堀江 謙一(ほりえ けんいち、1938年〈昭和13年〉9月8日 - )は、日本の海洋冒険家[1](ソロセーラー、ヨットマン)。大阪府大阪市生まれ。兵庫県芦屋市在住。
1962年、日本人として初めて[2]、小型ヨットによる太平洋単独無寄港横断[2]に成功。1974年、日本初の小型ヨット単独無寄港世界一周に成功。
アマチュア無線家でもある。コールサインはJR3JJE。
堀江の経歴
生い立ち
大阪市港区で生まれた。
太平洋戦争の末期には大阪府下の箕面村(今の箕面市)で一家で暮らした。1945年(昭和20年)の3月から8月にかけて、大阪市への空襲の際は、遠く離れた堀江のいた箕面市にも爆発音や衝撃波が届くような状況であった。このため太平洋横断中、ミッドウェー島の近くに来た時に、島に向かって死去した兵士に黙祷した[3]。
家業は自動車部品工場。
1954年、関西大学第一高等学校に入学、ヨット部に入部した。
小型ヨット単独無寄港太平洋横断航海
1962年5月12日、23歳のときに小型ヨット『MERMAID』(マーメイド。全長5.83m、水線長5.03m、幅2.00m、船体は合板(ラワン)製)で、単独無寄港太平洋横断を目指して、兵庫県西宮を出港、同年8月12日、アメリカのサンフランシスコに入港し、成功した。航海日数は94日。なお、日本人による単独無寄港太平洋横断は初めて[2]、小型ヨットでは世界初の可能性もあるものであった。
ヨットによる出国は前例が無く、政治家のつてでパスポートを取得しようと試みるが失敗[3]し「密出国」という形になった[4]。堀江は強制送還されることを覚悟して出港したという[3]。8月10日に家族から捜索願が出された[5]ことを受け、大阪海上保安監部は“自殺行為”とみて全国の海上保安本部へ“消息不明船手配”を打電し、不法出国問題より、救助を先決にしていた[6]。
堀江がサンフランシスコに到着したとの連絡を受けた大阪海上保安監部救難係は、「アメリカからは直ぐ不法出入国者として強制送還され、日本に着くと直ぐ捕まえられることになる」と話し、また、同監部警備救難課長は「こんな真似をされては困る。ヨット同好者などが、このような“冒険”を称賛するようなことがあればとんでもない間違いで、海の恐ろしさを知らぬ“人命軽視”だ」と非難した[6]。なお、大阪入管事務所は「小型ヨットは一般旅客とみなされるので当然ビザが必要になる。たとえ申請があっても許可しないのは常識」と話した[7]。
しかし、サンフランシスコ市長ジョージ・クリストファーが「コロンブスもパスポートは省略した」と、尊敬の念をもって名誉市民として受け入れ、1か月間の米国滞在を認めるというニュースが日本国内に報じられた[8]ところ、日本国内のマスコミ及び国民の論調も手のひらを返すように、堀江の“偉業”を称えるものに変化した。その後、帰国した堀江は密出国について当局の事情聴取を受けたが、結果、起訴猶予となった。
『マーメイド号』は、横山晃設計によるキングフィッシャー型19フィートのスループで、姫路市の奥村ボート(現・オクムラボート)にて建造された。船名は、資金不足に悩んでいた際、敷島紡績(現 : シキボウ)からの、同社商標の「マーメイド(人魚)」マークを入れてくれれば、帆を一式寄付するとの申し出を受け入れたことに因んでいる(秘密裏の計画だった太平洋横断航海のスポンサーではない)。
同艇は、現在、サンフランシスコの米国立海洋博物館で保存・公開されている。
1963年2月20日、第11回菊池寛賞の授賞が決定された[9]。授賞理由は、「単身ヨットを駆って世界最初の太平洋を横断した快挙」に対してである[9]。
ヨット単独無寄港世界一周航海
1972年11月12日、ヨット『マーメイドII』(変形マスト(逆V字型マストが船の前部と後部に1組ずつ立っている)、全長7.25m、幅2.50m)で、東回り単独無寄港世界一周を目指して、大阪の淡輪港を出港した。しかし、航海3日目の11月14日、後部マストに亀裂が発生、11月17日、全てのマストが折損したため航行不能となった。11月19日、海上保安庁に救助を要請、11月20日、巡視船[注 1]によって曳航され、三重県の鳥羽港に入港した。
