坂 茂(ばん しげる、1957年8月5日-)は、日本の建築家、芝浦工業大学特別招聘教授。日本建築家協会名誉会員[2][3]。ニューヨーク州登録建築士[4]。
アメリカで建築を学び、紙管、コンテナなどを利用した建築や災害支援活動で知られる。2014年には建築分野の国際的な賞であるプリツカー賞を受賞、フランス芸術文化勲章コマンドゥールを受章している。2017年に紫綬褒章を受章、また、マザー・テレサ社会正義賞(英語版)を日本人初受賞。
東京都出身。会社員の父と服飾デザイナーの母の下に生まれる。成蹊小学校時代からラグビーを始め、高校では花園での全国大会にも出場。成蹊中学校時代に建築家を志す。高校時代には建築雑誌で見たジョン・ヘイダックやヘイダックが教えるニューヨーククーパー・ユニオンに憧れを抱く[5][6]。1976年、成蹊高等学校卒業。
クーパー・ユニオンを目指して1977年、19歳で渡米。しばらく英語学校に通い、1978年から2年半、南カリフォルニア建築大学(サイアーク、SCI-Arc)で建築を学び、1980年にクーパー・ユニオンに編入。1982年から1983年の1年間、磯崎新アトリエに在籍したあと、クーパーユニオンに戻って1984年に同建築学部を卒業(建築学士号[* 1])。
マイノリティ、弱者の住宅問題に鋭い関心を寄せ、ルワンダの難民キャンプのためのシェルターを国連難民高等弁務官事務所 (UNHCR) に提案し開発・試作した[7][8][9]。
1995年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)後の紙のログハウス(仮設住宅)や教会の集会所を特殊加工された「紙(紙管)」で制作[10]。トルコ、インドで起きた地震に際しても仮設住宅の建設を行った。2005年に津波災害を受けたスリランカキリンダ村で復興住宅、2008年に大地震の被害に遭った中国四川省の小学校の仮設校舎[11]、2011年の地震で被害を受けたクライストチャーチ大聖堂の仮設教会の建設を提案した。東日本大震災では、体育館などの避難所に避難したものの、ひとつの空間で多くの人々が同居している状態で、プライバシーがまったく無くて苦しんでいるが言いだせない人々のために、紙パイプと布を使いプライバシーを確保する提案(間仕切り[12])をし、各地の役所職員たちを説得してまわり、また仮設住宅の建設、質の向上にもかかわった。女川町で坂茂が提案した海上輸送用のコンテナを使い家具を作り付けにした2-3階建仮設住宅は快適で、期限が来てもそのまま住み続けたいと希望する人々が多いと報じられた[1][13][14]。
阪神・淡路大震災後に被災地神戸で手がけた「紙の教会」では1995年第41回毎日デザイン賞大賞[15]、第3回関西建築家賞大賞[16]、1997年度JIA新人賞[17]、「家具の家・カーテンウォールの家」で1996年吉岡賞、東日本大震災被災地にて活用された「紙の建築」で平成23年度芸術選奨文部科学大臣賞[18] を受賞。
グローバルに問題を考え、建築資材などをあらかじめ確保しておき、どこかの国で大災害が起きた時にそれを供給するしくみ作りも進めている[13]。そうしたことを行うにあたって、慈善や寄付のみに頼るのではなく、通常の経済の循環の中に組み込み継続性を持たせることも進めている。坂茂のアイディアは、まず途上国に仮設住宅の工場をつくり、その工場で作られる住宅を、災害の無い時には各国のスラム街の住環境を改善するのに用い、もし災害が起きたらそれを仮設住宅として供給するという方法で、途上国で雇用を作りつつ、住環境改善も実現し、災害時には苦しむ人々を救うこともできるというものである[13]。
1985年、東京に株式会社坂茂建築設計を設立。1999年、ニューヨークに事務所を開設[1]。2003年にポンピドゥー・センター・メスのコンペを勝ち取ったのを機に、2004年、パリにも事務所を開設[1]。現在は、東京、パリ、ニューヨークの事務所を行き来し[19]、パートナー建築家とチームを組んで個人の邸宅や大規模建築から被災地支援まで、さまざまな建築意匠を手がけている。
2022年11月現在のパートナー建築家は、菅井啓太、鈴木グラント(東京)、ジャン・デ・ギャスティン(Jean de Gastines、欧州)、ディーン・モルツ(Dean Maltz、米国)[20]。坂茂建築設計では、坂がデザインの核を考え、プロジェクトの総括と事務所の運営にはパートナーが大きな役割を果たしている[1][21]。
ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク(ボランタリー建築家機構)は、坂茂が1995年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)後、神戸で建築面での被災地支援のためにたちあげたボランティア組織。英語表記はVoluntary Architects' Network (VAN)。VANは仮設住宅や教会の仮設集会所の建設を行い、その後の坂の国内外の被災地支援でも活動している。2013年に特定非営利活動法人化[22]。
当初、VANの運営は、坂茂建築設計のスタッフが設計事務所の仕事のかたわら兼務。2001年から2009年、坂が慶應義塾大学SFC教授の職にあった期間は、研究室の活動の一環として、SFCの学生がVANの運営の中心となっていた。2003年には神奈川県のSFCキャンパスに紙の仮設スタジオ「慶應義塾大学SFC坂茂研究室」が研究室の学生らの手で完成。幅と奥行が10m、高さ5mのワンルームで、2008年に解体されるまで、電動工具も使える仮設建築の実験場として、またVANの拠点として機能した[11]。
坂茂建築設計とVANの活動の中に、避難所への間仕切りシステム提供がある。2004年の新潟県中越地震や2005年の福岡県西方沖地震当時の避難所での実践[23] を経て、東北大震災時には「紙管」と布で構成される避難所間仕切りシステムを提供[24][25][26]。これは避難所スペースを紙管と布で仕切ってプライバシーを確保するのもで、組み立ても分解も容易。熊本地震の避難所にも提供されている[27][28][29]。
坂の建築の特徴として、紙管を建築の構造材として使用していることが挙げられる。
それまで、建築構造材としての紙管の使用は、建築基準法において前例がなかった。このため、紙の家(1995年)を実現するにあたり、構造家の松井源吾・手塚升と共同で実験を進め、紙管構造 (PTS) の建築基準法第38条の評定を取得した。また、ハノーバー万博2000・日本館に際しては、フライ・オットー、ビューロ・ホッパルド(Buro Happold、構造設計事務所)と協力し、ドイツの建築基準をクリアして実現させた。[7][46][47]
共著
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