『源氏物語』(げんじものがたり、英語: The Tale of Genji)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説。全54帖、文献初出は1008年(寛弘五年)、平安末期に「源氏物語絵巻」として絵画化された。作者の紫式部は平安中期における和歌の名手の1人で、娘の大弐三位とともに「百人一首」や「女房三十六歌仙」の歌人として現代に至るまで永く親しまれており、源氏物語は、紫式部が生涯で唯一残した物語作品である[注 2]。日本の歴史上、貴族階級の全盛期だった平安中期に生き、宮仕えで宮中の内情にも日常的に接した紫式部が、和歌795首を詠み込んだ物語を通して当時の貴族社会を描いた[3]。
下級貴族出身の紫式部は、後に一条天皇から日本書紀など漢文で書かれた日本の歴史書への見識をほめられるなど[注 3]、幼少より日本と中国の歴史書、和歌、漢籍、漢詩の理解に優れ[注 4]、平安期では晩婚となる20代半ばすぎに藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始め、これが『源氏物語』の始まりともいわれる[12]。当時、紙は貴重で、紙の提供者がいればその都度書き[注 5]、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが[注 6]、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ[注 7]。それを機に宮中に上がった紫式部は、宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語を書き続け[注 8]、54帖からなる『源氏物語』が完成した[3]。この原本は現存せず鎌倉初期の「藤原定家自筆本」が現存する最古の写本となる。
物語の概要は、天皇の実子だが天皇になれない宿命[注 9]を幼くして父から与えられた主人公光源氏の栄光と没落、その政治的欲望と権力闘争の数々、光源氏の栄華復活とその死後、子と孫そして紫式部が自らを投影したとも思われる女性[17]、この三者の世界と女性の末路など、全54帖。第1帖~第41帖は「光源氏」を軸に描かれ、第42帖~第54帖は「薫」を軸に描かれる。なお、執筆された11世紀初頭は国風文化の最盛期で、時代を反映し、紫式部は自身の和歌や他者の物語作品と同じく、源氏物語の記述には漢字(漢文 万葉仮名・男手)ではなく平仮名(変体仮名・女手)を使用している[注 10]。(物語詳細は「源氏物語各帖のあらすじ」参照)
現代の一般的な小説や物語には見られない特色として、歌人としての紫式部の力量が全帖にわたり発揮される源氏物語には和歌795首が詠み込まれ、それらは飾りではなく、とりわけ男女間の事柄や話の核心部分などは、文章ではなく、和歌によって婉曲に描かれる場面も多く、品位と描写を両立させる手法がとられており、この和歌が理解できないと話の展開自体がわからない場面も少なくない[注 11]。文章でそれらが描かれる際も、直接的描写はほとんどなく、自然の変化や流行の事柄などに置き換え、それらに語らせるなどの手法で一定の品位を保ち婉曲に描かれ、話の把握にはこの間接的描写への理解が要求される[注 12]。源氏物語は、800首あまりから成る和歌集の側面を持つ物語とも言え、その鑑賞に和歌の理解は欠かせず、また、平安中期の政治、文化、常識、風習、社会制度に囲まれて生活する千年前の読み手(主に皇族・貴族階級)を対象にして書かれており、現代の読み手は、これらを知り理解することも物語の把握に必要となる[25][26]。
源氏物語が完成した頃、紫式部の支援者藤原道長の権力に陰りが見え始めその腐敗政治への民衆の不満で社会が不安定化していたが[注 13]、源氏物語は初出当初より貴族を中心に好評を博し次々と写本が繰り返されて読まれた。当時、貴族階級の男女ともに和歌は必須で重要だったが、漢文については対照的で、政治や行政の公的文書は漢文で書かれたため[7]、男性貴族は漢文の読み書きが必須で漢籍や漢詩の教養も重視されたが、貴族女性には漢文は不要とされ漢籍や漢詩がわからない(漢文の読み書きができない)者が多かった[10]。そのため物語作品は、国風文化の影響のもと『竹取物語』をはじめ主に平仮名(変体仮名)で書かれたことから貴族女性やその子供向けの読み物として、漢籍や漢詩あるいは和歌に比べて低く見られた時代で[10]、源氏物語も他の物語同様に平仮名(変体仮名)で書かれたが、紫式部の漢籍、漢詩、和歌への知識と見識の深さが随所に生かされ、それらの知識が必須の男性貴族からも学べるとして読まれ[10][28]、一条天皇からも評価された[注 14]。
その150年ほど後の平安時代末期、栄華を誇った貴族階級の没落と武士階級の台頭という時代の変わり目に、源氏物語は、「絵」と「詞書(説明文)」から成る「源氏物語絵巻」として絵画化された。現存する絵巻物のうち、徳川美術館と五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず30ヵ国語を超える翻訳を通じて世界各国で読まれている[30]。
古写本は題名の記されていないものも多く、記されている場合であっても内容はさまざまである。『源氏物語』の場合は冊子の標題として「源氏物語」ないしそれに相当する物語全体の標題が記されている場合よりも、それぞれの帖名が記されていることが少なくない。こうした経緯から、現在において一般に『源氏物語』と呼ばれているこの物語が、書かれた当時の題名が何であったのかは明らかではない。古い時代の写本や注釈書などの文献に記されている名称は大きく以下の系統に分かれる。
これらはいずれも源氏(光源氏)または紫の上という主人公の名前をそのまま物語の題名としたものであり、物語の固有の名称であるとはいいがたい。また、執筆時に著者が命名していたならば、このようにさまざまな題名が生まれるとは考えにくいため、これらは作者によるものではない可能性が高いと考えられている[31]。
『紫式部日記』『更級日記』『水鏡』などこの物語の成立時期に近い主要な文献に「源氏の物語」とあることなどから、物語の成立当初からこの名前で呼ばれていたと考えられているが、作者の一般的な通称である「紫式部」が『源氏物語』(=『紫の物語』)の作者であることに由来するならば、そのもとになった「紫の物語」や「紫のゆかりの物語」という名称はかなり早い時期から存在したとみられ、「源氏」を表題に掲げた題名よりも古いとする見解もある。「紫の物語」といった呼び方をする場合には、現在の源氏物語54帖全体を指しているのではなく、「若紫」を始めとする紫の上が登場する巻々(いわゆる「紫の上物語」)のみを指しているとする説もある。
『河海抄』などの古伝承には「源氏の物語」と呼ばれる物語が複数存在し、その中でもっとも優れているのが「光源氏の物語」であるとするものがある。しかし現在、「源氏物語」と呼ばれている物語以外の「源氏の物語」の存在を確認することはできないため、池田亀鑑などはこの伝承を「とりあげるに足りない奇怪な説」に過ぎないとして事実ではないとしている[32]。対して和辻哲郎は、「現在の源氏物語には読者に現在知られていない光源氏についての何らかの周知の物語が存在することを前提として初めて理解できる部分が存在する」として、「これはいきなり斥くべき説ではなかろうと思う」と述べている[33]。
このほか、「源語(げんご)」「紫文(しぶん)」「紫史(しし)」などという漢語風の名称で呼ばれていることもあるが、これらは漢籍の影響を受けたものであり、それほど古いものはないと考えられている。池田によれば、その使用は江戸時代をさかのぼらないとされる[34]。
『源氏物語』は写本・版本により多少の違いはあるが、約100万文字・22万文節[35]、400字詰め原稿用紙約2,400枚[36]、500名近くの登場人物[37]、70年あまりの出来事が描かれ、和歌795首を詠み込み、典型的な王朝物語とされる[注 15]。
日本最古の物語『竹取物語』(平安前期・作者不詳・現存)や日本最古の長編物語『うつほ物語』(平安中期10世紀後半・作者不詳・現存)[40]がある一方で、マスメディアや近畿各府県の公的機関が、「世界最古の長編小説」、「日本最古の長編小説」という表現をたびたび使用している『源氏物語』は[注 16]、『うつほ物語』の全20巻に対して全54帖[45][46]、文字数で『うつほ物語』の約1.5倍で[47]、その長さゆえに『源氏物語』は以下の通り全体をいくつかに分けて取り扱われることが多い。(源氏物語の「作者」、「巻数」も参照)
母系制が色濃い平安朝中期(おおむね10世紀ごろ)を舞台に、天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生を描く。通説とされる「三部構成説」の各部のメインテーマを以下に示す。
