この項目では、ヨーロッパ東部にある国家について説明しています。その他の用法については「ポーランド (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
ポーランド共和国
Rzeczpospolita Polska
国の標語:なし1
国歌 :Mazurek Dąbrowskiego (ポーランド語) ドンブロフスキのマズルカ
注1:ポーランドには公式な標語は存在しないが、過去、国家のシンボルに、Bóg, Honor, Ojczyzna (神、名誉、祖国)などの標語が書かれたことがあった。
ポーランド共和国 (ポーランドきょうわこく、波 : Rzeczpospolita Polska [ʐɛt͡ʂpɔˈspɔlita ˈpɔlska] ジェチュポスポリタ・ポルスカ )、通称ポーランド (波 : Polska 、ポルスカ)は、中央ヨーロッパ に位置する共和制 国家 。欧州連合 (EU)、北大西洋条約機構 (NATO)の加盟国。首都はワルシャワ 。
北はバルト海 に面し、北東はロシア の飛地 カリーニングラード州 とリトアニア 、東はベラルーシ とウクライナ 、南はチェコ とスロバキア 、西はドイツ と国境を接する。
概要
同国は該当地域が「分割と統合 」を幾度も繰り返す形で歴史を紡いで来た。10世紀 に国家として認知され、16世紀 から17世紀 にかけポーランド・リトアニア共和国 を形成、ヨーロッパで有数の大国となった。18世紀 、3度にわたって他国に分割された末に消滅(ポーランド分割 )、123年間にわたり他国の支配下ないし影響下に置かれ続けた[ 3] 。
第一次世界大戦 後、1918年に独立を回復 した。しかし第二次世界大戦 時、ナチス・ドイツ とソビエト連邦 からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された(ポーランド侵攻 )。
戦後1952年、ポーランド人民共和国 として国家主権 を復活させた。ただし、ポーランド統一労働者党 (共産党 )による一党独裁体制であり、ソ連に従属する衛星国 であり、ワルシャワ条約機構 の加盟国でもあった。
1989年に行われた自由選挙の結果、非共産党政権が成立[ 3] 。現在のポーランド共和国 となった。また、アメリカ合衆国 主導の北大西洋条約機構 にも加盟し、事実上の西側諸国 の一員である。
冷戦 時代は「東欧 」に分類され、現在も国連は同様の分類である。国内および東側諸国の民主化(東欧革命 )とソ連の崩壊を経て、米CIAなど一部の機関は「中欧 」または「中東欧 」として分類している。
国名
ポーランド
正式名称はポーランド語で Rzeczpospolita Polska ( ジェチュポスポリタ・ポルスカ ) 発音 [ʐɛt͡ʂpɔˈspɔʎit̪a ˈpɔlska] ( 音声ファイル ) 。通称 Polska 。英語表記はPoland、国民はPolish、形容詞はPolish。日本語の正式表記はポーランド共和国 、通称はポーランド 。また、漢字表記 は波蘭 で、波 と略記される。
ポーランドの国名の「ポルスカ」[ 注釈 1] は野原を意味する「ポーレ」[ 注釈 2] が語源と言われている。最初にポーランドを建国した部族 は「レフ族」「レック族」[ 注釈 3] (Lechici )といい、また同時に「ポラン族 」[ 注釈 4] とも称した。「レフ」「レック」[ 注釈 5] は古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、レックはポーレと同じく「野原」を原義とするともいわれる。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。すなわち、ポルスカはこの「ポラン族の国」 というのが元来の意味となる。
「共和国 」に相当する「ジェチュポスポリタ 」は、「公共のもの」を意味するラテン語 の「レス・プブリカ」[ 注釈 6] の翻訳借用 である。レスには「物」や「財産」という意味があり、ポーランド語 ではジェチュがこれに当たる。プブリカは「公共の」という意味で、ポーランド語ではポスポリタに当たる。
歴史
ポーランド王国成立以前
プシェヴォルスク文化(黄緑)とザルビンツィ文化(赤)
ポーランドは西(ドイツ)と東南(ウクライナ)の2つの方向が平原となっている地形のため先史時代 から陸上での人の往来が多く、東西の文化が出会い融合する文化的刺激の多い土地だったようである。たとえば、7500年前の「世界最古のチーズ 」製造の痕跡がポーランドで発見されている[ 4] [ 5] ことや、インド・ヨーロッパ語族 の言語やその話し手のヨーロッパにおける発展の非常に重要な段階とみられる球状アンフォラ文化 やそれを継承した縄目文土器文化 、ルサチア文化 (ラウジッツ文化とも)の中心地がポーランドである事実などが挙げられる。
ポーランド人の基幹部族となったレフ族・ポラン族については、古代ローマ 時代の歴史家タキトゥス の本『ゲルマニア 』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「ルギイ族 (英語版 ) 」[ 注釈 7] との関連が指摘されている。彼らは「プシェヴォルスク文化 」と呼ばれる、周辺のゲルマン 諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、ルギイ族はヴァンダル族 の別名か、あるいはヴァンダル族は複合部族でルギイ族はそのひとつではないかとされている。プシェヴォルスク文化は、当時ゴート族 のものと推定されるヴィスワ川 東岸付近一帯のヴィェルバルク文化 を挟んではるか東方にあった原スラヴ人 の「ザルビンツィ文化 」と似通っていることが考古学 調査で判明しているため、原スラヴ系の文化のひとつといえる(詳しくは、プシェヴォルスク文化 、ザルビンツィ文化 、ヴィェルバルク文化 の記事を参照)。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、元はひとつであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入り込み間に割って入って川を遡上しながら南下していったため、この文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。インド・ヨーロッパ語族のイラン系民族 のサルマタイ人 やスキタイ 人が定住していた。バルト人 、トルコ人 もこの地域に住んでいた。
レフ族(ポラン族)の長ピャスト
4世紀 、プシェヴォルスク文化の担い手は、西のオドラ川 (オーデル川)と東のヴィスワ川 が大きく屈曲して作った平野の、当時は深い森や入り組んだ湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由からフン族 の侵入を免れ、ゲルマン民族の大移動 の後に東方からやってきて中欧 に定住した「プラハ・コルチャク文化(Prague-Korchak culture )」を持つほかのスラヴ 諸部族と混交して拡大していったものが、中世にレフ族(Lechici)あるいはポラン族(Polanie)としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイはレフ、レックのラテン語における転訛となる。なお、ほかのスラヴ語 、たとえばロシア語 では今でも「ルーク」[ 注釈 8] と「ポーレ」[ 注釈 9] はどちらも「野原」を原義とする言葉である。ロシア人 を含む東スラヴ人 はもともとポーランド人をリャキ(Lyakhi)と呼んでいた(現在はパリャキ、Palyakhiと呼ぶ)。リトアニア人 はポーランド人をレンカイ(Lenkai)、ハンガリー人 はポーランド人をレンジェレク(Lengyelek)と呼ぶ。
6世紀 までにはこの地に現在のスラヴ民族 が定住し、一種の環濠集落 を多数建設した。遅くとも8世紀 までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が異教 (非キリスト教)の諸国家を築いていた。
8世紀 、それまでレフ族・ポラン族とゴプラン族(Goplanie)を治めていた、のちに「ポピェリド朝(Popielidzi)」と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド(Popielid)が没し、「車大工のピャスト(Piast Kołodziej)」と呼ばれた、おそらく荷車 や馬車 などを製造する原初的マニュファクチュア を経営していた人物(一説にはポピェリドの宮宰 だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「ピャスト朝 (Piastowie)」を創始した。
王国の黎明期
濃いピンクは992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国領、赤太線は1025年に確定したポーランド王国の国境線。 王国の国境線の外側にある濃いピンク、濃い黄色、青の地域はボレスワフ1世が治めていた王国外の属領
建国の父ミェシュコ1世
初代国王ボレスワフ1世のキエフ入城
グニェズノ 大聖堂の扉
10世紀、レフ族・レヒト人・レヒ人
966年、ピャスト朝 レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長ミェシュコ が近隣のヴィスワ諸部族(Wiślanie)、ポモージェ諸部族(Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族(Mazowszanie)などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗してミェシュコ1世 公となり、国家はポーランド公国 として西欧 キリスト教世界に認知された。
992年にミェシュコ1世の息子ボレスワフ1世 が後を継ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼はオットー3世 やハインリヒ2世 の神聖ローマ帝国 、クヌーズ2世 のデンマーク と積極的に外交した。1000年、オットー3世はポーランド公国の首都ポズナニ 近郊のグニェズノ へ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに大司教座 を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも神聖ローマ皇帝 の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南のボヘミア へ軍を進めて1004年に自らボヘミア公となり、1018年に東へ軍を進めてキエフ・ルーシ を攻略した同年、今度は西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和(en )によりマイセン (ポーランド語でミシニャ)とラウジッツ (ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果中欧 に広大な新領土を確保した。その間、1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ2世のイングランド 遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、北海帝国 の建設を援助した。1020年にはクラクフ のヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。
1025年、ボレスワフ1世の死の直前に、ローマ教皇 ヨハネス19世 によってポーランド公国は王国として認知されてポーランド王国 となり、国境を確定した。王国領は西ポモージェ地方 を除く現在のポーランド、チェコ のモラヴィア 地方、スロヴァキア のほぼ全域、オーストリア の一部、ハンガリー の一部、ドイツのラウジッツ 地方、ウクライナ の「赤ルーシ 」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めてすべてを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、ベラルーシ (白ルーシ)のブレスト 地方、ドイツのラウジッツ 地方とマイセン 地方となる。
ポーランドが王国と認知されてまもなくボレスワフ1世が没したため、最初の戴冠式 を受けたのは息子のミェシュコ2世 である。しかし、王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。
1038年、時のポーランド公カジミェシュ1世 は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフ へと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は、混乱を収拾して王国を再びまとめ上げた。また、公はヴァヴェル大聖堂 を大改築し、クラクフとヴロツワフ に司教座 を置いた。その長男で1058年に公位を継いだボレスワフ2世 は神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間で起きていた叙任権闘争 をうまく利用し、1076年にポーランド王位に就いた。
長い分裂時代
ボレスワフ3世が4人の息子と后に分割相続させたポーランド: クラクフ大公領
シロンスク公領
マゾフシェ公領
ヴィエルコポルスカ公領
サンドミェシュ公領
后の相続領
ポモージェにおけるポーランド王国の直轄領
1138年、ボレスワフ3世 は王国の領土を7つに分割し、そのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させた。そのうちの長男ヴワディスワフ2世 にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。1079年に大公位についたヴワディスワフ2世は国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦 に分裂していった。
1146年、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世 )からの援助を得る見返りに、当時の神聖ローマ皇帝ロタール3世 に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「シロンスク・ピャスト朝 」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地のピャスト家 が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにしたうえ、シロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から破門 され、神聖ローマ帝国へ亡命してのちにフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた(庶子 の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。以後もクラクフ大公の位は継続したが、その権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま、各地の領邦にどんどん分裂していった。
