山田 風太郎(やまだ ふうたろう、1922年1月4日 - 2001年7月28日)は、日本の小説家。本名は山田 誠也(やまだ せいや)[1]。戦後日本を代表する娯楽小説家の一人。東京医科大学(入学時は東京医学専門学校)卒業[1]、医学士号取得。
『南総里見八犬伝』や『水滸伝』をはじめとした古典伝奇文学に造詣が深く、それらを咀嚼・再構成して独自の視点を加えた伝奇小説、推理小説、時代小説の3分野で名を馳せる。特に奇想天外なアイデアを用いた『魔界転生』や忍法帖シリーズに代表される大衆小説で知られている。2010年(平成22年)、その名を冠した「山田風太郎賞」が創設された[2]。
筆名は、中学生時代に3人の友人らと互いに呼び合うのに用いた雷 / 雨 / 雲 / 風という符丁、そして受験雑誌への投稿時代にペンネームとして使用した「風」に由来する[3][4]。当初は「かぜたろう」と読ませたかったようである(国立国会図書館のデータベースにその名残が見られる)が、最終的に「ふうたろう」で定着した。なお、戦前・戦後の映画・芸能雑誌をコレクションしていた色川武大が、その雑誌の中から、たまたま学生時代の「風太郎」名義の投稿を発見し、その頁のコピーを山田に送ったこともある。
生前に戒名を「風々院風々風々居士」と自ら定めた[1]。上川霊園(八王子市)にある墓碑には「風ノ墓」とのみ刻まれている[1]。
1922年(大正11年)、兵庫県養父郡関宮村(現在の養父市)で「山田医院」を開業していた父母ともに代々医者の家系に生まれる[1]。
5歳のとき、父・太郎が脳卒中で急死[1]。9歳のとき、山陰の漁村・諸寄村に転居する[1]。11歳のとき、母親が亡父の弟で医師である叔父と再婚して山田医院を再開、故郷の関宮へ戻る[1]。
1935年(昭和10年)、兵庫県立豊岡中学校(旧制中学=5年制、現在の兵庫県立豊岡高等学校)に入学し、寮生活が始まる[1]。旧制中学時代の教師に奈良本辰也[5]、吉田靖彦 (国際政治学者)は中学の同級生で友人[6]。1936年(昭和11年)、母・寿子が肺炎により死亡し、「魂の酸欠状態」となる[1]。叔父は別の女性と再婚するが、養父母になじめず、「不良学生」となる[1]。3度停学となる[1]。
1940年(昭和15年)、旧制高等学校の合格はならず、2年間浪人。1942年(昭和17年)8月、家出状態で上京[1]。この年に受けた徴兵検査で肋膜炎のために入隊を免れる(当時、甲種と乙種合格の者のみが徴兵されていた)。沖電気の軍需工場(品川)で働きながら受験勉強を続け、1944年(昭和19年)に旧制東京医学専門学校(後の東京医科大学)に合格。入学後は読書を心の支えに虚無的な生活を送るも、1945年(昭和20年)5月に空襲で焼け出されて山形に避難し、沖電気時代の恩人である高須氏夫人の連れ子にあたる佐藤啓子(当時13歳)と出会う。後に学校ごと長野県の飯田に疎開。
敗戦前日には異常な精神状態となり、友人と徹夜で議論。「日本を救うためには不撓不屈の意思の力であと三年戦うしかない、無際限の殺戮にも耐え抜いたときのみにこそ日本人の誇りは守られる」と訴えた翌日の日記には「帝国ツイニ敵ニ屈ス。」とのみ記された。
1953年(昭和28年)に妻子を得、終生を伴とする。
日本の敗戦についてはその後、「最大の敗因は科学であり、さらに科学的教育の不手際であった」と日記に著している[7]。
山田風太郎の作品に共通する、「一歩引いた視点からの人間や歴史への視点」は、幼少時の両親との死別、そして多感な青春時代に起こった太平洋戦争により型作られた。特に徴兵検査で体格不適格で丙種合格となったことが「社会から疎外された者」としての意識を形成することになったと自ら語っている。
正式なデビュー以前、旧制中学時代に何度か雑誌に小説を投稿し、入賞している。叔父からの仕送りで医学生をしていた時代、生活のために『宝石』の短編懸賞に応募した『達磨峠の事件』が入選(1947年1月号に掲載)したことで作家デビュー。1950年(昭和25年)、28歳で東京医科大学を卒業した[1]ものの、医師になることは、自ら不適と決める。
戦後の荒廃した世相を背景とした推理小説を中心に、多数の短編を発表。
