有吉 佐和子(ありよし さわこ、1931年(昭和6年)1月20日 - 1984年(昭和59年)8月30日)は、日本の小説家、劇作家、演出家。和歌山県和歌山市出身[1]。日本の歴史や古典芸能から現代の社会問題まで広いテーマをカバーし、読者を惹きこむ多くのベストセラー小説を発表した。カトリック教徒で、洗礼名はマリア=マグダレーナ。代表作は『紀ノ川』、『華岡青洲の妻』、『恍惚の人』など。娘にエッセイストの有吉玉青がいる。正確には「吉」の字は下が長い「𠮷(土吉)」なのだが、小説を書いていた頃には活字がなかった[2]。
父は有吉眞次。長州藩士有吉熊次郎は曽祖父にあたる。
佐和子の母の有吉秋津は明治37年(1904年)に和歌山の庄屋の家に生まれ、旧姓は木本といい、父の木本主一郎は政治家だった[3]。たいそうな大女で結婚条件は自分より背が高いことだった。こうして横浜信用金庫に勤めていた180cmの有吉眞次に嫁ぎ、お手伝いを連れて上京した。(佐和子の身長は165cm)[2]。
横浜正金銀行勤務の父の赴任に伴い、佐和子は小学校時代を旧オランダ領東インドのバタヴィアおよびスラバヤで過ごした。 1941年に帰国後、東京市立第四高女(現・都立竹台高校)から疎開先の和歌山高女(現・和歌山県立桐蔭高校)へ。その後、光塩高女を経て、府立第五高女(現・都立富士高校)卒業。東京女子大学英文学科に入学したが休学後1952年同短期大学部英語学科卒業。大蔵省外郭団体の職員を経て舞踊家吾妻徳穂の秘書となる。
大学在学中から演劇評論家を志望し、雑誌『演劇界』嘱託となる。同人誌『白痴群』、第15次『新思潮』に参加。1956年に『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり一躍文壇デビューを果たした[4]。翌年の1957年には『白い扇』が直木賞候補になっている。初期には主として日本の古典芸能を題材とした短編が多いが1959年、自らの家系をモデルとした長編『紀ノ川』で小説家としての地位を確立した。
1962年、神彰(興行師。有吉との離婚後、居酒屋チェーン「北の家族」経営者となる)と結婚。長女として有吉玉青をもうけるが神の事業の失敗により1964年に離婚した。
1967年4月に行われた東京都知事選挙では、社会・共産両党推薦の美濃部亮吉を応援した[5]。
1968年、文化人類学者畑中幸子が調査中だったニューギニア山中の村を訪れ、エッセイ『女二人のニューギニア』を書いた。しかし、帰国後にマラリアに罹った。
1970年代に入ると代表作となる『恍惚の人』や『複合汚染』が大きな反響を呼び、いわゆる「社会派」的イメージが定着した。その流れの中で、第10期中央教育審議会委員に任命されたほか、参院選全国区に出馬した市川房枝の応援や、「四畳半襖の下張」裁判の弁護側証人として東京地裁で証言するなどの社会的活動も行った。
また有吉はしばしば国内外へ取材旅行に出かけ1959年から1960年にかけてロックフェラー財団の奨学金を得てニューヨーク州のサラ・ローレンス大学に9か月間留学、1970年 - 1971年にはハワイ大学で半年間「江戸後期の戯曲文学」を講義している。特に中国との縁が深く(後述)、1961年には亀井勝一郎らと国交回復前の中華人民共和国を訪問し、以後たびたび招待された。1965年には天主教(中国におけるカトリックを指す)調査のため半年滞在し[6]、1978年には『有吉佐和子の中国レポート』執筆のため人民公社に入っている。
1972年、中央教育審議会の委員に就任した[7]。
1984年8月30日未明、急性心不全[8][注釈 1]のため東京都杉並区内の自宅で死去した。53歳没。東京都監察医務院で行政解剖され、「病死」と断定され、警察も「自殺などの事件性はないと断定」した。祖父の眠る墓に入ったがただ一人キリスト教徒だったので、墓石の戒名のところに「マリア・マグダレナ」と洗礼名を刻むことになった[2]。
有吉の死後、妙法寺(東京都杉並区堀ノ内)に『有吉佐和子の碑』が建立され、命日の8月30日に『有吉忌』と題する追善法要が執り行われている[9]。
