本多 秋五(ほんだしゅうご、1908年(明治41年)9月22日[1] - 2001年(平成13年)1月13日[1])は、愛知県西加茂郡猿投村(現:豊田市)出身[1]の文芸評論家である。
1912年、4歳で母と死別。1921年、愛知県立第五中学校入学、同人誌『朱雀』に参加。1926年、旧制第八高等学校に入学[1]。1929年、東京帝国大学文学部国文科に入学、マルクス主義に近づく。1930年、ロシア革命記念日のデモに参加し検挙される。1932年、東大を卒業、卒論は「森鷗外研究」、大学院に進学する。1933年、治安維持法違反で検挙され、翌年釈放され郷里に帰る。のちに長兄について満州を訪問。1936年に上京し、逓信省電務局無線課に勤務。北川静雄の筆名を用いる。
1937年、宮本百合子を訪問。トルストイの『戦争と平和』に感銘を受ける。1938年、東京逓信局に転勤。吉田信の長女治子と結婚。1941年、役所を退職、「戦争と平和」論を書く。1943年、中央公論社嘱託となる。1944年、情報局嘱託となる。1945年、召集され名古屋の連隊に入るが敗戦。
1946年、平野謙、山室静、埴谷雄高、小田切秀雄、荒正人とともに雑誌『近代文学』を創刊[1]。1949年、初の著書『小林秀雄論』を刊行。1953年、新日本文学会の常任中央委員に選ばれる。1954年、『群像』に連載した『『白樺』派の文学』を刊行。1957年、中国訪問日本文学代表団に参加。1960年『物語戦後文学史』を刊行(その後『続-』が出る)。1964年『近代文学』終刊、新日本文学会退会。
1965年『物語戦後文学史』で第19回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞[1]。平野の紹介で明治大学文学部専任講師となる。1966年、ソ連作家同盟の招きで平野らと訪ソ。1969年、明治大学教授に昇任。1978年、江藤淳との無条件降伏論争が始まる。1983年『古い記憶の井戸』で第34回読売文学賞を受賞[1]。1991年『志賀直哉』で毎日芸術賞を受賞[1]。1996年、豊田文化賞受賞[1]。
2001年、脳出血で自宅にて死去。享年92。
トルストイ、武者小路実篤、志賀直哉など、白樺派とその周辺の作家を論じた。1978年、日本の敗戦は無条件降伏ではなかったとする江藤淳とこれを支持する柄谷行人に反論し、無条件降伏論争を行った。
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