また、同期の作家である高木彬光との合作小説『悪霊の群』を執筆するなど活動を続け、山田、高木と、島田一男、香山滋、大坪砂男は「探偵小説界の戦後派五人男」と呼ばれた。また、1950年(昭和25年)、高木彬光、島田一男、香山滋らと新人探偵作家の会「鬼クラブ」を結成して、同人誌『鬼』を刊行した[8]。
長編『誰にも出来る殺人』、『棺の中の悦楽』等は、読み切り連載特有の制約を守りつつ、全体を意外な結末へ導く工夫を凝らしている。作者本人は、明治ものの一作である『明治断頭台』を自身のミステリ作品の最高傑作と述べている。
デビュー以来10年、日本ミステリ界の巨人であり、宝石の編集長を自ら務めた江戸川乱歩への恩もあってミステリ作品を中心に執筆した。ただ、時々雑誌のカテゴリーを無視して時代小説を寄稿している。「(ミステリは)自分には向いていなかった」と山田自身は語っているが、多数の傑作を残したことは事実であり、2000年(平成12年)には日本ミステリー文学大賞を受賞した。現代を舞台にしたミステリ作品は、1960年代半ばまで断続的に発表された。例外として『神曲崩壊』は1987年(昭和62年)の作品である。
鼻の位置にペニスがあるという突拍子もない設定の『陰茎人』をはじめとするユーモア・ナンセンス作品、学年誌に発表した少年向け作品や、歴史を扱った小説も多数発表。『山屋敷秘図』に代表される切支丹もののように日本を舞台にするだけでなく、原稿料のかわりに貰った中国四大奇書のひとつ『金瓶梅』をミステリとして再構成した『妖異金瓶梅』があり、忍法帖を執筆するきっかけともなった。なお、時代小説は晩年に至るまで執筆している。
『妖異金瓶梅』の後、同じく四大奇書である『水滸伝』を翻案しようと模索するが、108もの武術を考えるに至らず、かわりに忍法という奇想天外な術を用いて活躍する忍者たちの小説を構想する。
1958年(昭和33年)に発表した『甲賀忍法帖』を皮切りとする忍法帖もので流行作家となる。これは安土桃山時代から江戸時代を舞台として、想像の限りを尽くした忍法を駆使する忍者たちの死闘を描いた作品群である。1963年(昭和38年)から講談社より発売された『山田風太郎忍法全集』は全10巻の予定であったが、刊行途中で連載を終えた『柳生忍法帖』の上・中・下巻と短編集2冊を加えて全15巻となり、累計で300万部を売り上げるベストセラーとなった。
その後も掲載紙を問わずに多数の長編・短編が執筆された。その中には細部の設定を詰めずに連載を開始したものも多かった。特に柳生十兵衛三部作の第一作『柳生忍法帖』は当初は『尼寺五十万石』と題され十兵衛が登場する予定はなく、第二作『魔界転生』は、どんな忍法が登場しても大丈夫なように適当な題名『おぼろ忍法帖』をつけたものの、結局内容にそぐわなくなった。そのため『尼寺五十万石』は単行本化の際に、『おぼろ忍法帖』は角川文庫収録時に『忍法魔界転生』、後述する1981年の映画化の際に現行の題名に改題された。
同時期に白土三平が貸本劇画『忍者武芸帳 影丸伝』を発表しているが、従来の「忍術」を「忍法」に変えたことが共通する程度で、作風的には、あまり類似性はない。山田は生前、白土の漫画のことを読んだことがない[9]と語っており、それぞれ、同時代に時代精神として並行して発生したものだと考えられる。
なお、1961年(昭和36年)から連載された横山光輝の漫画作品『伊賀の影丸』は、風太郎忍法帖の影響大の作品である。
忍法帖シリーズの執筆は1960年代の終わりまで続くが、1970年代に入ると幕末を舞台とした時代小説を中心に手掛けるようになる。忍法帖の様式に当てはまる最後の作品は、明治初期を舞台とした『開化の忍者』(1974年(昭和49年))である。
幕末を舞台とした短編は1970年代を中心にいくつか書かれているが、長編としては天狗党の乱を描いた『魔群の通過』と、明治元年に薩摩兵が惨殺されたことに対する報復による元幕臣の悲劇を描く『修羅維新牢』、国定忠治の息子が侠客修行の旅を続けるうちに維新の騒乱に身を投じる『旅人国定龍次』などがある(『修羅維新牢』は幕末の動乱が収まっていない時期であるため明治もののカテゴリーからは外れる)。