平安時代の日本文学史においても、『源氏』以前以降に書かれたかどうかによって、物語文学は「前期物語」と「後期物語」とに区分され[48]、あるいはこの『源氏』のみを「前期物語」および「後期物語」と並べて「中期物語」として区分[49]する見解もある。後続して成立した王朝物語の大半は『源氏』の影響を受けており、後世しばらくは『狭衣物語』と並べ、「源氏、狭衣」を二大物語と称した。後者はその人物設定や筋立てに多くの類似点が見受けられる。こうした『源氏物語』の影響は文学に限定されず、原典成立後の平安時代末期に物語を画題とした日本四大絵巻のひとつ『源氏物語絵巻』が制作された。その後も『源氏』を画題とした『源氏絵』は、版本『絵入源氏物語』、また『源氏物語図屏風』などの屏風や襖などにさまざまな画派によって描かれた。また、『源氏物語』意匠の調度品、さらに着物や帯の香の図(源氏香)などにもその影響がみえ、のちの文化や生活に多大な影響を与えたとされている。また『源氏物語』は中国では「日本の『紅楼夢』」と称されることがよくあり、『金瓶梅』と並ぶ比較文学研究の題材となっている。源氏物語の研究は「源学」と呼ばれている[50]。
『白造紙』『紫明抄』あるいは『花鳥余情』といった古い時代の文献には、宇治十帖の巻数を「宇治一」「宇治二」というようにそれ以外の巻とは別立てで数えているものがあり、このころ、すでにこの部分をその他の部分とはわけて取り扱う考え方が存在したと見られる。
その後、『源氏物語』全体を光源氏を主人公にしている「幻」(「雲隠」)までの『光源氏物語』とそれ以降の『宇治大将物語』(または『薫大将物語』)の2つにわけて、「前編」「後編」(または「正編」(「本編」とも)「続編」)と呼ぶことは古くから行われてきた。
与謝野晶子は、それまでと同様に『源氏物語』全体を2つにわけたが、光源氏の成功・栄達を描くことが中心の陽の性格を持った「桐壺」から「藤裏葉」までを前半とし、源氏やその子孫たちの苦悩を描くことが中心の陰の性格を持った「若菜」から「夢浮橋」までを後半とする二分法を提唱した[51]。
その後の何人かの学者はこの2つの二分法をともに評価し、玉上琢弥は第一部を「桐壺」から「藤裏葉」までの前半部と、「若菜」から「幻」までの後半部にわけ、池田亀鑑は、この2つを組み合わせて『源氏物語』を「桐壺」から「藤裏葉」までの第一部、「若菜」から「幻」までの第二部、「匂兵部卿」から「夢浮橋」までの第三部の3つに分ける「三部構成説」を唱えた。「三部構成説」はその後広く受け入れられるようになった。
このうち、第一部は武田宗俊によって成立論(いわゆる玉鬘系後記挿入説)と絡めて「紫上系」の諸巻と「玉鬘系」の諸巻に分けることが唱えられた。この区分は、武田の成立論に賛同する者はもちろん、成立論自体には賛同しない論者にもしばしば受け入れられて使われている[注 17]。
第三部は、「匂兵部卿」から「竹河」までのいわゆる匂宮三帖と、「橋姫」から「夢浮橋」までの宇治十帖にわけられることが多い。
上記にもすでに一部出ているが、これらとは別に連続したいくつかの巻々をまとめて
といった呼び方をすることもよく行われている。
巻々単位とは限らないが、「紫上物語」「明石物語」「玉鬘物語」「浮舟物語」など、特定の主要登場人物が活躍する部分をまとめて「○○物語」と呼ぶことがある[52]。
三部構成説に対して、以下のような四部構成説も唱えられている。論者によって区切る場所や各部分の名称がさまざまに異なっている[53]。
以上の54帖の現在伝わる巻名は、紫式部自身がつけたとする説[55]と後世の人々がつけたとする説[56]が存在する。作者自身がつけたのかどうかについて、直接肯定ないし否定する証拠は見つかっていない。現在伝わる巻名にはさまざまな異名や異表記が存在し、もし作者が定めた巻名があるのならこのように多様な呼び方は生じないため、現在伝わる巻名は後世になってつけられたものであろうと考えられる。しかし一方で、本文中(手習の巻)に現れる「夕霧」(より正確には「夕霧の御息所」)という表記が、「夕霧」という巻名に基づくとみられるとする理由により、少なくとも夕霧を初めとするいくつかの巻名は作者自身が名づけたものであろうとする見解もある。
源氏物語の巻名は、後世になって、巻名歌の題材にされたり、源氏香や投扇興の点数などに使われたり、女官や遊女が好んで名乗ったりしていた(源氏名)。
実際の古写本や古注釈での巻名の表記には次のようなものがある。
それ以外に、「桐壺」に対する「壺前栽」、「賢木」に対する「松が浦島」、「明石」に対する「浦伝」、「少女」に対する「日影」といった大きく異なる異名を持つものもある。
現在、一般的に源氏物語の巻名の由来は次のようにいくつかに分けて考えられている[57]。これは室町時代の注釈書『花鳥余情』に始まり、いくつかの修正を受けながらも現在でも主流とされている考え方ではあるが、疑問も唱えられている[58]。
現在では3部構成説(第1部:「桐壺」から「藤裏葉」までの33帖、第2部:「若菜上」から「幻」までの8帖、第3部:「匂宮」から「夢浮橋」までの13帖)が定説となっているが、その成立・生成・作者・原形態に関しては古くからさまざまな議論がなされてきた。以下に、特に重要であろうと思われるものを掲げる。
一条天皇中宮・藤原彰子(藤原道長の長女)に女房として仕えた紫式部が作者というのが通説である[59]。物語中に「作者名」は書かれていないが、以下の文から作者は紫式部だろうと言われている。
—底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本
—『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』
紫式部ひとりが書いたとする説の中にも以下の考え方がある。
光源氏のモデルと言われる源高明自身が作者という説がある。
推理作家の藤本泉は1962年(昭和37年)の小説[60]をはじめとして『源氏物語』多数作者説をとっていた。その中の著作[61]で、桐壺など「原 源氏物語」を源高明とその一族が書いたと仮定していたが、続く著作[62]において源高明説が弱いことを認めており、同著でほかの複数作者の推定を行っている。作者は紫式部ではないとする説の根拠の一部は以下の通り。
『源氏物語』の大部分が紫式部の作品であるとしてもその一部には別人の手が加わっているのではないか、とする説は古くから存在する。
古注の一条兼良の『花鳥余情』に引用された『宇治大納言物語』には、『源氏物語』は紫式部の父である藤原為時が大筋を書き、娘の紫式部に細かいところを書かせたとする伝承が記録されている。『河海抄』には藤原行成が書いた『源氏物語』の写本に藤原道長が書き加えたとする伝承が記録されている。一条兼良の『花鳥余情』、一条冬良の『世諺問答』などには宇治十帖が紫式部の作ではなく、その娘である大弐三位の作であるとする伝承が記録されている。これらの伝承に何らかの事実の反映を見る説も多いものの、池田亀鑑はこれらの親子で書き継いだとする説は、『漢書』について前半を班彪が書き、残りを子の班固が書き上げたという故事にちなんだもので、事実とは何の関係もないとの見解を示している[63]。
近代に入ってからも、さまざまな形で「源氏物語の一部分は紫式部の作ではない」とする説が唱えられてきた。
与謝野晶子は筆致の違いなどから「若菜」以降の全巻が大弐三位の作であるとした[51]。 和辻哲郎は「大部分の作者である紫式部と誰かの加筆」といった形ではなく、「ひとつの流派を想定するべきではないか」としている[64]。
第二次世界大戦後になって、登場人物の官位の矛盾などから、武田宗俊らによる「竹河」の巻別作者説といったものも現れた[65]。
これらのさまざまな別作者論に対して、ジェンダー論の立場から、『源氏物語』は紫式部ひとりですべて書き上げたのではなく別人の手が加わっているとする考え方は、「紫式部ひとりであれほどのものを書き上げられたはずはない」とする女性蔑視の考え方に基づくものであるとするとして、「ジェンダーの立場から激しく糾弾されなければならない」とする見解も出現した[66]。
阿部秋生は、『伊勢物語』『竹取物語』『平中物語』『うつほ物語』『落窪物語』『住吉物語』など当時存在した多くの物語の加筆状況を調べたうえで、「そもそも、当時の『物語』はひとりの作者が作り上げたものがそのまま後世に伝えられるというのはむしろ例外であり、ほとんどの場合は別人の手が加わった形のものが伝えられており、何らかの形で別人の手が加わって後世に伝わっていくのが物語のとって当たり前の姿である」として、「源氏物語だけがそうでないとする根拠は存在しない」との見解を示した[67]。
計量文献学により文体、助詞・助動詞など単語の使い方について統計学的手法による分析・研究が進められている[68][69][70][71][72]。
