響で小林は若い頃から音楽ファンとなる。学生時代は友人間で流行したレコードの竹針に否定的であり、蓄音機の針のテストのために父に貸したレコードをガリガリにされて憤慨したといった記録も残っている[6]。豊造の洋行土産であるバイオリンのレッスンを受けていた時期もあり(後年、小林は「ノコギリ引き」と評している)、府立一中時代には、河上徹太郎と「ブーブーガンガン」モーツァルトの合奏をするために楽器を鳴らしていた[7]。学生時代にはマンドリンクラブに所属し、演奏会なども催している。父豊造は小林19歳の時に没しており、以後、小林は家長としての責任を負うことになる。同年、神経症で第一高等学校を休学。初期の文章には、当時の自分への記述が見られる。小林は、同世代の若者たちに人気のあった新劇よりも歌舞伎などの旧劇を好んだ。後年の「平家物語」の評論にその影響を見ることができる[注釈 8]。青年時代には、美術学校にある彫刻科の公開されている参考室で、ギリシアやルネサンス彫刻の模造に親しんだということを書いている[8]。府立一中時代から文芸同人誌活動を開始しており[9]、一高時代に雑誌『跫音』に発表した「蛸の自殺」で志賀直哉の、『山繭』に発表した短編「ポンキンの笑ひ」に対し、武者小路実篤の賞賛を受けるなどしていた[10]。
1924年(大正13年)春、第一高等学校在学中に神田の書店街でフランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーの詩集『地獄の季節』の「メルキュウル版の豆本」と出会う[注釈 9][11]。1947年(昭和22年)3月『展望』に書いた「ランボオの問題」(現行タイトル「ランボオⅢ」)で、「向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」と書いている[12]。しかし以後、20代の小林において、ランボーは、約4年ののちには回復しようもなく失われてしまう[注釈 10][注釈 11]。
一方、訳業においては、1929年(昭和4年)10月、同人雑誌『文學』創刊号より翌1930年(昭和5年)2月号にランボオ「地獄の一季節」の9篇を翻訳掲載。同年10月、新たに訳した詩を加え、「ランボオⅠ」「ランボオⅡ」とあわせて、『地獄の季節』を白水社より刊行。のち、1938年(昭和13年)には改訳を施したうえで岩波文庫より『地獄の季節』を刊行した[13]。『地獄の季節』のランボーとの出会いは、ここに袖珍本による普及という具体的成果を得たのである。
そら、科學だ。どいつもこいつも又飛び附いた。 肉體の爲にも魂の爲にも、―― 醫學もあれば哲學もある、―― たかが萬病の妙藥と恰好を附けた俗謡さ。 それに王子樣等の慰みかそれとも御法度の戲れか、やれ地理學、やれ天文學、機械學、化學・・・・・・ 科學。新貴族。進歩。世界は進む。何故逆戻りはいけないのだらう。これが大衆の夢である。 俺達の行手は『聖靈』だ。俺の言葉は神託だ、嘘も僞りもない。 俺には解つている、たゞ、解らせようにも外道の言葉しか知らないのだ。あゝ、喋るまい。 — 『地獄の季節』小林秀雄訳[14]
肉體の爲にも魂の爲にも、―― 醫學もあれば哲學もある、―― たかが萬病の妙藥と恰好を附けた俗謡さ。 それに王子樣等の慰みかそれとも御法度の戲れか、やれ地理學、やれ天文學、機械學、化學・・・・・・ 科學。新貴族。進歩。世界は進む。何故逆戻りはいけないのだらう。これが大衆の夢である。 俺達の行手は『聖靈』だ。俺の言葉は神託だ、嘘も僞りもない。
大正末期から昭和初期の時期は、世界史においては、第一次世界大戦後の混乱から生じた西洋進歩主義にゆらぎが生じた時期でもあった[注釈 12]。この頃、詩人ポール・ヴァレリーはテュービンゲン大学における講演で、「諸君、嵐は終わった。にもかかわらず、われわれは、あたかも嵐が起ころうとしている矢先のように、不安である。」と言った。また、大戦末期にロシア革命が成立していた。このような時代の前段階である19世紀に、ランボーは、早々と、科学による学問の進歩とそれとは異なる逆戻りの志向が世の中に共在し得ることを詩の中に示している。
小林は、学生時代はしばしば講義を休む学生で、乱読家であり、1926年(大正15年)、24歳の時に東大仏文研究室の『仏蘭西文学研究』に発表した「人生斫断家アルチュル・ランボオ」(現行タイトル「ランボオI」)を読んだ指導教官の鈴木信太郎らが「これほど優秀なら」と卒業認可した。
1927年(昭和2年)「芥川龍之介の美神と宿命」を『大調和』9月号に[注釈 13]、「『悪の華』一面」を同年11月発行の『仏蘭西文学研究』に発表[注釈 14][注釈 15]。さらに、1930年(昭和5年)より、文藝春秋において文芸時評を始める。「一番初めに文藝春秋に」書いたときは、「学校を出てから、金がなくってお袋を養わなきゃならない、そのために文芸時評を書いた。それが、一番確かな動機」であった。「思い切り悪口を言えば、評判を取るだろうと思ってやった」もの[15]。小林は若い時代を顧みて「評判を取るだろうと思ってやったんだ。果して評判を取ったよ」という旨のことを言っている[15]。この時期、小林らは同人誌『作品』を立ち上げ、小林はランボーの『イルミナション』を掲載している[注釈 16]。
初期小林批評は、翌年1931年(昭和6年)の『文藝春秋』1月号「マルクスの悟達」[注釈 17]、2月号「文芸時評」、3月号「心理小説」で一区切りを付ける。そして、同年7月『文藝評論』を白水社より刊行する。なお、後年、小林は文藝春秋創立者の菊池寛を回顧する文章の中で[16]、菊池が1921年(大正10年)に書いた「社会主義について」では、「日本が社会主義化して行く事は時の問題であり、ただ手段を誤り、過激な事で、そこに進もうとすると、却って反動期をまねく恐れがあるのが心配であるという考え」を表明し、1947年(昭和22年)に書いた「半自叙伝」では、「今になって言っても益もない事だが、自分の予想は不幸にして的中し、大正末から起った共産主義の弾圧のとばっちりを受けて、自由主義的なものから社会主義的なものへの健全な発展がはばまれて了った」と記していることに注目している。
当時、世界は大恐慌にさしかかり、日本は統帥権問題を端に発した軍部の暴走、その延長として起きた満州事変と5.15事件による立憲政治の中断、特別高等警察の設置などによる緊迫した情勢下にあった。この時期1932年(昭和7年)『中央公論』9月号に書かれた小林の「Xへの手紙」は、サント・ブウヴ、ボードレール、ニイチェ、ゲエテの4者の名を呼ぶのみの小説であり、以後、小林によるランボーへの言及は機会を減らしていく。評論にあっては、海外思潮の分野では、ランボーとの出会い以前に小林に影響を与え、ランボー詩と並行して翻訳を行ったフランスの象徴詩人ボードレールや同じくフランスの哲学者ベルクソンに対する言及が現れてくる[注釈 18][注釈 19][注釈 20]。