なお、11月14日にマストの亀裂が判明した際、堀江がその旨を無線で発信しており[注 2]、それを受信した人が海上保安庁に通報したことから、同庁が巡視船数隻や捜索機YS-11で捜索を開始する事態となった[10]。この時点で、堀江は海上保安庁が捜索を展開しているのを知らなかった。その後、いたずらと思われる無線などもあったため、情報が錯綜した[11]。これらの“騒動”があったこともあり、逆V字型の変形マストにも拘らず外洋での訓練が不足していたとの批判的な報道がいち早く為された[12]。また、11月20日に鳥羽港に入港後に行われた記者会見では、まず堀江の「海上保安庁など大変な捜索網を敷いていただき、迷惑をかけて申し訳ない。国民の皆さんにも心配かけて反省している」という謝罪から始まった[13]。その後、「なぜ(11月14日の時点で)救助を求めなかったのか?」「マストに欠陥があったと思うか?」「船の耐久テスト、試験航海はかなりやったのか?」など次々と詰問調の質問があった。最後に「もう一度世界一周をやるか?」と聞かれ、堀江は「このように皆さんに迷惑をおかけしたので、皆さんがやめろと言われれば、やめないわけにはいかない。ただ、僕の本心としては、皆さんに理解してもらえれば、もう一回やりたい」と答えた[14]。堀江は、そのときの様子を後に「袋叩きにあった[15]」、「コテンパンにやっつけられた[16]」と自著に書いている。海上保安庁内部では「人命救助が大前提だが、個人の名誉欲やレジャーで振り回されるのは御免」という声も出た[17]。
1973年8月1日、ヨット『マーメイドIII号』(スループ、全長8.80m、水線長7.00m、幅2.80m、船体はFRPコートした木製)で、西回り単独無寄港世界一周を目指して、淡路島の生穂港を出港、翌1974年5月4日、大阪の忠岡港に入港し、成功した(航海日数275日)。これは、イギリス人のロビン・ノックス・ジョンストンに次いで世界で2人目であった。(東回りを合わせると3人目である。)この航海について、石原慎太郎から「成功する可能性があり得ないもの」と非難され[18]、堀江を擁護する本多勝一らとの論争を呼んだ。
その後の冒険
1978年、氷上を帆走(滑走)する氷上ヨット『マーメイド5号』(全長9.5m、幅5m、マスト高12m、船殻はアルミ合金製、左右両側に発泡スチロールのフロートが設置されており、船体と左右のフロートの底部に橇(そり)が付いている。)で、北極点到達を目指し、2月14日にカナダのレゾリュートに現地入りし、帆走(滑走)試験を行った。しかし、船体の強度不足が判明した[注 3]こと、また悪天候のため、同年4月11日、計画を断念した(出発に至らなかった。)[注 4]。
2004年10月1日、ヨット『SUNTORYマーメイド号』(スループ、全長13.1m、幅2.4m、船殻はアルミ合金5083(アルミリサイクル材70パーセント使用)製、セイルはペットボトルのリサイクル材製)で、東回り単独無寄港世界一周を目指して、兵庫県西宮市の新西宮ヨットハーバーを出港、翌2005年6月7日に同港に帰還した(航海日数251日)。東西両方向回りで単独無寄港世界一周を達成したのは日本人で初めて、世界でもオーストラリア人に次いで2人目であった。
2006年7月、「69歳になる2008年春に、波の力だけを動力とする波浪推進船(ウエーブパワーボート)『SUNTORYマーメイドII号』(カタマラン(双胴船)、全長9.5m、幅3.5m、船体重量3.0トン、船殻はアルミ合金製、速力は約3ノット(約6km/h)、2007年5月30日完成)で、約6,000kmあるハワイ - 紀伊水道[注 5]間の世界初の航海に挑戦する」と発表した。同船は、東海大学海洋学部の協力で製作された。なお、これは波浪推進船の初の実用航海とされている。2008年3月16日、ハワイのホノルル沖を出発、天候や海流などの影響により当初の予定より1か月以上遅れて、同年7月4日午後11時50分、和歌山県・日ノ御埼沖の洋上に設定したポイントにゴールした(航海日数110日)。
