佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日 - 1972年4月11日)は、日本の建築家。建築音響工学の先駆者。
日本建築学会元会長、同名誉会員、日本建築家協会終身正会員、英国王立建築家協会名誉会員。日本芸術院賞受賞者。
オーディトリウム設計の第一人者として、さらに市庁舎、市民会館、公会堂などが彼の数多い作品の中でも圧倒的に数が多い。科学者としての学識、一方で新劇運動に熱中し、劇場史を研究するほどの芸術青年で分離派時代の山口文象をしてまったくシャッポを脱がされた、といわしめたほどのスケッチの名手、作品はその天賦の芸術家の才能と、情熱のぬくもりがあるとされ、また塔も多く、”塔の佐藤"ともいわれるゆえんである。
愛知県名古屋市主税町(現在の名古屋市東区)で幼年学校長をつとめた陸軍士官・佐藤鶴松の長男[1]として生まれた。
少年期は軍人だった父の転任に従って少年時代仙台・伏見・北海道旭川、山口県岩国など転居が多かった。
旧制岩国中学校から建築を志して、早稲田大学に進学した。1924年、卒業後、母校早稲田大学の助教授に就任。
その頃大学では、大隈講堂の設計が始まり、恩師佐藤功一の指導のもとで設計に従った。この講堂を設計する中で音響について苦心を重ねた。当時、建築の音響について多くは経験的なもので決められていたが、科学的な研究を進めていった。その過程で日光東照宮の本地堂で起こる「鳴竜」の現象を初めて科学的に解明した。1935年、音響の研究で工学博士号。1938年、教授に就任。昭和二十六年退職して佐藤武夫設計事務所の経営に専念するまで約二十七年間の教授生活を続けこの間建築音響学の日本における開拓者としての研究業績をあげて、早大建築出身者としての最初の学位を得るとともに、日本建築学会の第一回目の学術賞を受けた。
日光の鳴竜が昭和三十八年に焼けた際もその復元を指導して立派に再生させた。
1945年に自宅にて設計事務所を始め、1951年には大学を辞し、以後は設計事務所(佐藤武夫設計事務所、現・佐藤総合計画)の経営に専念。1951年に錦帯橋の再建工事に協力。作家の宇野千代の木挽町の邸宅など、個人住宅も手掛けた。1957年から1959年まで日本建築学会会長も務めた。
1972年4月11日、東京都中央区の聖路加病院にて死去。72歳没。
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