また、小林のドストエフスキー論がこの時期以後に始まる。ときはファシズム興隆期の戦前昭和の時代であった[注釈 21]。ドストエフスキー論で小林は、帝政ロシアの反動体制において西欧進歩主義の世界に遠い憧憬の眼を投げる若いインテリゲンチャについて「どれもこれも辛すぎる夢」というドストエフスキーの青年期の書簡での言葉を引きつつ、「青年達は西欧の理想に憑かれながら、この理想をはぐぐむ社會條件を、空しく周圍に捜し求めた」と記した[17]。
1933年(昭和8年)10月より発刊された『文學界』の同人となり、1936年(昭和11年)1月には、高齢同人に退いてもらい[注釈 22]、新たな同人を入れ、自分たちの世代の文学的理想の実現の場を確保し、また同年に自身による翻訳書アラン『精神と情熱とに関する八十一章』の刊行とともに創元社に編集顧問として参加。同社ではさらに自身の著作である『ランボオ詩集』、『ドストエフスキイの生活』などを出版し、社に貢献しつつ、自分の文業を広めることとなる。
小林は、戦後『大東亜戦争肯定論』を著し、論壇に論議を起こすこととなる林房雄が、戦前、二度の入獄を経て転向する以前の作品『青年』を評価し紹介していた[18][注釈 23]。1936年(昭和11年)1月の同人改組前後には、小林は左翼作家を標榜する島木健作と中野重治に参加を働きかけ、島木は参入。しかし、中野は拒絶した[19]。敗戦直前に獄中死した唯物論哲学者で、同年12月に小林が『東京朝日新聞』に発表した「文学の伝統性と近代性」をめぐって論争した相手の一人[注釈 24]だった戸坂潤の誘いを受けて唯物論研究会に名を連ねてもいる[注釈 25]。以後、1937年(昭和12年)日中戦争開始後になっても小林は、河上とともに『文學界』の編集に関与し続け、雑誌同人を拡大しながら文学の社会の中における機能を継続させようと図る[注釈 26]。
日中戦争が始まる前年の1936年(昭和11年)に、小林は正宗白鳥との間で、ロシアの文豪レフ・トルストイの最晩期の家出を巡って、後年「思想と実生活論争」と呼ばれることになる論争を行う[20]。小林が『讀賣新聞』1月24日-25日に掲載した論文「作家の顔」の中で、正宗白鳥が家出したうえ野垂れ死にしたトルストイについて自己流の感慨を述べた、『読売新聞』1月11日-12日の文章を抜粋し、これを批判。この論文に白鳥が反駁した。さらに小林は、『文藝春秋』4月号に白鳥にこたえる形で論文「思想と実生活」を載せる。トルストイが妻を怖がって家出した。天才も竟に細君のヒステリイには敵わなかった。抽象的な思想でなく実生活の退屈で凡庸な瑣事が偉大な思想家の命運を決した。これはどういうことか。白鳥はそこに、⦅卑小な実生活上の瑣事⦆に「人生の真相を鏡に掛けて見るが如」き感慨を覚え、小林は巨大な精神が負わねばならぬ「実生活」という屑肉の退屈を感じた。論争の発端はこの認識の差である。
その後、1948年(昭和23年)の正宗との対談(「大作家論」)で小林は以下のように述べ、意見相違は表面上に過ぎなかったとの認識を示した。
小林:僕は今にしてあの時の論戦の意味がよくわかるんですよ。というのは、あの時あなたのおっしゃった実生活というものは、一つの言葉、一つの思想なんですな、あなたに非常に大切な……。僕はトルストイの晩年を書ければ書いてみたいと思っているのですけど、書けば、きっと九尾の狐と殺生石を書くでしょうよ。思想なんて書きませんよ。
また、1963年(昭和38年)の河上徹太郎との対談(「白鳥の精神」)でも同様の見解を述べた河上に賛意を示している。
河上:理想主義で合理主義……、ぼくは今度きみと正宗さんとの有名なトルストイ家出論争というのをまた読み直してみたよ。そうしたら、当時感じたのとちょっと違ったものを感じたな。当時ぼくは間違えて批評していたんだ。きみは理想主義で、向こうがリアリズムだというふうにぼくは簡単にさばいていたけれども、そうじゃないな。向こうもリアリズムじゃないよ。あれは一種の理想主義だ。 小林:うん、そうだ。 河上:だから同じことなんだ。きみと同じことをいっているのだ。
小林:うん、そうだ。
詩人中原中也とは、帝大時代1925年(大正14年)4月に富永太郎を介して知り合った[21]。同年11月富永は早逝。初期の小林の文章には、支那事変(日中戦争)の始まった1937年(昭和12年)春、若き小林と中原が鎌倉妙本寺の境内に並んで腰掛けている時、無言のまま無数の落ちていく海棠の花びらを異常な集中力で追ううちに急に厭(いや)な気持ちになり、我慢が出来なくなって来た小林を黙って見ていた中原が突然「もういいよ、帰ろうよ」と言い、小林がその振る舞いに対して中原の「相変らずの千里眼」と評したという回顧がある[22]。中原はその年の10月に病没、小林は一週間病院に詰めた。小林の「戦争について」は、中原の死による小林の青春の終わりを宣言するように同年『改造』11月号に発表された。この小林の文章の響きは、同時期に論じていたドストエフスキーの「作家の日記」における露土戦争へのドストエフスキーの肯定宣言に似ている。この文章で小林は「人生斫断家アルチュル・ランボオ」以来の宿命論を持ち出して以下のように書いている。
日本に生まれたといふ事は僕等の宿命だ。誰だつて運命に関する知恵は持つてゐる。大事なのはこの知恵を着々と育てることであつて、運命をこの知恵の犠牲にする為にあわてる事ではない。
この時期以後、戦時中の小林の文章には口癖のように「日に新たな」という言い回しが登場する。これは小林の手によって翻訳されたランボーの『飾画』(イルミナシオン)終章「天才」における、
世界よ、日に新たな不幸の澄んだ歌声よ。
という一句を連想させるものである。
津田左右吉の自由主義的歴史研究が弾圧された頃には、1939年(昭和14年)5月に、ベルクソンに深く影響を受けた歴史哲学の随想「歴史について」を序文に『ドストエフスキイの生活』を出版している。これについて小林が珍しく素直な喜びの感想を残しているのは、この出版が戦争協力に対する対価であった可能性を匂わせる。ドストエフスキー論に似つかわしくない歴史哲学が序文に付されているのもカモフラージュと言えなくもない。戦時中の小林は、哲学者カントの空気のない空間で羽ばたく鳩をしばしば持ち出して、政治的不自由に不満を抱く自由主義者を非難している[注釈 27]。
