唯是 震一(ゆいぜ しんいち、1923年10月30日 - 2015年1月5日)は、日本の邦楽作曲家、筝曲家(生田流)。妻は筝曲家の中島靖子[1]。
北海道深川市生まれ[1]。父親は尺八奏者、母親は筝曲家[2]。農業経済学者の唯是康彦は従弟。3歳から生田流筝曲を学ぶ[1]。小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒業後、一度就職するが、間もなく退職し、東京音楽学校邦楽科に入学[1]。宮城道雄に師事する[1]。その後、後身の東京藝術大学に楽理科が設置されると転科し、在学中の1952年、邦楽コンクール(東京新聞社主催)で第1位・文部大臣賞を受賞[1]。
卒業後の1953年から2年間、コロンビア大学でヘンリー・カウエルに師事[1]。この間クックレーベルからレコード『日本の琴』をリリース[1]。1955年には、ストコフスキー指揮のニューヨーク・フィルハーモニーとの共演で、《春の海》を演奏し、国際的にも知られるようになる[1]。1959年の帰国後は、毎年国内で新作発表会を開催[1]。1962年にはトニー・スコット、山本邦山との共演のアルバム『禅の音楽』をヴァーヴからリリース[1]。1964年からはロックフェラー財団の招きで2年間、コロンビア大学芸術科の講師をつとめる[1]。
1970年からは毎年リサイタルを開催する一方、唯是震一合奏団を指揮して海外でも活躍[1]。ユネスコ世界音楽祭・テヘラン国際音楽祭など、数多くの国際的なイベントにも招待される[1]。1985年頃から皮膚病を患うが克服し、現在も旺盛な創作・演奏活動を行う傍ら、唯是音楽スタジオを主宰して後進の指導にも当たっている[1]。正派邦楽会理事、現代邦楽作曲家連盟会長[1]。
代表作に、北海道百年記念に作った《石狩川》などがある[2]。また、竹久夢二の絵画に着想を得た《組曲「長崎十二景」》は、坂東玉三郎によって舞踊化され、何度も演じられている[2]。
多くの作品が、『唯是震一の音楽』(10枚組、CBSソニー、1995年)などのCDにまとめられている。著書に『私の半生記』がある。
2015年1月5日、有棘細胞がんのため死去[3]。91歳没。
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