源氏物語が紫式部によって「いつごろ」「どのくらいの期間かけて」執筆されたのかについて、いつ起筆されたのか、あるいはいつ完成したのかといった、その全体を直接明らかにするような史料は存在しない。『紫式部日記』には、寛弘5年(1008年)に源氏物語と思われる物語の冊子作りが行われたとの記述があり、そのころには源氏物語のそれなりの部分が完成していたと考えられる。安藤為章は、『紫家七論』(元禄16年(1703年)成立)において、「源氏物語は紫式部が寡婦となってから出仕するまでの3、4年の間に大部分が書き上げられた」とする見解を示したが、これはさまざまな状況と符合することもあって有力な説になった。しかしその後、これほどに長い物語を書き上げるためには当然長い期間が必要であると考えられるだけでなく、前半部分の諸巻と後半部分の諸巻との間に明らかな筆致の違いが存在することを考えると、執筆期間はある程度の長期にわたると考えるべきであるとする説や、結婚前、父に従って越前国に赴いていた時期に書き始められたとする説、作中の出来事が当時の実際に起きたさまざまな事実を反映しており、最終的な完成時期をかなり引き下げる説も唱えられるようになってきた[73][74]。
一方で、必ずしも長編の物語であるから長い執筆期間が必要であるとはいえず、数百人にも及ぶ登場人物が織りなす長編物語が矛盾なく描かれているのは短期間に一気に書き上げられたからであると考えるべきであるとする説もある[75]。
なぜ、紫式部はこれほどの長編を書き上げるに至ったのかという点についても、直接明らかにした資料は存在せず、古くからさまざまに論じられている。古注には、
などがある。近代以降にも、
といったさまざまな説が唱えられている[76]。
モデルとなった在原業平は、皇族で官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将でありながら美男で歌人としても有名でさまざまな高貴な女性と浮名を流した。母方では桓武天皇の皇女・伊都内親王で、父方では平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫と非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移ったこともあり、天長3年(826年)に臣籍降下し、在原朝臣姓を名乗った。これらの経緯は光源氏を始めとした登場人物が皇族で臣籍降下していることと同一である。
また伊勢物語では各段の多くが「むかし、男ありけり」から始まっているのに対し、源氏物語も「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」と伝聞調の「ありけり」で始まっている点も類似している。
さらに、伊勢物語で語られている斎宮との間に生まれた子供は伊勢権守で斎宮頭だった高階峯緒の子、茂範の養子とされ、それが後の高階師尚であるということが、古来流布されている。後の藤原行成の権記によると、行成は一条天皇から立太子について、定子皇后腹の敦康親王と彰子中宮腹の敦成親王のどちらにすべきかについて意見を聞かれた時、「高氏ノ先ハ斎宮ノ事ニ依リ其ノ後胤為ル者ハ皆以テ和セザル也」と定子皇后の母の高階貴子が在原業平の係累の高階氏出身ということを理由に敦成親王を立太子すべきと奏上したとある。
もし行成の奏上が事実であれば、伊勢物語の斎宮事件が当に紫式部が彰子に使えていた時期にも皇位継承に影響するほど膾炙していたことになる。
現在、『源氏物語』は一般に54帖であるとされている。ただし54帖の中でも「雲隠」は題のみで本文が伝存しない。そのため、この54帖とする数え方にも以下の2つの数え方がある。
鎌倉時代以前には、『源氏物語』は「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けられており、並びの巻を含めない37巻という数え方が存在し、さらに、宇治十帖全体を一巻に数えて全体を28巻とする数え方をされることもあった。37巻とする数え方は仏体37尊になぞらえたもので、28巻とする数え方は法華経28品になぞらえたものであると考えられている。これらはいずれも数え方が異なるだけであって、その範囲が現在の『源氏物語』と異なるわけではない。
それらとは別に、現在、存在しない巻を含めるなどによって別の巻数を示す資料も存在する。
かつて、『源氏物語』には、現在は存在しないいくつかの「失われた巻々」が存在したとする説がある。そもそも、最初から54帖であったかどうかということ自体がはっきりしない。
現行の本文では、
に相当する部分が存在せず、位置的には「桐壺」と「帚木」の間にこれらの内容があってしかるべきであるとされる(現に、この脱落を補うための帖が後世の学者によって幾作か書かれている)。藤原定家の記した「奥入」にはこの位置に「輝く日の宮(かがやくひのみや)」という帖がかつてはあったとする説が紹介されており、池田亀鑑や丸谷才一のようにこの説を支持する人も多い。つまり、「輝く日の宮」については、
の3説があることになる。「輝く日の宮」は「桐壺」の巻の別名であるとする説もある。
それ以外にも、故実書のひとつ『白造紙』に含まれる「源氏物語巻名目録」に、「サクヒト」「サムシロ」「スモリ」といった巻名が、また、藤原為氏の書写と伝えられる源氏物語古系図に、「法の師」「巣守」「桜人」「ひわりこ」といった巻名がみえるなど、古注や古系図の中にはしばしば現在みられない巻名や人名がみえるため、「輝く日の宮」のような失われた巻がほかにもあるとする説がある。当時の人々はこのような外伝的な巻々まで含めたものまでを源氏物語として扱っていたとみられるため、このような形の源氏物語を「源氏物語の類」といった形で把握する説もある。このほか、『更級日記』では『源氏物語』の巻数を「五十余巻(よかん)」としているが、これが54巻を意味しているのかどうかについても議論がある。
2009年(平成21年)11月には「巣守帖」と思われる写本の一部が中央大学教授の池田和臣によって発見されたと報道されており、今後の研究が待たれる[77]。
『無名草子』や『今鏡』『源氏一品経』『光源氏物語本事』のように、古い時代の資料に『源氏物語』を60巻であるとする文献がいくつか存在する。一般的には、この60巻という数字は仏教経典の天台60巻になぞらえた抽象的な巻数であると考えられているが、この推測はあくまで「60巻という数字が事実でなかった場合、なぜ(あるいはどこから)60巻という数字が出てきたのか」の説明にすぎず、60巻という数字が事実でないという根拠が存在するわけではない。
この「『源氏物語』が全部で60巻からなる」という伝承は、「源氏物語は実は60帖からなり、一般に流布している54帖のほかに秘伝として伝えられ、許された者のみが読むことができる6帖が存在する」といった形で一部の古注釈に伝えられた。源氏物語の注釈書においても、一般的な注釈を記した『水原抄』に対して秘伝を記した『原中最秘抄』が別に存在するなど、この時代にはこのようなことはよくあることであったため、「源氏物語本文そのものについてもそのようなことがあったのだろう」と考えられたらしく、秘伝としての源氏物語60巻説は広く普及することになり、のちに多くの影響を与えた。たとえば、『源氏物語』の代表的な補作である『雲隠六帖』が6巻からなるのも、もとからあった54帖にこの6帖を加えて全60巻になるようにするためだと考えられており、江戸時代の代表的な『源氏物語』の刊本をみても、
いずれも全60冊になる形で出版されている。
『源氏物語』には並びの巻と呼ばれる巻が存在する。『源氏物語』は鎌倉時代以前には「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けられていた。並びがあるものは、ほかに『うつほ物語』『浜松中納言物語』がある。これに対して、「奥入」と鎌倉時代の文献『弘安源氏論議』において、その理由が不審である旨が記されている。帖によっては登場人物に差異があり、話のつながりに違和感を覚える箇所があるため、ある一定の帖を抜き取ると話がつながるという説がある。その説によれば、紫式部が作ったのが37巻の部分で、残りの部分は後世に仏教色を強めるため、読者の嗜好の変化に合わせるために書き加えられたものだとしている。
『源氏物語』の巻名の異名は次の通りであるが、
寺本は8で「貌鳥」を並びの巻の名とする諸書の記述に注目し、「貌鳥」は現在の「宿木」巻の後半ないし末尾であったことを明らかにし、5「若菜」に対する「諸鬘」なども同様であったと推論した。 そのほか、1、10もそれぞれ、「桐壺」が「桐壺」と「壺前栽」、「夢浮橋」が「夢浮橋」と「法の師」に二分されていたことを示すもので、また、『奥入』の「空蝉」巻で、