小林は戦争協力講演で、「主義(イデオロギー)」の不毛を説き、「これは僕の勝手な説ではない」と前置きし二宮尊徳の名前を持ち出すなどしている。
小林は戦時中、6度にわたり中華民国(大陸本土)を訪問している。最初の訪問は1938年(昭和13年)3月で、日本軍から文藝春秋の特派員として招聘(しょうへい)され、満州を回った。1939年(昭和14年)に入り、『文藝春秋』11月号に雑誌『思想』10月号の掲載論文を批判する「学者と官僚」を掲載。これに対して、『思想』の編集者の一人であった林達夫が「開店休業の必要」を1940年(昭和15年)1月に執筆[注釈 28]。同年4月小林は『文學界』編輯委員を辞任。さらに6月より、菊池寛らによる文芸銃後運動の一員として、戦争を支援するため川端康成、横光利一ほか 52人の小説家とともに日本国内、朝鮮および満州国を訪問し幾つかの文章を残している。1938年(昭和13年)の訪問は、従軍中の火野葦平に対する芥川賞の陣中授与式も兼ねており、火野は『麦と兵隊』でその時のことを書いている[注釈 29]。
小林は1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争開戦について「三つの放送」で次のように記している。
「帝国陸海軍は、今八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」 いかにも、成程なあ、といふ強い感じの放送であつた。一種の名文である。日米会談といふ便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思つた。(中略)その為に僕等の空費した時間は莫大なものであらうと思はれる。それが、「戦闘状態に入れり」のたつた一言で、雲散霧消したのである。それみた事か、とわれとわが心に言ひきかす様な想ひであつた。 何時にない清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ。それは、日常得たり失つたりする様々な種類の自信とは全く性質の異なつたものである。得たり失つたりするにはあまり大きく当り前な自信であり、又その為に平常特に気に掛けぬ様な自信である。僕は、爽やかな気持で、そんな事を考へ乍ら街を歩いた。 やがて、真珠湾爆撃に始まる帝国海軍の戦果発表が、僕を驚かした。僕は、こんな事を考へた。僕等は皆驚いてゐるのだ。まるで馬鹿の様に、子供の様に驚いてゐるのだ。だが、誰が本当に驚くことが出来るだらうか。何故なら、僕等の経験や知識にとつては、あまり高級な理解の及ばぬ仕事がなし遂げられたといふ事は動かせぬではないか。名人の至芸と少しも異るところはあるまい。名人の至芸に驚嘆出来るのは、名人の苦心について多かれ少なかれ通じていればこそだ。処が今は、名人の至芸が突如として何の用意もない僕等の眼前に現はれた様なものである。偉大なる専門家とみぢめな素人、僕は、さういふ印象を得た。
いかにも、成程なあ、といふ強い感じの放送であつた。一種の名文である。日米会談といふ便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思つた。(中略)その為に僕等の空費した時間は莫大なものであらうと思はれる。それが、「戦闘状態に入れり」のたつた一言で、雲散霧消したのである。それみた事か、とわれとわが心に言ひきかす様な想ひであつた。 何時にない清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ。それは、日常得たり失つたりする様々な種類の自信とは全く性質の異なつたものである。得たり失つたりするにはあまり大きく当り前な自信であり、又その為に平常特に気に掛けぬ様な自信である。僕は、爽やかな気持で、そんな事を考へ乍ら街を歩いた。
開戦翌年1942年(昭和17年)には、小林は編集者として長く関係して来た「文學界」[注釈 30]での盟友河上徹太郎の司会による「近代の超克」座談にオブザーバー的に参加している。ここで小林は、近代科学と形而上学の分離を説くなどする京都学派の下村寅太郎を中心にした科学論に口を挟み、下村の言葉を受けて、以下の言葉を吐いている。
下村 自然学と形而上学とが一応はつきり区別されること、独立することが必要だと思ひますね。それは科学も形而上学も各々純粋になる、純化されるといふことですから。聯関はこの区別を予想した上でのことでなければならぬと思ひます。これは近代の超克の問題に於て重要です。 小林 自然を拷問にかけて口を割らせるといふ、近代科学をそんなに巧く言つた人が他にあるかね。[24]
また小林はこの時期「自然を征服するとは、自然に上手に負けること」であると、仏教学者・鈴木大拙を思わせる言葉を残している。
だが小林の戦争協力姿勢は時を追って勢いを失い、戦争末期には小林は口を開くのがおっくうそうであったと言われ、仲間内では「小林は何をやって食っているのか」が話題になるほどであったという。この時期の小林の目立つ仕事は時局柄、「当麻」、「実朝」、「平家物語」、「無常といふ事」など日本の古典についての文章が多い。
一方で、小林は敗戦の二年前の1943年(昭和18年)12月、旅行中の南京で『モオツアルト』を書き始めた。これはモーツァルトを中心に立てた一種の天才論であると同時に、終わりの予感が兆し始めた一つの時代への「レクイエム」でもあった。この後、しばらくの間小林は若い時期からの音楽を聴く習慣を途絶させた[25]。
GHQが公職追放令を発布して間もない1946年(昭和21年)1月12日、雑誌『近代文学』の座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」[注釈 31]で、出席者の本多秋五より小林の戦時中の姿勢への言及があった[26]。
本多 話は少し変りますが、小林さんの自由と云うものの考え方ですね、必然の抵抗がなければ自由というものがない……。 小林 そういうふうに考えています。 本多 大野道賢や吉田松陰の例などを引いて、自由とはこういうものだとおっしゃっていたことは、それは非常に同感するのですが、それだけに、何か自由というものをそういうふうに考えただけでは足りないんじゃないかという気がするんです。というのは……。 小林 自由と必然。これは哲学者の弁証法の餌食がね。実に面白く論じられるでしょうがね。だけれども僕は、自由とか必然とかいう実生活に深く結びついた観念は、これはデイアレクチックでは決して解けぬと思う。解けてもつまらぬ。それはその人の実践にあるんだ。その人の悟りにあるんだよ。僕はそうだと思う。 本多 それで、それぞれの悟りを通じて出来た、それぞれの自由感覚というものがあると思うんです。戦争に対する小林さんの発言から見て、日本がこんなになっているのに、この戦争が正義かどうかというようなことをいうのはどうだとか、国民は黙って事態に処した、それが事変の特色である、そういうことを眺めているのが楽しい、あとは詰らぬ、という風におっしゃったのですが、事変を必然と認めておられたんですね。
