柳家 小三治(やなぎや こさんじ)は落語家の名跡。現在は空き名跡。この名跡は中堅どころの位置付けであるが、「柳家(柳派)の出世名」といわれる[注釈 1][注釈 2][注釈 3]。七代目・八代目の柳家小三治は併存したことがある。なお、十代目は真打昇進から2021年に没するまでこの芸名を名乗り通した(後述)。
十代目 柳家 小三治(1939年12月17日[1] - 2021年10月7日)は、東京都新宿区出身の落語家[2]。落語協会第10代会長(2010年 - 2014年在任)[3]。出囃子は『二上り羯鼓』[2]。定紋は『変わり羽団扇』[2]。本名は郡山 剛藏[2]。位階は従五位[4]。「高田馬場の師匠」とも呼ばれた。
小学校校長を務めた郡山繁蔵の長男として生まれる。父は宮城県岩沼の出身。 1958年、東京都立青山高等学校卒業[5]。高校の同級生に女優の若林映子、ニ年後輩に仲本工事と橋爪功がいる。
1959年3月、五代目柳家小さんに入門[2]。前座名は「小たけ」[2]。1963年4月二ツ目昇進し「さん治」に改名[2]。
1969年9月、17人抜きの抜擢で真打昇進[5][2]。十代目柳家小三治襲名[2]。
1976年、放送演芸大賞受賞[2]。1979年より落語協会理事に就任する[5]。1981年、芸術選奨文部大臣新人賞受賞[2]。
2004年に芸術選奨文部科学大臣賞受賞[2]、2005年4月に紫綬褒章受章[2]。2005年6月、新宿末廣亭6月下席夜の部・小三治主任公演において、東京やなぎ句会同人の小沢昭一をヒザ前に顔付けした[5][注釈 4]。連日長蛇の列が出来、立見で入れないほどの大入りであった。
2009年、ドキュメンタリー映画『小三治』(監督:康宇政)が公開された。
2010年6月、落語協会会長に就任[5]。
2014年春の叙勲で旭日小綬章受章[2]。同年6月、落語協会会長を勇退し顧問に就任[5][3]。
同年10月、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定[2][6][7][注釈 5]。
2015年、第56回毎日芸術賞受賞。同年3月、新宿区名誉区民に選定される[8]。2019年度朝日賞受賞[9]。
2021年10月2日、府中の森芸術劇場で行われた「吉例柳家一門会」で『猫の皿』を演じ、生前最後の高座となった[10][11]。
同年10月7日20時、心不全のため死去した[12]。81歳没。訃報は同月10日、落語協会と柳家小三治事務所により公表された[13][14]。所属事務所が明かしたところによれば、生前最後の高座から亡くなる日まで体調面の変化はなく普段通りに過ごしており、翌年まで各地で落語会の予定を入れていた。死去当日は普段通りに夕食を取り、入浴した後に自室で倒れているところを妻に発見され、病院に搬送されたが死亡が確認されたという[15][16]。
死没日付で従五位に叙される[4][17]。法名は「昇道院釋剛優(しょうどういんしゃくごうゆう)」。
故人の遺志により葬儀は密葬で執り行われ、お別れの会などは開かれなかった[14]。また、遺族(家族)からのコメントや取材対応はなく、マスコミ対応等は事務所(マネージャー)と落語協会が担った。落語芸術協会では、春風亭昇太会長が追悼コメントを発表した[18]。
落語協会では、協会公式YouTubeで「落語協会 謝楽祭2021」(2021年9月12日配信開催)で公開した2021年8月に柳家三之助が撮影した小三治の挨拶映像を2021年12月10日 - 17日(配信最終日が小三治の誕生日)に再度期間限定配信した[19]。
教師・教育者(小学校校長)の5人の子のうち唯一の男子として厳格に育てられる。テストでは常に満点を求められ、100点満点中95点を取ることすら許されなかった。その反発として遊芸、それも落語に熱中する。東京都立青山高等学校に進学。二期下にはザ・ドリフターズの仲本工事、俳優の橋爪功がいた。高校時代にラジオ東京の『しろうと寄席』で15回連続合格を果たす[注釈 6]。この頃から語り口は流麗で、かなりのネタ数を誇った。卒業後、教員育成大学である東京学芸大学への入試に失敗し、学業を断念。落語家を志し、五代目柳家小さんに入門した。もっとも父は噺家になる事は反対しており、父の教え子に新宿末廣亭の席亭・北村銀太郎の子息がいたことから相談し「小さんなら噺家になるのを止めるように説得してくれるだろう」との目論見であったが、これに反して小さんは入門を認めている[11]。入門時はすね毛が毛深かったことから、五代目小さんから最初は前座名を「小多毛」と付けられそうになったが、人形町末廣の席亭の娘から「字面が悪い」とクレームを付けられて「小たけ」に変えたとされる[20]。