一説には、二(イ巻第二)かヽやく日の宮このまきなし(イこのまきもとよりなし)。ならひの一はヽ木ヽうつせみはおくにこめたり(イこのまきにこもる)。
という記述についても、「輝く日の宮」が別個にあるのではなく、それは現在の「桐壺」巻の第3段である藤壺物語を指し、「輝く日の宮」を「桐壺」巻から分離し第2巻とし、これを本の巻とし、「空蝉」巻を包含した形の「帚木」巻と「夕顔」巻とをそれぞれ並一・並二として扱う意味であると理解しようとした。 寺本は結論として、並とは本の巻とひとそろい、ひとまとめになることを示し、巻々をわけ、合わせる組織・構成に関係づけた[78][79]。
『源氏物語』の巻々が執筆された順序については、「桐壺」から始まる現在読まれている順序で書かれたとするのが一般的な考えであるが、必ずしもそうではないとする見方も古くからさまざまな形で存在する。
古注の『源氏物語のおこり』や『河海抄』などには、『源氏物語』が、現在冒頭に置かれている「桐壺」の巻から書き始められたのではなく、石山寺で「須磨」の巻から起筆されたとする伝承が記録されている。ただし、これらの伝承は「紫式部が源高明の死を悼んで『源氏物語』を書き始めた」とするどう考えても歴史的事実に合わない説話や、紫式部が菩薩の化身であるといった中世的な神秘的伝承と関連づけて伝えられることも多かったため、古くからこれを否定する言説も多く、近世以降の『源氏物語』研究においては『源氏物語』の成立や構成を考えるための手がかりとされることはなかった。
与謝野晶子は、『源氏物語』は「帚木」巻から起筆され、「桐壺」巻はあとになって書き加えられたのであろうとする説を、『源氏物語』の全体を二分して後半の始まりである「若菜」巻以降を紫式部の作品ではなくその娘である大弐三位の作品であろうとする見解とともに唱えた[80]。
和辻哲郎は、「帚木」巻の冒頭部の記述についての分析などから、「とにかく現存の源氏物語が桐壺より初めて現在の順序のままに序を追うて書かれたものではないことだけは明らかだと思う」と結論づけた[81]。
阿部秋生は「桐壺」巻から「初音」巻までについて、
とする説を発表したが[82]、玉上琢弥が部分的に賛同した以外は大きな影響を与えることはなかった[83]。このほかに、「桐壺」巻を後からの書き加えであるとする説には、藤田徳太郎の説[84]、「桐壺」巻のほか「帚木」巻もあとから書き加えたとする佐佐木信綱の説[85]がある。
武田宗俊は阿部秋生の仮説を『源氏物語』第一部全体に広げ、第一部の巻々を紫上系・玉鬘系の2つの系統に分類し、
といったさまざまな理由から、『源氏物語』第一部はまず紫上系の巻が執筆されて、その後に玉鬘系の巻が一括して挿入されたものであるとした[86]。
風巻景次郎は、現在の『源氏物語』には存在しない「輝く日の宮の巻」と「桜人の巻」の存在を想定し、それによって武田説に存在した「並びの巻」と「玉鬘系」の「ずれ」を解消し、「並びの巻が玉鬘系そのものであり、後記挿入されたものである」とした[87]。
丸谷才一は大野晋との対談で、この説をさらに深め(1)b系は、空蝉、夕顔、末摘花、玉鬘を中心に源氏の恋の失敗を描いた帖であることが共通していること、(2)筆がa系よりもこなれており、叙述に深みがあることなどの点から、a系第一部の評価が高くなったのちに、今度は御伽噺の主人公のように完璧な光源氏(実際にa系の源氏はそう描かれている)の人間味を描くために書かれたのがb系ではないかと述べている。またb系には、のちに「雨夜の品定め」と呼ばれる女性論や、「日本紀などはただかたそばぞかし」と源氏に語らせた物語論もあり、独自の見解を提唱している[88][89]。
斎藤正昭は、玉鬘系の巻々のうち玉鬘十帖などは紫の上系の巻々よりあとに書かれたが、帚木三帖は逆に紫の上系の巻々より前に書かれたとした[90][91]。玉鬘系の巻々がいくつかに分割して挿入されたとする説には、このほかに、伊藤博による帚木三帖と末摘花を葵帖着筆前の挿入、蓬生および関屋を少女巻執筆後の後記挿入とする説[92]などがある。
このほかにも、武田説が出てからはさまざまな論点から、武田説と同様に『源氏物語』が現行の巻の並び通りに執筆・成立されたのではないとする学説が続出した[93][94][95]。
武田説については、このように大きな影響力を持ち、多くの賛同者を得た一方で激しい批判も数多く受けた。批判を行った点は論者によってさまざまに異なるが、そのおもなものを挙げる。
「匂宮」巻以降は、源氏の亡きあと、光源氏・頭中将の子孫たちのその後を記す。特に、最後の10帖は「宇治十帖」と呼ばれ[106][46]、京と宇治を舞台に、薫の君・匂宮の2人の男君と宇治の三姉妹の恋愛模様を主軸にした仏教思想の漂う内容となっている。
第3部および宇治十帖については他作説が多い。おもなものを整理すると以下のとおりとなる。
通説では、第3部はおそらく式部の作(第2部執筆以降かなり長期間の休止を置いたためか、用語や雰囲気が相当に異なっているが、それをもって必ずしも他人の作とまでいうことはできない)というものである。また、研究者の間では、通説においても、「紅梅」「竹河」はおそらく別人の作であるとされる(「竹河」については武田宗俊、与謝野晶子の説でもある)。
「源氏物語の主題が何であるのか」については古くからさまざまに論じられてきたが、『源氏物語』全体を一言でいい表すような「主題」については、「もののあはれ」論がその位置にもっとも近いとはいえるものの、いまだに広く承認された決定的な見解は存在しない。古注釈の時代には「天台60巻になぞらえた」とか「一心三観の理を述べた」といった仏教的観点から説明を試みたものや、『春秋』『荘子』『史記』といったさまざまな中国の古典籍に由来を求めた儒教的・道教的な説明も多くあり、当時としては主流にある見解といえた。『源氏物語』自体の中に儒教や仏教の思想が影響していることは事実としても、当時の解釈はそれらを教化の手段として用いるためという傾向が強く、物語そのものから出た解釈とはいいがたいこともあって、後述の「もののあはれ」論の登場以後は衰えることになった。
これに対し、本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』 において、『源氏物語』を「外来の理論」である儒教や仏教に頼って解釈するべきではなく、『源氏物語』そのものから導き出されるべきであるとし、その成果として、「もののあはれ」論を主張した。この理論は源氏物語全体を一言でいい表すような「主題」としてもっとも広く受け入れられることになった[107]。その後、明治時代に入ってから藤岡作太郎による「源氏物語の本旨は婦人の評論にある」といった理論が現れた[108]。
明治時代以後、坪内逍遥によって『小説神髄』が著されるなどして西洋の文学理論が導入されるにともない、さまざまな試みがなされ、中には、部分的にはそれなりの成果を上げたものもあったものの、
といった前提が問い直されていることも多く、それぞれがそれぞれの関心に基づいて論じているという状況である。『源氏物語』全体を一言で表すような主題を求める努力は続けられており、三谷邦明による反万世一系論や、鈴木日出男による源氏物語虚構論[109]などのような一定の評価を受けた業績も現れてはいるものの、一方で、『源氏物語』には西洋の文学理論でいうところの「テーマ」は存在しないとする見解も存在する[110]など広く合意された結論が出たとはいえない状況である[111][112][113][114][115]。『源氏物語』の、それぞれの部分についての研究がより精緻になるにしたがって、『源氏物語』全体に一貫した主題をみつけることは困難になり、「読者それぞれに主題と考えるものが存在することになる」という状況になる[116]。1998年(平成10年)から1999年(平成11年)にかけて風間書房から出版された『源氏物語研究集成』では、全15巻のうち冒頭の2巻を「源氏物語の主題」にあて、計17編の論文を収録しているが、『源氏物語』全体の主題について直接論じたものはなく、すべて「桐壺巻の主題」「『帚木』三帖の主題」「須磨・明石巻の主題」「玉鬘十帖の主題」「藤壺物語主題論」「紫上物語の主題」「六条御息所物語の主題」「若菜上・下巻の主題と方法」「明石君物語の主題」「御法・幻巻の主題」「柏木物語の主題」「夕霧物語の主題」「大君物語」「宇治十帖における薫の主題」「浮舟物語の主題」「宇治の物語の主題」といった形で特定の巻または「○○物語」といった形でまとまって扱われることの多い、関連を持った一群の巻々についての主題を論じたものばかりである[117][118]。