小林 そういうふうに考えています。
本多 大野道賢や吉田松陰の例などを引いて、自由とはこういうものだとおっしゃっていたことは、それは非常に同感するのですが、それだけに、何か自由というものをそういうふうに考えただけでは足りないんじゃないかという気がするんです。というのは……。
小林 自由と必然。これは哲学者の弁証法の餌食がね。実に面白く論じられるでしょうがね。だけれども僕は、自由とか必然とかいう実生活に深く結びついた観念は、これはデイアレクチックでは決して解けぬと思う。解けてもつまらぬ。それはその人の実践にあるんだ。その人の悟りにあるんだよ。僕はそうだと思う。
そして、以下のような発言を行った。
小林 僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。 大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。 必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。 どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。 僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。
大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。 必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。 どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。
そのあとは、以下の通り。
本多 それで小林さんは、これからは古典とか美しいものを尊重して行くとおっしゃったんですが、先輩として、後から来る者に対してどう考えるかというお考えもあると思います。小林さんは戦争に対しては原始的な自由の信念というものを適用なさった。適用し得る範囲外の所にまで適用なさったのではないですか。或は必然というものをあまり早く諦めてしまって、そのまま肯定されすぎたと云うようなことはないですか。 小林さんも戦争中自由だった。徳田球一も自由だったといえるでしょう。そのように考える次のジェネレーションが出て来る、それをどう思われますか。つまり「近代文学」をどうお考えになるかということなんですが……。 小林 君のいう意味がはっきりしないが、――必然性というものは図式ではない。僕の身に否応なくふりかかってくる、そのものです。僕はいつもそれを受入れる。どうにもならんものとして受入れる。受入れたその中で、そう処すべきか工夫する。その工夫が自由です。僕の書いたものは戦争中禁止された。処が今だって出せるかどうかあやしいものだ。出ないものは出ないで一向構わぬ。
小林さんも戦争中自由だった。徳田球一も自由だったといえるでしょう。そのように考える次のジェネレーションが出て来る、それをどう思われますか。つまり「近代文学」をどうお考えになるかということなんですが……。
一部には、これを敗戦後に戦前とはうってかわって、「右翼的文化人」から「左翼的文化人」に変貌した当時の大多数の知識人らと比して立派であると評価する声もあるが、「反省しない」と言う言葉を用いて、戦前の言動を正しかったとか、悪かったとか戦後の世間一般の価値観でもって自分自身を肯定・否定しているわけではなく、戦争に負けたとたんにその立場を180度転換した戦後の世間一般の価値観でしか己の立場を決定できない人々を小林は「頭がいい人」と揶揄し、批判したのである[27]。
村松剛に「吉本は戦争中天皇主義者だったのに、今は最左翼のような顔をしている」と批判されたことがあると自ら述べる吉本隆明は、「戦争中もいい加減なことを書いていた連中」が「戦後も、すぐに「文化国家の建設」とか言い始める始末」と対比しながら、敗戦の放心状態にあって小林のこの発言の一貫性について膝を打ったという旨のことを第五次小林秀雄全集によせたインタビューで述べている。「事変に黙って処する」というのは小林の事変当初から強調した表現だった。また、吉本は小林の「マルクスの悟達」に至るまでの文章を挙げてマルクスを一番良く理解していたのは小林だったと評価している[28]。吉本は、戦前および敗戦時の小林については高く評価している。[要出典]
この年の半ば、小林の実母である小林精子が5月に没し、6月『新日本文学』による「戦争責任者」指名、8月に戦時中からの明治大学の教授職の辞職[注釈 32]などが連続して起き、酩酊状態で水道橋の駅のホームから崖下に転落して奇跡的に軽傷で済むというようなことも起きている。小林はこの転落事件に強がりを見せながら触れているが、小林の娘の回想では帰宅時には生気の抜けたような青白い顔をしていたとのことである[29]。
この座談会「コメディ・リテレール」で、小林は文芸時評へのやや乱暴な決別宣言をしている。(「サント・ブウヴの発明した、あの文芸時評という溌剌たる形式、これも頂点に達してしまった批評形式ではないのかね。誰でもやれるようになった。例えば、匿名批評というような形式が盛大になれば、もう誰れがやってもいいのだ。第一流の批評家は必ず新しい形式を発明するだろう。まあ、そんな確かな自信が勿論あったわけではないが、何か新しい批評の形式というものを考えるようになった。そして、ジャーナリズムから身を引いてしまったのだ。」「コメディ・リテレール」より)
同年12月、青山二郎、石原隆一らと季刊『創元』を創刊し、「モオツァルト」を発表。
この後、間もなく1947年(昭和22年)3月『展望』に書いた「ランボオの問題」(現行タイトル「ランボオⅢ」)で、小林は「マルクスの悟達」以後、殆ど触れることのなかったランボーについての論を新たに発表し、1948年(昭和23年)11月季刊『創元』2輯にドストエフスキーの『罪と罰』についての二つ目の作品論「『罪と罰』についてⅡ」を発表するが、全体として戦後の小林の文筆活動における近代文学評論のウェイトは低下して行くことになる。
