ドイツ連邦共和国
Bundesrepublik Deutschland (ドイツ語 )
国歌 : Ich hab' mich ergeben (英語版 ) (ドイツ語) 我は汝に捧げり (1949年 - 1952年) Das Lied der Deutschen (ドイツ語) ドイツ人の歌 (1952年以降) ドイツ連邦共和国の領土(緑と黄緑)、1957
西ドイツ (にしドイツ、独 : Westdeutschland 、英 : West Germany )は、1949年 5月23日 から1990年 10月2日 までのドイツ連邦共和国 の通称である(略称:西独 )。
概要
冷戦 時代はドイツ民主共和国(東ドイツ) と対峙する分断国家 だったが、1990年10月3日 、ドイツ民主共和国を併合する東西ドイツ再統一 により、この通称は使われなくなった。東西ドイツ再統一まで首都 はボン に置かれたが、再統一後はベルリン に移った。ドイツ人 は、かつての西ドイツを「ボン共和国」(die Bonner Republik)と呼ぶこともある[ 1] 。ドイツ再統一は法的には「旧東ドイツの各州がドイツ連邦共和国 に加入」という形式で行なわれたため、厳密にいうと現在のドイツ は再統一により再編成された新しい国家ではなく、「領域 を旧東ドイツ地域にも拡大した西ドイツ」である。
占領地から独立へ
1945年 以降、ドイツの分割占領
1945年 5月8日 に第二次世界大戦 に敗北した国家社会主義ドイツ労働者党 政権下のドイツ国 (ナチス・ドイツ )は、ベルリン宣言 の発表によって完全に滅亡し、7月のポツダム会談 における決定で米 ソ 英 仏 の4カ国による分割統治と非武装化・非ナチ化 政策を受けることになった。しかし、イデオロギー 対立による冷戦 の開始と共に、英米仏の3カ国とソ連は対立を深めた。イギリス軍 占領地区とアメリカ軍 占領地区は占領円滑化のため、合同してバイゾーン (Bizone、後にフランス軍 占領地区とも連合しトライゾーン 、Trizoneとなる)を形成し、ソ連軍占領地区 との亀裂が深まった。
東西の亀裂が決定的となったのは、1948年 6月21日 、英米仏各占領地区で独自に発行されていた通貨 (ライヒスマルク やレンテンマルク )を統合してトライゾーンでの統一通貨(ドイツマルク )を発行し、戦後のハイパーインフレーション を収拾する通貨改革を発表したときだった。これはソ連側が6月24日 に発行を計画していた新通貨・東ドイツマルク に対抗する措置でもあった。排除されたソ連側は3日後、予定通り東ドイツマルクを発行し、これが東西分裂の象徴になった。ソ連はドイツマルクを使用する西ベルリン を経済封鎖し、西側 は大空輸作戦で1949年 5月12日 までの11か月間西ベルリンを支えた(ベルリン封鎖 )。
1948年初頭、米英仏とベネルクス諸国はロンドンで会議を開き、ソ連占領地区を除いたトライゾーンのみで制憲会議を開き憲法を制定すること、新憲法下の新国家は占領下で成立した各州が強力な権限を持つ連邦国家 となり中央集権制 は採用しないことなどを取り決めるロンドン勧告を採択した。1948年7月1日、フランクフルトに集められた各州首相に対して米英仏占領当局より憲法制定にかかわる「フランクフルト文書」が手交された。大筋では新憲法制定はこの方向で進んだものの、ドイツ各州と州民は占領当局によって示された方針には反発し、「基本法 」という名の暫定憲法を制定するための「議会評議会」(Parlamentarischer Rat)を開くことで占領軍と妥結した。
各州代表からなる議会評議会は1948年9月1日に発足し、占領当局と激しく対立しながら基本法の案を固め、最終的には占領当局も早急に西ドイツ国家を発足させるためにこの案を認めた。新国家の暫定首都については、議会評議会の多数派や米軍占領当局は候補都市の中でもフランクフルト を好んだが、議会評議会の議長コンラート・アデナウアー は大都市であるフランクフルトを首都とすれば恒久的首都として定着してしまい、東西統一とベルリンへの政府帰還の機運が失われるとして、断固としてボン を推薦し、結局これが通ることになった。
