高橋 たか子(たかはし たかこ、1932年(昭和7年)3月2日 - 2013年(平成25年)7月12日)は、日本の小説家。旧姓岡本、本名和子(たかこ)。夫の高橋和巳[1]の死後本格的に作家活動に入り、『空の果てまで』『誘惑者』などを発表。愛憎を超えた不可解な心理の深層を描き続けた。カトリックに入信、渡仏して観想修道生活を送った(のち還俗して帰国)。
京都府京都市下京区醒ヶ井通仏光寺下ル荒神町で、父・岡本正次郎、母・達子の長女として生まれる[2]。父親は旧制名古屋高等工業学校建築科を卒業し、京都府警察部建築課に勤めていた[2][3]。尋常小学校時代に等持院北町に転居し[4]、京都府立嵯峨野高等女学校から京都府立山城高等学校を経て[5]、1954年(昭和29年)、京都大学文学部フランス文学科卒。在学中に高橋和巳と知り合い、卒業の半年後に結婚する。大学院に進み、1958年に修士を取得[3]。その一方で作家志望の和巳が働かなかったため、たか子が家庭教師や翻訳、外国人観光客のガイドなどをして家計を支え、加えて夫の原稿の清書なども精力的に手伝った[6]。夫と共に、布施市吉松蔦崎町(現:東大阪市)、等持院北町のたか子の実家、吹田市大字垂水と転居し、1965年に鎌倉市二階堂理智光寺に住む[7]。1967年、和巳は京都大学助教授に就任して京都へ単身赴任した。たか子は、業務専念義務のある大学教員になることで和巳の小説家への道が閉ざされることを心配し、また関西にいた頃和巳のもとに出入りした文学仲間から無視されつづけた経験が耐えがたかったことから京都へは同行しなかった。1967年4月から約半年間フランスに滞在した。
しかし1969年に夫である和巳が病に倒れ、たか子は献身的に介護するも[6]1971年(昭和46年)、和巳と死別する。たか子もその後、自ら小説の執筆を本格化させた。1975年に遠藤周作の勧めでカトリックの洗礼を受けた。『高橋和巳の思い出』で、和巳は家では「自閉症の狂人」だったと書いた。たか子は、「自閉症の狂人」という表現を生前に和巳本人に告げており、和巳は笑って「その通りだ」と言っていた。1980年に渡仏、パリのサン=ジェルヴェ・サン=プロテ教会を母体とするエルサレム修道会の創立者のPère Pierre-Marie Delfieuから修道生活の誘いを受け、1981年からパリに安アパートを借りて住み隠修者となる[8]。1985年に正式にエルサレム会に入会[8]。たか子はこの間にフランス各地の修道院を訪ね、1988年にはエルサレムを訪れている[8]。1988年に日本帰国後、京都市の女子カルメル会に入会し、修道生活を送った時期もある。
『空の果てまで』で田村俊子賞、『ロンリー・ウーマン』で女流文学賞、『怒りの子』で読売文学賞、『きれいな人』で毎日芸術賞を受賞した。他に代表作は、三原山での女子大学生の投身自殺を描いた『誘惑者』(泉鏡花文学賞受賞)がある。
2013年(平成25年)7月12日、茅ヶ崎市の老人ホームで心不全のため死去した[9]。喪主を務めた鈴木喜久男(翻訳家の鈴木晶)はたか子の40年来の弟子で、たか子の生前から鎌倉の高橋たか子の家(たか子の友人の黒川紀章設計)の管理を任され、和巳・たか子両名の著作権代理人を務めた[9][10][11]。高橋夫妻の著作権はたか子の没後、日本近代文学館に遺贈された[12]。たか子は、富士霊園で和己と一緒に眠るが、京都市の妙顕寺塔頭本妙院の岡本家墓地に分骨埋葬されている。
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