ツアーリの秘密警察が跳梁する帝政ロシアにおいて、ドストエフスキーは人道主義的作品によって新進作家として華々しいデビューを飾った。間もなく社会主義サークル活動のかどで流刑の憂き目にあったドストエフスキーが、ペテルスブルクに帰還したのは1858年である。翌年、ダーウィンが「種の起源」を発表し、西洋キリスト教世界の伝統的世界観が合理主義の号令と共に激変を始める。日本では幕末に相当し、アメリカを先頭とする西洋列強と江戸幕府との間で通商条約の締結が行われている。この時期、ドストエフスキーは西欧へ視察良好へ出かけ、帰国後『地下室の手記』を皮切りに『カラマーゾフの兄弟』に至る一連の問題作の著作を開始する。『罪と罰』はその二作目に当たり、発表された1866年は日本では明治維新の2年前に当たる。
『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは選良主義的超人思想にとりつかれたノイローゼ気味の青年である。ラスコーリニコフは運命の歯車に引きずられて哲学的殺人を起こし、自らの挑戦に敗北して自首し、流刑地に送られる。この作品の終わり際に、主人公が病にうなされて黙示録的な悪夢を見るという、一見するとストーリーとは直接関わりのない不思議な場面が唐突に挿し挟められている。「アジアの奥地」で発生した意志と知性を持つ魔性の微生物がヨーロッパに蔓延し、人類は傲慢と孤独の狂気に取り憑かれて世界は崩壊してしまうというのが悪夢の内容である。
1948年(昭和23年)に発表された「『罪と罰』についてⅡ」で、小林は以下のような言葉を残している。
誰に、新しい旋毛虫が笑へようか。理性がこの世に発生したのが、偶然アジアの奥地であつたとしても、誰に文句の附けようがあらう。
『罪と罰』で主人公はキリスト教的に救済されるが、この悪夢について作者ドストエフスキーはそれ以上、何の解説もせずに物語を終える。ドストエフスキー作品では唯一終末論が取り扱われ、冒頭で日本人の風習が話題になる次作『白痴』が発表されたのは、日本では明治維新の年に当たる1868年である。
1948年(昭和23年)11月の「『罪と罰』についてⅡ」発表と前後して、小林は1947年(昭和22年)3月にたまたま訪れた上野の東京都美術館における読売新聞社主催の泰西名画展覧会で出会った「カラスのいる麦畑」を前にして「ゴッホの巨大な目玉」に見据えられているような衝撃を受ける[30]。
『ゴッホの手紙』は、精神科医でゴッホ研究者でもあった式場隆三郎から、原書(書簡集)提供を受け『文体』[注釈 33]3号:1948年(昭和23年)12月、4号:1949年(昭和24年)7月での掲載を皮切りに、創刊まもない『藝術新潮』で連載を続けた。
書簡より引用を多用しながらも、戦後の小林の孤独と苛立ちのにじむものとなっている。昭和20年代から30年代半ばまでの期間はゴッホを中心としたフランス印象派絵画に関心を振り向けることになる。1958年(昭和33年)には『近代絵画』[31]を人文書院で刊行した。
ある普遍的なものが、彼を脅迫してゐるのであつて、告白すべきある個性的なものが問題だつた事はない。 或る恐ろしい巨きなものが彼の小さな肉体を無理にでも通過しようとするので、彼は苦しく、止むを得ず、その触覚について語るのである。 — 「ゴッホの手紙」
ゴッホは読書家であり、その書簡にはドストエフスキーの名前なども見える。
一見、乱読した文学書に影響されて、議論をしてゐる様に見えるが、実は彼には告白といふものしか出来ない。 要するにかういふ事だ、この画家は、働く手を休めると、自分の裡にじつと坐つてゐる憂鬱な詩人の眼に出会はなければならない。 — 「ゴッホの手紙」
岩波文庫でも1955年(昭和30年)より長年かけ、硲伊之助訳『ゴッホの手紙』が刊行したが、書簡引用の多い小林の『ゴッホの手紙』はそれらの先駆的な意味があると言える[注釈 34]。
なお小林は、瀧口修造・富永惣一と共に、1963年(昭和38年)よりみすず書房で出版された「ゴッホ書簡集」の監修者となった。この書簡集は、小林没後に始まった80年代バブル期の絵画「ひまわり」購入騒動の頃に新訳に置き換えられるまで日本人のゴッホ信仰のバイブルでもあった。
プロテスタントとかカソリックとか其他何々教会とか言ふ組織のなかで提供される、皆にあんなにしやぶられたキリストより、ルナン[注釈 35]のキリストの方が、どれほど慰めになるか。 恋愛だつて同じ事ではないか。ルナンの『アンティ・キリスト』は出来るだけ早く読みたい。 どんなものかは見当はつかぬが、一つ二つは不滅なものが見付かるに違ひないと、前以つて信じてゐる。 — 「ゴッホの手紙」書簡からの引用
恋愛だつて同じ事ではないか。ルナンの『アンティ・キリスト』は出来るだけ早く読みたい。
知的障害を持つ画家山下清が話題になった時期には、彼の画の感性については評価しつつも、見るものに訴えかける精神性の欠如を指摘し、山下の描画を金閣寺放火の犯人の放火になぞらえることで退けている[32]。これは山下が放浪を始める以前のことである。小林の態度を「大人げない」と取るか、「知的障害者の作なのであるから」という態度を是とするかは意見が分かれるであろう[要出典]。
この時期の小林の文章には、ゴッホなどの絵画論と並行して日本の古典、小林特有の音楽的関心からのニーチェ論などがある一方で[33]、緊張感の抜けた随筆も現れる。またジークムント・フロイトについての言及が増えるのも戦後の時流の影響と無縁ではないであろう[要出典]。
また、当時の最先端の娯楽であった映画(活動写真)についての少なからぬ数の論考もこの時期に残している。戦後には、1951年(昭和26年)5月の黒澤明のドストエフスキー映画『白痴』公開後、『中央公論』1952年(昭和27年)5月号から1953年(昭和28年)1月号に「『白痴』についてⅡ」を著し、後に対談も行っている。また小林周辺から、戦後の小津安二郎作品に関わった文学者が出ている。
小林は1952年(昭和27年)12月から翌年7月までヨーロッパへ旅行する途中、ギリシャ・エジプトなどの古代遺跡を巡り、紀行文を遺している。この時期以後、小林はプラトンの著作への関心を深める。但し、小林のプラトンへの関心はむしろソクラテスに対する関心であり、これを元にソクラテスのダイモニオンを論じた「悪魔的なもの」を書き[注釈 36][注釈 37]、60年安保を前後する時期の『考えるヒント』に繋がる[34]。