1226年、ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公) は隣国の異教徒プルーセン人 に対する征討と教化に手を焼いて[ 6] 、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。1228年、皇帝フリードリヒ2世のリミニの金印勅書により騎士団のプロイセン 領有が認められ、1230年、クルシュヴィッツ条約に基づいてコンラート1世は騎士団にクルムラントおよびプロイセンのすべての権利を認め、騎士団はプロイセンの領有権を得た。教皇の名の下、騎士団はプロイセンを東方殖民 として統治し、近代化、開拓、商業的発展、布教、教育などに従事した。
モンゴル帝国の侵攻、ドイツ騎士団(東方殖民)、ユダヤ人移民
レグニツァ/ワールシュタットの戦いに臨むヘンリク2世
1241年にはモンゴルのバトゥ の軍の一部がポーランド南部に来襲 し、サンドミェシュ やクラクフ など南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。モンゴルのヨーロッパ侵攻 (英語版 ) は全ヨーロッパを震撼させた。グレゴリウス9世教皇 は、全キリスト教徒に対し、ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという詔書を発している[ 7] 。教皇にプロイセン のドイツ騎士団は、ポーランド諸王侯と共同防衛をするよう命じられる。主力のドイツ騎士団は前衛と後詰めに配し抗戦した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていたヘンリク2世 はドイツ騎士団とポーランド連合軍に参加、レグニツァ でモンゴル軍を迎え撃った(レグニツァの戦い )。装備・物量で劣っていた連合軍は果敢に戦ったが敗北し、ヘンリク2世は戦死した。モンゴル軍が連合軍を破ったことは、東欧史上の大事件であった。
まもなくモンゴル軍はアジア へ引き返した[要校閲 ] が、クラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後、モンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手がまったく足りなかった。国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。ドイツ騎士団主導により近代化として都市建設とドイツ法のマクデブルク法 、習慣、制度、文字を導入した(ポーランドのマクテブルク法を用いた法はドイツ法式とは異なり、古代ローマの法を使用し、その土地にドイツ定住者がいない場合はドイツ語記載の法を理解できなかった[ 8] 、ほかの事実としてユダヤ人などもポーランドでマクデブルク法により商業的に有利な優先的条件と権利を保護されていたためにユダヤ人にとって魅力があったため移民した[ 9] )。彼らは都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を務めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された硬貨 の発行などに携わった[ 10] )。この地域における本格的なドイツの東方殖民(植民と近代化と発展)の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなくドイツの都市法 であるマクデブルク法 が使用された。当時の領主たちが西方からの植民者に与えた(商業的)優先条例と権利であった。
ドイツ騎士団の支配とともにドイツ都市法の適用も盛んに行われるようになり、都市法その他の特許状は、ポーランドの伝統的な慣習法よりもとても進んでいた。新居住地にはドイツ都市法を基盤とした新しい特許状が与えられた。また、多くのポーランド人の集落もドイツ法の適用を受けるようになった。西からの移民到来のおかげでポーランドは農業生産を回復し、都市や学校も建設され、肥沃な土壌ともともと恵まれていた地理的条件の下で経済的繁栄を回復しつつあった。彼らはドイツ法に基づいて自治を行い、首長と選ばれた判事が司法を掌った。自治都市の公文書は時にラテン文字のドイツ語で記録され、ポーランドにおける法的語彙はドイツ語の影響で発達した。ドイツ人は宗教学校を建設し騎士団はそこの教授となり、ポーランド人達は聖職者になるために進学でき、古典ラテン書物を学べる機会を得、のちにそれがポーランド文学の発展に役立った。ユダヤ人は都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスノウハウや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を務めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された硬貨 の発行などに携わった[ 10] 。
ヘンリク4世(在位1289年 - 1290年)は、ドイツ系住民の支持を受けクラクフ公になった。東方植民でドイツ人の影響力が強まっていった。クラクフでは住民税と所得税の完全免除を求めるポーランド人住民たちによる暴動が起こることもあった。こういったドイツ人との分離主義的な運動に強く対抗する運動も起き、次の14世紀にはドイツ系と非ドイツ系の2勢力の反目が、ポーランド史の基軸となった。この当時のポーランド人による文書には、「連中(ドイツから来た人々のこと)はグダンスクを(訛って)ダンチヒと呼んでいる」などと書いてある。ドイツ人商工業者たちが統治を行うドイツ人王侯貴族(ドイツ騎士団など)による支配よりも、もともとのポーランドの王侯貴族による支配を選択したからである。のちにポーランドのバルト海側におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀 から20世紀 にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。
黄金時代
名君カジミェシュ3世 「大王」
グルンヴァルトの戦い ポーランド軍の農民兵がドイツ騎士団総長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン (中央左の馬上の白黒の衣装の人物)を討つ瞬間
ルブリン合同 ポーランド=リトアニア共和国の誕生
ポーランド王国の最大版図
アルベルト・ブルゼフスキ 教授
14世紀 にはヨーロッパ大陸での反ユダヤ主義から、ポーランド国内法の宗教的・民族的寛容さから多数移住してきた。14世紀当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世 「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1339年、ドイツ騎士団に対し、かつてポーランドの領土であったことを理由に一部の土地の返還を求め抗戦した。ルーシ族 (ヴァリャーグ )のハールィチ・ヴォルィーニ大公国 (西部ウクライナ )を占領し領土を広めていった。また、のちに反王権的性格を表す重要な意味合いを持つ「ポーランド王国の王冠」という言葉もこのころに土地の主権を主張する時の言葉として出始めた。1355年にはマゾフシェ公ジェモヴィトが大王に対し臣従した。1364年、大王はクラクフ大学 (ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。
ヤギェウォ朝
王朝が変わり、ルートヴィクの時代に入ると王の権威は衰えた。ルートヴィク死去後の二年間の空位や立場の弱い女王がこれを更に加速させる。1385年、ポーランド女王ヤドヴィガ とリトアニア大公ヨガイラ (ポーランド語名ヤギェウォ)が聖職者とバロン、シュラフタなどの意志のもと結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国 は人的同君連合 をした。ポーランド=リトアニア連合 を形成した(クレヴォの合同 )。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ポーランド、リトアニア、ボヘミア王国 およびハンガリー王国 の王朝であるヤギェウォ朝 がポーランドを統治することになった。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦い でドイツ騎士団 を討った。
1414年、コンスタンツ公会議 ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われ、会議では当時異教徒 の国であったリトアニア とキリスト教徒の国であるポーランド王国 が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅 されるべきである」と主張した。ポーランド全権 でクラクフ大学 校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツ (ラテン語 名:パウルス・ウラディミリ)は「リトアニア人のような異教徒 であっても我々キリスト教徒とまったく同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権 )、平和に暮らす権利(生存権 )、自らの財産に対する権利(財産権 )を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権 )はまったく正当である」と述べた。教皇マルティヌス5世 は異教徒の人権についての決定はしなかった。
1430年にリトアニア大公のヴィータウタス (ポーランド語名:ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、すべてのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。ただし宗教や宗派については、ある場所ではローマ・カトリック 、ある場所ではプロテスタント 、ある場所では正教会 、ある場所(リプカ・タタール人 の共同体 )ではイスラム教 、といった具合にそれぞれの地方共同体の伝統的な宗教や宗派を守っていることが多かったとされる。
巨大化した第1共和国 ポーランド王国(濃いピンク)/リトアニア(薄紫)/プロシア公領(肌色)/リヴォニア(グレー)/クールラント(薄いグレー)/エストニア(黄緑)
1440年、ドイツ騎士団領内の諸都市で、ポーランド王とプロイセン連合 を結成し、ポーランド王国とプロイセン連合はドイツ騎士団との間で再び戦争となった。1466年、第二次トルンの和約 によりドイツ騎士団領 は敗戦した。プロイセンはポーランド王国の封土となり、ポーランド=リトアニア連合を宗主国 とする属国 となり、多くの政治的権限がポーランドに移された。ポーランドはこの第二次トルンの和約に基づき、ポーランド国会(セイム )への代議員を送ってポーランドを構成するすべての地域を扱う政治(いわゆる国政)に直接参加するようドイツ騎士団に命じたが、騎士団は拒否した。ヴァルミア 司教の叙任をめぐって、これをポーランドのグニェズノ の大司教が裁可するが、ドイツ騎士団は独自の候補を擁立して異議を申し立て騎士団側の候補者をヴァルミア司教とし、今後グニェズノ大司教が主権を握ることで和解した。
名君ジグムント2世 アウグスト 国王ヘンリク・ヴァレジの 逐電(ワルシャワ国立博物館蔵 )
名君ステファン・バートリ
1543年、トルン 出身でクラクフ大学 卒業生のミコワイ・コペルニク(ラテン語 名:ニコラウス・コペルニクス )は著書『天球の回転について (De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説 を提唱した。彼は父親がクラクフ公国出身のポーランド人で銅の取引業を営み、母親はドイツ人であった。母の実家のあるトルンで生まれ、父母を早く亡くしたあとは母方の叔父でヴァルミア 司教のルーカス・ヴァッツェンローデ(前の段落参照)に育てられた。なお、クラクフ大学 におけるコペルニクスの恩師である人気教授アルベルト・ブルゼフスキ は月の軌道 計算で世界的に名を挙げ、月が楕円軌道 を描いていること、そして常に同じ面を地球 に向けていることを指摘している。
1569年、国王ジグムント2世アウグスト の幅広い尽力により、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同 )してポーランド王を統一君主とする物的同君連合 で制限つきながらも議会制民主主義 を採る「ポーランド=リトアニア共和国 」(第1共和国)となり、欧州の広大な国のひとつとして君臨した。
名宰相ヤン・ザモイスキ
ジグムント2世アウグストの死後、ポーランド=リトアニア連合王国はすべてのシュラフタ (ポーランド貴族)が参加する選挙(国王自由選挙 )によって国王を決定する「選挙王政」をとる貴族共和国 になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えており、そのすべてに平等に選挙権 が付与されていた。アメリカ合衆国 が18世紀末に独立してからしばらくの間、選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国ではのちのアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。
1573年、すべてのシュラフタ が1人1票を持つというかなり民主的な原則で行われることになったポーランドの国王自由選挙 で選ばれた最初のポーランド国王はフランス王 アンリ2世 とイタリア人 の王妃カトリーヌ・ド・メディシス の息子であるフランス人 ヘンリク・ヴァレジ(アンリ、のちのフランス王アンリ3世 )であった。しかし国王戴冠の条件として署名を余儀なくされた「ヘンリク条項 」によりポーランドで事実上の立憲君主制 (シュラフタ 層の大幅な権力拡大および王権の大幅な制限)が成立したため、バイセクシュアル であった自身の性指向 がポーランドでは以前からずっと白い目で見られていたことや、ジグムント2世アウグストの妹ですでに年老いていたアンナ を女王でなく国王とした政略結婚が求められたこともあり、ポーランドでの生活を窮屈と感じ嫌気が差したヘンリクは1574年6月18日、突然フランスへと逐電してしまう。
ポーランド・リトアニア共和国
ヤン・ザモイスキ は1578年に大法官(内閣総理大臣 )に就任し、1580年にはクラクフ城代 を兼任、そして1581年にはポーランド・リトアニア共和国全軍の事実上の最高司令官(名目上の最高司令官はポーランド国王兼リトアニア大公)である王冠領大ヘトマン (大元帥)を兼任し、現在の立憲君主制 の国家の首相 に相当する強大な行政権 を持ち、その優れた政治的見識と実務的能力で1605年6月3日に死去するまでポーランドを率いた。彼の穏健な自由主義 (穏健主義)の政治はより多くの人の教育と政治参加を目指したもので、国政の場で多くの支持を集め、特にインテリ層や中小規模のシュラフタ たちからは圧倒的な支持を得ていた。彼の同調者は「ザモイスキたち(ザモイチュチ)」と呼ばれ、緩やかな政治グループを形成しており、彼を先生・師匠と思い慕っていた。また、ザモイスキは自分の領地においては農奴制 を禁止し、すべての住民に基礎教育を施し、それぞれの住民の立場に応じて何らかの形で地方政治に参加させた非常に開明的な領主でもあった。人間の解放を唱えるルネサンス 思想にも同調し、イタリア から建築家を呼び寄せて当時の世界の最新デザインの都市「ザモシチ 」を建設し、周辺の地方の経済や開明的文化の中心地としてこの都市を発展させた。ジグムント2世アウグスト王やステファン・バートリ王を支えたこの宰相ヤン・ザモイスキこそ、この時代のポーランドの政治・経済・軍事のすべての成功を実現した稀代の大政治家であると考えられている。「黄金の自由 」に関するヤン・ザモイスキの開明的思想や政治態度は、その後もザモイスキ家をはじめとした多くの人々に受け継がれ、彼の時代から2世紀の後にポーランドが存亡の危機に面した際ヨーロッパ初の民主主義成文憲法(5月3日憲法 )を制定した基礎となっていった。
