種村 季弘(たねむら すえひろ、1933年(昭和8年)3月21日 - 2004年(平成16年)8月29日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家、評論家、エッセイスト[1]。
1969年(昭和44年)の著書『ナンセンス詩人の肖像』では、ルイス・キャロル、エドワード・リア、モルゲンシュテルン、ハンス・アルプらの生涯と作品を紹介。ザッヘル=マゾッホなど多くのドイツ語圏の作家を翻訳、紹介した。澁澤龍彦や唐十郎らと共に1960年代 - 1970年代の、アングラ文化を代表する存在となる。
古今東西の異端的・暗黒的な文化や芸術に関する広汎な知識で知られ、クライストやホフマン、マゾッホなど独文学の翻訳の他、内外の幻想小説や美術、映画、演劇、舞踏に関する多彩な評論を展開し、錬金術や魔術、神秘学研究でも知られる。これに関連して、吸血鬼や怪物、人形、自動機械、詐欺師や奇人など、歴史上のいかがわしくも魅力的な事象を多数紹介。他方で幸田露伴、岡本綺堂、泉鏡花、谷崎潤一郎をはじめとする日本文学にも深く通じ、晩年は江戸文化や食文化、温泉文化などの薀蓄をユニークなエッセーに取り上げている。
稀代の博覧強記として知られ、教え子の諏訪哲史は種村を “二十世紀の日本の人文科学が世界に誇るべき「知の無限迷宮」の怪人” と評している(自身が編纂した『種村季弘傑作撰 Ⅰ』『同 Ⅱ』の解説にて)。
仏文学者で評論家の澁澤龍彦との交流でも知られ、澁澤とともに日本における幻想文学のジャンル的な確立に貢献した。
1933年(昭和8年)3月21日、東京市豊島区池袋に生まれる[2]。父親は株屋であった[2]。1944年(昭和19年)6月、長野県上山田温泉へ集団学童疎開[2]。1945年(昭和20年)3月、中学入学のため東京へ戻り、4月、府立第九中学校へ入学する[2]。1948年(昭和23年)4月、府立第九中学校が学制改革で都立第九高等学校へ改称(その後東京都立北園高等学校へ改称)[2]。
1951年(昭和26年)4月、東京大学教養学部文科二類(現在の文科三類)に入学[2]。同級に松山俊太郎、石堂淑朗、阿部良雄、吉田喜重、藤田敏八、井出孫六などがいた[2]。前者2名とは終生深い交流があった。1953年(昭和28年)4月、東京大学文学部美学美術史科に進学[2]。1954年(昭和29年)、東京大学文学部独文科に転科[2]。在学中は東京大学学生新聞編集部に所属し、丸元淑生と知り合うが、伊藤成彦編集長と対立して退部する[2]。1957年(昭和32年)に大学を卒業後、財団法人言語文化研究所附属東京日本語学校(現:学校法人長沼スクール東京日本語学校)に就職するが一年足らずで退職する[2]。
1958年(昭和33年)9月、光文社に入社[2]。『女性自身』編集部を経て書籍部で単行本の編集にあたり、田宮虎彦、結城昌治、梶山季之たちを担当する[2]。1960年(昭和35年)の夏に肝炎で入院、光文社を退社しフリーとなる[2]。1961年(昭和36年)、結婚し芝愛宕山に住むが、1965年頃まで豊島園、阿佐谷、茅ヶ崎、晴海、秩父などを転々とする[2]。1963年(昭和38年)4月、駒澤大学文学部非常勤講師となり、翌年2月、駒澤大学文学部専任教師となる[2]。1965年(昭和40年)、矢川澄子と共訳したグスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』を刊行[2]、三島由紀夫から絶賛推薦され出版した。1967年(昭和42年)、杉並区成宗に引っ越す[2]。
1968年(昭和43年)3月、駒澤大学を退職、同月神奈川県茅ヶ崎に引っ越す[2]。4月より東京都立大学文学部助教授となる[2]。同月に初の著書である評論集『怪物のユートピア』を刊行する[2]。10月より國學院大学の講師を兼任する[2]。1969年(昭和44年)11月、中央区晴海に引っ越す[2]。1970年(昭和45年)11月、秩父に家を持つ[2]。1971年2月、愛宕山に引っ越す[2]。
1971年(昭和46年)3月、都立大学と國學院大學を退職する[2]。1974年(昭和49年)、5月から6月にかけて初のヨーロッパ旅行[2]。1975年(昭和50年)9月から10月にかけて二回目のヨーロッパ旅行に出かける[2]。1976年、秩父の家を売却する[2]。
1977年(昭和52年)、6月から9月にかけて、取材のため旧西ドイツのヴォルプスヴェーデに滞在する[2]。1978年(昭和53年)、神奈川県大磯に引っ越す[2]。4月より國學院大學ドイツ語専任講師となり、1979年(昭和54年)に専任助教授を経て、1981年(昭和56年)4月より教授となる[2]。教え子に芥川賞作家となった諏訪哲史がいる。1980年(昭和55年)に神奈川県湯河原に土地を買い、1982年(昭和57年)3月に湯河原の新居に引っ越す[2]。
1983年(昭和58年)4月から1985年(昭和60年)3月まで、朝日新聞読書欄の書評委員となる[3]。1986年(昭和61年)1月から1987年(昭和62年)12月末まで、朝日新聞で月一回「文芸時評」を担当する[3]。1988年(昭和63年)、朝日新聞読書欄を担当する[3]。1991年(平成3年)7月、雑誌『太陽』の取材旅行でベルリンを訪問する[3]。1993年(平成5年)4月より1年間、国内留学する[3]。
1995年(平成7年)、『ビンゲンのヒルデガルトの世界』で芸術選奨文部大臣賞、斎藤緑雨賞を受賞する[3]。同年10月、金沢で脳梗塞で倒れ入院する[3]。1996年(平成8年)「温泉主義ストーンズ」で第2回小原庄助賞を受賞する[3]。1997年(平成9年)、トゥウォルシュカ『遍歴 約束の土地を求めて』で日本翻訳出版文化賞を受賞する[3]。1999年(平成11年)、著作集『種村季弘のネオ・ラビリントス』で27回泉鏡花文学賞を受賞する[3]。2000年(平成12年)3月、國學院大學ドイツ語教授を退職し、4月より國學院大學大学院講師となる[3]。2002年(平成14年)12月、國學院大學大学院講師を終える[3]。
2002年(平成14年)6月末、悪性リンパ腫が見つかる[3]。2003年(平成15年)1月、癌の手術をおこなう[3]。2004年(平成16年)8月29日、胃癌により静岡県三島市の病院で死去[4]。享年71。墓所は湯河原町のゆがわら吉浜霊園[4]。