1859年にダーウィンが『種の起源』を公表した当時、イギリス(大英帝国)ではダーウィンに先んじジャーナリストのロバート・チェンバースが匿名[注釈 38]で出版した、万物進化論[注釈 39]を主張する『創造の自然史の痕跡』が話題となっていた。これについてダーウィンは「下等」、「高等」という概念を人間の主観的価値観の産物であって科学的な概念とは言えないとして、その科学的価値には否定的な評価を下している。一方で、その影響が自らの学説の普及するために一役買ったことについては一定の評価を下している。このような、「下等」な生物が「高等」な生物に変化するという形式の「進化論」は、ダーウィンの指摘するとおり近代科学の水準に至っていない疑似科学であるが故に、ダーウィン以前から存在していたが充分な影響力を持つには至らなかった。ダーウィン自身、当初は自らの自然選択説を疑似科学の代名詞たる「進化論」の範疇に入れることを拒否していた。疑似科学としての「進化論」の本質はその説が生命の謎、或いはその究極的な目的を説明することであり、これは本質的に科学的な証明の不可能な形而上学である。一方、ダーウィンの学説はそれが近代科学の枠組みにある限り「生命とは何か」という哲学的な問いには無関心であり、「種の起源」という名の通りに生命の多様な「種」がいかにして発生したかについての理論であり、「生命はいかにして誕生したか」という問いには無力である。それが社会のダーウィン学説に対するイメージからいかに隔たっていようとも、これは動かしがたい真理である。ダーウィンの有力な協力者であり、現代では疑似科学的な進化論者の見本と見られているトマス・ヘンリー・ハクスリーは、自然選択説を教えられた当時の感想を「何でこんな簡単なことに気づかなかったんだ」というものだったと言っている。これは、ハクスリーの思索態度が哲学的であって、科学的でなかったことによるものであろう。「ラマルク主義」で有名な、19世紀初頭のジャン=バティスト・ラマルクによる『動物哲学』以来、近代科学の水準を満たさない進化論学説のバリエーションは豊富であり、それぞれの理論の特徴についての議論はあるが、その内にはダーウィンの祖父エラズマスや、ハクスリーと共にダーウィンの有力な協力者であったハーバート・スペンサー、また小林が論じたフランスの哲学者ベルクソンも入れられるであろう。ベルクソンは著作中、スペンサーへの敬意を隠していない。
伝統的キリスト教会の神学では、世界は神が7日で創り、人間の祖先は塵(ちり)から創られたアダムと、アダムの肋骨から創られたエバであるとして来た。このような世界観を無批判に受け入れる限り、人間の存在する意味を我々が改めて問う必要はない。一方、ダーウィンの学説が主張するのは「人間の先祖がサルである」という事実だけであり、しかもこの事実だけで伝統的なキリスト教神学の権威を無効化するには充分である。しかしダーウィンの学説は神学ではなく、仮にキリスト教の神学を抛棄するならば、人間の存在する意味を改めて規定する新しい神学が必要になる。それが、疑似科学的進化論の意義であったと言える。ダーウィン学説についての科学的厳格さを伴った論争では、ハクスリーやスペンサーのような疑似科学的進化論からのダーウィン学説の擁護者は間もなく排除されることになった。しかし、教会の権威に代わる新たな神学を必要とする世俗社会では、ハクスリーやスペンサーの権威が不要になることはなかった。かくて現代に至るまで、科学としてのダーウィン学説と疑似科学としての進化論の、社会における混同は多かれ少なかれ続いており、小林もまたこの混同から完全に逃れきっているとは言えない[注釈 40]。
19世紀半ば以後、ダーウィン学説と共に西欧を中心とした自由主義的な世俗社会は、原罪論も最後の審判もない楽観主義の哲学を受け入れた。この楽観主義はしかし、20世紀初頭の第一次世界大戦の惨禍(さんか)によって打ち砕かれた。(参照:実存主義#不安の時代)第一次世界大戦後の西欧社会の知的潮流は、この言わば新しい神学の崩壊、乃至は解体から始まる。西洋哲学史におけるこの時代のランドマークとなる、ドイツの哲学者ハイデッガーの『存在と時間』、オーストリア出身の哲学者ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、いずれも楽観主義の哲学における形而上学の解体を主眼として展開されている。また、大戦以前から進化論哲学を主導して来たベルクソンのような哲学者自身、自ら路線変更を強いられた時代でもあった[注釈 41]。
ベルクソンの4冊の主著で、最後に発表された『道徳と宗教の二つの源泉』(1932年)を除いた他の3著は、第一次世界大戦(1914年 - 1918年)以前の1889年から1907年にかけ公刊された。最終の「二源泉」刊行までの間が開いているのは、戦後のベルクソンが賢人会議に参加するなど、思索よりも大戦後の平和活動に熱心だったせいである。また3著がそれぞれ意識現象、生理現象、生物現象を扱った進化論哲学であるのに対し、最終の「二源泉」は、どちらかと言えば社会学的考察である[35]。進化論哲学者としてのベルクソン哲学の要となる部分は、小林が文筆活動を始めた第一次世界大戦前に刊行されていたのである。
ダーウィン学説の普及と共に盛んになった進化論哲学は、科学の発展を大前提とするが故に人間の理性を絶対視する「自然の光」、或いは主知主義の哲学であり、ベルクソンの哲学も例外ではない。ベルクソンをアリストテレスに象徴されるような伝統的な理性の哲学と区別するのは、その直観主義であると言われる。しかしベルクソンは、第一次世界大戦前の1903年(明治36年)に発表した『形而上学入門』で「知的直観」“intuition intellectuelle”と書いた箇所を、大戦後 ―― つまり思想背景としての進化論を抛棄した後と思われる時期に発表した論文集に転載するにあたり「心的直観」“intuition spirituelle”と書き直している[36]。この戦前のベルクソンの直観主義は、我々日本人が禅仏教で歴史的に親しんでいるような宗教的直観主義とは異なるベルクソン哲学の特徴的なものであろう。また、この知的直観主義と対をなしてベルクソン思想を特徴付けるものにイマージュ論がある。ベルクソンにとって、「イマージュ」とは単なる心的表象とは異なる、一種の観念実在論である。このベルクソンのイマージュ論の影響は、小林においてはそのドストエフスキー伝の序文をなす「歴史について」で見られるような、(ややグロテスクな)実在論的な歴史哲学となる。ベルクソンのイマージュ論は、彼が一時期会長を務めた英国心霊現象研究協会が研究対象にしたエクトプラズムを連想させるものがある。また、ベルクソンの宗教観もこれに倣ったものであり、後年、英国国教会が心霊主義を内偵して秘密提出し、暴露されたと言われる報告書における心霊主義の宗教観についての批判は、ベルクソンの宗教思想を非常に連想させる。