ストーリーテラーとしての才能と旺盛な好奇心をもち、多分野に亘る長期間の綿密な取材に基づいた作品を次々に発表して、同世代の女性を中心とする多くの読者を獲得した。主な作品をテーマ別に大きく分類すると以下の通りになる。
有吉は演劇に造詣が深く、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』などいくつかの戯曲作品があり、また自作小説を中心に脚本化や舞台演出も数多く手がけた。ベストセラーが多いため、作品はしばしば映画化・ドラマ化されている。
デビュー当初、有吉はマスコミからは曾野綾子とならぶ「才女」ともてはやされたが、芥川賞・直木賞とも候補に終わった(「才女」には才能のある女の意味だけでなく、それ以前の女性作家のような人生経験に基づいた作品ではなく、頭だけで書いている、という揶揄も含まれていた[10])。『群像』編集長を務めた大久保房男は在任中有吉の作品を一度も掲載しなかった。また武田友寿や千頭剛など一部を除き、同時代の批評家をはじめとする文壇からは敬遠されていた。有吉本人の激しい気性も理由の一つであろうが、文学的にはその物語性の強さが私小説的純文学の気風に合わなかったことが早くから指摘されている。また、一見古風なテーマを好む伝統主義者のように見えるが、実際には伝統を外部から客観的に、時にはエキゾチシズムをもってながめる「外地育ち」「エトランゼ(異邦人)」の視線があるという評価も確立している。一方、歴史を題材とした作品(特に『華岡青洲の妻』『真砂屋お峰』)では史実と矛盾したところが多く見られるとして、歴史小説家からの評価は今なお厳しい。
こうした中、1984年有吉の死去に際して橋本治は有吉文学に通底するモチーフを「女性があっけらかんと生きるのって素敵じゃない?」、つまり筋を通して働くことで男性の束縛から自立した女性の自由と誇りの擁護であると喝破し、これまでの批評家に見られない新しい筆致で肯定的に論じた[注釈 2]。
没後、半田美永・宮内淳子をはじめ、学界の中で有吉を研究対象にする近代文学研究者が増えている。
没後20年を記念して2004年に出版された井上謙・半田美永・宮内淳子編『有吉佐和子の世界』は複数の文学研究者が集まり、ポストコロニアル批評などの新しいアプローチによって正面から有吉とその文学を追究した初めての単行本である。特に巻末の年譜と関連文献目録はこれまでで最も詳細である。
1994年と2005年に関川夏央は有吉を論じ、その生き急いだ感のある一生を「サーモスタットのない人生」と評した。関川は後期作品(『複合汚染』『悪女について』『開幕ベルは華やかに』)に構成の破綻が見られると指摘しているほか、紀行文『女二人のニューギニア』と『有吉佐和子の中国レポート』を対比して、前者の明るさ、おもしろさと後者の焦燥感との落差の原因を「老い」に求め、また有吉の非私小説的作風が畑中幸子を描いた前者と自分自身の奮闘を描いた後者のできばえの差にあらわれていると書いている。
これと関連して関川は、そもそも有吉には自分自身の内面を書く能力も意志もなく、自分と似た性格を持つ他の女性を外から観察して描くことにおいて卓抜さを発揮したのだと評している[注釈 3]が、有吉のこうした傾向は有吉の持つ「外地育ちの視線」と呼応している。「お嬢さま」「才女」「外地育ち」という有吉の位置は、いずれも対象を外部から分析的にとらえるアプローチに結びついており、精神の内省的な把握を重視する姿勢からは遠かった。しかし同時に、そうした「外部」からの視角をもったがゆえに、それまで「内部」では気付かれなかった斬新な論点を世に先駆けて提起することができたのである。
長州人エリートを父方に紀州の名家を母方にもつ「お嬢さま」で幼い頃から病弱であり、学校は休みがちで家で蔵書を乱読した。『孝経』の素読を受け、漢籍の素養があったことはあまり知られていない。理知的で頭の回転が速く、ものおじしない一方、喜怒哀楽と感情の起伏が激しかった。このような直情径行型の性格は、デビュー当時は「老人キラー」として肯定的に受け入れられていたが、中年期以降高名なベストセラー作家として丁重に扱われるようになると逆にマイナスに働き、ときに周囲との摩擦や衝突を引き起こした。また小説家として早くから成功したこと、その作風が文壇主流に認められなかったことから、心中には常にベストセラーを世に送ることで実績を誇示しつづけなければならないプレッシャーがあったと考えられる。