1949年 5月23日 、英米仏の西側統治諸州にボンを首府とする連邦共和国臨時政府 が発足(ホイス 大統領、コンラート・アデナウアー 首相)し、10月7日 にソ連統治諸州にドイツ民主共和国(ピーク 大統領)が成立して、東西に二つの共和国 が並び立つ事態となった。四カ国共同占領地だったベルリンも分断され、後の1961年 にはベルリンの壁 が建設された。
西ドイツは1955年 5月5日 に主権 の完全な回復を宣言し、ドイツ連邦軍 を編成して再軍備 を行い、北大西洋条約機構 (NATO)に加盟した。ただし大規模なソ連軍が駐留し続ける東ドイツを喉元に突きつけられたかたちの西ドイツは冷戦の最前線となったことから、西ドイツにも米英仏の軍がドイツ再統一の直後まで駐留し続けた。
1957年 1月1日 には、住民投票でドイツ復帰を選んだフランス保護領ザール をザールラント州 として併合した。
経済改革
空襲 で破壊されたケルン市街(1945年)
世界各国へ輸出されたフォルクスワーゲン・タイプ1 (ビートル)は西ドイツの経済の奇跡の象徴となった
西ドイツは欧州経済共同体 (EEC)や欧州石炭鉄鋼共同体 (ECSC)などへの加盟を通じ、かつて対立した近隣諸国との経済協力や政治協調を進め、欧州の一員かつ中核メンバーとして受け入れられるようになった。それは欧州復興の中心地であったからである。100億ドル単位のマーシャル・プラン [ 注釈 1] やガリオア資金 といった援助が朝鮮戦争 特需によって実を結び、1950年代末には早々とGNP世界2位に躍進、経済の奇跡 (ドイツ語 : Wirtschaftswunder )[ 注釈 2] と呼ばれた。西ドイツはヨーロッパ のみならず世界有数の経済大国 となった。
しかし、戦後の西ドイツの再出発には多数の障害があった。大戦による破壊もさることながら、モーゲンソー・プラン に基づきドイツを脱工業化するため、連合国 軍は1950年まで石炭産業・鉄鋼業を財閥解体 した。国内外にドイツ企業が持っていた高価値の特許 は、敵性資産として連合国に没収された[ 注釈 3] 。それだけでなく、ドイツ人の研究者がソ連やアメリカに連行された。
なかんずく1948年の通貨改革 は試練であった[ 注釈 4] 。6月にライヒスマルクが1/10のデノミネーション をともないドイツマルクへ置き換えられた。また、連邦準備制度 にならったマルチ・リザーブ・システムが同年3月設立のレンダー・バンク (英語版 、ドイツ語版 ) を頂点に整備された。そして、現金以外の金融資産の切り替えが行われた。一般の債権債務は通貨と同率の1割となった。公債はすべて破棄された。預貯金は1割にされてから、引き出しがその半額に制限 された。封鎖分は10月に2割が引き出せるようになり、1割が中長期投資勘定に振り返られた。残り7割は切り捨てられた。したがって、預貯金は1割ではなく6.5%しか保護されなかった。一方、賃金・物価は据え置かれた。このアンフェアな措置は、企業の現実資産に有利であった。インフレ対策としては功を奏し、企業がインフレ期待のもと保有していた金融資産が市場に出回るようになった。格差を是正する措置として1952年に負担調整法が制定された。しかし、これによる現実資産への課税は微々たるものであった。税収は様々な戦争被害に対する補償に使われた[ 2] 。
復興の積極要因は幾つかあるが、端緒は占領軍による緊縮政策の根負けである。1948年6月23日の法律は所得税 ・法人税 率等を平均して2/3に縮小した。翌日の立法では消費税 の統制が撤廃された。11月に賃金の統制が撤廃された。主要食糧が1950年前半までに、石炭・鉄鋼等も1952年頃までに自由化された。また工業に対する連合国の束縛の廃止もある程度の影響を与えた。結果として物価 が実勢値に跳ね上がった[ 2] 。
