今 日出海(こん ひでみ、1903年(明治36年)11月6日 - 1984年(昭和59年)7月30日)は、日本の小説家、文芸評論家、舞台演出家。
初代文化庁長官を務めた。
略歴
北海道函館市に生まれた。3人兄弟の末子で、長兄は小説家で天台宗僧侶の今東光である。
日本郵船の船長であった父武平の転勤により、1911年(明治44年)に神戸市の小学校へ入り、1917年(大正6年)神戸一中へ進んだが、病気休学し、翌年東京の暁星中学へ移った。1922年(大正11年)、五年制中学の四年修了で旧制浦和高校に合格した。
1925年(大正14年)、東京帝国大学仏蘭西文学科へ入学し、辰野隆・鈴木信太郎らに学んだ。同期に小林秀雄・三好達治・中島健蔵らが、一年下に佐藤正彰・武田麟太郎らがいた。
1924年(大正13年)に開場した築地小劇場を観て演劇に熱中し、1925年に村山知義・河原崎長十郎・市川団次郎・池谷信三郎らが結成した劇団『心座』の演出に加わった。また、中学の頃からチェロを始め、音楽に打ち込んでおり、高校以来の親友諸井三郎が、1927年(昭和2年)に始めた音楽運動「スルヤ」に関係した。
1928年(昭和3年)、東大仏文科卒。就職できず法科へ入り直したが、外交官試験の年齢制限に気付き翌年退学。矢代幸雄の『黒田清輝美術研究所』(現在の東京国立文化財研究所)の嘱託として西洋美術史を一年あまり研究し、また、妻桂子を得た。女優の藤間春江(のちの吾妻徳穂)との仲が新聞ダネになった。
1929年(昭和4年)、心座から中村正常・舟橋聖一・池谷信三郎ら右派が独立した『蝙蝠座』に加わり、翌年第1回公演を打った。
1928年に『文芸都市』誌、1930年(昭和5年)には『作品』誌の同人となり、のちに『文學界』誌の同人に加わり、文芸評論・随筆・翻訳を載せた。左翼に同じぬ正統芸術派的立場であった。
1932年(昭和7年)、開設された明治大学専門部文芸科の講師となった。1935年(昭和10年)、請われて、崔承喜主演の映画「半島の舞姫」を、新興キネマ東京撮影所で制作した。1937年(昭和12年)、パリに半年近く滞在した。1939年(昭和14年)、明治大学教授となった。
1941年(昭和16年)11月、陸軍の報道班員に徴用され、三木清・尾崎士郎・石坂洋次郎・火野葦平らと、太平洋戦争初期のマニラに約1年滞在した(『比島従軍』、創元社1944)。1944年(昭和19年)12月に再度徴用されたときは、マニラに着いて8日目にアメリカ軍が上陸し、ルソン島北部への約5ヶ月の逃避行ののち、被弾を修理した新司偵に乗って、制空権のないバシー海峡を越え、台湾へ脱出した。さらに台北からDC-3で、戦闘末期の沖縄上空を飛び、雁ノ巣飛行場へ帰った(『山中放浪』、日比谷出版社1949)。
1945年(昭和20年)11月、文部省社会教育局文化課長となり、翌月同芸術課の初代課長となった。1946年(昭和21年)1月、本間雅晴中将の戦犯裁判の証人に喚ばれ、戦後のマニラに飛んだ。同年7月、神戸一中で同級だった白洲次郎の仲立ちで、吉田茂首相にGHQの横暴を直訴し、以後吉田に親炙した。その秋、第1回の芸術祭を催した。1947年(昭和22年)12月、芸術課長を辞し、約1年病臥した。
1950年(昭和25年)、『新潮』2月号に掲載した「三木清における人間の研究」で、三木清を批判した。小説「天皇の帽子」で、第23回直木賞[1]を受けた(兄の東光も同賞を6年後に受賞)。その後も旺盛な執筆活動を続けた。1966年(昭和41年)、網膜剥離で片目の視力を失った。
1968年(昭和43年)6月、佐藤栄作首相に請われて文化庁初代長官となり、約4年間務めた。1972年(昭和47年)10月から、国際交流基金の初代理事長を8年間務め、モナリザの日本初公開(1974年)、および、パリの唐招提寺展を実現した。
1974年(昭和49年)、勲一等瑞宝章を受け、1978年(昭和53年)、文化功労者に選ばれた。1980年(昭和55年)、国立劇場会長となった。そのほか、放送番組向上委員会委員長、日本アカデミー賞協会会長などの役職が、80近くに及んだ。
1984年(昭和59年)7月30日、脳梗塞のため神奈川県鎌倉市の病院で没[2]。80歳。鎌倉カトリック墓苑に葬られた。
著作
著書
- 『大いなる薔薇』白水社、1940年
- 『東西雑記』三学書房、1941年/新太陽社、1948年
- 『日本の家族制度』青木書店、1942年 (被徴用期に仏文仲間が編集した)
- 『秋の歌』三杏書院、1943年
- 『比島従軍』創元社、1944年(検閲で多くの箇所を削除された)
- 『山中放浪 私は比島戦線の浮浪人だつた』日比谷出版社、1949年/中公文庫、1978年、復刊1991年
- 『天皇の帽子』ジープ社、1950年/中公文庫、1981年
- 『脂粉の舞』ジープ社、1950年