藪内流茶道をたしなみ、「青庵」の茶名をもっていた。和服を好み、外国訪問時には華やかな和装でしばしば周囲の注目を集めた。国交回復前の中国に日本の作家団として招待されたときにも、派手な服装の自粛をすすめられたにもかかわらず、華やかな着物で訪問して歓迎され、周恩来に「今日の私の着物の柄が牡丹(中国の国花)でなくて残念です」と言ったところ、周から「牡丹はあなた自身ですね」と返されている。しかしこうした日本文化への造詣は主として大学在学中に歌舞伎界への出入りを始めてからわずかの間に身につけたものである。
『三婆』『恍惚の人』をはじめ、「老い」をとりあげた作品が多いが、自らの「老化」を語るとき「以前は一度辞書を引けばすぐ覚えられた英単語を忘れるようになった」ことを挙げている。その聡明さがしのばれる。
なお、有吉の作品と人物を考える上で不可欠なのは母親秋津の存在である。代表作となった『紀ノ川』は秋津(文緒)と有吉(華子)自身との関係を含む母方の家系をモデルとした小説であるが、執筆のきっかけとなったのはマスコミの寵児であった有吉に秋津が言った「あなたが何を書いたというのか」のひとことであり、これを発表してすぐにアメリカへ留学したのも、マスコミから脱出して自分を見つめなおすためであった。また実生活でも、有吉の離婚後から生まれたばかりの孫の養育のために同居した秋津は、その後有吉の死まで実質的な秘書役を務め、作品の批評から資料の整理、常用薬の管理までを引き受けるなど、公私に亘ってその生活に大きな影響力をもっていた[注釈 4]。「四畳半襖の下張裁判」に触発され、「ポルノグラフィーを書く」と宣言して連載を始めた『油屋おこん』が実質的な中断に終わった理由のひとつは、主人公の年齢が娘と同年であったこととならんで、秋津の反対があったからだといわれている。
『油屋おこん』の新聞連載を小幡欣治が読み、有吉佐和子に舞台化を申し出ると「あれはミカンの小説。自分の著作集にも入れていないので困る」と言われ、その後の話し合いで、「おこんとお鹿の設定を使いたいのなら、私(有吉)の名前は出さなくていいから自由におやりになって」と返事があり舞台化された[13]。
活躍の裏では、長く不眠症に苦しみ長編を書き終わる毎に体力を消耗して入院し、特に中年期以降の健康状態は心身共に安定していなかった。なおテレビにはデビュー当初、NHKで放映された『私だけが知っている』にレギュラー出演していた事があるがそれ以降は執筆活動を優先して極力出演を避けていた。
死の約2か月前である1984年6月22日の金曜日、『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に前日6月21日の木曜日に俳優の有島一郎から紹介され、同番組に生涯唯一の出演を果たす。なお出演を承諾した理由の一つに「『テレフォンショッキング』に出ていないと娘(有吉玉青)に莫迦にされるから」だった[14]。
その同番組の本番中に発生した「『笑っていいとも!』テレビジャック事件」は大きな話題となった[8]。途中までコーナーは滞りなく進行していたが、有吉は翌日のゲストを紹介しても帰る素振りを一切見せず、それどころか持参していたラジカセを取り出し、タモリが作詞した早稲田大学の応援歌(ザ・チャンス)をタモリと共に歌唱するなど結局番組終盤まで居座り続けた[15]。後述通り次のコーナー待ちで痺れを切らした明石家さんまが飛び入りで参加するなどの状況を経て漸く退出するが、この時点で出演から42分であり[注釈 5]、時刻は12時42分を指していた[15][16]。前日、有島が電話で出演依頼した際も、有吉は、「天下の名優有島一郎を前に、背広やネクタイもつけないのはタモリもさんまも失礼だ」と強烈に叱りつけている(この為、タモリは当日本番においては正装で有吉を迎え入れていた)[15][17]。しかし、前日有吉に番組出演を依頼した有島を初め、橋本治(有吉の紹介で翌週の6月25日の月曜日に出演)[14]・池田満寿夫[18]・筒井康隆[19]らはいずれも「痛々しくて見ていられなかった」と評している。また同番組でタモリとのトーク中に有吉自身「不眠症が続いて毎日誘眠剤(睡眠薬)を服用しないと寝られないの」とも語っていた[8]。更にその後、有吉の訃報を伝えたマスコミは揃ってこの事件を有吉の奇行として大きく採り上げた。