『源氏物語』は、なぜ藤原氏全盛の時代に、かつて藤原一族が安和の変で失脚させた源氏を主人公にし、源氏が恋愛に常に勝ち、源氏の帝位継承をテーマとして描いたのか。初めてこの問いかけを行った藤岡作太郎は、「源氏物語の本旨は、婦人の評論にある」とした論の中で、政治向きに無知・無関心な女性だからこそこのような反藤原氏的な作品を書くことができ、周囲からもそのことを問題にはされなかったのだとした。一方、池田亀鑑は、藤原氏の全盛時代という現実世界の中で生きながらも高邁な精神を持ち続けた作者紫式部が理想を追い求めた世界観の表れがこの『源氏物語』という作品であるとしている[119]。この問題を取り上げた中には、
といった説も存在する。もっとも、このような見解については『源氏物語』成立の背景に以下のような理由を挙げている大野晋の見解のように、氏族として藤原氏と源氏が対立しているとはいえず、仮にそのようなものがあったとしても、個人的な対立関係の範疇を超えないとして、問いかけの前提の認識に問題があるとする見方もある[121]。
また、より積極的に、上記のような事実関係を前提にして「『源氏物語』は紫式部が父の藤原為時とともに具平親王の元にいた時期に書き始められた」とする見解もある[122][123]。
写本については池田亀鑑の説では以下の3種類に分けられるとされる。ただし、その後もこの分類について妥当か研究されている。詳しくは源氏物語の写本を参照。
ただし、流通しているものは混合している。
近世以前に印刷されたものはほとんど仏典に限られ、そうでないものは写本によって流通していた。筆写の際に文の追加・改訂が行われ、書き間違いや錯簡も多く、鎌倉時代には21種の版があったとされる。そこで、藤原定家がそれらを原典に近い形に戻そうとして整理したものが「青表紙本」系の写本である。その写本も定家自筆のものは4帖しか現存せず、それ以降も異本が増え、室町時代には百数十種類にも及んだ。
16世紀末に活字印刷技法が日本に伝えられ、のち、慶長年間になってはじめて『源氏物語』の古活字版(大字10行本)が刊行された。現在、竜門文庫、実践女子大学図書館、国立国会図書館にその所蔵が知られている。
紫式部の書いた『源氏物語』の原本は現存していない。また、『紫式部日記』の記述によれば、紫式部の書いた原本をもとに当時の能書家によって清書された本があるはずであるが、これらもまた現存するものはない。『紫式部日記』の記述によると、そもそも、作者の自筆の原本の段階で草稿本、清書本など複数の系統の本が存在し、作者の手元にあった草稿本を道長が勝手に持ち出すといった意図しないケースを含めてそれぞれが外部に流出するなど、『源氏物語』の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路をたどっていたことが分かる。確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は現在のところひとつも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたとみられる写本も非常に数が限られている。このため、現在ある諸写本を調べていけば何らかのひとつの本文にたどり着くのかどうかさえ議論に決着がつかない状態である。そのため、現在では紫式部が書いた原本の復元はほぼ不可能であると考えられている。
平安時代末期に成立したとみられる『源氏物語絵巻』には、絵に添えられた詞書として『源氏物語』の本文とみられるものが記されており、その中には、現在知られている『源氏物語』の本文と大筋で同じながら、現在発見されているどの写本にもみられない本文が含まれている。この本文は現在確認されている限りでもっとも古い時代に記された『源氏物語』の本文ということになるが、「絵巻の詞書」というその性質上、もともとの本文の要約である可能性などもあるため、本来の『源氏物語』本文をどの程度忠実に写し取っているのか分からないとして、本文研究の資料としては使用できないとされている。
『源氏物語』は完成直後から広く普及し多くの写本が作られたとみられる。鎌倉時代以降の『源氏物語』が古典として重要な教養の源泉であるとされた以後の時代に作成された写本は、証本となしうる信頼できる写本を元に注意深く写しとって、きちんと校合などもしたうえで完成させることが一般的であった。しかしそれ以前、平安時代には『源氏物語』などの物語は広く普及し多くの写本が作られており、その中には従一位麗子本などの身分の高い人物が自ら作ったとみられる写本もあったが、物語という作品の位置づけが「絵空事」「女子どもの手慰み」といったものであり、勅撰集など公的な位置づけを持った歌集はもちろん、そうでない私的な歌集などと比べてもきわめて低いものであった。そのため、当時は筆写の際には文の追加・改訂を自由に行うことがごく普通であったとみられる。さらに作者の紫式部が受領階級の娘であり妻であって当時の身分・階級制度の中ではあまり地位が高くはなかったことも、本文を忠実に写し取って伝えていこうとする動機を欠く要因になった、とする意見も学者の中には多い。
平安時代中期に書かれた『更級日記』の中には、作者の菅原孝標女が『源氏物語』の一部分だけを読む機会があり、その最初からすべてを読みたいと願ったという記述がみられる。このように、『源氏物語』のような大部の書物は必ずしもその全体が揃って流通しているのではなかったようである。写本による流通が主であった時代には、大部の書物の場合にはその中から自分が残したい、あるいは他人に読ませたいと考えた部分だけを書き写すといった形で流通することも少なくなかったと考えられる。このような事情により、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての頃には既に、『源氏物語』の写本は多く存在していてもその内容は家々が保有する写本ごとに異なっていて元の形が分からないという状況になっていた。
『源氏物語』が単なる「女子どもの手慰み」という位置づけから、『古今和歌集』などと並んで重要な教養(歌作り)の源泉として古典・聖典化していった平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、『源氏物語』の本文について2つの大きな動きが起こった。ひとつは藤原定家によるもので、その成果が「青表紙本」系本文であり、もうひとつが河内学派によるものでその成果が「河内本」系の本文である。これ以後20世紀末ごろから「別本」系本文の再評価が始まるまでの長い間、『源氏物語』の本文についてはこの2つの本文をめぐって動くことになる。
両者の作業はいずれも乱れた状況にあった『源氏物語』の本文を正そうとするものであったが、その結果は若干異なったものとなった。現在ある「青表紙本」と「河内本」の本文を比べると、「青表紙本」の方では意味が通らない多くの箇所で「河内本」をみると意味が通るような本文になっていることが多い。これは、「河内本」が意味の通りにくい本文に積極的に手を加えて意味が通るようにする方針で校訂されたのに対して、「青表紙本」では意味の通らない本文も可能な限りそのまま残すという方針で校訂されたためだと考えられている。このことは、藤原定家と源光行らがともにほぼ同じ資料を前にして、当時の本文の状況を「さまざまに異なった本文が存在し、その中のどれが正しいのかわからない」と認識していたにもかかわらず、定家は「その疑問を解決することはできなかった」という意味のことを述べ、源光行は「さまざまな調査の結果疑問をすっきりと解決することができた」という意味のことを述べるという正反対の結論に達していることともよく対応していると考えられてきた。定家の作り上げた「青表紙本」系統の本文が本当に元の本文に手を加えていないかどうかについては、近年になって、定家の『土佐日記』などほかの古典の写本作成に対する態度を詳細に調査することによって、ある場合には積極的に本文に手を加えることもあるということが明らかになってきたため、再検討の必要が唱えられている。
この2系統の本文のうち、鎌倉時代には「河内本」が圧倒的に優勢な状況であり、今川了俊などは「青表紙本は絶えてしまった」と述べていたほどであった。そのもっとも大きな原因は、話の筋や登場人物の心情を理解するためにはそれ自体として意味のくみとれなかったり、前後の記述に矛盾のある(ようにみえる)箇所を含んでいる「青表紙本」よりも、そのような矛盾を含んでいない(ようにみえる)「河内本」のほうが使いやすかったりしたからであると考えられている。それでも、室町時代半ばごろから藤原定家の流れを汲む三条西家の活動により、古い時代の本文により忠実だとされる「青表紙本」が優勢になり、逆に「河内本」の方が消えてしまったかのような状況になった。三条西家系統の「青表紙本」は、純粋な「青表紙本」と比べると「河内本」などからの混入がみられる本文であった。