対外戦争の時代
ポーランド=リトアニア=スウェーデン同君連合
ジグムント3世 ワルシャワ王宮前の王柱頂上の立像
1619年のポーランド=リトアニア共和国の版図(赤い太線内の5色の地方)と現在の国々の国境線
ウイーン防衛を果たしローマ教皇に使者を送り出すヤン3世
ドイツ騎士団と苦戦が続き、トルコ人のオスマン帝国 とクリミア・タタール人 のクリミア・ハン国 と領土をめぐり何世紀にもわたり抗戦となり、そしてモスクワ大公国 と何度も対戦するリトアニアを援護した。当時ヨーロッパにおいて大きな国家のひとつであったリトアニア大公国は、自国を防衛する必要に迫られた。この時期の戦争と外交政策は大規模な領土拡張を生むことはなかったが、国家を深刻な戦乱に巻き込まなかった。国は封建制 となり農業国として発展した。1533年にオスマン帝国との「恒久平和 」で侵略の脅威を免れることができた。この時期にシュラフタ が発展した[ 11] 。1592年、ポーランド=リトアニア共和国はスウェーデン王国 と同君連合 となった。時の国王ジグムント3世 (スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家のポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。彼は、軍隊のような高い規律意識を持つ組織行動によって全世界における対抗宗教改革 の尖峰となっていたイエズス会 によって教育され、歴代の王のうちでもっとも熱狂的なローマ・カトリック の闘士となった。戴冠した当初は当時の首都 であったクラクフ に居を構えていたが、1596年には将来のスカンジナヴィア諸国 、バルト海沿岸地域 、ルーシ諸国 といったヨーロッパ北方全域のカトリック化を念頭に置いた最前線基地としてワルシャワ に遷都 した。以後、現在までワルシャワがポーランドの首都となる。彼は常にイエズス会の代表者的な立場にあった。彼が同時に王位に就いていたスウェーデンでは、彼の留守中に叔父で摂政 を務めていたプロテスタント 教徒のカールの反乱 が起き、ジグムント3世は反乱鎮圧とスウェーデンのカトリック化を目指してスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗、1599年にスウェーデン王位をカールに簒奪 され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。
1611年、ジグムント3世はモスクワ大公国 の自由主義的な大公国貴族(ボヤーレ )たちの求めに応じて東方へと侵攻し、モスクワ市 を占領した(ロシア・ポーランド戦争 )。ジグムント3世が占領中に「ロシア皇帝 位にはカトリック教徒 のポーランド国王あるいはその王太子 のみが就く」という布告を出したことから、正教徒 であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、ロシア保守主義者が一般市民を巻き込んで住民蜂起を起こした。モスクワ市内の占領軍は孤立し、籠城の末に玉砕し大公国にいた残りのポーランド軍は1612年までに撤退した。度重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争 、大洪水時代 )によりポーランド=リトアニア連合王国の政府財政は急速に悪化していった。
1683年にオスマン帝国 による第二次ウィーン包囲 を撃退し、全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ 王は以後、行き過ぎた地方分権による無政府状態 化の阻止を目指し、中央政府の権力を強めるため世襲王政 の実現と、王およびセイム(国会)のそれぞれの権限の明確化による立憲君主制 の確立を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後、王国の中央政府の権限は急速に弱まり、国庫 は逼迫し、国力は衰退していった。
近代民主主義成文憲法の成立とポーランド分割
プリンス・ユゼフ・ポニャトフスキ 将軍
タデウシュ・コシチュシュコ 将軍
五月三日憲法 時代のポーランドグダンスク (ダンツィヒ)が飛び地 になっている
ポーランド分割
18世紀に入ると国王選挙に対する外国の干渉が深刻になり、大北方戦争やポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)をはじめとする戦争や内戦が繰り返されるようになった。ポーランドに隣接するロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの三強国は、1772年、1793年、1795年、1815年の4度にわたってポーランド分割を行った。
18世紀 後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領(ポーランド分割 )された。1772年に第一次ポーランド分割が行われたあと、スタニスワフ2世 王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「5月3日憲法 」)。この憲法によって王権 の世襲制 (選挙王政ではあるが以前のように個人選出ではなく王家の一家を選出する)とともに立憲君主制 が成立し、それまで名目的には緩やかな連邦制をとっていて行政 が非効率だったポーランド=リトアニア共和国は名実ともに単一国家となった。1793年、議会によりワルシャワに国民教育委員会 (Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立された。
立憲君主制 、民主主義 の王政 に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力はロシア のエカチェリーナ2世 と結託した。ロシア軍はポーランドに干渉戦争を起こした(ポーランド・ロシア戦争 )。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793 - 94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された(コシチュシュコの蜂起 )。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。その広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域はロシア帝国 に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。その後、スタニスワフ2世はロシアの首都サンクトペテルブルクに連行され、妻子とともに半ば軟禁生活を送った。ポニャトフスキとコシチュシコはフランスへ亡命し、再起を図ることにした。
ナポレオン戦争中の1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された。貴族共和制の復活を望む一部のポーランド人は公国を支持したが、実態はフランス帝国の衛星国に過ぎなかった。1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国 を成立させた。南部の都市クラクフとその周辺は、クラクフ共和国として一定の自治が容認された。西部はポズナン大公国としてプロイセンの支配下に置かれた。
束の間の再興
ポーランド王位継承権を持つポニャトフスキはナポレオン戦争 にフランス軍の将軍として参加、1807年にポーランドはワルシャワ公国 として再び独立した。しかし、その後ロシアに侵攻したフランス軍の戦況は悪化し、撤退するフランス軍がプロイセンのライプツィヒ で敗れると、ポニャトフスキはフランス軍の殿軍 の総大将として果敢に戦い、全身に5発の銃弾を受けて華々しく戦死した。ナポレオン が失脚すると、1815年のウィーン会議 によって、ポーランドはロシア皇帝 を元首とするポーランド立憲王国 (会議王国)となった。多くのポーランド人が国外、特にフランス に亡命 した。
独立運動の時代
ワルシャワ、ワジェンキ水上宮殿の庭園にあるショパン像
英雄エミリア・プラテル
十一月蜂起
ポーランド立憲王国における憲法は、ロシアによって無視された。フランス やベルギー の革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国 の復活を目指して「十一月蜂起 」が起こったが翌年に鎮圧され、特に貴族であり、女性革命家でもあったエミリア・プラテル はシュラフタ (士族 、ポーランド貴族)の国民的英雄として後世にその名を物語っている。
一月蜂起
ロシアに鎮圧された一月蜂起 擬人化されたポーランド(手前の女性)とリトアニア(奥の女性)
1856年にロシア帝国がクリミア戦争 に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、1863年、旧ポーランド王国 領と、旧リトアニア大公国 領で同時に「一月蜂起 」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が絞首刑 にされ、十数万人がシベリア のイルクーツク などに流刑 となった[ 12] 。
ビスマルクによるポーランド人抑圧政策と幻のポーランド王国
プロイセン王国 内の旧ポーランド王国 領であるポーゼン州 (旧ポズナン大公国 )では、1871年からはビスマルク の文化闘争 により、ポーランド人 に対する抑圧政策が行われた。文化闘争はドイツ人 も含めプロイセン王国内のすべてのカトリック教徒を対象とし、ポーランド人は圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。
ポーランド人は抑圧に対してポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世 がビスマルクを解任したあとも続けられ、ドイツ帝国 が第一次世界大戦 で敗北した1918年に終了した。
ポーランド王国の3人の摂政と衛兵
1916年、第一次世界大戦の最中にドイツ帝国 によってその衛星国 としてのポーランド王国 が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督 となり、3人のポーランド人が摂政 を務め、6人のポーランド人政治家が歴代首相 となった。
2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドのジヴィエツ に住み流暢なポーランド語 を話したオーストリア=ハンガリー帝国 の皇族カール・シュテファン大公 (ポーランド名:カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇帝カール1世 が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった。カール・シュテファンは1918年にポーランドが独立したあともポーランドに帰化してジヴィエツに住み続け、1933年に当地で死去した。子孫はポーランド人として今もガリツィア 地方に住んでいる[ 13] 。
独立と第二共和国
1918年11月11日に第一次世界大戦 が終結すると、ヴェルサイユ条約 の民族自決 の原則により、旧ドイツ帝国 とソビエト連邦 から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキ を国家元首 として共和制 のポーランド国家が再生した。
現ポーランド領におけるドイツ帝国領だった地域
ユゼフ・ピウスツキ
1920年にはソビエト連邦 に対する干渉戦争の一環としてソビエトへ侵攻し、ポーランド・ソビエト戦争 が発生した。緒戦には欧米、とりわけフランスからの援助を受け、ウクライナのキエフ近郊まで迫ったが、トゥハチェフスキー 率いる赤軍 が猛反撃を開始し、逆にワルシャワ近郊まで攻め込まれた。しかし、ピウスツキ将軍のとった思い切った機動作戦が成功してポーランド軍が赤軍の背後に回ると、ワルシャワ近郊のソ連の大軍は逆にポーランド軍に包囲殲滅されかねない状態となった。これにたじろいだトゥハチェフスキーは全軍に撤退を指示。結果的にポーランド軍は赤軍を押し返すことに成功し、「ヴィスワ川 の奇跡 」と呼ばれた。この戦争は翌年に停戦した。
この戦いでソ連各地にいたポーランド人が迫害の危機に陥り、子どもたちだけは母国へ戻したいとウラジオストク のポーランド人により「ポーランド救済委員会」が設立された。1919年にポーランドと国交を結んだばかりだった日本 は、人道的な見地から救済に乗り出した[ 14] 。同時期に、シベリアやソ連にいたユダヤ系ポーランド人により「ユダヤ人児童・孤児の救済」は全世界に向けて救援援護を発信していた。ソ連の占領下では、100万人以上がシベリアや中央アジアに強制移住させられた。
1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、1926年にクーデター を起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、開発独裁 を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民のカリスマ であったピウスツキが1935年に死亡すると、ユゼフ・ベック を中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点をナチス・ドイツ とソビエト連邦 につけ込まれるようになった。
第二次世界大戦
ドイツ軍に攻撃されるワルシャワ王宮
1939年8月、ナチス・ドイツ とソビエト連邦 が締結した独ソ不可侵条約 の秘密条項によって、ポーランドの国土はドイツとソ連の2か国に東西分割され、ポーランドは消滅することになる。1939年9月1日、グダニスク 近郊のヴェステルプラッテ のポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍とスロヴァキア 軍が、9月17日には赤軍が東部国境を越えてポーランド侵攻 を開始してポーランド軍を撃破し、ポーランド領土はナチスドイツ、スロヴァキア、ソビエト連邦、そしてソビエト占領域内からヴィリニュス 地域を譲られたリトアニア の4か国で分割占領された。ポーランド亡命政府 は当初パリ、次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外でさまざまな反独闘争 を展開した。
独ソ戦 でソ連が反撃に転ずると、ドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていった。1944年8月、ソ連側の呼びかけによりレジスタンスポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起するワルシャワ蜂起 が起こったが、亡命政府系の武装蜂起であったために赤軍は故意に救援を行わず、約20万人が死亡して蜂起は失敗に終わった。
1945年にポーランドはソ連の占領下に置かれた。ポツダム会談 の決定によりポーランド人民共和国 に定められた領土は、東部のウクライナ・ベラルーシ西部をソ連に割譲し、代わりにオドラ川以西のドイツ領であるシロンスクなどを与えられるというものであった。