『爆笑問題の日曜サンデー』(2010年1月10日放送回)で有吉の特集が組まれ娘の玉青がゲスト出演した。その際に玉青は、この「テレビジャック事件」は番組側から頼まれてやった演出であった事を明かした。「母は一生懸命で真面目な人だから頑張った。途中でお客さんからブーイングがあったみたいだけど母は『頼まれた事だから』とやり通した」と振り返り、その時の有吉の様子を「本当に可哀相だった」と述べている。また玉青は2013年に出版された『タモリ論』の中でこの出来事が取り上げられた際、事実誤認があると著者の樋口毅宏に抗議している。樋口は番組内での有吉を「見るからにイッちゃっていた」とし、その「暴走」ぶりに激高した明石家さんまがついには「死ねババア」とまで口走ったと記していたが、抗議を受けて映像を入手し検証したところ、番組内容が演出だったことの証拠となる箇所があり、また有吉は終始冷静かつ穏やかで、明石家さんまも「死ねババア」などという発言はしておらず、番組のエンディングにも登場した佐和子に対し「私きょう出てきてね、喋ったの『帰ってよ!』だけですよ。先生についていきます」と述べていた[20][15]。樋口は「全部長い歳月を経ての妄想、そして幻想だった」として佐和子・玉青・さんまに謝罪し、「『有吉いいとも!事件』はなかったのだと、伝説を打ち止めにしたい」と述べた[20]。
番組ジャックは有吉の数ヶ月前に黒柳徹子がやっていて、後にそれも番組の演出だったと明かしているが、有吉の場合は時をおかずに亡くなったことがあり、玉青は「ネットでは人々の妄想が妄想をよび、事件と異なる情報が流布していることが、私としては悔しくてなりません」[2]と述べている。
有吉は著名作家として交友関係は広かった。特に劇作家・演出家として水谷八重子 (初代)・山田五十鈴・草笛光子・宮城まり子・司葉子など演劇界・芸能界とは深い交流があった。また青年期の石原慎太郎は同世代作家(芥川賞候補(その後受賞)となったのが有吉より1期前)として有吉に親愛感を抱いており、有吉の死去に際して「若い頃一緒にナイトクラブに行ったとき口説こうと思ったが彼女がニンニクを食べた後だったので辟易してあきらめた」と書いている[18]。秦野章はマージャン友達で、有吉は秦野の著書[21]の帯に「彼は知恵の壺から出てきた男だ。かつて一度も間違ったことはない」という推薦文を寄せた。菅直人は市川房枝の若者応援団のリーダーとして『複合汚染』冒頭に登場しているが、有吉は菅が自分を房枝の代わりとして勝手に候補者にかつぎあげようとも考えていたと聞いてゾッとし、「ハンサムだけど嫌われなければならない」と思いつめてことさらにガミガミ怒鳴りつけたと記している。阿川弘之とは古くから親交があり、二人を一巻にまとめて収録している文学全集が複数あるが、阿川自身は有吉の生前からエッセイでかなり手厳しい人物評を書いており、娘の阿川佐和子の名を有吉からとったという風評をくりかえし否定している。
国外で関係の深かった中国では老舎・夏衍・謝冰心など作家の他、政府要人、特に廖承志と親しく、また唐家璇は1965年の有吉滞在時に通訳を務め、『有吉佐和子の中国レポート』では「唐少年」と呼ばれている。老舎の妻と娘は『人民日報』に有吉の追悼文を寄稿している[22]。
2022年6月5日、和歌山県和歌山市伝法橋南ノ丁に和歌山市立有吉佐和子記念館がオープンした[23]。建物は2階建てで、1階には原稿の展示のほかカフェや物販コーナー、2階は書斎や茶室がある[23]。1961年から1979年まで暮らした東京都杉並区の邸宅を再現するため、実際に使用された家具や建具も配置されている[23]。
注:初出発表年順
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