その後、江戸時代に入ると版本による『源氏物語』の刊行が始まり、裕福な庶民にまで広く『源氏物語』が行き渡るようになってきた。「慶長古活字版」「伝嵯峨本」や「元和本」のような無印源氏・素源氏と呼ばれるようなものからはじまり、「絵入源氏物語」「首書源氏物語」「源氏物語湖月抄」と次々と出版されていった版本の本文は、当時、もっとも有力であった広い意味での「青表紙本」系統の三条西家系統の本文に、さらに「河内本」や「別本」からの混入がみられる本文であった。写本や版本によって本文が異なることはこの時代すでに知られており、本居宣長などもその点についての指摘を行ったこともあるが、本格的な本文研究に進むことはなかった。この時代、良質な写本の多くは大名や公家、神社仏閣などに秘蔵されており、どこがどのような写本を所蔵しているのかということすらほとんどの場合明らかではなかったため、複数の写本を実際に手にとって具体的に比較することは事実上不可能であった。源氏物語への評価としては、源氏物語によって朝廷が軟弱化して衰微したとして源氏物語を非難する天皇(後光明天皇)が現れた[124]。
なお、江戸時代における『源氏物語』の普及には、ダイジェスト版ともいうべき各種版本(『源氏小鏡』(3巻、1657年)、『十帖源氏』(10巻、1661年)、『おさな源氏』(10巻、1666年)、『源氏物語忍草』(10巻、1688年))も貢献していたと考えられる[125]。
明治時代に入ると、活字による印刷本文の発行が始まった。当初は江戸時代に発行された刊本をそのまま活字化するだけであったが、次第に、より古く、より原本に近いと考えられる本文を求めるようになり、「首書源氏物語」の本文と「源氏物語湖月抄」の本文とではどちらが優れているのかといった議論を経て、1914年(大正3年)に『首書源氏物語』を底本にした校訂本である『源氏物語』が有朋堂文庫から出版され、広く普及した。やがて、明治末年ごろから学問的な本文研究の努力が本格的に始まった。多くの学者の努力によって、「大島本」などの「青表紙」系統の写本や、当時はすでに失われてしまったと考えられていた「河内本」系統の写本など多くの古写本が発見され、学問的な比較作業が行われた。その結果は池田亀鑑により『校異源氏物語』および『源氏物語大成 校異編』に結実した。
池田は集められた多くの写本を「青表紙本系」と「河内本系」の2つに分け、それに属さない写本を「別本」として1つにまとめ、3種類の系統に分けた。古注の中などで言及されており、言葉だけは広く知られていた「青表紙本」と呼ばれる写本のグループと、「河内本」と呼ばれる写本のグループが本当に存在することはこの時代になって初めて明らかになったということができる。この3分類法はいろいろな別の分野での研究結果とも一致すると考えられたこともあって、説得力のある見解として広く受け入れられるようになった。池田は、それぞれの写本をどの分類に入れるかを決めるにあたっては、それぞれの写本の奥書(その写本がどのような写本からいつ誰によってどのように写されたのかといったことを記してある部分)の内容など、それぞれの写本の外形的なものを重視した。
このような歴史的経緯や写本を外形的な特徴に基づいて分類することが、本文そのものの内容の分類として正しい、妥当なものであるのかどうか、そもそも「青表紙本」や「河内本」が成立したのは事実であるとしても、本文の系統としてそのような区分を立てることが妥当なのかどうかについての検討をすることもなかった点には注意を払う必要がある。
このように、その後の研究によって、この3分類法はいろいろと問題点も指摘されるようになってはいるが、現時点でも一応は有効なものとされている。
これらの3分類を見直すべきだとする見解としては、阿部秋生による「奥書に基づいて写本を青表紙本、河内本などと分類することが妥当なのかどうかは、本文そのものを比較しそういう本文群が存在することが明らかになったあとで初めていえることであって、その手続きを経ることなく奥書に基づいて写本を分類することは、本文そのものを比較するための作業の前段階の仮の作業以上の意味を持ち得ない」、あるいは、「もし、青表紙本がそれ以前に存在したどれかひとつの本文を忠実に伝えたのであれば、河内本が新しく作られた混成本文であるのに対し、青表紙本とは別本の中のひとつであり、源氏物語の本文系統は、青表紙本・河内本・別本の3分類で考えるべきではなく、別本と河内本の2分類で考えるべきである」といったものがある[126]。
古い時代に作られて現在まで伝わっている実際の写本は、できあがった写本の完成当時の姿がそのまま伝えられていることは少なく、一部が欠けてしまったり、その欠けた部分を補うために別の写本と組み合わせたり、別系統の本文を持った写本と校合されたりしていることも少なくない。このような状態の写本を元にしてそのまま写した写本を作成したために、最初の完成時点ですでに本文が巻ごとに異なった系統のものになったとみられる写本も存在する。
たとえば、「青表紙本」系統の写本の中ではもっとも良質な本文であるとされて、現在多くの校訂本の底本に採用されている飛鳥井雅康筆の「大島本」の場合ですらも、「浮舟」を欠いた53帖しか現存しておらず、「初音」帖はほかの部分と同じ飛鳥井雅康の筆でありながら、本文自体は「青表紙本」系統の本文ではなく「別本」系統の本文であり、「桐壺」と「夢浮橋」は後世の別人の筆である。また、ほぼ全巻にわたって数多くの補筆や訂正の跡がみられるが、その内容は「河内本」系統の写本に基づくとみられるものが多い。
前半は、本文校訂のみに特化し校異を掲げた文献。ほかにも、主要な写本については個別に翻刻したものが出版されている。
以下の出版は、注釈・解説をつけた刊行で多くは校訂本も兼ね、現代語訳と対照になっているものもある。注釈などの内容を簡略化した軽装版や文庫版が一部の出版社で刊行している。これらはすべて、青表紙本系の写本を底本にしており、特に三条西家本を底本にしており、(旧)日本古典文学大系本(軽装版が(旧)岩波文庫)を除き、基本的に大島本を底本にしている。
『源氏物語』の登場人物は膨大な数に上るため、ここでは主要な人物のみを挙げる。
『源氏物語』の登場人物の中で本名が明らかなのは光源氏の家来である藤原惟光と源良清くらいであり、光源氏をはじめとして大部分の登場人物は「呼び名」しか明らかではない。また、『源氏物語』の登場人物の表記には、もともと作中に出てくるものと、直接作中には出てこず、『源氏物語』が受容されていく中で生まれてきた呼び名の2通りが存在する。作中での人物表記は当時の実際の社会の習慣に沿ったものであるとみられ、人物をその官職や居住地などのゆかりのある場所の名前で呼んだり、「一の宮」や「三の女宮」あるいは「大君」や「小」君といった一般的な尊称や敬称で呼んだりしていることが多いため、状況から誰のことを指しているのか判断しなければならない場合も多い。また、同じひとりの人物が巻によって、場合によっては一つの巻の中でもさまざまな異なる呼び方をされることがあり、逆に、同じ表現で表される人物が出てくる場所によって別の人物を指していることも数多くあることには注意を必要とする。
中古期における『源氏物語』の影響は2期に大別することができる。第1期は院政期初頭まで、第2期は院政期歌壇の成立から新古今集撰進までである。
第1期においては、『源氏物語』は面白い小説として上流下流を問わず貴族社会で広く読まれた。当時の一般的な上流貴族の姫君の夢は、後宮に入り帝の寵愛を受け皇后の位に上ることであったが、『源氏物語』は帝直系の源氏の者を主人公にし、彼の住まいを擬似後宮にしたてて女君たちを分け隔てなく寵愛するという内容で彼女たちを満足させ、あるいは、人間の心理や恋愛、美意識に対する深い観察や情趣を書き込んだ作品として貴族たちにもてはやされたのである。この間の事情は自らも読者であった菅原孝標女の『更級日記』に詳しい。
優れた作品が存在し、それを好む多くの読者が存在する以上、『源氏物語』の享受はそのままこれに続く小説作品の成立という側面を持った。中古中期における『源氏』受容史の最大の特徴は、それが『源氏』の文体、世界、物語構造を受け継ぐ諸種の作品の出現をうながしたところにあるといえるだろう。11世紀より12世紀にかけて成立した数々の物語は、その丁寧な叙述と心理描写の巧みさ、話の波乱万丈ぶりよりもきめ細やかな描写と叙情性や風雅を追求しようとする性向において、明らかに『うつほ物語』以前の系譜を断ち切り、『源氏物語』によっている。それがあまりに過度でありすぎるために源氏亜流物語という名称さえあるほどだが、たとえば、『浜松中納言物語』『狭衣物語』『夜半の寝覚』などは『源氏』を受け継いで独特の世界を作り上げており、王朝物語の達しえた成熟として高く評価するに足るであろう。後期王朝物語=源氏亜流物語には光源氏よりも薫の人物造型が強く影響を与えていることが知られる。源氏物語各帖のあらすじ#第三部参照。
