岸田 日出刀(きしだ ひでと、1899年2月6日 - 1966年5月3日)は、日本の建築学者・建築家。工学博士(1929年)。元東京大学教授。
戦前から戦後にかけて建築分野の造形意匠設計方面の権威であった。東京帝国大学工学部建築学科卒業後、大学に残り非常勤講師を務める傍ら、東京帝国大学大講堂(安田講堂)、同理学部1号館(現存せず)などの設計に携わり、内田祥三とともに関東大震災で被災した東京帝国大学のキャンパス復興に尽力した。東京大学建築学科では建築意匠設計教育に長くかかわり、岸田研究室には前川國男、丹下健三、立原道造、浜口隆一、浅田孝らが在籍し巣立っていったほか、前川や丹下らをバックアップし育てた。
福岡市に士族、裁判所書記岸田稔の次男として生まれる(鳥取県東伯郡北条町(現北栄町)出身)[1]。東京府立三中、一高理科甲類を経て、1922年に東京帝国大学工学部建築学科卒業。卒業後は母校で非常勤講師。震災の翌年1924年(大正13年)に、同期の蒲原重雄らと共に「ラトー」という表現派グループを結成し、復興創案展に出展を行った。この年には学士会館や震災記念建造物のコンペティションに参加し、いずれも佳作入選。
1925年(大正14年)東京帝国大学工学部助教授就任。同年12月中旬から1926年(大正15年)11月までの約1年間、初めての海外視察。[1] (PDF)
1929年(昭和4年)学位論文『欧州近代建築史論』を発表。工学博士。東京大学教授に就任。1930年代には、多摩帝国美術学校(現多摩美術大学美術学部)でも建築史を教えていた。[2][3]
1936年(昭和11年)日本工作文化聯盟に参加。「岸田日出刀」(上・下巻 編集委員会編 相模書房 1972)によると1939年(昭和14年)には千葉県市川市に自邸を設計し構える。
昭和20年代から30年代にかけては、式場隆三郎らとともに地域文化活動としての指導的役割も果たし、趣味も写真、ゴルフ、麻雀、玉突(ビリヤード)、囲碁など多彩であり、また釣りをも好み、地元市川市の釣友会に参加もしていた。趣味の写真は『過去の構成』『現代の構成』『熱河遺跡』で自前所有のライカを用いて自ら撮影した写真でまとめられており、その建築観や美意識を窺い知ることができるようになっている。また多くの著作はさまざまな新聞や雑誌媒体に寄稿した建築に関する随筆で、後にこれらを『甍』『堊』『窓』『扉』『縁』というタイトルにて随筆集にしてまとめられたものである。
1947年から翌年まで日本建築学会会長。1948年(昭和23年)日本学術会議会員選出。1950年に1949年度日本芸術院賞受賞。文化財専門審議会第二分科会専門委員、1949年(昭和24年) 日本建築学会設計競技基準委員会委員長、1957年(昭和32年) 千葉大学教授(兼任)。1959年(昭和34年)東京大学教授を定年退職。
「倉吉市庁舎」で1957年度日本建築学会賞を受賞、1960年(昭和35年) 東京オリンピック施設特別委員会委員長などを歴任し、「東京オリンピック施設」で1964年度日本建築学会特別賞を受賞した。
金沢工業大学建築アーカイブズ研究所に岸田日出刀資料が蔵されている[4]。
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