2009年、学校法人大前学園が設置する、サポート校の専修学校・西宮甲英高等学院の校長(のちに名誉校長)に就任した[19][20]。
同年6月6日、長年にわたり海を舞台に挑戦し続けていることが評価され、兵庫県豊岡市[注 6]から「植村直己冒険賞 特別賞」が贈られた。
2011年7月15日、海洋立国推進功労者として、日本政府から「内閣総理大臣賞」が贈られた。
2021年11月、翌年3月から6月にかけてヨットでサンフランシスコから新西宮ヨットハーバーに向けた単独での太平洋横断に挑戦することを発表した[21]。2022年3月26日に船体が約5.8mの『SUNTORYマーメイド3号』で出発[22][23]。6月4日未明にゴールに設定していた和歌山県・日ノ御埼沖の紀伊水道に到着。
2023年3月、米団体「クルージング・クラブ・オブ・アメリカ」(CCA)は、この世界最高齢での単独無寄港の太平洋横断の成功に対し、海洋冒険の功績を表彰する最高栄誉賞「ブルーウオーター・メダル」贈呈した[24]。日本人の受賞は世界一周の最高齢記録を樹立した斉藤実に続き2人目。
堀江の冒険の記録
堀江の主張
堀江は、太平洋横断中に、
この海で亡くなった3500名もの日本人将兵にも、家族がいて、母親がいた。どれほど家族にや母親に会いたくて、日本に帰りたかったことだろうか… |
この海で眠っている先輩の皆さん、ぼくはいま、皆さんに捧げる花束を持ち合わせていません。お許しください。しかし、もしこのヨットが無事にサンフランシスコのゴールデンゲートをくぐってゴールしたら、それを先輩方に捧げる“花”とします[3]。 |
と哀悼したことを述べている。
また、
僕が78歳のいままで、世界中の海をヨットで航海できたのは、戦後70年以上、日本が平和だったからだ。日本が平和だったのは、“平和憲法”を堅持したからではなく、命をかけて日本を守ってくれた自衛隊がいたからだと思っている。
日本国憲法が認められているのに、「自衛隊が違憲だ」などという考え方があるようでは、日本を守ることなど到底できるわけがない。それ以前に、命がけで日本を守ってくれている自衛隊員に対して失礼だ。もっと誇りをもって任務についていただけるよう憲法を改正すべきだと考えている。
右であれ、左であれ、愛国心をもって国について考えているのなら、ぼくは聞く耳を持つ。しかし、ぼくは反日だけはカンベンしてほしい。祖国を愛さないなんて、少なくとも海の男にそんな人はいない。
ぼくはこれからも祖国への愛を忘れずに、100歳まで海洋冒険を続けたいと思っている[26]。 |
と、太平洋でヨットにときどき自衛隊航空機が撮影や安全確認しに来ていたなど、2016年には彼らの仕事への感謝を述べた。
著書
単著
-
共著
監修
翻訳
関連書籍
ゲーム
脚注
注釈
- ^ 尾鷲海上保安部所属の巡視船『かみしま』である。
- ^ 交信ではなく、一方的な発信である。また、堀江は遭難信号「SOS」は発信していない。
- ^ 左右のフロートを支えるアームが折損した。
- ^ 同時期、日本大学北極点遠征隊(北極点に到達したときは5人)と植村直己(単独)が犬ぞりで北極点到達を目指していた。
- ^ 正確には、徳島県の蒲生田岬と和歌山県の日ノ御埼を結ぶ線上である。ここをゴールに設定したのは、大阪湾に入ると波がなくなり、航行できないことが予想されたためである。
- ^ 植村直己の故郷の地である。
- ^ 優勝は戸塚宏である。
- ^ 衿子は、ヨットの帆走技術は持っていなかった。
- ^ 沖縄海洋博の太平洋横断シングルハンドレースに使用した船体である。可動式だったバラストキールを固定式に改造した。
- ^ 正しくは、『SIKRINERK』である。これは、エスキモー語で「太陽」という意味である。
