1935年(昭和10年)、J.O.スタヂオの社長である大沢善夫が劇映画を製作することになり、トーキー漫画部は大幅に人員を縮小され、アニメーターは市川だけとなる。この頃、作曲以外の脚本・作画・撮影・編集をすべて一人でおこなった6分の短編アニメ映画『新説カチカチ山』を発表するが、市川がアニメ制作を行う少し前から、J.O.スタヂオを日活の子会社である太秦発声が借りて劇映画を製作しており、山中貞雄監督の『河内山宗俊』や『街の入墨者』の撮影現場を見学したり、J.O.スタヂオが東和商事から輸入した欧州映画の字幕制作を請け負っていた関係から『にんじん』や『商船テナシチー』、『未完成交響楽』、『春の調べ』などを検閲前に観ることができ、漠然と劇映画への傾倒を強めていった。その後、J.O.スタヂオが自主製作した『百万人の合唱』がヒットし、続けて製作した『かぐや姫』もヒットした事で、トーキー漫画部は閉鎖となり、市川は実写映画の助監督部に転籍する[1]。伊丹万作とアーノルド・ファンクが共同監督した『新しき土』、円谷英二監督の『小唄礫・鳥追お市』、永富映次郎監督の『勝太郎子守歌』などで雑用係をやった後、石田民三監督の『夜の鳩』から本格的な助監督の仕事をするようになる[8]。その後、1937年(昭和12年)にJ.O.スタヂオは写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCL)と合併して東宝映画株式会社となるが、J.O.スタヂオ~東宝映画時代は助監督として石田民三のほかに伊丹万作[1]、並木鏡太郎、中川信夫、青柳信雄、佐伯清、阿部豊に師事している。特に米国仕込みのモダニストとして鳴らした阿部の影響は大きく、阿部作品からは後年『細雪』(映画)『戦艦大和』(テレビ)『足にさはった女』(映画、テレビの両方)をリメイクしたほか、師が断念した『破戒』もテレビと映画の両方で実現している。さらには、市川の監督デビュー作となった1948年(昭和23年)の『-「眞知子」より- 花ひらく』では阿部がプロデューサーを務め、1955年(昭和30年)の『青春怪談』では師弟競作まで行った。京都撮影所の閉鎖にともなって、1939年(昭和14年)、23歳の時に東京の砧撮影所に転籍する。転籍後初めて担当したのは石田民三監督の『喧嘩鳶』である[9]。