愛の崇高さについても、新約聖書の「神は愛なり」という主張に匹敵するものが見られることは事実だが、キリストの持つ贖罪性についての叙述などは、人間の罪の重荷を背負ってくれるという根本的な(キリスト者の)受容の信仰ならびに十字架上での勝利ではなく、どうやら(復活における)物質化現象という奇跡を生じさせるある種のエネルギーのことであるらしく、キリスト教的福音の教えには遠く及ばないことがしばしばである。 「英国国教会“スピリチュアリズム調査委員会”多数意見報告書」
ベルクソンは、いずれ科学の発展が死後生の謎をも解き明かすことを期待する。
1958年(昭和33年)5月には、いずれ未完に終わることになるベルクソン論『感想』の連載を『新潮』誌上に開始する。この連載の契機となったのは何よりこの時期の小林のギリシャ哲学への傾斜であろうが、当時内外論壇を賑わしたコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』[注釈 42]の神秘主義的進化論の影響も考えられる。同じころ、河上徹太郎が『日本のアウトサイダー』という評論を著した[37]。河上はアウトサイダーの定義を「異端」あるいは「幻(ヴィジョン)を見る人」として、中原中也、内村鑑三など数人の人物の思想と行動とを解析し、インサイダーすなわち正統主義、オーソドクシイのあり得べき形や個所の獲得のためのヒントを呈示した。小林は、この河上の一連の作業の保持する意味のうち、人物の「列伝」という歴史表現の側面にスポットライトを当てて[注釈 43]、『考えるヒント』で紹介している[38][注釈 44]。
また、現代では牧歌的に過ぎる態度と言わざるを得ないが、小林の『感想』冒頭における小林自身の超自然的体験談には、ベルクソンの俗流神秘主義の影響が認められるかも知れない。
戦前のカントを論じた小林の初期文章では、カントの人倫重視の形而上学を「窮余の一策」と評したものがある。この小林の形而上学観はベルクソンを論じるにあたって自らの姿勢を暗に表明しているものと思われる。しかし、概してベルクソンの進化論哲学の体系は、小林がそれと信じた(信じたがった)程には精神的でも芸術的でもなく、小林の文筆活動において我々が論じる価値のあると見る分野に比較して素朴であり、楽天的に過ぎるのであって、そこから小林が期待するものを汲み上げるのは困難であったと言えるであろう。
ベルクソンは生命活動を砲弾の飛び交う戦争のようなイマージュによって提示する。事実、歴史はそのようになったのであって、戦後のベルクソンの平和活動にも関わらず、生物学的民族主義と進化論哲学を奉じるナチス・ドイツがユダヤ人哲学者ベルクソンの住むパリを占拠することになったのである。ベルクソンは遺稿の公開を禁じてナチス占領下のパリでひっそりと最期を迎え、ベルクソンの膨大な遺稿を期待しながら戦後を迎えた小林はそれを知り「恥ずかしかった」と告白している[注釈 45]。
1963年(昭和38年)に、小林はソ連作家同盟の招きで訪ソしたのを期に、5年の歳月をかけたベルクソン論を中断した[注釈 46]。後に小林は数学者岡潔との対談で、中断の理由として「無学を乗りきることが出来なかったから」と述べている[39]。
小林が封印したベルクソン論『感想』は本人の意志とは無関係に、生誕百年を記念した小林秀雄全集(第5次)・別巻として公刊された。
1951年(昭和26年)、アメリカとの片面講和と旧日米安保条約によって一応の区切りの付いた戦後の日本には、戦後にニューヨークに本部を移して新体制として再建された国連への参加に対する、常任理事国ソ連の拒否権という障碍が存在した。1956年(昭和31年)の鳩山一郎内閣による戦後の日ソ国交回復は、このような状況下で行われた。日ソ共同宣言は、戦後の新日本再建に向けた国際社会への本格復帰の始まりとして、国内世論は歓迎ムードに沸いた。しかし、続く1960年(昭和35年)の新安保条約は、冷戦構造下でのアメリカに対する日本の一方的従属を決定づけるものであり、戦後日本の独立国としての将来への期待を全く裏切るものとして国内世論の激しい抵抗にもかかわらず強行的に締結された[注釈 47]。
1960年(昭和35年)安保の前後に小林は、NHKラジオ新年放送に、吉田茂[40][注釈 48]や、南原繁、鈴木大拙、手塚富雄[41] と共に参加している[注釈 49]。
戦前から創元社に顧問として関係してきた小林は、後戦間もない1948年(昭和23年)取締役となり、東京支社はのれん分けされ別法人となった。1951年(昭和26年)に現代社会科学叢書が刊行され、第一回配本のフロム『自由からの逃走』はベストセラーとなる[42]。1954年(昭和29年)に一度倒産「東京創元社」として再開したが、1961年(昭和36年)に再度倒産し、小林は取締役を辞任する。
この年小林は、「考えるヒント」として、評論「忠臣蔵I・II」を発表[43]。ここで結語の中で、「……現代人には、現実世界は、自由な批判に屈し、現状維持にも革新にも応ずると言った姿に映ずる傾向があるが、当時の武士たちには、勿論、そんな心理傾向は無縁であって、彼等は、ただ退引きならぬ世の転変をそのまま受け納れて、これに黙して処した」と説き、自らを仮託しているように読めなくもない。「これは、原理的には簡明な事で、行動人から知識人への転向であった」と続いている。他方で、同時期の講演「現代の思想」では、本題をそれて「世捨て」を論じており、その声の調子は重く沈み切っている。小林の「世捨て」についての見方は、中国古典を引き合いに出した「世を捨てて市場にいる」というものである。これは、かつて「西行」において取り上げ、重視しながらも「馬鹿正直な拙い歌」と評した作に似ている[44]。
捨てたれど隠れて住まぬ人になれば猶(なほ)世にあるに似たるなりけり
1963年(昭和38年)の訪ソで、小林はドストエフスキーの墓を訪れるなどし、ソ連・ロシアについての幾つかの文章を残している。「ネヴァ河」では、前年に没した正宗白鳥の、『罪と罰』の最後に登場するネヴァ河を遠い目に見る姿を回想として引いている[45]。この訪ソで『感想』を中断してしばらくすると、小林は『本居宣長』の連載を始める。小林には戦時中から日本の古典文学、芸能、絵画、骨董についての文章は数多いが、日本の古典についてのまとまった仕事はこれが最初で最後のものとなる。
吉本隆明は、戦後の小林については「僕が左傾化し、熱心とは言えない読者になった頃、小林秀雄は、「無常という事」の延長線上の、ある閉じられた領域の中でくるくる巡回しているだけではないか、と思えてきたんですね。左翼から見ると尚更そうなのですが、いい文章を書いてはいるんだけれども、思想的な停滞を感じざるを得ない。」小林秀雄晩年の作品『本居宣長』についても「宣長論の勘所は、二つあると思います」、「記紀神話に書かれたことをそのまま素直に受け取ればいいという宣長の考え」「勘でいやに正確な古典日本語の読解をやっているなという国学者としての宣長」「その二点の考察が欠けているとともに、停滞感だけはいかんともしがたく、その論旨で書評を書きました」と述べている[46]。