平安末期にはすでに古典化しており、『六百番歌合』で藤原俊成をして「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」といわしめた源語は歌人や貴族のたしなみとなっており、室町時代の注釈書『花鳥余情』では「我が国の至宝は源氏の物語のすぎたるはなし」と位置づけられるまでになっている。このころには、言語や文化の変化や流れに従い原典をそのまま読むことも困難になってきたため、原典に引歌や故事の考証や難語の解説を書き添える注釈書が生まれた。
一方で平安時代には貴族の間で仏教思想(平安仏教)が浸透しており、架空の物語(嘘)を作る行為は五戒の1つ「不妄語戒」に反することから「色恋沙汰の絵空事を著し多くの人を惑わした紫式部は地獄に堕ちたに違いない」という考えが生まれ、『宝物集』などの仏教説話集で語られるようになった。この考えは後に小野篁伝説と結びつけられた。また『更級日記』には「源氏物語に熱中していると夢の中に僧侶が現れ(女性の成仏について書かれた)法華経の五巻を勉強するように諭した」という記述があり、架空の物語を読む読者も五戒に反しているという考えがあった。このため地獄に落ちた紫式部の霊を慰め、自身(読者)の罪障を消すためとして『源氏供養』と称した法会がたびたび行われた。語り手が「紫式部に仕えた女性」という設定の『今鏡』の最終巻『打聞』では「物語を書くことは日本でも中国でもよくあること」「罪ではあるが殺人や強盗と比べれば軽く地獄に堕ちるほどではない」など、五戒に反していると認めつつ擁護するような記述がある。
香道の流行にともなって、「源氏香」「香の図」といった本書に由来する呼称が発生した。
江戸時代に入ると、版本による源氏物語の刊行が始まり、裕福な庶民にまで『源氏物語』が広く普及することになった。江戸時代後期には、当時の中国文学の流行に逆らう形で、設定を室町時代に置き換えた通俗小説ともいうべき『偐紫田舎源氏』(柳亭種彦著)が書き起こされた。伝統的な図式の「源氏絵」は、さまざまな画派により挿絵入りの版本『絵入源氏物語』や浮世絵に描かれた。また、歌舞伎化され、世に一大ブームを起こしたが、天保の改革であえなく断絶した。
明治以後多くの現代語訳の試みがなされ、与謝野晶子や谷崎潤一郎の訳本が何度か出版されたが、昭和初期から「皇室を著しく侮辱する内容がある」との理由で、光源氏と藤壺女御の逢瀬などを二次創作物に書き留めたり上演することなどを政府により厳しく禁じられたこともあり、訳本の執筆にも少なからず制限がかけられていた。 1933年(昭和8年)11月には、番匠谷英一脚本による劇団新劇場の上演が警視庁保安部より上映禁止命令を受けた。警視庁は偉大な古典文学であることに異議はないとしつつも「主催者の意図が大衆に把握されるや否かは疑問である」として風教上害があるものとして扱った[127]。 第二次世界大戦後にはその制限もなくなり、円地文子、田辺聖子、瀬戸内寂聴、林望などの訳本が出版されている。原典に忠実な翻訳以外に、橋本治の『窯変源氏物語』に見られる大胆な解釈を施した意訳小説や、大和和紀の漫画『あさきゆめみし』や小泉吉宏の漫画『まろ、ん』、花園あずきの漫画『はやげん! はやよみ源氏物語』を代表とした漫画作品化などの試みもなされている。
現代では冗談半分で、『源氏物語』と純愛もののアダルトゲームやハーレムアニメとのストーリーの類似性が指摘されることがあるが、「『源氏物語』は猥書であり、子どもに読ませてはならない」という論旨の文章はすでに室町時代に存在している。
若紫と光源氏の関係から「懸想をした幼児を自分好みに育てること」を、光源氏になぞらえて慣用句のように「光源氏計画」と言われることがある。
『源氏物語』は諸外国にも少なからず影響を与えている。マルグリット・ユルスナールは『源氏物語』の人間性の描写を高く評価し、短編の続編を書いた。
2008年には源氏物語千年紀の記念式典が京都府・京都市などが中心となって開催され、明仁天皇・皇后美智子が臨席した。多数の講演・シンポジウムが催され、瀬戸内寂聴、佐野みどり、ドナルド・キーン、平川祐弘らが参加した。のちに、紫式部日記での初出である11月1日が、幅広く古典に親しむ古典の日として法制化された[128]。
『源氏物語』については、平安末期以降、数多くの注釈書が作られた[129]。『源氏物語』の注釈書の中でも、特に明治時代以前までのものを古注釈と呼ぶ。一般には、『源氏釈』から『河海抄』までのものを「古注」、『花鳥余情』から『湖月抄』までのものを「旧注」、それ以後江戸時代末までのものを「新注」と呼び分けている[130]。『源氏釈』や『奥入』といった初期の注釈書は、もともとは独立した注釈書ではなく、写本の本文の末尾に書きつけられていた注釈があとになって独立した1冊の書物としてまとめられたものである。『源氏大鏡』や『源氏小鏡』といった中世に数多く作られた梗概書もそれぞれ注釈を含んでいる。
元来『源氏物語』は作者紫式部と、同時代の同じ環境を共有する読者のために執筆されたと推察されており、加えて作者と直接の面識がある人間を読者として想定していたとする見解もある[132]。書かれた当時の『源氏物語』は、周囲からは「面白い読み物」として受け取られており、少し経た時代でも、当時12歳だった菅原孝標女が、特に誰の指導を受けるということもなく1人で読みふけっていたとされている。時代を経て物語で用いる言葉遣いも、前提とする知識・常識も変化していくことで、気軽に『源氏物語』を読むことは困難になっていった。
同時期の文学である『枕草子』『土佐日記』などは、簡単な注釈さえあれば現代日本人が読むことがさほど難しくないのに対し、『源氏』の原文を読むことは現代日本人にとってもかなり難しい。ほかの王朝文学と比べても語彙は格段に豊富、内容は長く複雑で、専門的な講習を受けないと『源氏』の原文を理解するのは困難である。現代では、現代語訳で親しんでいる人のほうが多いといえる。数ある古典日本文学の中で、多様な性格を持つその内容ゆえに、もっとも多く現代語訳が試みられており、訳者に作家が多いのも特徴である[133]。これらは、訳者の名前から「与謝野源氏」「谷崎源氏」といった風に、「○○源氏」と呼ばれている。
国文学者・研究者による翻訳は、比較的直訳・逐語訳的な訳注が多いのに比べて、作家・小説家による翻訳は多くの場合、原文に対して叙述の順番を入れ替えたり、和歌によるやりとりを普通の会話文に直したり、原文とは視点を変えて叙述したりといった応用工夫が行われていること多く、そのような作品は単なる現代語訳ではなく翻案作品として扱われることもある。
与謝野晶子は生涯に3度現代語訳を試みた。与謝野は12歳当時、『源氏物語』を原文で素読していたことをのちに自身の歌の中に詠み込んでおり、さまざまな創作活動の中に『源氏物語』の大きな影響を読み取ることができる。
1度目の翻訳は、与謝野夫妻の支援者であった実業家(小説家でもある)の小林政治の依頼により、100か月で完成させることを目標に始められたものである。1912年(明治45年)2月から1913年(大正2年)11月にかけて、『新訳源氏物語(上、中、下一、下二巻)』として金尾文淵堂から出版され[135]、これが『源氏物語』の口語による最初の現代語訳とされ、1914年(大正3年)12月にはダイジェスト版となる4冊の縮刷版を刊行し、特に最初の翻訳には晶子の夫・与謝野鉄幹の手も入っているとする見解もある[136]。
これは『源氏物語』の専門家でない森鷗外が校訂にあたっているなどといった問題もあり、再度、『新新訳源氏物語』として翻訳を試みた(2回目)が、「宇治十帖の前まで終わっていた」とされる[137]。このときの原稿は、1923年9月の関東大震災(大正関東地震)により文化学院に預けてあった原稿がすべて焼失したため、世に出ることはなかった。
現在、通常流布しているのは晩年の1938年10月から1939年9月にかけて『新新訳源氏物語(第一巻から第六巻まで)』として金尾文淵堂から出版された3度目のものである。1939年10月に完成祝賀会が上野精養軒にて開催されており、同人はこれを「決定版」としている。この翻訳は当時、まだ学術的な校訂本がなかったことから、「流布本」であった『源氏物語湖月抄』の本文を元にしていたとされる。原文にはない主語を補ったり、作中人物の会話を簡潔な口語体にしたりするなど大胆な意訳と、敬語を中心とした大幅な省略で知られている。それに対して、歌の部分については歌人らしく、「和歌は源氏物語にとって欠かせない重要な要素である」として、いずれの翻訳もまったく手を加えることなくそのまま収録しており、ほかの翻訳が行っているような和歌の部分を会話文に改めるといったことをしていない。また、新新訳では各帖の冒頭に自身の和歌を加えている[138]。