ポーランド人民共和国
旧国境と新国境
1945年5月8日から1989年9月7日までの44年間は、マルクス・レーニン主義のポーランド統一労働者党(PZPR ) が寡頭政治 を敷くポーランド人民共和国の社会主義 体制時代であった。1945年5月8日、ドイツ降伏 によりポーランドは復活、その国の形はアメリカ ・イギリス ・ソ連のヤルタ会談 によって定められた。カティンの森事件 でポーランド亡命政府 は、ソ連の発表の受け入れを拒否。スターリン は亡命政府と関係を断絶した。ソ連主導のルブリン政権 が新たなポーランド国家となった。
また領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連はポーランド侵攻 以来占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはスターリンが、992年にボレスワフ1世 が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果で、新しい国境線はボレスワフ1世時代の国境線の位置に非常に近いものとなった。軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失った。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である。一方、ソ連に併合された旧ポーランド東部地域では、国境変更にともないポーランド系住民120万人が退去してポーランドに移住してきた(ポーランド人人口の移動 (1944-1946) (英語版 ) )。
1952年、ポーランド人民共和国 はPZPR の一党独裁制 の政党となり、ソ連の最大でもっとも重要な衛星国となった。冷戦 中、ワルシャワ条約機構 や、1949年1月、西側のマーシャル=プラン に対抗するものとして設立されたコメコン (経済協力機構)に参加した。社会主義体制への移行に伴い、密告、監視、言論統制を伴ったポーランドのソ連化が執行され、政治、教育、文化、一般市民の生活などソ連をモデルに構造改革 された[ 15] 。ポーランド人民共和国の共産主義プロパガンダ (英語版 ) 。社会主義 政権により、民族を問わずポーランドに居住する住民すべてを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産 も国有化された。ソ連、チェコスロバキア 、東ドイツ 、ハンガリー などの同じ東側諸国 のように集団農場 と個人農地は国有化 された[ 16] 。
1950年代から1980年代の典型的なポーランドの様子、国営商店に並ぶ市民
ポーランド政府はおもに西側諸国からの借入れを繰り返し、無計画な経済政策と国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制の計画経済により急激なインフレ急騰を招き、食料・物資不足が長く続いた。1973 - 74年のオイルショックも重なり、借入れによる市場拡大や経済成長は短期間で終わる。その国内経済を補うため、さらなる借金をして、政府は1980年までに230億ドルの膨大な負債を抱える。このような状況により、闇市が盛んになり欠乏経済 (英語版 ) を発達させ、市民によるデモ、ストライキ、暴動などが頻繁に起こった[ 15] 。社会退廃は、生物学的環境と心身の健康上でひどい悪化を伴い死亡率は上昇した。PZPRは、高インフレや貧困な生活水準、市民の怒りと不満により再び社会的爆発の勃発を恐れた政権は、自ら統制できないシステムで困惑し、力のなさを感じた[ 17] 。1979年6月にポーランド人ローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世 が故国ポーランドを訪れ、マルクス・レーニン主義無神論 (英語版 ) の政府に宗教を弾圧されていた国民は熱狂的に迎えた。1980年9月17日には独立自主管理労働組合「連帯」 が結成された。
ポーランドを訪問する教皇ヨハネ・パウロ2世
1981年 - 1983年、ポーランドの戒厳令 の期間に政府は反政府を潰すために戒厳 を導入、市民の通常の生活は劇的に制限され[ 18] 、数千人のジャーナリストや反対勢力活動家は投獄、ほか100人[ 18] ほどが抹殺された。夜間外出禁止令 、国境封鎖、空港閉鎖、電話回線の遮断、政府による郵便物内容検査などが執行された。軍裁判所 は、偽造情報発信者達を逮捕した[ 19] 。戒厳令後も、市民の自由権 はひどく制限された。
ワルシャワ大学前での「連帯」運動
軍事政権により価格は引き上げられ、深刻な経済危機 となる。経済危機は、おもな食料・日用品・生活必需品・物資の配給制 となり平均所得は40%下落した[ 20] 。西洋の娯楽品の入手は非常に厳しかったが、それも一層困難化した[ 21] 。ヤルゼルスキ のもと、借金は1980年までの230億ドルが400億ドルになった[ 22] 。行政マネージメントの欠如、生産構造の悪さ、物資の欠乏は労働者のモラルを低下させ、働き盛り年代である64万人が1981年 - 1989年の間に難民となり他国へ移民した[ 23] 。ソ連の支配する体制による抑圧に抵抗する市民による民主化運動 はこの時期に拡大していった。
第三共和国
レフ・ヴァウェンサ(ワレサ) 第三共和制初代大統領
1989年6月18日、円卓会議 を経て実施された総選挙 (下院の35%と上院で自由選挙実施)により、ポーランド統一労働者党 はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府の成立によって民主化 が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは「第三共和国」と呼ばれる国家であり、民主 共和 政体を敷く民主国家時代 である。
共産主義政権からの膨大な借金と経済危機がますます深刻化し、政治を不安定化させた[ 24] 。西側諸国の機関は、すでに破産しているポーランド政府には貸付を延長しなかった。ポーランド政府は西側諸国や日本などの先進国に食糧や経済・技術支援を強く要請し国民の飢餓を逃れた。
1990年11月14日には統一ドイツ との間で国境線を最終確認する条約が交わされ(旧西ドイツ は、旧東ドイツ とポーランド人民共和国が1950年7月6日に交わした国境線画定条約の効力を認めていなかった)、ドイツとの領土問題は終了した。1993年、第二次世界大戦からポーランドに駐留していたロシア連邦軍 (旧ソビエト連邦軍)が、ポーランドから全面撤退した。1997年には憲法 の大幅な改正が行われ、行政権が大統領 から首相 へ大幅に委譲され、首相が政治の実権を握ることとなった。1999年、北大西洋条約機構 (NATO)に加盟した。
2004年5月1日、ポーランドは欧州連合 (EU)に加盟 した。2007年12月21日には国境審査が完全に撤廃されるシェンゲン協定 に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。2008年3月30日には空路での国境審査が撤廃され、これでほかのシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間でのすべての国境審査が撤廃されたことになる。現在では、ポーランド人 ならばパスポート なしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。
レフ・カチンスキ 第三共和制第4代大統領
ここまで自由民主主義国家として進んできたが、2005年、欧州連合 (EU)の権限拡大に懐疑的で、経済における自国民の利益擁護と、共産主義時代から引き継がれたシステムや人事の完全撤廃を掲げた、高齢者、低学歴層、小規模農家、国営大企業の経営者や従業員からの支持の強いキリスト教民主主義 のカトリック 系保守主義 政党「法と正義 (PiS)」が総選挙 で勝利し、農村型の大衆主義 政党「自衛 」、カトリックのレデンプトール会 系の国民保守主義 の小政党「ポーランド家族同盟 」とともに保守・大衆主義連立政権を発足させた。同時に行われた大統領選挙 では最大のライバルであるドナルド・トゥスク (「市民プラットフォーム 」)との間で決選投票を行った、レフ・カチンスキ (「法と正義 」)が当選した。
ヤロスワフ・カチンスキ 率いる連立政権は政治路線をめぐってなかなか足並みがそろわず、政権運営が難航するとともに、国際社会においても欧州連合 やロシア と軋轢を起こした。その後、連立政党「自衛」の党首アンジェイ・レッペルの収賄疑惑がカチンスキ首相に伝えられると、首相は政権維持を惜しまず2007年9月7日に議会を解散する。
この解散を受けて2007年10月21日に行われた総選挙 では、欧州連合 (EU)との関係強化、ユーロ導入に積極的で若者、高学歴層、商工民、新興企業の経営者や従業員からの支持が強い都市 型中道右派 政党「市民プラットフォーム 」が勝利を収める。一方で、大きく議席数が変化することが少ないといわれるドント方式 の比例代表制 の選挙にもかかわらず、それまでの政権運営に失望した有権者によって「法と正義 」は大幅に議席を失う。また、連立政権に参加すると急速に有権者の支持を失っていった「自衛 」と「ポーランド家族同盟 」といった国民保守主義 ・大衆主義 的な小政党は、この2007年選挙で議会におけるすべての議席を喪失した。
最大政党の「市民プラットフォーム」の議席は過半数(231議席)に満たなかったため、中規模専業農家 の支持する農村 型中道右派政党「ポーランド農民党 」と連立政権を発足。首相に「市民プラットフォーム」の若い党首ドナルド・トゥスク が就任した。トゥスクは中道右派として中小企業保護政策などを打ち出す一方、対外的には宥和政策を採り、長年遺恨のあるドイツやロシアとも一定の歩み寄りも見せた[ 25] 。
2009年11月27日、「鎌と槌 」や「赤い星 」など共産主義のマークを禁止する法律が可決[ 26] [ 27] 。しかしこれは公的機関における使用禁止措置であり民間では自由に使用できるため観光都市クラクフ では共産主義的な雰囲気が残っており、共産主義のマークを問題なく使用している[ 28] 。
12月1日に、民主化以来初の首相再選も果たしたトゥスクがEU大統領 に就任され、首相は辞任することとなった。
2014年3月にロシアによるクリミアの併合 が起きると民族主義が高まり、ロシアだけでなく、ロシアにエネルギー資源を依存するドイツも批判した(ただし、ポーランドもロシアに依存している)[ 29] 。
2015年の選挙では「法と正義(PiS)」が勝利、、憲法違反の疑いのある法律を次々に制定し、違憲審査権を行使する憲法法廷(憲法裁判所)の掌握を進め[ 30] 、EUとの対立が深まった[ 31] [ 32] [ 33] 。
2022年11月16日、ロシアによるウクライナ侵攻中 、ポーランドにロシア製のミサイルが着弾し、市民二人が死亡した。ミサイルによる被害はNATOの歴史、加盟国にとって初の事例となった(詳細は2022年ポーランドでのミサイル爆発 )[ 34] 。
政治
基本制度
大統領宮殿(ルボミルスキ ・ラジヴィウ家 旧邸)
ポーランド下院(セイム )
政治体制 は共和制 。国家元首 は大統領 (任期5年)である。かつては大きな政治権力を託されていたが、1997年の憲法 改正により政治の実権は首相 に移り、現在は儀礼的な権限しか持たない。下院で可決した法案の拒否権 があるが、下院が再度可決した場合にはその法案は成立する。軍の最高司令官でもあるが、これも象徴的なものであり、実際の指揮権は首相 が持つ。
行政
行政 は、1997年制定の憲法では閣僚評議会(内閣 )が「ポーランド共和国の内政及び外交政策を実施する」(第146条1項)、「政府行政を指揮する」(第146条3項)となっているため[ 35] 、閣僚評議会議長 (首相の正式名称)が強大な政治的権力を有して実際の国政を行う議院内閣制 になっている。首相は大統領が任命するが、14日以内に議会の下院 に当たるセイム (sejm)の信任を受ける必要があるため(憲法第154条2項)、実際には議会の多数派から選ばれる。閣僚は議会の多数派から、首相の提案に基づき大統領が指名する。現在の首相はドナルド・トゥスク 。
議会
立法 はセイム(議会)とセナト(元老院)の二院制 議会 (Zgromadzenie Narodowe)によって行われる。
下院 (セイム、Sejm)
「議会 」の意。定数460名。下院は立法の役割が主体であり、政党の資質や能力が大事であるとの考えからドント方式 の非拘束名簿式 比例代表制 。議席獲得には全国投票の合計で政党が5%以上、選挙委員会(政党連合)は8%以上の得票が必要。シングルイシュー政党 (全体の政策や理念でなく特定の政策のみで集まった人々の政党)の出現や少数政党の乱立といった事態を未然に防止するためである。少数民族の大半を占めるドイツ系住民 の民族優先枠として、ドイツ民族政党は最高2議席まではこの最低得票率ルールから除外される(ドイツ民族政党は前回の総選挙で獲得票数が少なかったため、現在は1議席のみ確保している)。立法府として、セイムは日本の衆議院 に相当し、上院より優先される。
各党の議席数(定数460)[ 36]
上院 (セナト、Senat)
「元老院 」の意。定数100名。上院は立法や行政の監査の役割が主体であり、政党よりも議員個人の資質や能力が重要であるとの考えから、完全小選挙区制 。
各党の議席数(定数100)[ 37]
法と正義(Prawo i Sprawiedliwość, PiS) - 48
市民連立 (Koalicja Obywatelska, KO 保守主義 ) - 43
ポーランド農民党 (Polskie Stronnictwo Ludowe, PSL 保守主義 ・農民主義 )- 3
統一左派 (Lewica , SLD 社会民主主義 ) - 2
無所属 - 4
政党
司法
ポーランドの法制度は、1,000年以上前の同国地域における歴史の最初の数世紀から発展して来た。ポーランドの公法および私法は成文化されている。傍ら、ポーランドにおける最高法はポーランド憲法 (英語版 ) に基づいたものとなっている。
なお、ポーランドは民法の法的管轄権を有しており、ポーランド民法典という民法典が定められている。
国際関係
国際連合 (UN)、欧州連合 (EU)、シェンゲン協定 、シェンゲン情報システム (SIS)、北大西洋条約機構 (NATO)、経済協力開発機構 (OECD)、世界貿易機関 (WTO)、欧州安全保障協力機構 (OSCE)、欧州電気標準化委員会 (CENELEC)に加盟している。
中欧の大国であり、ヨーロッパの東西・南北双方の中央に位置し、バルト海の南岸という要衝にあることから、ヴァイマール三角連合 (Weimar Triangle)、ヴィシェグラード・グループ (V4)、環バルト海諸国評議会 (CBSS)、中欧イニシアティヴ (CEI)といった地域国際機関にも加盟し、国連では東ヨーロッパグループ (EEG)に属している。
ロシアとの関係
古くから争乱を繰り返す関係で、幾度もポーランド・ロシア戦争 が起こった。そのため、現在でもポーランド人は強い反露感情を抱いているとされる。
第二次世界大戦中には、ソ連はドイツと共に分割占領し、カティンの森事件 などの虐殺事件をおこした。戦後はポーランド人民共和国 として衛星国 となっていたが、民主化後、特に2014年のウクライナ危機以降、ロシアの軍事力に対する警戒感が高まっている[ 38] 。2017年1月には、アメリカ軍 がポーランドへの駐屯を開始し、西部ジャガン で歓迎式典が開かれた。在ポーランドアメリカ軍は最終的に兵員約3,500人、戦車87両の規模になる見通しである。