以後、五代目小さん門下で柳家のお家芸である滑稽噺を受け継ぎ活躍(もっとも小さん本人から直接教わった噺は少ないと著書で述べている[要出典])。噺の導入部である「マクラ」が抜群に面白いことでも知られ、「マクラの小三治」との異名も持つ。全編がマクラの高座もある[注釈 7][注釈 8]。
落語協会会長六代目三遊亭圓生は大変に芸に厳しい人物で、前任の会長より引き継いだ者を真打にした以外は、実質上3人しか真打昇進を認めなかった。つまり、六代目圓生から真打にふさわしいと見做されたのは、六代目三遊亭圓窓・小三治・九代目入船亭扇橋の3人のみである[注釈 9][注釈 10]。小三治は17人抜き真打昇進という記録を作った[注釈 11]。特に扇橋と当時落語芸術協会に所属していた二代目桂文朝[注釈 12]とともに「三人ばなし」と称した落語会を1975年から1997年まで定期的に開催していた[21]。
小三治も弟子に対する指導が厳しいことで知られていた。また、若手への指導も厳しく、池袋演芸場で行われていたある日の「二ツ目勉強会」では、芸を批評するために小三治が来場する事が出演者に告げられると、リラックスしていた楽屋が一気に緊張感が走り、強面で知られる三代目橘家文蔵(当時:橘家文吾)は落ち着きを失って顔面蒼白になったり、三代目柳家甚語楼(当時:柳家さん光)は固まったように黙ってしまったという。中には「噺家を辞めて故郷へ帰れ!」と小三治に叱責された二ツ目もいたとされる[22]。
上野鈴本演芸場初席における主任(トリ)の座を師の五代目小さんから1991年に禅譲され、2013年まで務めた[注釈 13]。
もともと中堅どころの名跡であった「柳家小三治」を、真打昇進から2021年に没するまで名乗り通した。この間落語協会理事や同協会会長を歴任し、落語家では師の五代目小さん、上方落語の三代目桂米朝に続く3人目の重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)にも認定され、東京落語界の大看板になった。小三治は「名前を大きくした」と言われる典型的なケースである(四代目桂米丸や五代目三遊亭圓楽も、本来留め名ではなかった中堅名跡を名乗り通し、大看板となった落語家である)。
リウマチなど持病を抱えながらも、長年高座に上がり続けた[注釈 14]。落語協会会長五代目鈴々舎馬風が病気を理由に2期で勇退した後を受け、2010年6月25日開催の落語協会例会において後任会長となる[23]。会長在職中は抜擢での真打昇進を行っており、2012年に春風亭一之輔が21人抜き、古今亭志ん陽が8人抜き、古今亭文菊が28人抜きでそれぞれ真打に昇進している。
2014年6月、四代目柳亭市馬に会長職を譲って協会顧問に就任し、亡くなるまで務めた[3]。
夫人は染色家の郡山和世[注釈 15][24]、次女は文学座に所属する女優の郡山冬果である。
主な持ちネタには『あくび指南』『うどん屋』『大山詣り』『かんしゃく』『看板のピン』『金明竹』『小言念仏』『子別れ』『蒟蒻問答』『死神』『芝浜』『大工調べ』『千早振る』『茶の湯』『出来心』『転宅』『道灌』『時そば』『鼠穴』『寝床』『初天神』『富士詣り』『百川』『やかんなめ』などがある。
面白くもなんともなさそうな顔のまま、面白いことを話す。飄々とした表情のまま、ぶっきら棒にしゃべる。
柳家の伝統通り滑稽噺を主なレパートリーとするが、師と同じく[注釈 16]、「あざとい形では笑わせない芸」を目標としている。落語(滑稽噺)は本来が面白いものなのできちんとやれば笑うはずであり、本来の芸とは無理に笑わせるものではなく「客が思わず笑ってしまうもの」だとの信念を抱いているからである。
過去の落語家のものまねを得意とする。六代目圓生や九代目桂文治、八代目三笑亭可楽などのものまねが時折高座で披露される。