- 『人間研究』新潮社、1951年
- 『たぬき部落』創元社、1951年
- 『私の人物案内』創元社、1951年/中公文庫、1985年、改版2006年
- 『山上女人国』読売新聞社、1952年
- 『悲劇の将軍 山下奉文・本間雅晴』文藝春秋新社、1952年/中公文庫、1988年
- 『雪間草』小説朝日社、1952年
- 『怒れ三平』毎日新聞社、1953年
- 『天皇の帽子・いろは紅葉・激流の女』小説朝日社、1953年
- 『現代紳士録』創元社、1953年/東京創元社、1956年
- 『泣くなお銀』北辰堂、1954年
- 『晴れた日に』新潮社、1955年
- 『チョップ先生』毎日新聞社、1956年/春陽文庫、1967年
- 『酔いどれ船』彌生書房、1958年
- 『人さまざま』光書房、1959年
- 『まだまだ夜だ』新潮社、1962年
- 『迷う人迷えぬ人』新潮社、1963年
- 『海賊』毎日新聞社、1966年
- 『吉田茂』講談社、1967年/中公文庫、1983年
- 『今日出海対話集』講談社、1969年
- 『静心喪失』東京美術 ピルグリム・エッセイシリーズ、1970年
- 『青春日々』雷鳥社、1971年
- 『今東光・今日出海集 日本文学全集59』集英社、1972年
- 『隻眼法楽帖』中央公論社、1981年
翻訳
脚注
- ^ 受賞作家の群像 今日出海
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)146頁
参考文献
関連項目
外部リンク
- 先代
- 新設
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- 国際交流基金理事長
- 1972年 - 1980年
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- 次代
- 林健太郎
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内務省博物局長 |
- 第六局長/博物館長/博物局長 町田久成 1875-1876/1876/1876-1881
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農商務省博物局長 | |
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博物館長 |
- 心得/館長 山高信離 1886-1888/1888-1889
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帝国博物館総長 | |
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帝室博物館総長 | |
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1930年代 - 1950年代(第1回 - 第42回) |
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1930年代 | |
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1940年代 |
- 第11回 堤千代『小指』他/河内仙介『軍事郵便』
- 第12回 村上元三『上総風土記』他
- 第13回 木村荘十『雲南守備兵』
- 第14回 該当作品なし
- 第15回 該当作品なし
- 第16回 田岡典夫『強情いちご』他/神崎武雄『寛容』他
- 第17回 山本周五郎『日本婦道記』(受賞辞退)
- 第18回 森荘已池『山畠』『蛾と笹舟』
- 第19回 岡田誠三『ニューギニヤ山岳戦』
- 第20回 該当作品なし
- 第21回 富田常雄『面』『刺青』他
- 第22回 山田克郎『海の廃園』
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1960年代 - 1970年代(第43回 - 第82回) |
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1980年代 - 1990年代(第83回 - 第122回) |
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2000年代 - 2010年代(第123回 - 第162回) |
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2020年代 - 2030年代(第163回 - ) |
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