いずれも、維新のいわゆるヒーローのような人物がほとんど関わらない出来事を取り上げているのが特徴である。『旅人国定龍次』については後半、維新の志士や新撰組、坂本龍馬などが登場し物語に大きく関わりはするが、維新の部外者である侠客の目を通して、一定の距離を置いた幕末の動乱が描かれている。
幕末の作品が橋渡しをする形で、1973年(昭和48年)に、明治時代を舞台とした『警視庁草紙』の連載がオール讀物で始まる。“明治もの”と呼ばれる作品群は、明治6年から8年を舞台とした『警視庁草紙』から、基本的に作を進めるごとに時代が下ってゆく。風太郎原作・福田善之の戯曲『幻燈辻馬車』1992年初演(主人公は元会津藩士。三遊亭円朝、大山巌・捨松、田山花袋、川上音二郎・貞奴、坪内逍遥が登場)は明治15年から17年、『地の果ての獄』(主人公は愛の典獄といわれた有馬四郎助。原胤昭、幸田露伴、細谷十太夫、横川省三、鈴木音高、井上伝蔵、岩村高俊、新島襄が登場)は明治19年から20年が舞台。『明治断頭台』は例外的に遡って、1869年(明治2年)から1871年(明治4年)の最初期を舞台にしている。
日本人に馴染みの深い、あるいは名前を知っている歴史上の人物や事件を交差させる手法が特徴である。史実と史実の間を独創的なエピソードによってつなぐこの手法は、人物や事件を可能性の中から模索して結びつけることに成功している。ほとんどの作品は破綻を見せずに完成させているが、意図的に史実を無視した部分も存在する。これは他の時代を扱った作品においても同様である。
1986年(昭和61年)発表の『明治十手架』を最後に、明治物の作品執筆は終了する。
1989年(平成元年)、足利義政を主人公とした『室町少年倶楽部』を皮切りに、資料面の不足などから当時敬遠されていた室町時代を舞台にした“室町もの”と呼ばれる作品群を発表した。この中には、以下のような作品がある。
『柳生十兵衛死す』は「小説を書くとその分命を縮める」と考えていた山田が書いた最後の小説でもあるが、実際は白内障や糖尿病、パーキンソン病を次々患ったことで執筆活動そのものが困難になっていたとされる。そのためか晩年には、アイデアはあると語っていたが、小説にすることはなかった。室町時代を舞台に蓮如を狂言回しとして、八犬伝の犬士たちが活躍する室町ものの構想もそのひとつであるが、もし執筆されれば室町ものと忍法帖とのあいだの年表上の空白を補い、「忍法八犬伝」、「八犬傳」とあわせて八犬伝三部作ともいえる作品になったはずであった。なお、室町・戦国・江戸・明治・戦後初期と、それぞれ舞台とした小説の空白期間である、大正期・戦前期についての作品を書いて、風太郎サーガとして「時代の流れをすべて続ける」構想もあった。
90年代は随筆や対談、インタビュー集が出版されたが、その中でもパーキンソン病にかかった自分自身を見つめたエッセイ『あと千回の晩飯』は出色の出来である。
2001年(平成13年)7月28日、肺炎のため東京都多摩市の病院で死去[10]。命日である7月28日は奇しくも師の江戸川乱歩の命日と同日である。
2003年(平成15年)には故郷兵庫県養父市の旧関宮小学校跡に山田風太郎記念館が開設された[1]。
上に挙げたようなカテゴリーに当てはめられる作品群以外
上記以外の著名な著作に、
1990年代に入ってから、忍法帖シリーズはリバイバルと言える状況が2つの要因により発生した。一つはオリジナルビデオ(Vシネマ)ブームの中で、『くノ一忍法帖』をタイトルに冠したシリーズが発表されたことである。これらはいわゆるエロ・グロ・ナンセンスが強調され、くノ一が全く存在しない作品であっても登場させ、お色気シーンを加えたりするものがほとんどである。他では映像化のない忍法帖作品(『秘戯書争奪』や『自来也忍法帖』)が原作として取り上げられた点は貴重であるが、Vシネマとしての忍法帖は『山田風太郎原作の作品』というよりは『くノ一忍法帖』というブランドとして扱われている。