小林における通常の心理学を越える諸問題についての関心は、『モオツァルト』、『感想』、『本居宣長』に後続する、最晩年の未完となった『正宗白鳥の作について』(1981年(昭和56年) - 1983年(昭和58年))までに至る。ここで小林は、フロイトとユングの師弟の共同作業に言及し、ユングの『自伝』をめぐる逸話の中で、「心の現実に常にまつわる説明しがたい要素は謎や神秘のままにとどめ置くのが賢明・・・」とある文章を引用しかけた地点で、絶筆となった[注釈 50]。
小林の批評は個性的な文体と詩的な表現を持ち、さまざまな分野の評論家、知識人に影響を与えた。小林がもたらした新時代の批評形式に対して、創造的批評、という評語が文学界に現れた[注釈 51][47][48][49]。文学の批評に留まらず、西洋絵画の評論も手がけ、ランボー、アラン、アンドレ・ジッド、サント・ブーヴ、ジャック・リヴィエール等の翻訳も行った[50]。酒癖は悪く、深酔いすると周囲の人にからみ始め、相手が泣き出すか怒り出すまでやめなかったという。日本語の通じないアメリカ兵まで泣かせたという伝説が周囲で囁かれていた[51]。鎌倉市に在住[注釈 52]し、文化遺産や風致地区の保存運動にも影響力をもっていた。
小林家の祖先は信州上田である。1705年(宝永2年)信州上田藩から仙石政明が但馬出石藩に入部し、1871年(明治4年)の廃藩置県まで出石藩は仙石氏が支配した。小林家はその仙石氏の家臣だった。小林秀雄の父豊造は兵庫県出石町の在、資母村東里の農家清水家に生まれ、7代目小林友右衛門、富子夫妻の養嗣子となった。 — 郡司勝義[注釈 53]『小林秀雄の思ひ出 その世界をめぐって』(文藝春秋、1993年(平成5年))、107 - 108頁
(清水) 小林市右衛門重秋━小林友右衛門…(中略)…小林友右衛門……小林豊造━小林秀雄 ┃ 清水甚兵衛━━━┛
プラトンは、どこまでソクラテスという実在の人物を勝手に創作したか、というような問題は殆ど無意味であろう。ソクラテスの登場しないプラトンの「対話篇」など考えられないし、「対話篇」の裡で甦らなければ、この一行も書き遺すことをしなかった賢人は、風変わりな一政治犯として死んでいただろう。ともあれ、「対話篇」に現れるソクラテスの姿には、抗し難い魅力がある。恐らく、この人物に対するプラトンの感嘆の情が、そのまま人間の形をとったものであろうか。この人間の形は分析を拒絶して生きている。プラトンはソクラテスの思想を語ろうとしているのか、ソクラテスを利用して自分の思想を語ろうとしているのか、そういうことは、プラトン自身にもわからなかったことではあるまいか。プラトンはソクラテスの弟子だったと言われるが、この恐るべき実行家に、青年プラトンが、その思想家、詩人としての全未来を賭けたということには、何か不思議なものが感じられる。彼は、そう決意したのか、そう自分自身に誓ったのか。それとも、彼にも彼のダイモンがあって、そう合図されたのか。――「悪魔的なもの」
―― SPCDHという頭文字は「死馬愛護協会(Society for the Prevention of Cruely to Dead Horses)」の略である。これは世界中に支部をもつ秘密結社であって、私たちの現代の知的気候にかなりの影響を及ぼしている。その活動の数例をあげておかなくてはならない。 大戦のあいだ、ドイツ政府は六〇〇万人の非戦闘員を死の工場で殺した。これは最初は秘密にしておかれた。事実が漏れるとSPCDHは彼らのために一席弁じて、責任者たちを裁判にかけるのは不公正でありよくないことだと論ずる方針を打ち出した。それは死馬を鞭うつものだというわけである。 ソヴェイエト政府も、スターリン統治時代に、やり方こそ違うがそれに匹敵する規模で、野蛮行為を行った。西欧の進歩派仲間の中でそれに対する公の注意を引こうとする者は、冷戦屋、中傷家、気違いと非難された。スターリンの後継者がこの事実を正式に認めると、それがまだ北京からベルリンまで他の国々を荒らし回り続けていたにもかかわらず、SPCDHはこの件をただちに死馬であると分類した。 イギリスの島国根性、階級差別、社会的俗物主義、言葉のなまりで人を品定めしてしまうことなどはすべて死馬であると宣言され、空中をみたすうつろないななきは亡霊が発するものに違いないとされた。アメリカのドル崇拝、物質主義、大勢順応主義についても同じことがいえる。客間の遊びに、この一覧表をもっと続けていくこともできるだろう。 — (アーサー・ケストラー『機械の中の幽霊』pp.530 - 531)
大戦のあいだ、ドイツ政府は六〇〇万人の非戦闘員を死の工場で殺した。これは最初は秘密にしておかれた。事実が漏れるとSPCDHは彼らのために一席弁じて、責任者たちを裁判にかけるのは不公正でありよくないことだと論ずる方針を打ち出した。それは死馬を鞭うつものだというわけである。 ソヴェイエト政府も、スターリン統治時代に、やり方こそ違うがそれに匹敵する規模で、野蛮行為を行った。西欧の進歩派仲間の中でそれに対する公の注意を引こうとする者は、冷戦屋、中傷家、気違いと非難された。スターリンの後継者がこの事実を正式に認めると、それがまだ北京からベルリンまで他の国々を荒らし回り続けていたにもかかわらず、SPCDHはこの件をただちに死馬であると分類した。
――先日、私がベルグソンの本を捜してゐる事を知つてゐる友人が、“Écrits et Paroles”といふ新刊をとゞけてくれた。それは、今まで、單行本に收められてゐなかつた講演や論文の類を集めたものであつたが、序文を讀んで、はじめて事情が、私には明らかになつた。彼は、死ぬ四年前、一九三七年の一月に、遺書を書いてゐるのであつた。 「世人に讀んで貰ひたいと思つた凡てのものは、今日までに旣(すで)に出版した事を聲明する。將來、私の書類其の他のうちに發見される、あらゆる原稿、斷片、の公表をこゝに、はつきりと禁止して置く。私の凡ての講義、授業、講演にして、聽講者のノート、或は私自身のノートの存するかぎり、その公表を禁ずる。私の書簡の公表も禁止する。J.ラシュリエの場合には、彼の書簡の公表が禁止されてゐたにも係はらず、學士院圖書館の閱覧者の間では、自由な閱覧が許されてゐた。私の禁止がさういふ風に解される事にも反對する」 — 「感想」(一)
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