1950年に勃発した朝鮮戦争 は世界的に物資の需要を高め、1951年4月3日造船制限が撤廃された。このとき、西ドイツにはオーデル・ナイセ線 以東の旧ドイツ東部領土 や東ドイツからの避難民が溢れていたため、賃金の安い熟練労働者が西ドイツには比較的多かった。これを強みとして西ドイツは諸外国の輸入需要にこたえ、輸出 を急激に伸ばした。労働時間は長くなり仕事は次第にきつくなってきた。第1回連邦議会 は、カルテル を容認する一方、石炭鉄鋼産業における労使対等の共同決定を法制度として認めなかった。そしてこれをきっかけに全国的な社会闘争が起こった。結果として、石炭鉄鋼業についてはモンタン共同決定法 が成立した。これは、11人の監査役 に5名ずつの株主監査役員と労働者監査役員が石炭鉄鋼会社の経営に共同参画するものである。1952年には経営組織法が制定されて、労働者数が500以上2000以下の企業に適用された。監査役定員の1/3が労働者監査役員でなくてはならなくなった。そして彼らは労働者に直接選任された。
この朝鮮戦争は西ドイツの国際的地位を回復させた。1951年初頭ランツベルク刑務所 から大量の戦犯が釈放された。1952年9月10日、西ドイツ政府はイスラエルの全般補償請求を認め、15年間で34億5000万ドルを現物により支払うことを約束した(第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償#ルクセンブルク協定の成立 )。
1950年代 末から1960年代 にかけてはガストアルバイター (Gastarbeiter)として、トルコ や韓国 など諸外国から移民 が誘致された。彼らは西ドイツの人手不足や経済成長の加速を支えた。まず1955年イタリアと、1960年スペイン・ギリシャとガストアルバイターの募集協定を結んだが、まだこのときは労働者全体に占める外国人の割合は1%未満であった。ガストアルバイターは1961年にベルリンの壁 ができてから急増した。外国人労働者数は1960年の28万人が1966年に131万人となり、1974年にピークを迎えて233万人となった。上記3時点において、労働者全体に占める割合はそれぞれ1.3、5.8、11.2%であった。他方、1965年に株式法が多少変わった。これは1897年から続く複数議決権を例外措置とするものであり、自然独占 の観点からシーメンス をふくむエネルギー企業に認められた[ 3] 。
1970年代は波乱であった。1973年1月末にドイツ連邦銀行 にドルが売り浴びせられ、以降5週間に差し引き240億ドイツマルクが流出した。逆にドルは流入したので、戦前からドル基準の国内物価が上昇した。オイルショック により1975年上半期の失業者数は90万人にのぼり、11月に欧州諸共同体 以外からの労働者募集を中止した。1974年12月には17.3億ドイツマルクの公共事業を決定した。7.5%の投資補助金が交付されたり、投資減税が行われたりした。1975年1月に所得税法改正により年間160億ドイツマルク分の企業負担を軽減した。1976年、石炭鉄鋼業以外にも労働者2000人超である企業すべてに適用される共同決定法が成立した。この法律は労働者数に応じて株主監査役員と労働者監査役員の定員を決めた。労働者監査役員のうち2名から3名は労働組合 代表者でなくてはならないとした。産業界は束になって違憲訴訟を提起したが、連邦憲法裁判所 は合憲判決を下した。
1983年中ごろ依然として失業者数が230万人(9.3%)であり、ドイツ経済はスタグフレーション に陥っていた。そこでヘルムート・コール 首相は新自由主義 路線を打ち出した。しかし、決してフェアな政策ではなかった。西ドイツ史上最大の汚職フリック事件 が発覚し、オットー・グラーフ・ラムスドルフ 経済相が1984年1月27日をもって引責辞任した。
一方、原子力企業ヌーケム (英語版 、ドイツ語版 ) がパキスタン・スーダン・リビアの3カ国へ核燃料を密輸、1985年に原爆188個分、1986年で70個分の核物質が行方不明となっていた[ 4] 。1960年4月ヌーケムの主要株主は、52.5%を保有するデグサ と22.5%のリオ・ティント であった。1965年は、デグサが45%に保有率を下げ、RWE が25%を占めるようになり、そしてリオ・ティントも18%に保有率を下げた。1969年にシーメンスと合弁で[ 注釈 5] 原燃会社を設立。2006年、Advent International に、2013年、カメコ に買収された[ 5] 。