- ^ 1963年に菊池寛賞を授与されたが、これは堀江の小型ヨットによる太平洋横断という行為に対してのものであり、著書に対してのものではない[9]。
- ^ 児童向けに平易に書き直し、写真を多数収録し再編したものである。
- ^ 写真撮影・菊池東太、写真協力・朝日新聞社、毎日放送、東京12チャンネル、敷島紡績。
- ^ 1989年の世界最小(全長2.80m)の外洋ヨットによる単独太平洋横断の航海記である。
- ^ 堀江の航海記に、西村一広のレポートが挿入されている。
- ^ 堀江謙一/著『太平洋ひとりぼっち』が収録されている。
- ^ 堀江謙一/著『マーメイドへのラブレター』が収録されている。
- ^ 堀江謙一/著『北風よ早く来い』が収録されている(全19ページ)。
- ^ 原題は『Pleasure boating : sail and power』。
- ^ 日本語版総監修 : 堀江謙一、日本語版監修 : 林賢之輔。
- ^ 原題は『ICE BIRD』。
- ^ 『人間価値への共感 : 堀江謙一著「太平洋ひとりぼっち」評』と題する文が収録されている。
- ^ 堀江謙一/著『太平洋に挑む』が収録されている。
- ^ 堀江謙一/著『「太平洋ひとりぼっち」(抄)』が収録されている。
- ^ 『人魚は死んだ - 堀江謙一』と題する節が収録されている。
- ^ 『人魚は死んだ - 堀江謙一』と題する節が収録されている(全25ページ)。
- ^ 1978年春、日本人初の北極点到達を果たした日本大学遠征隊を軸に、同時期に北極点に挑戦した堀江謙一と植村直己についても記述されている。
- ^ 三浦雄一郎の対談集。堀江謙一との対談が収録されている。
- ^ 堀江謙一/著『北風よ早く来い』が収録されている(全10ページ)。
- ^ 『堀江謙一さんのソーラーボート』という項が収録されている。
- ^ 1982年、堀江謙一の地球縦回り航海のハワイへのゴール等を取材しており、堀江についての記述がある(約2ページ)。
- ^ 堀江謙一との対談が収録されている。
- ^ 堀江謙一/著『太平洋ひとりぼっち』が紹介されている(全9ページ)。(初出『諸君!』1995年1月号)
- ^ 「まれびとよ」と読む。
- ^ 『ヨットマン・堀江謙一』と題する節が収録されている(全10ページ)。
- ^ 『太平洋ひとりぼっち人生ひとりぼっち?』と題する、堀江謙一との対談が収録されている(全14ページ)。
- ^ 植村直己の対談・鼎談集である。『北極点へ夢かけて : やるぞ氷の冒険行』と題する、堀江謙一らとの鼎談が収録されている(全18ページ)。
- ^ 新井満の対談集。堀江謙一との対談が収録されている。
- ^ 堀江謙一/著『ヨットマンの幸福』が収録されている(全6ページ)。
- ^ 堀江謙一の言葉が紹介されている。
- ^ 『夢を目標に変えると、すべてが楽しくなる』と題する、堀江謙一との対談が収録されている(全7ページ)。
- ^ 「No reason」という堀江の言葉が紹介されている。
- ^ 内田暁/著『ひとりで渡った太平洋 : 堀江謙一』が収録されている(全17ページ)。
- ^ 別タイトルは『the wise remarks of Explorers』。
- ^ 「チャンスの女神は平等ではありません。しかし、(チャンスを)つかむか逃すかの選択は平等に訪れる」という堀江謙一の言葉が紹介されている。
- ^ 『人間価値への共感 : 堀江謙一著「太平洋ひとりぼっち」評』と題する文が収録されている(全2ページ)。
- ^ 『8月30日 : 堀江謙一が、世界最小のヨットによる太平洋横断に成功した日』という項が収録されている。
- ^ 『堀江謙一インタビュー : 「太平洋ひとりぼっち」とは何だったのか : 共鳴しあう冒険と日本社会』が収録されている(全31ページ)。
出典
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
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外部リンク