ロシアの大統領報道官は「私達の安全に対する脅威」と反対の表明をした[ 39] 。
2021年 11月、ベラルーシとの国境付近に西アジア からの移民数千人が集結、ポーランドは軍を動員して移動を阻止した。同月9日、モラウィエツキ首相は国会で、ロシアが後ろ盾となっているとしてプーチン大統領を批判した[ 40] 。2022年2月に、ロシアによるウクライナ侵攻 が起きると、国をあげてウォロディミル・ゼレンスキー 政権支援に回り、最も多くの避難民受け入れや武器支援などを行った[ 41] 。ただし直接加勢はせず、武器も売却分もある[ 42] 。また、ロシアとのガス供給契約も打ち切ったが、実際はロシア産ガスをドイツを介して輸入することになる[ 43] 。
2022年11月、前年に発生した不法移民の流入がロシアの飛び地 であるカリーニングラード州 から生じる恐れがあるとして、ポーランド国防相は新たにカリーニングラード州との国境沿いにフェンス を構築することを発表した[ 44]
ドイツとの関係
1953年 、ポーランドと東ドイツ との間で大戦中の補償請求権の放棄が行われたが、これはソ連の意向が強く働いたものと言われる。1990年、ドイツの再統一に向けてポーランドとドイツは国境条約に調印。1991年には善隣友好条約が結ばれた。2015年に右派政党「法と正義 」が与党になると、1953年の請求権放棄はソ連の圧力下でなされたものとして、ドイツに対して戦後補償を求める議論 が惹起し始めている[ 45] 。
近現代史における日本との関係
日本学
1919年にワルシャワ大学 に日本語講座が開かれた。以来、同大学東洋学部の「日本韓国学科」は、中国研究と中国語学科の一分野として、韓国語学科とともに学科は維持され、日本語が教えられている。
1922年に日本国波蘭国間通商航海条約 が締結され、日波協会 も組織されていた。
2002年には、同学科は天皇 皇后 の行幸啓を受けたほか、2008年には日本テレビ放送網 の「1億人の大質問!?笑ってコラえて! 」の「世界日本語学校 の旅」でポズナン大学 日本語学科とともに、日本語 を学ぶ大学生 たちが紹介された。
さらに、ポーランド人による浮世絵 のコレクションは質と量ともに世界屈指のもので、クラクフ の日本美術技術博物館“マンガ”館 には浮世絵を含む日本の文化財のコレクションが広く公開されている。
ポーランド第二共和国初代国家元首ユゼフ・ピウツスキの兄ブロニスワフ・ピウスツキ は、樺太 に流刑 になったことを契機に、樺太から北海道 へ渡り、多くの日本の文化人、政治家と交流しつつ、アイヌ の研究に業績を残した。
日本による戦間期のポーランド人孤児救出
日本は戦間期 、765人のポーランド人の孤児 をシベリアから助けたことがある[ 47] 。当時、多くのユダヤ系ポーランド人孤児らもシベリアに搬送されていた。
ポーランド人聖職者の訪日
カトリック教会 聖職者で、後にホロコースト の犠牲となったマキシミリアノ・コルベ は戦前に日本で布教活動を行い、「けがれなき聖母の騎士会 」を日本に導入した。同会の出版社「聖母の騎士社」や、コルベに続いて布教に訪日したポーランド人宣教師によって創設された仁川学院、聖母の騎士高等学校 は21世紀を迎えた現在も存続している。
コルベとともに布教のために訪日したゼノ・ゼブロフスキー 修道士は、長崎で原爆 に被爆したのちも日本に留まり、戦災孤児など貧民救済に尽力した。
同じポーランド人 の教皇ヨハネ・パウロ2世 は1981年に訪日した際、病床のゼノに面会し、功績を称賛した。初めて訪日したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、東京 では「世界最初の原子爆弾 の傷跡がいまだにはっきり残るこの国で、『あなたがたに平和』というキリストの言葉は、特別に力強く響きます。この言葉に私たちは答えなければなりません」と日本語で挨拶し[ 48] 、広島市 と長崎市 を訪問。広島においては「戦争は死です。生命の破壊です」と世界 に平和 の構築を訴えた。
国家安全保障
ポーランド空軍主力制空戦闘機 F-16「ヤシュチュションプ」 (鷹 )
ポーランド軍 は
ポーランド陸軍主力戦車 レオパルト2A5
の五軍種と憲兵隊 の合計6グループから構成され、5軍種では常時約14万人が活動し、予備役 は約24万人。国防省 が統括し、憲法 で規定された最高司令官はポーランド大統領 である。
このうちポーランド特別軍は機動的活動を主要任務とする軍で、作戦機動部隊(GROM )、第1奇襲部隊(1 PSK )、海兵隊(Formoza )、特別兵站 部隊の4つから構成される。
徴兵制 は廃止され、志願制 が導入されている。これによってコンパクトながら高度な専門知識と技術を持つ国軍を作り上げることを目指している。
2009年の予算は118億ドルで、これは世界第19位、国内総生産 (GDP)の2%弱を占める。1989年の民主化 後もソ連から購入していた装備を引き継いだが、自国を含む北大西洋条約機構 (NATO)同盟国で製造される最新装備への完全転換を急いでいる。
2023年、マテウシュ・モラヴィエツキ 首相はロシアによるウクライナ侵攻 を受け、軍備拡大をさらに加速させてGDP の4%をポーランド軍に充てると表明した。[ 49]
地理
タトラ山脈
マズールィ湖水地方
ヴィエブジャ大湿地帯の風景
ポーランドはコウノトリ の国 全世界のコウノトリの4分の1がポーランド国内で繁殖する
世界でもビャウォヴィエジャの森 にのみ生息する野生のヨーロッパバイソン
西でドイツ 、南でチェコ とスロバキア 、東でウクライナ 、ベラルーシ 、リトアニア と接しており、北東ではロシア (カリーニングラード )とも国境を接している。北はバルト海 (Morze Bałtyckie)に面している。
南部を除き国土のほとんどが北ヨーロッパ平野 であり、全体が非常に緩やかな丘陵 地帯となっていて独特の景観を有する。平均高度は173メートルである。南部は山岳地帯で、タトラ山脈 にはポーランドでもっとも高いリシ山 (標高2,499メートル)がある。南部の国境近くにはカルパティア山脈 (タトラ山脈 、ベスキディ山脈 (英語版 ) を含む)やスデート山地 (ポーランド語およびチェコ語でスデーティ(Sudety)がある。深い森 が多く、国立公園や県立公園として維持管理されている。東北部からベラルーシ にかけて広がる「ビャウォヴィエジャの森 」は「ヨーロッパ最後の原生林 」とされる、北部ヨーロッパには珍しく全体に広葉樹 が生い繁る巨大な森で、ヨーロッパバイソン (ポーランド語で「ジュブル」)やヘラジカ (ポーランド語で「ウォシ」)をはじめとした多数の大型野生動物が生息する。ポーランドにある9,300もの湖 のうち、大きなもののほとんどは北部と中西部に集中している。北東部、北西部、中東部、中西部、南西部には特に湖が集中する湖水地方があり、美しい景観を有する。また湿原 が特に多く、そのうち最大のものは「ヴィェブジャ大湿原」で、釧路湿原 の10倍以上の面積がある。これらの湿原は国立公園や県立公園として維持管理されている。多くの水鳥が生息する。
西南部にはヨーロッパ最大の砂漠 がある。
河川は以下の通り。
ヴィスワ川 (Wisła)
オドラ川 (Odra)(オーデル川)
ヴァルタ川 (Warta)
ブク川 (Bug)
ナレフ川(Narew)
サン川(San)
ノテチ川 (Noteć)
ピリツァ川(Pilica)
ヴィェプシュ川(Wieprz)
ブブル川(Bóbr)
ウィナ川(Łyna)
ヌィサ・ウジツカ川/ナイセ川 (Nysa Łużycka)
フクラ川(Wkra)
ドゥナイェツ川(Dunajec)
ブルダ川(Brda)
プロスナ川(Prosna)
ドゥルフェンツァ川(Drwęca)
ヴィスウォク川(Wisłok)
フタ/チャルナ・フタ川(Wda/Czarna Wda)
ドラヴァ川(Drawa)
ヌィサ・クウォヅカ川(Nysa Kłodzka)
ポプラト川(Poprad)
パスウェンカ川(Pasłęka)
レガ川(Rega)
ブズラ川(Bzura)
ヴィスウォカ川(Wisłoka)
ビェブジャ川(Biebrza)
ニーダ川(Nida)
地質
クラクフ=チェンストホヴァ高原のオイツフ国立公園
ポーランドの地質構造は、6000万年前 に起きたヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の衝突と、北ヨーロッパの第四 氷期 によって形成された。このときスデート山地 とカルパティア山脈 が形作られている。北部ポーランドのモレーン の景観は主に砂 とローム からなる土壌によるものである。氷期 に形成された南部の河川の谷は黄土 を含んでいる。クラクフ=チェンストホヴァ高原 、ピェニヌィ山地 、西タトラ山地 は石灰岩で構成される。高タトラ山地 、ベスキド山地 、カルコノシェ山地 は花崗岩 と玄武岩 で構成される。南部のクラクフ=チェンストホヴァ高原はジュラ紀 の石灰岩からなる。
気候
バルト海 に面した北西部は温帯 気候であるが、東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する亜寒帯 気候となる。降水量 は平均しており、季節による変動が少ない。
地方行政区分
著名な経済学者 イェジ・レグルスキ の構想のもと、1999年にイェジ・ブゼク 政権が行った地方自治の大改革において県(województwo)が整理され、ポーランドではそれまであった49県が16県にまで一気にまとめられて穏健な地方分権 が成立した。県の下位自治体として郡(powiat)が合計373、グミナと呼ばれる地方自治体基礎組織(gmina)が合計2,489ある。
ポーランドの県区分図
(アルファベット順)
主要都市
経済
古い街並みの向こうに高層ビルが並ぶ首都ワルシャワ
ヴロツワフ
シュチェチン
ポーランド経済は、2004年EU加盟後、EU内の先進地域と貧しい地域の格差を縮める目的であるEU構造ファンド(EU Structural Funds)の融資獲得により経済成長を遂げている。失業率はEU平均を超えながら、経済の豊かさを比較する指標とされる1人あたりの国内総生産額のGDPは、著しくEU平均以下のままとなっている[ 50] 。
世界金融危機の余波
若年人口の多さ に支えられて、近年[いつ? ] は毎年4 - 6%前後の高成長を見せていたが、世界的な金融危機 の余波を受けたため、2009年の成長率は、欧州委員会 (EC)の予測では-1.4%、国際通貨基金 (IMF)の予測では-0.7%、欧州復興開発銀行 (EBRD)の予測では0%、ロイター通信 調査のポーランド国内外の民間金融機関 の平均的な予測では+0.8%、ポーランド財務省の予測では+1%前後とされていた。
ヨーロッパ域内各国については軒並み大幅なマイナス成長が見込まれているが、GDPに対する対外債務残高や短期対外債務残高、金融機関の不良債権、個人の外貨建てローン残高が少なく(家計向けローンに占める外貨建のシェアは約40%、家計向け外貨建てローンは名目GDPの15%未満[ 51] )、国内人口が大きいため輸出依存度が比較的低く国内需要が大きいという特徴があるポーランドは、通貨ズウォティの急落によって輸出競争力も回復してこの景気後退 をうまく切り抜けると予想されており、ヨーロッパの国々のうちではもっとも高い数値の成長率予測をあらゆる調査で得ている国のひとつであった。
2009年の結果
その後、ポーランドの2009年成長率 については、経済協力開発機構 (OECD)の発表によると、大方の予想をはるかに上回る1.7%と判明(のちに1.8%へ上方修正)し、この年の欧州連合(EU)加盟国でプラス成長率を達成した唯一の国であることが明らかになった。OECD加盟34か国においても、ポーランドのほかにプラス成長率を達成したのは韓国(0.2%)とオーストラリア(1.3%)の2か国のみであり、2009年のポーランドはOECD加盟国最高の成長率を叩き出したことになる。中央銀行 であるポーランド国立銀行 が世界金融危機の前の世界金融バブルの時代の非常に早い時期(2001年ごろ)にはすでにバブルの到来を察知し、それ以来市中銀行に対してさまざまな貸し出し規制策を導入していた[ 52] 。
2009年、ポーランド政府は大きく被害を受けた国内経済のために、IMFから205億ドルを借り入れた[ 53] 。ポーランド・ウクライナ開催のUEFAユーロカップ 2012では、関連施設・インフラ建設準備や住宅バブルに向け、西欧や諸外国から大きな投資を受けた、このインフラ投資事業により世界金融危機の大きな被害を免れた[ 54] 。しかし世界的な金融危機も反映し、住宅投資バブルは不発となり投資家の予測に反する結果に終わった。
2010年は世界中で行われている景気対策を目的とした大規模な金融緩和のため、ポーランドの第二四半期成長率は+3.5%を記録した。ポーランド政府とポーランド国立銀行は景気の過熱と資産価格上昇の可能性やそれに伴う高いインフレの可能性を懸念し始め、公的部門の財政再建路線の強化、金融引き締め政策、貸出規制の強化といった対応策を考慮している。2014年、GDP成長は1.3%。
展望
2004年のEU 加盟後、ポーランド国民はEU内でも西欧諸国より低い賃金水準を持つために、支持政党も急激に右寄りになった。
EU加盟後、さらにポーランドから多くの労働者がおもにEUの先進諸国に出稼ぎに行っている。ほかのEUの中東欧国同様、おもに単純労働者としての雇用が先行している。一部ではホワイトカラー としての雇用もみられ、財を成すものも現れた。これまで本国経済の堅調に支えられてポーランドへ帰国する者が徐々に増加していたが、昨今の世界的な金融危機の余波で国内外の経済情勢が激変しているため、ポーランド本国でも就職の機会が少ないのではないか、職を得ても収入が低いのではないか、あるいはポーランド国内であっても自分の出身地とは離れた地方でないと求人 していないのではないかと考え、帰国をためらう動きも出てきた[ 55] 。しかし、ポーランド政府は国内産業の長期的な発展を確実にするため道路や通信などといったインフラ の整備を急ピッチで進めているため[ 56] 、外国へ出ている出稼ぎのうち未熟練労働者の祖国へのUターンを積極的に奨励している。ポーランドにおけるインフラ整備や教育など経済発展の基礎作り事業は、規模が巨大であるにもかかわらず資金リスクがないのが特徴である。これは政府や民間からの資金調達に加えて、EUからインフラ整備や教育などポーランド事業を支援するために膨大な補助金(EU構造ファンド、英:EU structural funds)が下りているためである。政府は2010年度より緊縮財政 を行っているが、これはおもに国営企業 の民営化 による新規株式公開 (IPO)で多くを賄うことになっており、歳出規模を削減するというわけではない。また、インフラ整備プロジェクトはおもにEUなどから資金が確定して拠出されている。これまで国内で9万のプロジェクトに86億ユーロの支援が行われ、1万3,000もの一般企業、数千キロの道路建設、鉄道路線や各地の主要駅の改修や建て替え、無数の歴史的建造物や遺跡の整備といった事業がEUから潤沢な資金援助を受けている。また、61万人のポーランド人学生、260万人の一般のポーランド人がEU資金の恩恵を受けている。2007年から2013年にかけての間でポーランドがEUから補助金を受け取る事業の総数は、ドイツに次いでヨーロッパ第2位である[ 57] 。このほかにEUからは農業補助金や行政補助金などがポーランドへ渡されている。ポーランド政府が、「ポーランドへ帰ろう!」キャンペーンを張って国外にいるポーランド人の帰国を熱心に促しているのは、これらの大事業のために膨大な人手がいるためである[ 58] 。