指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンを「メリハリが効くというよりもあざといくらい派手な音を作り出す」「人を感心させようとして棒を振るから嫌いだ」と評すると同時に、「落語も同じだよ」と付け加えている。
寄席や落語会では、同じ演目を異なる芸人が続けて演ずることは絶対のご法度とされている。
永六輔が自らの主催するイベント「六輔その世界」のゲストに毒蝮三太夫と小三治を招き、両名に落語を演じてもらおうと企画した際、毒蝮は『湯屋番』を演じた。毒蝮は落語界の人間ではないが、七代目(自称:五代目)立川談志の古くからの盟友であり、徹底的な指導を受けていた。その後に高座に上がった小三治は、直前までネタを決めていなかったが、毒蝮と同じ『湯屋番』を語り始めた。小三治も談志も同門(5代小さん門下)であり、文字として並べる限り『湯屋番』の内容はほとんど変わらない。しかし、プロとしての技術を駆使して全く別のやり方で『湯屋番』を語り、毒蝮よりもはるかに客を笑わせたという。演芸評論家・矢野誠一の著書『志ん生の右手』(河出文庫)では、この件を小三治自身が後書きで説明している。同じ噺をした理由は「毒蝮三太夫という人の後に落語家として噺をすることに抵抗があった」「毒蝮のやった噺とそれに対するお客さんの反応をみて、これは落語を聞かせる客じゃないな、ショウアップされた趣向を興味半分でのぞきに来てる客だな、と思った」ことであり、「せっぱつまった飛び降り自殺みたいなものです」「もう頼まれたって二度とやりませんが、ひとにも勧めません。それほど愚行です」と矢野への謝辞と共にコメントしている。
多趣味で知られていた。
落語仲間でしばしばスキーに行くこともあった。弟弟子の四代目柳亭市馬は大分県の出身で雪を殆ど見たことがなかったこともあり、最初は半ば強引に小三治に誘われて、後にスキーインストラクターになる小三治の長男に徹底的に指導を受けて、腕前は上達した。小三治は参加したメンバーをビデオで撮影していて、夜に上演会を開いて滑り方の批評を行ったりしていたという[27]。
落語仲間で「ヨタローズ」というチームを組織していた。メンバーは小三治を中心とした五代目小さん門下の落語家が多かった。
三代目桂米朝などの落語家や落語を愛好する文化人らと「東京やなぎ句会」という俳句団体を組織しており、同会の名義で出版された著書もある。俳号は土茶(どさ)。
鑑賞も歌唱も好む。歌声はCD「歌ま・く・ら」(2004年9月28日 札幌・真駒内六花亭ホールでのライブ版)に収録されている。また、2005年10月31日の鈴本演芸場の独演会では、高座にグランドピアノを入れて(演奏:岡田知子)15曲を熱唱、そのもようはドキュメンタリー映画『小三治』に収められている。
蓄音機での音楽鑑賞も楽しんでいた。
オーディオ史研究家の品川征郎(現日本蓄音機倶楽部創設者)のコレクションを、愛川欽也、うつみ美土里の番組『日曜とくばん「驚異ここまで来たオーディオ100年」』(1978年放送)で紹介した。
「少しでもいい音で音楽を聴きたい」という思いからオーディオに凝り、一時期は専門誌でもコラムを連載するなどプロ並みの知識がある。自宅には高価なオーディオ機器が多数あった。
旅先での出来事をまくらで数多く話していた。
塩は海外に買い出しに出かけ、数十キログラムを持ち帰ってきたことがある[28]。
著書『ま・く・ら』にミツバチのエピソードがある他[29]、おいしい蜂蜜にも目がなかった[29]。
出典[30]
多数リリースされているが、そのほとんどがソニーミュージックエンタテインメント京須偕充によってプロデュースされたものである。
いずれも、文・絵:野村たかあき、監修:柳家小三治、教育画劇刊。
○叙位 郡山 剛藏 従五位に叙する(各通)
1973 5代目柳家小さん / 1974 てんぷく集団(三波伸介、伊東四朗) / 1975 3代目古今亭志ん朝 / 1976 10代目柳家小三治 / 1977 二葉百合子 / 1978 春日三球・照代 / 1979 星セント・ルイス
1980 5代目三遊亭圓楽 / 1981 春風亭小朝 / 1982 2代目桂枝雀 / 1983 ビートたけし / 1984 タモリ / 1985 該当者なし / 1986 ビートたけし / 1987 明石家さんま
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