13代中里太郎右衛門(じゅうさんだい なかざと たろうえもん、1923年(大正12年)5月31日 - 2009年(平成21年)3月12日[1])は、陶芸家、日本芸術院会員。本名・中里忠夫[1]。法号・中里逢庵[1]。佐賀県唐津市出身[2]。日本工匠会会長[1]。国際陶芸アカデミー会員。
12代中里太郎右衛門(中里無庵)の長男であり[1]、弟の中里重利、中里隆も陶芸家[1]、自身の長男忠寛もまた14代中里太郎右衛門で伝統ある陶芸家の家系である[3]。
進学に際しては後の作陶力向上のため絵画能力を重視した父無庵の意見により佐賀県立唐津中学校を経て美術学校である官立東京高等工芸学校工芸図案科に入学した経緯があった[3]。
戦時中の1943年(昭和18年)には宮崎県の航空教育隊に入営、所属部隊が1945年5月に台湾の台北空港に展開、そのまま現地で終戦し1946年(昭和21年)まで台中で捕虜生活を経験した[3]。
古唐津再興を成した実父中里無庵の跡を継ぎ[3]古唐津焼を研究し、その中でも「叩き」の技法を基本として独自の作風を築いた[1]。しかしながら父より受け継いだ古唐津スタイルの伝統を堅持しつつも芸術性の高いモダンな唐津焼を求めた[3]。なお、無庵は古窯跡から出土した古陶片の研究により現代に古唐津の技法を蘇らせたことによりそれまでの京都風唐津焼スタイルを一変、安土桃山時代風の古唐津スタイルを確立させたことで人間国宝認定を受けている[3]。
また作陶の傍らで唐津焼の起源を精力的に研究したことでも知られており[3]、東南アジアなどを踏査した研究成果を多くの著作論文にまとめ積極的に発表し、2004年には提出した博士論文「唐津焼の研究」が京都造形芸術大学に認められ博士号を取得した[3]。
全て陶芸作品。
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