評価順位
2010年、ECER-Banque Populaireが18か国37都市の4,500人のCEOを含む17万人の企業家を対象に行った調査では、欧州でもっともビジネスに適した都市の第3位にワルシャワ がランクインした(1位はフランクフルト 、2位はマルメ 、4位はロンドン 、5位はブリュッセル )。この調査では各都市の企業家精神育成、起業支援、経営支援、私的な金融体制、公的な金融体制、助成金、不動産、生活の質、道路、通信インフラなどの項目で調査された。ワルシャワは全般的に高得点を挙げたが、特に起業家への支援体制が優れていると評価され、企業家精神育成部門(経営相談、経営者組織、ウェブ、メディア)で6位、起業した経営者に対する支援部門(法律相談、税務相談、業務支援)で4位となった。評価がもっとも低かったのは環境部門で、評価の対象となった全37都市のうち16位であった。ポーランドでは現在のドナルド・トゥスク 政権と与党「市民プラットフォーム 」の方針として、国を挙げて特に起業支援と中小企業の育成に力を注いでおり、その数は国内全企業の半分で、全就労者の3分の2を雇用し、GDPの80%を占めている[ 59] [ 60] 。
2015年版、フォーブス の「ビジネスに理想的な国ランキング」、世界146の国と地域を対象に、財産権 の保証、イノベーション の多寡、税率 、テクノロジー の発展具合、汚職 の有無、個人的自由、通商の自由、通貨の自由、官僚主義 の度合い、投資家の保護、株価実績からなる全11の分野で評価した結果、ポーランドは40位となった[ 61] 。
2018年、国際連合 は、平均余命、識字 率、就学率、国内総生産 により評価する人間開発指数 (HDI) 、加盟193か国のうちで0.87につけた[ 62] 。
税制
法人税は19%である。所得税 は非常に簡単な2段階の累進課税 方式で、課税所得に応じて18%あるいは32%となっている。国内経済悪化のため税率改正され、付加価値税 は2011年1月1日より23%を基本税率とした複数税率で、ほかに食品、農産物、医薬品、建築資材、観光サービス、書籍などにかかる8%、7%、5%の3つの税率があり、対象の品目によって税率が異なる。
工業
PESA(ペサ)社製ED-161型インターシティー 用の大型旅客電車
EU内の「工場」として、非常に多岐にわたる第二次産業 が行われている。特にパーソナルコンピュータ やテレビ などの情報家電 の生産は盛んで、ヨーロッパのテレビ生産の3割をポーランドが占めている。乗用車 、トラック 、バス 、路面電車 、鉄道車両 などの生産も盛んで、ソラリス 、PESA 、Newag などといったポーランド地場企業が積極的に外国へ進出している。
小規模の手工業においては、琥珀 製品やクリスマスツリー のガラスの飾り物[ 63] の生産は世界一で、日本もこれらの製品を多量に輸入している。
農業
付加価値の高い品目の生産
国土面積のうち、農地の占める面積は42.1%である。ポーランドの農業は伝統的に大規模化されておらず、約90%が個人農家である。共産主義時代には集団農場 化と農地の国有化 が行われた[ 16] 。
特筆すべき農産品目
ヨーロッパの実に90%を占めるヤマドリタケ (本ポルチーニ茸)、327万トン(2010年)で世界第1位の生産量を誇るライ麦 [ 64] 、それぞれ高いシェアを持つフランス向けエスカルゴ や日本向け馬肉 および羽毛 、ポーランドが世界の収穫 高の半分を占め同時に世界最大の輸出 国となっているカシス (ブラックカラント、クロスグリ)や世界最大の輸出高を挙げるイチゴ といったベリー 類(ほかにラズベリー は世界4位、ビルベリー は欧州2位、その他セイヨウスグリ 、クランベリー 、ブラックベリー 、ブルーベリー などで世界トップクラスの生産高)などがある。
鉱業
ポーランドは鉱物資源が豊富であり、19世紀の初めにすでに高等鉱山学校が開校しており、1970年代には鉱員を養成する職能学校が全国に122校、その上の中等鉱山学校は58校であった。上級技術者はクラクフ鉱山冶金大学 (英語版 ) および3つの工科大学鉱山学科で養成されている。
石炭 を中心として多種多様の非鉄金属 に恵まれている。石炭の生産量は世界第8位である。ポーランドのバルト海沿岸は琥珀 の世界最大の産地で、グダンスク には世界の琥珀製品製造業の85%が集中している。
ヨーロッパではロシアに次いで豊富な石炭や、自国の消費量の3分の2をまかなう天然ガス などを有する。ほかにも重要な鉱物資源において世界シェアを有している。また、国内に豊富に存在する石炭のガス化技術(石炭ガス )の研究開発にも熱心に取り組んでいる。
西南部ドルヌィ・シロンスク県 のクレトノ鉱山などではウラン を豊富に埋蔵しており国内の原子力 利用を長期的に賄える。ポーランド国内ではこれまで原子力発電は行われていなかったが、近年は原子力発電計画が具体化しつつあり、2020年までに最初の原子力発電所が稼働する見込みとなっている。
近年ポーランドで巨大なシェールガス 埋蔵量が確認されている。その量は少なく見積もってポーランドにおける天然ガス消費量の300年分に相当する5.3兆m3 に上ると見られている。現在、国内外の複数のエネルギー企業が試掘を申請している。ポーランドのシェールガスは経済だけでなく国際政治における勢力地図を根底から塗り替える可能性がある。
日系企業の現地進出状況
1972年に石川島播磨重工業 が工場を建設したという説がある[ 66] 。
1997年にいすゞ自動車 が進出[ 67] 。
2014年、ポーランドに進出している日系企業はトヨタ 、ブリヂストン 、味の素 、シャープ 、東芝 など約261社。そのほかのEU中東欧 国への進出は、チェコ 約186社、ハンガリー 約140社、ルーマニア 約100社[ 68] 。
ポーランドへの移民労働者
ウクライナ人
公式な統計では、2009年には12万人のウクライナ人 がポーランドで就業登録している。しかしこれは氷山の一角に過ぎず、後述のように正規であっても未登録だという場合もあるため正確な規模は分からない。ワルシャワ大学 の調査によるとポーランド国内最大の移民グループはウクライナ人女性 で、彼女たちに家計のすべてを頼る家庭がウクライナには多いという。彼女たちのほとんどは家政婦 や清掃 婦、農産物 の収穫 などの単純労働 に就いている。2007年にはポーランドの家庭の15%がウクライナ女性を正規のメイド として雇ったという。ウクライナ 、ロシア 、ベラルーシ 、モルドバ の4か国の国民は6か月を上限として、ポーランド政府からの労働許可がなくてもポーランド国内において無条件・無登録で就業することが許されている[ 69] 。2013年には、17万人のウクライナ人が就労目的で1年未満滞在し、永住は633人[ 70] 。
ポーランドが近々ロシアのカリーニングラード州 から、ロシア人の入国に対しビザ なし渡航を許可することをEUが懸念している。イギリスのテレグラフ新聞によると、EU条例に反し、ロシア人をビザなしで入国許可することで、国境検査が撤廃されたシェンゲン協定 他国地域へもロシア人の不法入国 や不法移民 、不法就労 が増加し、そしてロシアなどからの格安タバコ の密輸 により、EUは税金 約85億ポンドを損失する。一方ポーランドは、以前からウクライナに対し全面的なビザなし渡航許可をしている。ポーランド政府は「これによってウクライナからの密輸やウクライナ人による犯罪行為や違法就労がポーランド国内で増加したのは小規模でローカルだ。ビザなし渡航を許可しただけで犯罪が増えることはない。彼らが行う犯罪はせいぜいズボンにロシアのウォッカ を隠し持って密輸するぐらいのことであり、ましてやこのビザなし渡航実施によるロンドン やパリ への悪影響など微々たるものだ」と主張した[ 71] 。
観光
交通
道路
鉄道
航空
国民
ポーランドの人口ピラミッド
ポルカ を踊る女性
伝統衣装を纏った人々
マズル (英語版 ) (Mazur)を踊る男女
民族
2022年時点で人口約3,801万人、97%がポーランド人 (カシュープ人 やグラル人 を含む)[ 72] 。少数民族は、1番人口の多いシレジア人 、おもに東部に在住するルーシ人 (ウクライナ人 、ベラルーシ人 、ルシン人 )、リトアニア人 、リプカ・タタール人 などがいる。
中世、ヤギェウォ朝 やポーランド・リトアニア共和国 などの東欧諸国 の連合国時代には多民族国家 であった。
ユダヤ人 の本格的なポーランド移住は第1回十字軍 の行われた11世紀 初頭に始まった。都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。
ヨーロッパ各国や中東 で非キリスト教徒であるために激しく迫害され、13世紀 に布告された「カリシュの法令 」と、東方植民 によるドイツ都市法 のマクデブルク法 によりユダヤ人の権利と安全が保障されていたため移住した。
ホロコースト までは、ポーランドには世界の70%のユダヤ人がポーランドに住みポーランド文化に影響を与えたが、20世紀に入ってもユダヤ教の古来の教えを実践しながら生活していた伝統的なユダヤ人たちの多くはホロコースト により虐殺された。
多くはホロコーストや共産主義 、反ユダヤ主義 を避けてアメリカ大陸 やイスラエル などに移住した。2010年の国内ユダヤ人在住者数は3,200人となる[ 73] 。ポーランド人の多くは先祖にサルマタイ人 がいる[ 74] 。
国民のほぼすべてが母語 をポーランド語 としている(ポーランド化 )、併合した国の国民や多くの移民 や政治難民 を受け入れた過去のポーランド王国の政策を反映して、彼らの先祖は西スラブ人 系原ポーランド人(レフ人)、シレジア人 、リトアニア人 、ロシア人 、ルーシ人 (ウクライナ人 、ベラルーシ人 、ルシン人 )、ルーシ族 (ヴァリャーグ )、ユダヤ人 、サルマタイ人 、タタール人 、ラトビア人 、バルト人 、スウェーデン人 、チェコ人 、スロバキア人 、ドイツ人 、ハンガリー人 、ロマ人 、アルメニア人 、モンゴル系民族 やトルコ系民族 など。家系的にもそれら多民族が通婚し、国の歴史・地理・文化的にも多民族の伝統が融合していたり、互いに同化し他国にはない独特の「ポーランド文化」とその国民心理を形成している。
約40万種類あるといわれるポーランド人の姓 は、その語源に先祖となったこれら各民族の出自の名残りが見られる。
そのため単一民族 、実際は東・中欧では民族のるつぼ でポーランド人の多くはスラヴ系であると同時に、多民族と混血している。
言語
「クロシニツァ町/クロシュニッツ町へようこそ!」の看板 ポーランド語とドイツ語の併記、オポーレ 市近郊
ポーランド語は印欧語のスラヴ語派 西スラヴ語群 に属する言語で、チェコ語 、スロヴァキア語 、上ソルブ語 、下ソルブ語 などと共通のグループに属し、そのうち、カシューブ語 などとともにレヒト諸語 (レフ諸語)を構成する。
表記はロシア語などで用いられるギリシャ語から作られたキリル文字ではなく、12世紀に導入したラテン文字のアルファベットである。
少数民族の語源には、イディッシュ語 、ヘブライ語 やシレジア語 、カライム語 、ルシン語 、ロマ語 、タタール語 がある。
かつてのポーランドで広く話されていたルーシ人 ・ルーシ族 (ヴァリャーグ )のルーシ語 は第二次世界大戦 やホロコースト とヴィスワ作戦 を経て国内ではほぼ消滅したとみられている。
外国語は、英語は小学校1年からの履修科目となっていて、第二外国語としてドイツ語やフランス語、ロシア語などがある。
歴史的にドイツ語圏との貿易その他の経済関係があるため、標準ドイツ語の履修者は安定して多い。
旧ドイツ領土など南部オポーレ 地方ではドイツ語が地方公用語として認められ、交通標識などはポーランド語と両語表記されているが、住民のドイツ語はドイツ本土の標準ドイツ語とはかなり異なる方言で、普段の社会生活でポーランド語を使う。
冷戦 時代、ロシアの支配下でのソ連化 の義務教育により、1960年代中期以前に生まれた世代のポーランド人はロシア語を解する人が多い。
1989年に東欧革命 で共産主義 が破壊し、その後1990年代にロシア語の習得者数は激減した。
ロシア語(東スラヴ語群 )はポーランド語(西スラヴ語群 )と同じくスラヴ語に属し、ポーランド語話者がロシア語を修得するのは比較的容易とされる。
リプカ・タタール人 は、ポーランド化しタタール語 を話さなくなっている。タタール人の家系でノーベル文学賞 を受賞した小説家・叙事詩人のヘンリク・シェンキェヴィチ はポーランド語の小説を書いた。
人工言語のエスペラント語 はワルシャワ で発祥した。
婚姻
一般的には結婚申請の後、宣誓式を行ない、挙式日の決定後に挙式となる。
国際結婚 の場合は民事婚と宗教婚の2種類があり、民事婚は戸籍局で行うが、宗教婚は教会での挙式後に戸籍局で登録を行なっている。ポーランドでは、同性カップルは結婚できない。
ポーランド人の苗字
ポーランド人の苗字 は非常に多く、総数40万以上に上る[ 75] 。ポーランドの人口は3,800万人程度であることから、同じ苗字を持つ人の数は平均すると100人を下回ることになる。NowakやKowalski(女性はKowalska)といった苗字を持つ人がもっとも多いとされるが、それでも絶対数は非常に少なく、これらの苗字を持つ人に出会うことは稀である。
同じ姓でも男性形と女性形で活用語尾が異なることがある。婚姻の際、男性は自己の姓を用い続けることが多いが、法律では男性女性どちらでも姓を変えることができる。婚姻後の姓はどちらかの姓に統一してもよいし(夫婦同姓)、変えなくてもよい(夫婦別姓 )し、婚姻前の自分の姓の後に結婚相手の姓を繋げてもよい(別姓、複合姓)[ 76] 。ただし複合姓にする場合、3つ以上の姓をつなげてはいけない[ 77] (1964年)。
ポーランド語の姓には-ski(/〜スキ、女性は-ska/〜スカ)という語尾が多い。この-skiというのは名詞 を形容詞 のように「〜の」という意味で使う場合に付く接尾辞 である。英語の-ish(Polandに対するPolish)やドイツ語の-isch(Japanに対するJapanisch)などと同様、インド・ヨーロッパ語族 の言語がもともと共有する用法である。
たとえばWiśnia(意味は「桜 」)からWiśniowoあるいはWiśniow(意味は「桜村」)という村名が派生し、そこからWiśniewski(意味は「桜村の〜」)という意味の姓が生まれる。Jan Wiśniewskiならば、意味は「桜村のジョンさん(Janは英語のJohn)」となる。-skiの使い方はドイツ語のvon-やフランス語のde-などの使い方と同じであるため、中世 には外国人向けの人名紹介では、たとえばWiśniewskiの場合von Wiśniowoやde Wiśniowoなどのような表記も見られた(アルベルト・ブルゼフスキ の記事を参照)。
また、アメリカ合衆国 など英語 圏の国家に移住 すると、しばしば苗字をそのまま英語に翻訳したものを登録して使うようになる(NowakをNewman、KrawczykをTaylorに改名など)。その結果、現地の社会に同化 していく。
ポーランド国内の苗字人口上位25(2018年)は以下の通り(男女別)[ 78] 。
順位
女性
人数
1
Nowak
90488
2
Kowalska
63003
3
Wiśniewska
49968
4
Wójcik
45041
5
Kowalczyk
44756
6
Kamińska
43032
7
Lewandowska
42678
8
Zielińska
41143
9
Szymańska
40438
10
Woźniak
40269
11
Dąbrowska
39357
12