池田亀鑑の解説を加えたものが、1954年10月から1955年8月にかけて『全訳源氏物語』として、全9冊で角川文庫から出版されており、1971年8月から1972年2月にかけて全3冊に合本・改版され重版した。2008年に源氏物語千年紀を記念し、『新装版 全訳源氏物語』全5冊に改版された。ほかに、1948年には日本社から日本文庫で、1951年には三笠文庫(三笠書房)で、1976年(新装版、1987年)には河出書房新社の日本古典文庫で、2002年には勉誠出版刊の『鉄幹 晶子全集』の第7巻および第8巻として、2005年から2006年に舵社からデカ文字文庫と、多くの出版社から刊行されている。これらとは別に、最初の訳書も、後年の翻訳より読みやすいといった評価があったことから、2001年に角川書店から単行本が出版され、2008年には、『与謝野晶子の源氏物語』(角川文庫ソフィア)全3冊で出版された。双方の訳書とも1942年5月29日に与謝野が死去したため、1993年に日本における著作権の保護期間が満了しており、パブリック・ドメインで利用できるため青空文庫などに収録されている。
谷崎潤一郎も生涯に3度現代語訳を試みた。
最初は『源氏物語湖月抄』本文を元に、1935年9月より着手された。国文学者山田孝雄の校閲を受けながら進められ、1939年から1941年にかけ『潤一郎訳源氏物語』全26巻が、中央公論社で刊行された。これは、「旧訳」「26巻本」などと呼ばれている。当時の社会情勢から、中宮の密通に関わる部分など皇室に関した部分は何か所か削除されている。
2度目は上記の削除部分を復活するとともに、全編にわたり言葉使いを読みやすく改訂し1951年から1954年12月にかけ、『潤一郎新訳 源氏物語』全12巻で刊行された。この版は「新訳」「12巻本」などと呼ばれた。他に豪華版全5巻別巻1や、新書版全8巻も刊行されている。
『潤一郎訳』は谷崎の意向が大きく反映され、『潤一郎新訳』は原文を尊重し省略なしの完訳であることが特徴である[139]。
3度目は中央公論社版『日本の文学』に(一部)収録するため、改稿に着手された。1964年から1965年に『潤一郎新々訳 源氏物語』全10巻別巻1が、新版が1979年から翌年にかけ刊行された。これは「新々訳」「11巻本」などと呼ばれている。口述筆記のせいもあり、新仮名遣いになっている。与謝野晶子訳とは対照的に、原文の文体を生かしつつやや古風な訳文となった。(最晩年の)谷崎は、本書をもって「決定版である」としている[140][141]。
『潤一郎訳 源氏物語』は、1968年から1970年にかけ『谷崎潤一郎全集』第25 - 28巻(新版『全集』では第27 - 30巻)に収録。1973年、中公文庫創刊にともない全5巻で刊行(改版1991年)。豪華版で、1966年に全5巻別巻1が、1983年に愛読愛蔵版全1巻が、1992年に同普及版全1巻が刊行された。
あがさクリスマス(増子勝)訳
10年がかりで日本初の源氏物語訳対「3分de源氏物語ⅠⅡⅢⅣ」を愛の四つ葉社より刊行。国立国会図書館蔵。
ほかにも、鈴木正彦による訳(1926年、第百書房)や上野榮子による訳(2008年、日本経済新聞出版社)などのほか、2008年には「ナイン・ストーリーズ・オブ・ゲンジ」として9人の現代作家がそれぞれ源氏物語の翻訳に取り組むという企画が行われた[144]。江國香織(夕顔)、角田光代(若紫)、町田康(末摘花)、金原ひとみ(葵)、島田雅彦(須磨)、桐野夏生(柏木)、小池昌代(浮舟)、日和聡子(蛍)、松浦理英子(帚木)[注 18]らがそれぞれ源氏物語の新訳・超訳に挑戦するなど、新たな翻訳が生み出されつつある。
『源氏物語』は日本文学の代表的なものとして多くの言語に翻訳されている[145][146][147]。重訳や抄訳も含めると、現在、20言語以上の翻訳が確認できる[148]。アラビア語・イタリア語・英語・オランダ語・クロアチア語・スウェーデン語・スペイン語・セルビア語・タミール語・チェコ語・中国語(簡体字)・中国語(繁体字)・テルグ語・ドイツ語・日本語・ハンガリー語・ハングル・パンジャビ語・ヒンディー語・フィンランド語・フランス語・モンゴル語・ロシア語・ウルドゥー語などの翻訳がある[149]。
後世の人物が『源氏物語』の欠を補った作。作者自身が別人であることを明かしているか、別作者であることが明らかである形で伝えられているため、狭義の偽作には含まれないが関連して論じられることは多い。まとまった補作が存在する場所は下記のように限られている[162]。
源氏物語の成立事情をテーマにした作品
宝塚歌劇団では黎明期から今日まで繰り返し上演されている[注 21]。
源氏物語に特化した事典類だけでも、簡単なものから詳細なものまで数多くのものが出版されている。源氏物語を理解するための年立てや系図といった参考資料が組み合わさっているものも多い。
源氏物語に特化した語彙辞典。
そのほか、CD-ROM化された本文検索システムとして次のようなものがある。
源氏物語に特化したもののみ。
既発表の主要論文などを集めたもの。
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Стрільба на літній універсіаді 2019 Дати: 04 липня —09 липня Місце проведення: Італія, Беневенто, ASD TIRO A VOLO ZAINO Змагання Прпередній етап сезонуНаступний етап сезону 20172021 Стрільба з лука на Універсіаді 2019 — змагання зі стрільби в рамках літньої Універсіади 2019 року, що прох…
ЛангемберLanguimberg Країна Франція Регіон Гранд-Ест Департамент Мозель Округ Саррбур-Шато-Сален Кантон Решикур-ле-Шато Код INSEE 57383 Поштові індекси 57810 Координати 48°44′48″ пн. ш. 6°51′36″ сх. д.H G O Висота 238 - 304 м.н.р.м. Площа 18,38 км² Населення 160 (01-2020[1]) Густ…
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APKEkstensi berkas.apk, .apks,.aab, .xapk, .apkm,.akpJenis MIMEapplication/vnd.android.package-archiveJenis formatSistem pengelola paket, arsip berkasPembawa untukPaket perangkat lunakPengembangan dariJAR HP Android, seperti Sony Xperia Z5 Premium, mengijinkan penginstalan berkas APK secara langsung dari Google Play Berkas paket aplikasi Android (Android Package, dengan ekstensi berkas apk[1]) adalah format berkas yang digunakan untuk mendistribusikan dan memasan…
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Cet article est une ébauche concernant l’Organisation des Nations unies et le Kirghizistan. Vous pouvez partager vos connaissances en l’améliorant (comment ?) selon les recommandations des projets correspondants. Conseil de sécuritédes Nations uniesRésolution 736 Caractéristiques Date 29 janvier 1992 Séance no 3042 Sujet admission d' un nouveau membre : le Kirghizistan. Résultat Adoptée Membres permanents Conseil de sécurité 1992 Chine États-Unis France Royaume-Un…
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