テレビドラマ
野村 萬(のむら まん、1930年(昭和5年)1月10日 - )は、日本の狂言方和泉流能楽師、勲等は文化勲章、人間国宝(重要無形文化財「狂言」各個認定保持者)、日本芸術院院長、文化功労者、名誉都民、豊島区名誉区民。旧名に四世 野村 万之丞(よんせい のむら まんのじょう)、七世 野村 万蔵(しちせい のむら まんぞう)。本名・野村 太良(のむら たろう)。
公益社団法人日本芸能実演家団体協議会会長、公益社団法人能楽協会顧問、社団法人能楽協会理事長、NPO法人ACT.JT理事長などに歴任している。また、狂言方としては狂言界史上2人目となる「文化勲章」受章者でもある。2024年現在、現役最高齢の狂言方能楽師(狂言師)である。
1930年、1月10日に人間国宝・六世野村万蔵の長男として東京府に生まれる。1934年、4歳で初舞台を踏んだ。父の六世万蔵に師事。
1950年、野村万蔵家の名跡である「野村万之丞」を四世として襲名した。
太平洋戦争後、年子の弟・二朗(二世万作)とともに狂言のみならず現代演劇や前衛演劇に出演するほか、『おしん』や『翔ぶが如く』などテレビドラマにも出演した。その一方で、小学校やホールでの公演も重ね、狂言の一般的普及に大きく貢献した。現在も多くの舞台で活躍し、後進の育成にも力を注いでいる。また、弟の二朗(二世万作)に比べ一般知名度は低いものの、卓越した芸を持つと共に芸に一切の妥協が無い事などから狂言方の第一者として高い評価を得ている。
私生活においては1958年に登美子夫人と結婚。その後、夫妻の間には長男・耕介(八世野村万蔵 追贈、1959年 - 2004年)、一般人の長女、次男・良介(九世野村万蔵)の3人の子供が誕生する。
なお登美子は46年の結婚生活の経た、2004年2月に死去している。また、登美子の死の僅か4か月後の2004年6月には将来を嘱望された長男・耕介(八世野村万蔵)にも先立たれている。
1950年の襲名以来、長らく四世野村万之丞を名乗っていたが、1993年に万蔵家の当主名である「野村万蔵」を七世として襲名した[1]。さらに2000年に初世「野村萬」(隠居名)に改名する[1]。
2012年に長男・耕介(八世万蔵、2004年没)の学友であった皇太子徳仁親王らの企画で美智子皇后の喜寿を祝う夕食会が催された際には、東宮御所にて皇族らの前で『蝸牛』を披露した[5]。
また、1997年には父の六世万蔵に続き親子2代での重要無形文化財(人間国宝)保持者となり、2019年には文化勲章を受章している。狂言方の「文化勲章」受章は四世茂山千作に次いで狂言界史上2人目となる。
文化勲章受章の際の記者会見では令和最初の文化勲章者となった事への感謝と、新天皇徳仁の学友であった亡き長男・八世万蔵(五世万之丞)への思いと今後の抱負を語った。
日本のさまざまな芸能実演家団体を束ねる日本芸能実演家団体協議会にて会長を務めており[1][6]、在任中に公益社団法人への移行を果たした。また、日本の能楽師が加盟する能楽協会の理事長も務めており[7]、こちらも同様に公益社団法人化を果たした。また、2023年には2001年より会員を務めている日本芸術院の院長に就任した。
また、2004年4月には、長男・八世万蔵(五世万之丞)が団長を務める「文化芸術交流団」団員として北朝鮮を訪問し首都・平壌にて狂言と八世万蔵(五世万之丞)プロデュースの「楽劇大田楽」を披露する。
長男に五世野村万之丞(八世野村万蔵、2004年死去)。次男に九世野村万蔵(二世野村与十郎)。弟に野村万作、野村四郎、野村万之介。
孫に野村太一郎、六世野村万之丞、野村拳之介、野村眞之介。
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