Kozłowska
34082
13
Jankowska
31234
14
Wojciechowska
30420
15
Kwiatkowska
30382
16
Mazur
30179
17
Krawczyk
28818
18
Kaczmarek
28205
19
Piotrowska
27894
20
Grabowska
26305
21
Pawłowska
25009
22
Michalska
24891
23
Zając
24731
24
Król
24540
25
Jabłońska
22997
順位
男性
人数
1
Nowak
92867
2
Kowalski
63635
3
Wiśniewski
50346
4
Wójcik
46052
5
Kowalczyk
45503
6
Kamiński
43473
7
Lewandowski
42170
8
Zieliński
41504
9
Woźniak
41101
10
Szymański
40648
11
Dąbrowski
39352
12
Kozłowski
34520
13
Jankowski
31405
14
Mazur
31271
15
Wojciechowski
30188
16
Kwiatkowski
30120
17
Krawczyk
29109
18
Kaczmarek
28620
19
Piotrowski
28035
20
Grabowski
26695
21
Zając
25955
22
Król
25395
23
Pawłowski
25315
24
Michalski
24790
25
Wróbel
23527
宗教
聖マリア教会主祭壇(クラクフ )、1489年完成
リーヘン大聖堂(2004年完成)、世界最大級の教会 建築となっている
2020年の推計によるとカトリック 85%、正教会1.3%、プロテスタント0.4%、その他の宗教0.3%、不明12.9%となっている[ 79] 。
教育
ワルシャワ大学 新図書館
クラクフ大学 コレギウム・マイウス(ラテン語 :「大カレッジ」)、現在も使用されている15世紀の建築物である
1999年9月1日より、従来のソ連 方式の8・4制を改め、6・3・3制に移行した。
教育水準
ポーランドの特徴のひとつはその教育水準にある。先進国ほどの所得水準でないにもかかわらず、2012年の経済協力開発機構 OECD生徒の学習到達度調査(PISA)の成績は総じて高い。また国際数学コンペティション で総合優勝[ 80] を果たしたこともあった。
大学進学率
2017年には、就職難のために若者の68%が四年制大学 へ進学していた(当時の日本は49%)[ 81] 。この数字はOECD加盟国では8位(日本は23位)である。近年では、若者の95%が高校を卒業した後にも、短大を含めた大学型高等教育を受けることを望む希望者が多いという調査結果もあり、教育熱が日本や韓国の受験戦争時代以前から伝統的に非常に高い[ 82] 。ポーランドの階級社会では、高卒は原則ホワイトカラー職に就けない。これは、大学の入試倍率が極めて高いからである。しかし、2020年代のポーランドは大学を卒業したところで多くは就職先がなく、西欧先進国などへ労働移民者とし移住しているのが現状である[ 70] 。国立大学の授業料は無料でも、少子化 は進行中である。
IT教育に熱心な国のひとつで、2014年に開催された第1回コーディング世界大会ではポーランドのチームが優勝した[ 83] [ 84] 。
ポーランドの街と子ども
保健
平均寿命 は77.1歳[ 85] 。かつてはユニバーサルヘルスケア が実現されていたが、法改正により保険料不払い者が資格を喪失するようになり、2013年には加入率91.6%に転落した[ 85] 。
医療
社会
隣国に対する感情
世論調査 会社Homo Hominiが2010年12月に行った調査によると、ポーランドと陸続きで国境 を接する7か国(ドイツ 、チェコ 、スロバキア 、ウクライナ 、ベラルーシ 、リトアニア 、ロシア )すべての人々のうち、ポーランド人がもっとも親近感 を持つのは、順に以下のようであることが分かった(複数回答)[ 86] 。
チェコ人 (39%)
スロバキア人 (32%)
ドイツ人 (23%)
リトアニア人 (21%)
ロシア人 (15%)
ウクライナ人 (14%)
ベラルーシ人 (10%)
治安
2013年における経済協力開発機構 (OECD)加盟国の治安ランキングによると、ポーランドの治安の安全性は、36か国中日本 に次いで2位、3位はイギリス[ 87] 。
OECD加盟国内、人口10万人あたりの殺人 発生率の比較は、ポーランド(2010年)17位、1.3件(日本、0.5件)[ 88] 。
国連 、UNODC による人口10万人あたりの発生率では、強盗 率(2012年)70か国中37位、43.67件(日本は64位、2.87件)[ 89] 。
暴力行為 の発生率も低く、OECD加盟国中でもっとも少ないほうから3位[ 90] 。
観光ガイドブックや外務省の海外渡航情報のウェブサイトではポーランドの治安が悪いような印象を読者に与えるような記述がされていることが多いが、実際のところは上記のようにポーランドの犯罪被害は稀で、アイルランド 、イギリス 、アイスランド 、エストニア 、オランダ 、デンマーク 、スイス 、ベルギー 、スウェーデン 、ノルウェー といった、一般に「治安がいい」と考えられている国々よりも犯罪被害率が低いことは2000年代前半からの事実である[ 91] 。
このすでに低い犯罪被害率でさえも年々さらに急速に低下しており(2004年から2010年にかけての7年間で25%の減少)、ポーランドの警察への国民の信頼度は非常に高い[ 92] 。犯罪被害率は2013年から2014年にかけての1年間でもマイナス14%と劇的な低下が見られ、特に暴行、器物損壊、強盗はいずれも1年間でマイナス約20%の大幅な低下を続けている[ 93] 。
ポーランド人にはヨーロッパ人のうち犯罪被害に遭うのをもっとも恐れる用心深い気質があるとされており[ 94] 、刑法では、他人を大声で罵ったり侮蔑的な言葉を投げかけただけでも暴行罪 が成立する[ 95] 。
ヨーロッパ人の間に定着した偏見 やデマ の類として、「ポーランドでは自動車の盗難が多い」と言われるが、実際のところポーランドの自動車の盗難率はイギリス 、デンマーク 、アイルランド 、スペイン 、ポルトガル 、オランダ 、アイスランド 、イタリア 、ノルウェー などといった国々より低い[ 91] 。
法執行機関
警察
人権
カトリックの影響もあり、ヨーロッパで最も厳しい中絶制限を行っておりレイプ、近親姦、母体の生命危機を除いて禁止されている[ 96] 。
国内24の地方紙の内20が与党系の企業の支配下にあり、国会での取材制限[ 97] 、反政府的なメディアへの攻撃[ 98] 、販売店の資本制限などを通じた外国メディアへの圧力などが起こっている[ 99] 。報道の自由は2013年の22位から2020年には62位と低下した[ 100] 。
マスコミ
インターネット
ポーランドはSNSの利用が全世代にわたって定着している。世界的に比較して見ても、18 - 49歳にまでわたる世代でポーランドよりもSNS利用が定着している国はイギリスしかなく、ポーランドは世界第2位で、もちろんアメリカよりも高い。ポーランドのSNS利用率は全世代にわたって高く、世界的に見て高齢層の利用率が世界4位と高いが、若年層の利用率がそれ以上に高いため統計上は世代間の差が大きい結果になるという特異な現象が起きている[ 101] 。
ネット上のメディア
既存の新聞のインターネット版も充実している。特に新聞は投稿を歓迎しており、ほとんどの記事には投稿欄がついている。投稿欄の文字数の制限はないか、あるいは許容文字数が非常に多いため、読者による討論、あるいは記者を交えた討論が盛んに、かつかなり真剣に行われている。ポーランド語を除いては英語による記事や討論が多い。この読者たちが記者を巻き込んで、真剣かつ誠実に討論をする傾向はポーランドでは特に顕著に見られる。
インターネット上のメディアで英語版がもっとも充実しているのはポーランド国営ラジオ局のニュースサイト「Thenews.pl」である。
文化
食文化
ポーランド料理は、基本的には家庭料理が主で、宴会料理や狩猟料理(ビゴスなど)などがある。歴史的に多くの民族からの影響があり、類似する料理はおもに東欧、そのほかドイツ、オーストリアとユダヤ料理となる[ 102] 。周辺のさまざまな民族の食習慣がポーランド文化に交わる。一般的には、味付けは質素でも料理の量が多く、ほぼすべてが農耕国であった東ヨーロッパ の伝統を逸脱していない。ローストした大量の肉塊ばかりではなく、キャベツ や根野菜、主食のイモ を多く使う。基本の4種類のハーブやスパイスを使った料理もよくあるが、おもにクリーム状の濃厚なソースを頻繁に使う。寒冷地方特有の高塩分食で、脂身、ラードやバターを多く使用する料理である。
文学
「ポーランド文学」といえば一般にポーランド語 文学を指すが、ポーランドの文学の伝統はかつてのポーランド=リトアニア共和国 における多民族社会 を反映し、ポーランド語だけでなく、ラテン語 、イディッシュ語 、リトアニア語 、ウクライナ語 、ベラルーシ語 、ドイツ語 、エスペラント語 といった、多くの言語による多様性を特徴としている。ここでは主にポーランド語の文学について述べる。
中世ポーランドにおいては当初ラテン語による記述が主流であった。ポーランド人 によってラテン語で書かれた本で、現存するもののうちもっとも古いものは、13世紀 の歴史家 でクラクフ 司教 でもあったヴィンツェンティ・カドゥウベック による年代記 である。ポーランド語による記述で現存するもののうちもっとも古いものは、13世紀半ばにドイツ人 修道院長によって書かれたラテン語の年代記に現れる、12世紀のヴロツワフ 公ボレスワフ1世 が后 にかけたという「ぼくが粉を引くから、きみは休みなさい("Day ut ia pobrusa, a ti poziwai" )」という労わりの言葉である。このころから古いポーランド語による記述が多く現れるようになった。
15世紀 に入ると、カトリック 司祭 で年代記作者でもあるヤン・ドゥウゴシュ の文筆活動がポーランドにおける文学の発展に大きく寄与した。1470年ごろにはポーランドでもっとも初期の複数の印刷 工場が業務を始めている。これに続いてルネサンス 時代がポーランドでも始まり、以後は書き言葉 としてもポーランド語がポーランドにおける主流となった。この時代にポーランド語文学の発展にもっとも貢献したのは詩人 のヤン・コハノフスキ で、彼の作った多くの詩がポーランド語の標準的な語法と認識されるようになった。コハノフスキは19世紀 以前のスラヴ人 世界におけるもっとも偉大なる詩人であると評価されている[ 103] 。
続くバロック時代 や啓蒙時代 を通じてポーランド語文学は発展したが、ポーランド分割 によってポーランド=リトアニア共和国が消滅したあとは、他国支配に対するポーランド独立運動の意識と結びついて非常に独特なロマン派 文学の発展を見ることになる。この「ポーランド・ロマン派」の代表とされるのがアダム・ミツキェヴィチ である。ポーランドの国民的叙事詩『パン・タデウシュ』は近現代ポーランドの苦難の時代にも常に愛読され、1999年にアンジェイ・ワイダ によって『パン・タデウシュ物語 』(日本語題)として映画化された。ポーランド立憲王国 と旧リトアニア大公国 の各地域で行われた、旧ポーランド=リトアニア共和国 復活運動である対ロシア帝国1月蜂起 が1864年にロシア軍によって残酷に鎮圧されるとポーランドにおけるロマン派の流れは衰退し、実証主義 の時代となる。ポーランド実証主義文学者のうちもっとも広く知られているのは『クオ・ヴァディス 』(のちにマーヴィン・ルロイ 監督によってアメリカ合衆国 のハリウッド で同名映画化)の作者ヘンリク・シェンキェヴィチ と、『農民』の作者ヴワディスワフ・レイモント という、2人のノーベル文学賞 受賞者である。またこの時代は、当時のポーランド社会に多く存在したユダヤ人 コミュニティーを中心にイディッシュ語 文学も多く発表されるようになり、ブルーノ・シュルツ やイツホク・レイブシュ・ペレツ などは多くの人気作品を残した。
一方、このポーランドの苦難の時代に多くのポーランド人が海外で生活するようになったが、没落シュラフタ (ポーランド貴族)のテオドル・ユゼフ=コンラート・コジェニョフスキは船乗りとしての生活のあとイギリス に定住して英語 で小説を書いて次々と発表し、現代英国文学 の代表的文豪の1人として、ジョセフ・コンラッド の筆名によって世界中で愛されている。コンラッドの作品の多くはアメリカ合衆国やイギリスで映画化されているが、たとえば『闇の奥』と『決闘者たち』は、それぞれフランシス・コッポラ 監督の映画『地獄の黙示録 』、リドリー・スコット 監督の『デュエリスト/決闘者 』の原作である。
第二次世界大戦 を経て、共産主義 時代から民主化 までの抑圧の時代は文学が反体制運動の主流となる。体制側の体裁をとった「若きポーランド 」と呼ばれる文学運動も巧妙な反体制活動の側面があった。この時代の代表に詩人のチェスワフ・ミウォシュ と、同じく詩人で日本 の歌川広重 の浮世絵 に触発された詩作で世界的に有名となったヴィスワヴァ・シンボルスカ という2人のノーベル文学賞 受賞者、さらに小説『灰とダイヤモンド 』(アンジェイ・ワイダ によって同名で映画 化)の作者として有名なイェジ・アンジェイェフスキ 、『尼僧ヨアンナ』 (イェジー・カヴァレロヴィチ 監督によって同名映画化)の作者として知られるヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ などがいる。また空想科学文学 (サイエンス・フィクション)の分野ではスタニスワフ・レム が新地平を開き、代表作『ソラリスの陽のもとに 』は『惑星ソラリス 』としてソ連 でアンドレイ・タルコフスキー よって、さらに『ソラリス 』としてアメリカ合衆国でスティーヴン・ソダーバーグ によってそれぞれ映画化されたことで世界的に知られている。
この時代は共産主義体制を嫌い外国へ亡命する人が続出したが、こういった人々の中には、アメリカ合衆国に移住しそこで英語で小説を多く書いて現代アメリカ文学 の前衛的存在 となり、『異境(原題:Steps)』や『庭師 ただそこにいるだけの人(原題:Being There)』(ハル・アシュビー監督、ピーター・セラーズ 主演で『チャンス 』として映画化)など、現在でもその作品が若者を中心にカルト 的人気を獲得している、ユダヤ系ポーランド人のジャージ・コジンスキー として知られるイェジ・コシンスキなどがいる。
またこの時代よりポーランド現代文学の特色であるノンフィクション 文学が勃興した。その代表としては、日本 でも『サッカー戦争 』や『帝国』などの著作で知られ、世界中で「20世紀のもっとも偉大なジャーナリスト 」(英ガーディアン 紙)[ 104] [ 105] 、「世界でもっとも偉大な報道記者 」(独シュピーゲル 紙)、「現代のヘロドトス 」(独フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング 紙)[ 106] などと評価される、リシャルト・カプシチンスキ がいる。
音楽
ポーランド音楽の理論的発展のもっとも初期は13世紀 でノートルダム楽派 の影響を受け、この時代の楽譜がポーランド南部の街で発見される。宗教音楽は『ボグロジツァ (英語版 ) (神の母)』の歌曲 がこの時代に作られたものと推定されている。この曲はポーランド王国 がリトアニア大公国 やプロイセン連合 と同盟してドイツ騎士団 を討った1410年のグルンヴァルトの戦い でも合戦の際に歌われたと伝えられる。『ブーク・シェン・ロージ (英語版 ) (神が生まれる)』は歴代のポーランド王 が戴冠する時に演奏されたポロネーズ の曲で、1792年にはフランチシェク・カルピンスキ (英語版 ) によってポーランドのクリスマス・キャロル としての歌詞が作られた。