もう一つの要因は北上次郎が指摘しているが、脚本家から小説家に転じ、時代伝奇小説の分野に一大センセーションを巻き起こした、隆慶一郎が1989年(平成元年)に小説家活動僅か5年で急逝したことである。隆の作品から時代小説に興味を持ったものの、その死により読む物がなくなった読者層が、同傾向の過去作品を探し求めた結果として、忍法帖シリーズに辿りついた者が少なからずいたという[11]。
山田が新作小説を発表しなくなってから、忍法帖シリーズに比べて正当に評価されていたとは言い難い作品群の再評価が始まった。
その先陣を切ったのは、『山田風太郎傑作大全』(廣済堂文庫、1996年〜)全24巻である。この中には入手困難だったミステリおよび時代小説の長・短編が数多く収められ、隠れた名作を手軽に読めるようになった。ただし、本の帯などでミステリ作品にあるまじき種明かしがされている(その後出版された光文社文庫版にはない)。現在でもこのシリーズでしか文庫化されていない作品が多く、1963年(昭和38年)の長編『太陽黒点』が広く知られるきっかけともなった。
山田が手をつけるまでは「明治時代は歴史・時代小説の鬼門」と言われた時代があったが、明治ものの成功以降、明治を舞台にした小説を書く作家が増えた。なお、明治ものの「実在の人物たちが、もしも、意外な場所で出あっていたら」という手法は、多くの作家に影響を与えた。関川夏央がやはり明治を舞台として、谷口ジローと合作した漫画『「坊っちゃん」の時代』シリーズはその典型だが、他にも類似の手法をとった作品は多い。
2001年(平成13年)に作者が死去した後も様々な形で企画が立ち、復刊、あるいは初単行本化が続いている。
他のカテゴリに当てはまらない時代小説について、『山田風太郎妖異小説コレクション』(徳間文庫、2003年)に纏める企画が立てられたが、最初の4巻目で終了。
時代小説のうち、史実と異なる設定や結末、作者考案による架空の人物、タイムスリップ・架空戦史を含む歴史SFなどを本項で別記する。探偵小説的趣向が濃いものも含まれる。
長編の忍法帖作品は、基本的には連載終了後に単行本化された。長編は約28作品(忍法帖に入るか議論の分かれる作品あり)あるとされる。山田自身は、長編が31作と言及している[注 3]。
1970年代後半より、角川文庫から佐伯俊男による官能的な表紙絵(文庫カバー)の山田風太郎作品(赤紫の背表紙で揃えている)が、忍法帖を中心に発売された[注 6]。さらに1981年『魔界転生』の映画化がきっかけで再び忍法帖は脚光を浴びる。現在ではほぼ絶版だが、『忍法剣士伝』と『おんな牢秘抄』は2008年現在も販売中。(角川文庫のラインナップにないのは、「魔天忍法帖」「忍法創世記」「武蔵野水滸伝」「柳生十兵衛死す」[注 7])
その後、2003年の『魔界転生』の再映画化に伴い寺田克也による表紙で『甲賀忍法帖』などが復刊した。なお、1990年代に講談社が忍法帖の大半の作品(17長編[注 9]・作者による自選短編集)をノベルスで出版。1998年から翌年にかけて、一部が天野喜孝の表紙で文庫化(全14巻)され、ノベルスは絶版となった。
忍法帖の短編集は、複数の出版社より刊行され、各巻に重複短編も多い。短編は83編以上(単行本未収録と、忍法帖に入るか議論の分かれる作品[注 18]があり、最多で88編を数える)あるとされる。
『山田風太郎忍法帖短篇全集』(ちくま文庫、2004 - 05年)が全12巻で発売され、忍法帖の全短編[注 19]の他、矢野徳の絵物語や、「忍者枯葉塔九郎」を水木しげるが漫画化した「大いなる幻術」などが付録に収められた。この完結と同時に、河出文庫で忍法帖の長編の出版計画が立てられたが、第一期の『信玄忍法帖』『外道忍法帖』『忍者月影抄』の3作品のみ刊行。
時代小説のうち、幻法や忍者・剣豪もので「忍法帖シリーズ」との関連が強い作品、作者自身が「忍法帖」扱いしている作品を本項で別記する(『尼寺五十万石』も本来はこの位置だが『柳生忍法帖』改題により、各社の全集・シリーズ企画では忍法帖扱いが普通)。
風太郎の明治作品は『山田風太郎明治小説全集』(全14巻、ちくま文庫、1997年)に、明治期を舞台にした忍法帖の短編『開化の忍者』以外を収録。
時代小説のうち、室町時代を扱った作品。
いくつかの作品は映画・テレビドラマ、舞台化され、根強い人気を証明している。