1988年後半まで失業者数は220万ほどであったが、ベルリンの壁崩壊 直前の1989年末に200万の大台を割った。
1989年1月には国際協定の調印により、上海 へ地下鉄を建設するためにドイツ復興金融公庫 が4億6千万マルクを供与することとなった[ 6] 。
1990年3月、欧州女性の富豪ランキングで、1位と2位はエリザベス2世 とベアトリクス女王 であったが、3位はヨハンナ・クヴァント であった[ 7] 。1991年前半には失業者数が160万人ほどへ落ち着き、国内への投資も増加した。
政治
ベルリンの壁 、中間の無人地帯に見えるのは東ドイツ側の国境警備隊員 。
西ドイツには、「東ドイツとの統一後に憲法を持つことにする」との意志から憲法 (Verfassung) がなく、基本法 (Grundgesetz)のみがあった(これは基本法146条に明記されていた)。
東西冷戦の最前線に立つ国だったことからアメリカへの政治的・軍事的依存が高く、多くの米軍基地が国内におかれていた。また東ドイツとの対立から、再軍備直後の1956年 以来、18歳から45歳までの男子国民に徴兵制 が敷かれていた。しかし第二次世界大戦への反省から、西ドイツ時代のドイツ連邦軍の役割は抑制されたものだった。環境保護運動 同様に反戦運動 も盛んであり、1983年 には、1979年 調印の第二次戦略兵器制限交渉 (SALT II)にもかかわらず西ドイツに核ミサイル が持ち込まれたことを受けてヨーロッパ全土へ波及する大規模な反核運動 が起こっている。
対東ドイツ政策
ヴィリー・ブラント とリチャード・ニクソン
対東ドイツ政策では、1970年代 以前はハルシュタイン原則 に基づき、西ドイツがドイツ地域で唯一民主 的に選出され、ドイツ人民を代表する正統性を持つ国家であると位置づけ、ソ連以外の国で東ドイツを承認 して国交 を持った国とは、国交を断絶する政策を採った。しかしこの原則は東ドイツが第三世界 の多くと国交を結ぶ中で実効性を失った。
1970年代初頭、東側諸国 との関係改善を図るヴィリー・ブラント 首相 の東方外交 により、東西ドイツは相互承認へと進んだ。さらにモスクワ条約(1970年、ソビエト・西ドイツ武力不行使条約 )、西ドイツ・ポーランド 間のワルシャワ条約 (1970年)、東西ベルリンの相互通行を促進する米ソ英仏の四カ国合意(1971年 )、西ベルリンと西ドイツ間の通行を保障する通過合意 (1972年 )、東西ドイツ基本条約 (1972年)と続いた諸条約は東西ドイツの関係正常化につながり、両国が同時に国際連合 へ加盟する道を開いた。
欧州の協調と対独抑止
第二次世界大戦直後、東西冷戦と並ぶ欧州の大きな問題は、ドイツが三度戦争を起こさないようにするにはどのように抑え込めばいいかというものだった。当初はアメリカなどの一部でドイツの徹底した脱工業化・非ナチ化が構想されていた(モーゲンソー・プラン も参照)。また連合軍占領下ではドイツは武装解除され、小規模な国境警備隊 や機雷掃海部隊以外の国軍を持つことは許されず、米ソ英仏の四カ国が治安に責任を持っていた。
こうした流れは冷戦の開始とともに変わることとなる。ソ連に対抗すべく西ドイツ経済の復興が求められると同時に、西ドイツの再軍備も検討されるようになった。主権回復後の1950年 、西ドイツは再軍備の基本構想策定を解除され新たな「ドイツ連邦軍 」の創設準備を始めた。
一方、周辺の西欧諸国はブリュッセル条約 を締結して対独抑止を図ったほか、ヨーロッパが西ドイツを制御できなくなることを防ぐため、欧州石炭鉄鋼共同体 (ECSC)によって軍需物資である石炭と鉄鋼の産出を西欧諸国で共同管理する仕組みが作られた。また西欧とアメリカは北大西洋条約機構 (NATO)を結成することでソ連・東欧への対抗とドイツ抑え込みを行うことになる。しかしフランスはドイツ連邦軍の創設と西ドイツのNATO加盟に反対し、西ドイツも含む西欧諸国が超国家的な汎ヨーロッパ軍を構成する「欧州防衛共同体 」(EDC)構想を打ち出した。この構想では西ドイツが作る部隊は西ドイツ政府ではなくEDCの指揮のもとに置かれ、西ドイツの防衛はEDCが責任を持つこととなっていた。この構想は1952年 に西ドイツを含む西欧各国間で調印されたが、主権を侵されることをよしとしないド・ゴール主義者 たちの反対により1954年 に当のフランス議会で否決され、批准 に至らなかった。結果、フランスも西ドイツの再軍備とNATO加盟を認め、ドイツ連邦軍は1955年 11月12日 に正式に誕生した。