16世紀 になるとポーランド音楽は急速に発展した。クラクフ の王宮 であるヴァヴェル城の宮廷音楽家たちが活躍した。5歳で家族とともにイタリアからポーランド王国に移住してポーランドに帰化 したディオメデス・カトー (英語版 ) は、親戚を通してイタリアの最新の音楽情報を得、これをポーランド音楽に応用していった。王国の首都 がワルシャワ に移された16世紀 の終わりごろより多数のイタリア人音楽家がポーランドに来て長期滞在する間社交の場に参加し、演奏会や講義をした。ポーランドの音楽家たちはバロック音楽 のスタイル、最新の楽器 、通奏低音 といった技法などの情報に触れ大いに刺激された。17世紀 初頭からはイタリアの影響を受けてオペラ が盛んに製作されるようになり、ワルシャワは音楽文化や舞台文化の一大中心地として発展していった。しかし、ポーランド王国の国力が急速に衰退していった17世紀の終わりごろよりポーランド音楽の多くの部分が停滞した。
ポーランドの民俗音楽については19世紀より曲の収集と整理が行われた。オスカル・コルベルク (英語版 ) はポーランド文化の復興を目指して熱心に各地を周って曲を収集、20世紀 半ばにポーランドが共産主義 体制となると民俗音楽に関しても国営の音楽・舞踊団が数多く結成された。マゾフシェ 音楽・舞踊団とシロンスク 音楽・舞踊団は共産主義が過去のものとなった現在においても活動している。これらの団体は各地方の民俗音楽をまとめて扱うため、地方性が薄い側面があるといわれるが、外国人にとってはコンサートホール でポーランドの伝統音楽に触れる機会を提供している。現在のポーランド各地には各コミュニティー の自発的な音楽・舞踊団が存在しており、国営音楽・舞踊団ほど大規模な演奏ではないものの、地方色豊かな音楽文化を見せてくれる。ポーランド国内の各地で民俗音楽祭が頻繁に開催され、そのような場で彼ら小規模の音楽・舞踊団が活躍している。
フレデリック・ショパン は、マズルカ やポロネーズ を在住国フランスで作曲した。3拍子のダンスはおもに北東部で、2拍子のダンスは南部でよく見られる。ポロネーズ はもともとポーランド貴族 の舞踏会 で演奏されるもので、フランス語 で「ポーランド風(のダンス音楽)」で、ポーランドでは「ホゾーニ(Chodzony)」と呼ばれるゆったりとしたリズムの絢爛なダンス音楽である。ポーランド貴族たちの舞踏会や宴会で参加者が入場する際に演奏され、このリズムに乗って貴族たちがそれぞれ男女ペアとなり腕を組んで、控え室から会場へとゆったり踊りながら入場し着席するのである。その後、ポロネーズはポーランドにおいても国中に広まった。
ポーランド南部の街ザコパネ を中心とする山岳地方の一帯は「ポトハレ地方」と呼ばれ、ここでは19世紀よりポーランドの芸術の中心地のひとつとなった。民俗芸術だけでなく、現代音楽 の作曲家のカロル・シマノフスキ はこの地方の住民である「グラル人 (「山の人」という意味)」の民俗音楽の収集や、それをモチーフとした作曲も行っている。彼らは弦楽器やバグパイプ を用いて盛んに音楽を演奏する習慣があり、現代ではヴァイオリン やチェロ を多用する。また彼らはリディアンモードの音階を用い、歌うときにはこれによく合う独特の歌唱法であるリディゾヴァニェを使う。ダンス音楽のクシェサニィ(krzesany)は早い動きを必要とするもので、また「山賊踊り」という意味のズブイニツキ(zbójnicki)はこの地方独特のダンスである。
19世紀初頭になるとポーランドのクラシック音楽のスタイルが確立された。ユゼフ・エルスネル はフレデリック・ショパン とイグナツィ・ドブジンスキ (英語版 ) を育てた。カロル・クルピンスキ (英語版 ) とスタニスワフ・モニューシュコ はポーランドのオペラ音楽を発展させた。また、1833年2月には当時世界最大の音楽施設であるワルシャワ大劇場 が完成し、こけら落とし としてジョアキーノ・ロッシーニ のオペラ『セビリアの理髪師 』が演じられた。ヘンリク・ヴィエニャフスキ やユリウシュ・ザレンプスキ がおもな作曲家に挙げられ、テクラ・バダジェフスカ はアマチュアで17歳で『乙女の祈り』がフランスで知られたとされる。
19世紀末から20世紀初頭にはヴワディスワフ・ジェレンスキ 、ミェチスワフ・カルウォーヴィチ 、カロル・シマノフスキ 、伝説のピアニストイグナツィ・パデレフスキ は第一次大戦 後に独立を回復したポーランド共和国の首相となった。ヨーゼフ・コフラー は十二音技法 を開拓した。
第一次大戦後の時代は若い音楽家たちが芸術運動を開始し、グラジナ・バツェヴィチ 、ジグムント・ミチェルスキ (英語版 ) 、ミハウ・スピサック (ポーランド語版 ) 、タデウシュ・シェリゴフスキ などが活躍した。イグナツィ・パデレフスキは政治家としての活動に身を投じた。映画『戦場のピアニスト 』の主人公として有名なウワディスワフ・シュピルマン は大衆音楽 の作曲家、ジャズ 調の歌謡曲 『ワルシャワの赤いバス(Czerwony Autobus)』がある。
第二次大戦 後の社会主義 時代はタデウシュ・バイルト 、ボグスワフ・シェッフェル 、ヴウォジミェシュ・コトンスキ (英語版 ) 、ヴィトルト・シャロネック (英語版 ) 、クシシュトフ・ペンデレツキ 、ヴィトルト・ルトスワフスキ 、ヴォイチェフ・キラール 、カジミェシュ・セロツキ 、ヘンリク=ミコワイ・グレツキ 、クシシュトフ・メイエル 、パヴェウ・シマンスキ 、クシェシミール・デンプスキ (英語版 ) 、ハンナ・クルエンティ (英語版 ) 、エウゲニウシュ・クナピック (英語版 ) 、パヴェウ・ミキェティン (英語版 ) などが活躍した。ジャズではクシシュトフ・コメダ は同国出身のユダヤ系のロマン・ポランスキー 監督の映画『ローズマリーの赤ちゃん 』の映画音楽 を担当した。
5年に一度開かれるワルシャワのショパンコンクール 、ソポト国際音楽祭 はもっともよく知られたポーランド音楽の例である。
また、プシスタネック・ウッドストック (英語版 ) (Przystanek Woodstock -「ウッドストック・バスストップ」の意)はヨーロッパの屋外音楽イベントである。2010年8月1日にはポーランドを含むヨーロッパやアメリカなどから集まった615人のミュージシャンたちがリサイクル 品で作った楽器で同時に演奏し、これが記録としてギネスブック に載ることになった[ 107] [ 108] 。ヴロツワフ のジミ・フェスティバル (Jimi Festival)[ 109] では毎年世界中から数千人のジミー・ヘンドリックス のファンが集まり、ヴロツワフの旧市街広場で「Hey Joe」を演奏する。2009年には6300人が参加し世界でもっとも多い人数によるギターの合奏としてギネスブック に登録されたジミ・フェスティバルが、その後も毎年この祭りはギネス記録を更新し続け、2014年5月の大会では7,344人が「Hey Joe」を演奏し、自分たちが昨年打ち立てたギネス記録(7,273人)を塗り替えている。オポーレ国民音楽祭 (英語版 ) はおもにポーランド国内各地から数多くの民俗音楽団がオポーレ に集まる、まだ共産主義であった1980年代のうちにすでに民俗音楽部門のほかにロック 部門とヒップホップ 部門がある。
現在も、ポーランドの若い作曲家の創作力は衰えておらず、アガタ・ズベル 、マーチン・スタンチック 、ドミニク・カルスキ 、アルトゥール・ザガイェフスキ らは国際的な認知がある[ 110] [ 111] [ 112] 。
『ボグロジツァ』の楽譜(1407年)
ピクニックで踊るポーランド貴族たち
ショパン
踊るグラル人
ワルシャワ大劇場
プシスタネック・ウッドストック2012
美術
ポーランドの芸術は、その独自の特徴を保持しながら、屡々ヨーロッパの傾向を反映して来た歴史を持つ。ヤン・マテイコ によって生み出されたクラクフ学派の歴史絵画は、ポーランドの歴史全体に亘る重要な出来事や当時の習慣などの記述的描写を編み出している。
漫画
映画
被服・服飾
建築・住居
ポーランド国内の都市の中心部は中世 の街並みが保存維持されているが、外縁部の風景に共通するのは旧共産圏によく見られる四角い灰色のアパート群が多い。これは旧体制時代に建設されたもので、戦後、人口増加の対策として間に合わせに作られたものである。こじんまりして、各戸の多くが前面と後面の両方に窓がある、欧州の寒い地方によくある防寒のため二重窓であったり、セントラルヒーティング システムがついている。物資不足の共産主義を反映し、壁が薄い建物もあり、近代的ではなく、使い勝手はあまり機能的ではない。近くには何軒かの店か酒屋・大衆食堂、バスやトラムの停留所・公園・カトリック教会があるように設計されている。しかし一方、そういった近代アパートの存在がポーランドのよき文化的伝統に対する脅威となっているとの社会学的非難がある。地区のカトリック教会 がある程度人々を結びつけている。
首都ワルシャワ に関しては、今も共産圏時代の灰色のビルが中心街に数多く残っている。高度成長 を背景に、一部では複数の不動産開発業者がビジネス街に富裕層向けマンション ・オフィス ・ホテル 複合施設を建設することになっており、今後数年の間に多数の高層ビル が新たに出現することになっている[ 113] 。
田舎の木造住宅(ヴィスワ町)
ポーランドのアパート
地方の街の住居(ヴァルミア地方)
世界遺産
ポーランド国内には、ユネスコ の世界遺産 リストに登録された文化遺産が12件ある(そのうちドイツとに跨っているものが1件)。ベラルーシ とに跨って1件の自然遺産が登録されている。
史上第1号の世界文化遺産リスト登録全8件のうち2件(クラクフ歴史地区 とヴィエリチカ岩塩坑 )がポーランドにある。
現在、世界遺産の暫定リストに4件が登録されている(そのうち1件は現在登録されている自然遺産の拡張である)。
祝祭日・年間行事
日付
日本語表記
現地語表記
備考
1月1日
元日
Nowy Rok
新年。ニューイヤーパーティーなどが盛大に行われる。(休)
1月6日
3人の博士 の日
Trzech Króli
三人の博士がイエス・キリストに会いに来たのを記念する日。
1月21日・1月22日
おばあちゃんの日・おじいちゃんの日
Dzień Babci・Dzień Dziadka
21日がおばあちゃんの日で22日がおじいちゃんの日
移動祝祭日
脂の木曜日
Tłusty Czwartek
脂っこいものを食べる日。2月中旬、謝肉祭 直前の木曜。
移動祝祭日
復活祭
Wielkanoc
春の満月後の最初の日曜日と翌日の月曜日。キリスト の復活を祝う日。クリスマスと並ぶ大きな祭日。2007年は4月8日と9日。(休)
5月1日
メーデー
Święto Pracy
(休)
5月3日
「5月3日憲法 」記念日
Rocznica Konstytucji 3 maja
1791年に制定された憲法を記念する日。※ヨーロッパで初めての憲法 (休)
5月26日
母の日
Dzień Matki
移動祝祭日
聖霊降臨 の祝日
Zielone Świątki
復活祭後の7回目の日曜日。聖霊が使徒 たちの上に下ったことを記念。2007年は5月27日 (休)
6月1日
子供の日
Dzień Dziecka
移動祝祭日
聖体の祝日
Boże Ciało
聖霊降臨節の10日後の木曜日。最後の晩餐 を記念する。2009年は6月11日(休)
6月23日
父の日
Dzień Ojca
8月15日
聖母被昇天の祝日
Wniebowzięcie Najświętszej Marii Panny
チェンストホーヴァ (Częstochowa) にあるヤスナ・グラ寺院 (Jasna Góra) へ、ポーランド各地から大規模な巡礼が行われる。(休)
11月1日
諸聖人の日
Wszystkich Świętych
諸聖人 を祭る日。墓地で家族や親類の墓にろうそくを置く(日本で言うお盆)。 (休)
11月2日
死者の日
Zaduszki
祖先の霊を供養する日
11月11日
独立記念日
Narodowe Święto Niepodległości
ロシア とドイツ 、オーストリア からの独立を記念する日。(休)
12月6日
サンタクロース の日
Mikołajki
Mikołaj(Nicolaus=サンタクロース)の日とされ、子供たちにプレゼントが与えられる。
12月24日
キリスト降誕祭前夜(クリスマス・イヴ )
Wigilia Bożego Narodzenia
教会でミサ を行う。基本的に日本のクリスマス・イヴとは違い家族で過ごす(日本のお正月のような雰囲気)。この日は肉を食べてはいけないという慣わしがあり、伝統的に鯉を食べる。
12月25日〜12月26日
キリスト降誕祭(クリスマス )
Boże Narodzenie
クリスマスの日。親戚や家族で集まる。(休)
12月31日
シルヴェスターの夜
Sylwester
大晦日に当たるが、日本のものとは異なる。家族や親戚、友人でパーティーを催したり、夜中の12時に花火を飛ばしたりする。
※(休)は休日
スポーツ
UEFA EURO 2012 のポーランド 対チェコ
ポーランドでも他のヨーロッパ 諸国同様にサッカー が最も人気のスポーツ となっており、2012年にはウクライナ との共催によってUEFA EURO 2012 が開催された。
さらに近年では、自国の総合格闘技 団体KSW の影響でMMA の人気が高まっており、UFC では元ライトヘビー級 王者であるヤン・ブラホヴィッチ や元ストロー級 王者のヨアナ・イェンジェイチック を輩出している。
他方で、アダム・マリシュ やカミル・ストッフ などの活躍により、スキージャンプ も盛り上がりをみせている。
サッカー
ロベルト・レヴァンドフスキ (2018年)
ポーランドでは、1926年 にプロサッカーリーグのエクストラクラサ が創設された。ポーランドサッカー協会 (PZPN)によって構成されるサッカーポーランド代表 は、FIFAワールドカップ には9度の出場歴があり、1974年大会 と1982年大会 では3位に輝いている。UEFA欧州選手権 には4度の出場歴があり、2016年大会 ではベスト8の成績を収めた。
ポーランドにおける最も著名なアスリートとして、ロベルト・レヴァンドフスキ が挙げられる。レヴァンドフスキは、これまでドイツ ・ブンデスリーガ の得点王を7度受賞しゲルト・ミュラー を超え、同リーグにおける1シーズンでの最多得点記録(41点)保持者である[ 114] 。UEFAチャンピオンズリーグ においても、2019-20シーズン に自身初の得点王に輝いている[ 115] 。
バレーボール
ポーランドではサッカーの他、バレーボール も人気のあるスポーツとなっており、中でも男子代表 は東欧の古豪として知られ、[1976年モントリオールオリンピック]で金メダル、世界選手権 では3回優勝、欧州選手権 では1回の優勝を誇り、強豪国の一角をなしている。
著名な出身者
関連項目
脚注
注釈
出典
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参考文献
外部リンク
政府
日本政府
大使館
観光その他
^ “2010年上海万博”にて上映(ポーランド共和国・3Dアニメーション専門スタジオ『Platige Image S.A.』製作)
加盟国 準加盟国 オブザーバー 資格停止中
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