鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年(明治28年)6月3日 - 1970年(昭和45年)3月4日)は、日本のフランス文学者、東京大学名誉教授、日本芸術院会員。
神田佐久間町生まれ。温雅な学究・教育者として、7歳上の辰野隆、2歳上で東京高師附属中の先輩でもある山田珠樹と力を合わせ、29年間の卒業生が22人という状態だった東大仏文科を活性化し、渡辺一夫、伊吹武彦、杉捷夫、市原豊太、川口篤、小林秀雄、今日出海、中島健蔵、三好達治、佐藤正彰を始め、多くの後進を育てた。
学者として、フランソワ・ヴィヨンらの中世詩歌、マラルメ、ヴァレリーらの近代象徴主義詩歌を緻密に研究し、紹介・翻訳・辞書・随筆に多くの文業を遺した。
東京大学文学部教授を退官後は中央大学文学部教授、東洋大学教授、日本フランス語フランス文学会会長などを歴任した他、多くの大学に出講した。
また、水泳・ゴルフ・謡曲・将棋・篆刻・稀覯本収集・ワインなど、趣味も豊かであった。
1895年(明治28年)、神田川の川口に近い神田佐久間町の、富裕な米問屋に生まれる。埼玉県人・鈴木政次郞の二男[1]。東京女子師範附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)に通う。
1908年(明治41年)に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1913年(大正2年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業、諸橋轍次[2]が担任だった。
1913年(大正2年)18歳、第一高等学校第一部丁類(仏語法科)に進み、翌年ボードレールの「悪の華」に取り組む。このころ、辰野隆(仏文学科在学中)を知り、以後半世紀、終生親しく交わる。1916年に東京帝国大学仏文学科へ進学。同期に岸田國士、関根秀雄らがいた。
1917年(22歳)、東京高師附属中時代からの先輩である山田珠樹らと同人誌「ろざりよ」を創刊し、繁く短編小説を載せる。1919年、同人辰野隆とロスタンのシラノ・ド・ベルジュラックを共訳し、一幕ずつ同誌に連載する。これは、以降徹底的に推敲して華麗な語彙をちりばめた名調子に実り、今に至るまで度重ねて、上演の台本に使われている。1920年東大文学部副手、1921年講師となる。初講義は、学生の希望に応えた「フランス近代叙情詩研究」であった。翌年、上記「シラノ・ド・ベルヂュラック」を初出版。その後太平洋戦争末期を除き、多数の著述を上梓した。辰野隆、豊島与志雄、山田珠樹と監修した「フランス文学叢書」は、1924年より刊行された。
1925年(30歳)、パリに私費留学。中世仏語を学ぶ一方で演劇・絵画展を見聞し、翌年帰国。多数の象徴派を主とした書籍を持ち帰る。1928年(昭和3年)東池袋の邸内に鉄筋コンクリートの書斎を構え、これが後に1945年の東京大空襲罹災では、蔵書焼失を防いだ。1931年東大助教授となる。第二次世界大戦下では、フランス書の輸入及び自著の出版の不自由に苦しむ。1945年4月、空襲で自宅を焼かれる。翌月文学博士の学位を得る。学位論文は、「ステファヌ・マラルメ詩集考」であった。
1947年(52歳)、東京大学仏文学科教授、1953年から55年は文学部長。1954年夏、フランスおよびベルギーに出張。1956年定年退官し東大名誉教授、中央大学文学部教授となる。また、日本フランス語学会会長となり、翌年、日本フランス文学会会長となる。1960年、フランス政府よりレジオンドヌール三等勲章を受ける。1961年糖尿と心臓を病む。1962年、新設の日本フランス語フランス文学会の会長に推される。
1963年(66歳)、日本芸術院会員(翻訳評論部門)に選出。1966年中央大学を定年退職。衰える体力の中で、東洋大学文学部教授を務める。1967年、日本フランス語フランス文学会の会長を辞し、名誉会長に推される。
1969年(74歳)春、東洋大学を退職。秋、一切の講義から身を引く。この年に生存者叙勲を辞退。1970年3月4日、大動脈瘤破裂により、自宅書斎で急逝。本人の遺言により遺族は没後受勲も辞退。
主な蔵書は、子息鈴木道彦が勤めていた獨協大学図書館に収蔵され、図書目録『獨協大学図書館所蔵 鈴木信太郎文庫目録』(1997年)が発刊された。
東池袋5丁目にある旧居は東京都豊島区により取得・改修され、2018年春から「鈴木信太郎記念館」として一般公開されている[3]。
鈴木家は埼玉県春日部市の大地主(庄屋)である[4]。
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