国内政治
西ドイツの政治は、小政党が乱立し結果としてファシズム の台頭を招いたヴァイマル共和政 期の反省から、一定の得票率 (5%) を議席獲得の条件とする(「阻止条項 」)、議会制民主主義 を否定する政党の結党を禁止する(「戦う民主主義 」)などの措置を講じていたため、非常に安定した。議会ではキリスト教民主主義 の元に右派諸勢力が結集したキリスト教民主同盟 (CDU) と19世紀以来の左派政党ドイツ社会民主党 (SPD) の二大政党が左右に並んでいた。
建国後、西ドイツ再建と社会福祉の充実を指揮したアデナウアー 政権(1949年 - 1963年 )のあと、短いエアハルト 政権(1963年 - 1966年 )とキージンガー 政権(1966年 - 1969年 )が続いた。
1966年までの政権はキリスト教民主同盟 (CDU) とキリスト教社会同盟 (CSU) の二つの保守政党の連立であり、これに中道の自由民主党 (FDP) が加わっていた。1966年のキージンガー政権ではキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟とドイツ社会民主党の「大連立 」が成立したが、この時期に社会民主党は現実主義路線に移り政権運営が可能な能力を得た。
大連立下の議会では、論議の的となってきた非常事態宣言 法など憲法上の権利を制限する法律が成立した。この法律に対し学生運動 や労働組合 は反対の声を上げた。1967年 には学生デモに参加していた学生ベンノ・オーネゾルク の射殺により運動が過熱し、1968年には学生運動の指導者ルディ・ドゥチュケ に対する暗殺未遂事件が発生した。
1960年代 にはナチス時代に対する直面を促する学生らによる大規模行動も起こった。また経済成長とともに激しくなったドイツの環境破壊を背景に、ルディ・ドゥチュケら学生運動家、ペトラ・ケリー 、ハインリヒ・ベル 、ヨーゼフ・ボイス ら社会運動家は環境保護運動に結集し緑の党 が結成された。1979年 のブレーメン州 選挙で、緑の党はついに得票率5%を超えたため議席を確保している。こうした動きの中で環境保護主義 と反国家主義 が西ドイツの基本的な価値観となった。
同じ1960年代の学生運動のうち、過激化した運動家らが1968年以降ドイツ赤軍 (Rote Armee Fraktion, RAF) を結成し、1970年代 の間、西ドイツの政治家 や財界人 に対するテロ 攻撃を加え続けた。特に1977年 の「ドイツの秋 」と呼ばれる一連の事態(ドイツ経営者連盟会長のハンス=マルティン・シュライヤー に対する誘拐 殺人 、およびルフトハンザ航空181便ハイジャック事件 など)は西ドイツを震撼させた。
1969年 の選挙でヴィリー・ブラント が党首を務める社会民主党は大きな議席を確保し、自由民主党との連立で政権を獲得することに成功し政権交代が起きた。ブラント政権は1974年 まで続き東方外交など外交上の成果を上げたが、彼の秘書が東ドイツ国家保安省(シュタージ )のスパイ だったというスキャンダルからブラントは首相を辞任した。財務大臣ヘルムート・シュミット が以後1982年 まで、自由民主党の党首ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー の助けのもと政権をとった。石油ショック 後の景気維持のほか、欧州共同体 (EC)への支持、全欧安全保障協力会議 の創設など、欧州統合 と米欧間の協力強化に尽力した。
