村山 徑(むらやま けい、1917年(大正6年)1月21日[1] - 1987年(昭和62年)1月23日[1])は、新潟県柏崎市出身の日本の日本画家。本名は勲[1][3]。風景画、山岳を主題にした作品が多い[2]。
1917年(大正6年)1月21日、新潟県柏崎市北条荒町に農家の長男として生まれる[1][3][4]。
新潟市生まれの尾竹国観に師事[2][3]。上京し京華中学に進むが、3年時にカリエスに罹患し帰郷[4]。1935年(昭和10年)再上京し川端画学校の日本画科へ進み[3]、のちに太平洋画学校へ[3]。在学中に各種展覧会で入賞を繰り返した[4]。
1943年(昭和18年)、26歳のとき第6回新文展に出品した「子等」が初入選[1][3][4]。
戦時中は従軍画家として南方戦線に1945年敗戦まで応召[4]。
1950年(昭和25年)、伊東深水、児玉希望と共に日月社を結成[2]。この頃児玉希望に師事[3]。日月社では受賞3回のほか委員も務めた[1]。
1958年(昭和33年)、1959年(昭和34年)の2年連続で第1回新日展「残雪の高原」、2回新日展「白浜」が特選、白寿賞[1][5]。1961年(昭和36年)にも第4回新日展「溜」が菊華賞[1]。
1965年(昭和40年)より日展会員、1972年(昭和47年)日展評議員[1]。
1978年(昭和53年)、日展出品作「朝の火山」が内閣総理大臣賞[1][3][4]。
1984年(昭和59年)第41回日展にて「冠」が日本芸術院賞および恩賜賞[6]。
1985年(昭和60年)日展理事に就任[1][4]。
1987年(昭和62年)1月23日午後11時38分、神奈川県足柄下郡の厚生年金病院で肺気腫のため死去、享年70[1]。
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