米川 文子(よねかわ ふみこ)は、地歌・生田流箏曲家の名跡。当代は二代目。
初代
(1894年6月15日 - 1995年5月31日[1])
現在の岡山県高梁市間之町生まれ[2]。ロシア文学者・米川正夫の妹[2]。幼い頃から箏を姉の暉寿(てるじゅ)に学び、1905年、上京、三味線を小井出といに学ぶ。1936年、第一回地歌舞研究会を開催、関西の芸である地歌を東京に広めた。1966年、人間国宝、1978年、日本芸術院会員、1981年、文化功労者。二代目は初代米川文子の姪で兄・清の長女である。100歳没。墓所は多磨霊園。
刊行書目
- 新高砂 双調会、1954年
- 楫枕 双調会、1957年
- 越後獅子 双調会、1963年
- 竹生島 双調会、1972年
- 秋風の曲 双調会、1989年
- 黒髪・八千代獅子 双調会、1989年
- 新青柳 双調会、1990年
- 八段の調替手八段 双調会、1990年
- 八重衣 双調会、1990年
- 末の契り 双調会、1990年
- 根曳の松 双調会、1990年
- 新娘道成寺 双調会、1992年
- ほとゝぎす 双調会、1992年
- 六段の調替手雲井六段 双調会、1992年
- 松の壽・ふるさと 双調会、1992年
- 冬の曲 双調会、1992年
- 手ほどき集 双調会、1993年
- 万歳・阿蘭陀万歳・替手万歳 双調会、1997年
二代目
(1926年8月20日 - 2024年11月1日[3])
初代の兄の娘。本名は操[3]。兵庫県神戸市の生まれ、1939年に初代の門下。1950年に文部大臣賞受賞、1993年に芸術選奨文部大臣賞、1994年に紫綬褒章受章、1999年に二代目米川文子を襲名。2000年に勲四等宝冠章受章、2008年に人間国宝認定、2013年に日本芸術院賞・恩賜賞。2024年11月1日、慢性心不全のため東京都大田区の病院で死去した[3]。98歳没。死没日付をもって従五位に叙された[4]。
脚注
出典
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太字は恩賜賞受賞者。名跡は受賞時のもの。表記揺れによる混乱を避けるため漢字は便宜上すべて新字体に統一した。 |