1982年 には社会民主党と自由民主党の連立が崩壊し、シュミット政権に建設的内閣不信任案を出したキリスト教民主同盟が自由民主党を引き入れて政権を奪取し、ヘルムート・コール が第6代首相となった。翌年の選挙でコール政権は支持を得たが、緑の党の躍進と連邦議会議席獲得によりキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟は絶対過半数の獲得には失敗した。1989年のベルリンの壁崩壊に伴い東西ドイツ統一の好機が訪れると、コール政権は統一ドイツもEU統合や米欧同盟維持を支持するとして各国の了解をとり、一気に東ドイツを吸収し、東ドイツに数か月前に成立したばかりの五つの州 をドイツ連邦共和国の一部とした。
地域分散
戦前に欧州有数の大都市だったベルリンが実質的に飛び地 となった西ドイツでは、政治の中心は暫定首都のボンに置かれたものの、多くの権限を各州が持ち、中央銀行・証券取引所 など経済政策の中心がフランクフルト・アム・マイン に置かれ、連邦憲法裁判所 と連邦最高裁判所といった司法の中心がカールスルーエ に置かれるなど政治・経済面での地域分散化が進んだ。この点では、東ベルリン への一極集中を進め地方都市の弱体化が進んだ東ドイツとは対照的だった。ベルリンは名目上は西ドイツの首都でありながらドイツの中心としての地位を喪失したものの、西ベルリン は三カ国占領下で徴兵制もない政治的にあいまいな状態のため、西ドイツや世界各地からの若者が流入し、コスモポリタン 的な文化が栄えた。
ドイツ再統一(東ドイツ併合)
ベルリンの壁 (1989年 11月16日 )
1989年 のベルリンの壁崩壊 以後、東西ドイツは通貨 ・関税同盟 を1990年7月に結び、1990年10月3日の東ドイツが西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に組み入れられる(西ドイツ憲法旧23条の規定による旧東ドイツの5州の連邦共和国への「加盟」)ことにより東西分断はようやく終焉を迎えた。
東西ドイツ統一によりドイツが全土での主権を回復すること(法的継承性は無いものの事実上の旧「ドイツ国 」の復活)に対する警戒心も周辺諸国にはあったが、東西ドイツ政府と米英仏ソ連合国との「ドイツ最終規定条約 」(別名「2プラス4条約」、第二次世界大戦後結ばれることのなかった講和条約の代替となる事実上の平和条約 )により、再統一後のドイツの地位と国境 が確定し、ここにドイツの主権が完全に回復した。1990年10月3日の再統一の後、1991年 3月15日 、英仏ソ三カ国の軍はドイツから撤退した。
脚注
注釈
^ 1953年 から1971年 まで、西ドイツは毎年マーシャル・プランの貸付資金の返済を行わねばならなかった。この債務は戦争の補償 に上積みされた。
^ 1950年にイギリスのタイムズ 紙がドイツ復興をこう表現した。
^ 国外に保有する資産に関しては日本も同様の境遇にあった。
^ ここから西ドイツ成立後の市場経済主義 経済政策に至るまで、ルートヴィヒ・エアハルト が経済大臣・首相を歴任した。
^ 出資割合は、シーメンス6に対しヌーケム4。
出典
^ Bildung, Bundeszentrale für politische. “Themen | bpb ” (ドイツ語). bpb.de . 2021年10月24日 閲覧。
^ a b 東京大学社会科学研究所 『国際環境』 東京大学出版会 1974年 pp.128-129.
^ 清水忠之、「複数議決権等と株主平等の原則 」『明治学院大学法律科学研究所年報』2015年 31巻 p.39-45, hdl :10723/2512 , 明治学院大学法律科学研究所
^ シュテルン 1988年1月21日号
^ ヌーケム NUKEM History or the Roots of NUKEM Alzenau, August 2013
^ IDSA News Review on East Asia , vol. 3, Institute for Defence Studies and Analyses, 1989, p. 143.
^ Harpers & Queen , March, 1990
関連項目
外部リンク
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