スペイン王国
Reino de España
国の標語:Plus Ultra (ラテン語 :更なる前進)
国歌 :Marcha Real (スペイン語) 国王行進曲
^ “スペイン王国基礎データ ”. 外務省. 2018年11月5日 閲覧。
^ “Estadística Continua de Población (ECP) ”. スペイン国立統計局. 2024年5月6日 閲覧。
^ “UNdata ”. 国連. 2021年11月5日 閲覧。
^ a b c d e IMF Data and Statistics 2021年11月5日閲覧([1] )
スペイン王国 (スペインおうこく、西 : Reino de España )、もしくはスペイン国 (スペインこく、西: Estado español )、通称スペイン (西: España )は、南ヨーロッパ のイベリア半島 に位置し、同半島の大部分を占める議会 君主制 国家 。首都 はマドリード 。総人口は約4859万2909人。スペイン本土以外に、西地中海 のバレアレス諸島 やアルボラン海 のアルボラン島 、大西洋 のカナリア諸島 、北アフリカ の飛地 領土のセウタ とメリリャ を有しており、モロッコ 沿岸部にもいくつか領土がある(プラサス・デ・ソベラニア )。その他の主要都市部にはバルセロナ 、バレンシア 、サラゴサ などがある。
西にポルトガル 、南にイギリス 領ジブラルタル 、北東にフランス とアンドラ 、アフリカ大陸 にあるセウタとメリリャではモロッコと陸上国境を接する。現在、欧州連合加盟国においては人口率の高さが第4位となっている。
概要
古代初期、イベリア半島にはケルト人、イベリア人、その他のローマ時代以前の人々が居住していた。ローマ帝国がイベリア半島を征服すると、ヒスパニア州が設立されることとなった。ヒスパニアのローマ化とキリスト教化に続いて、西ローマ帝国の崩壊 (英語版 ) は、トレド を中心とする西ゴート王国 を形成した西ゴート族 を含む中央ヨーロッパ からの部族 による民族移動時代 の先駆けとなった。8世紀 初頭、同半島の大部分がウマイヤ朝 に侵略 (英語版 ) され、初期のイスラム王朝支配下では、アル=アンダルス がコルドバ を中心とする半島地域の支配的な勢力となった。北イベリアにはいくつかのキリスト教王国が出現し、その中でも特にアストゥリアス王国 、
レオン王国 、カスティーリャ王国 、アラゴン王国 、ナバラ王国 、ポルトガル王国 が有名であった。レコンキスタ と呼ばれる南方への軍事的拡大と再人口化が断続的に行われ、イベリア半島のイスラム教派の支配を撃退し、1492年にキリスト教派がグラナダ のナスル朝 支配下の地域を奪取した。1479年にカトリック君主の下でカスティーリャ王冠領 (英語版 ) とアラゴン王冠領 が王朝統合されたが、これはスペインにおける事実上の国民・国家の統一と見做されることがよくある。
大航海時代 、スペインは新世界の探検の先駆者となり、初めて地球一周を達成 (英語版 ) し、史上最大の帝国の1つ を形成することなった[ 1] 。同帝国は世界規模に達し、すべての大陸に影響を及ぼす他、主に貴金属を基盤とする世界的な貿易制度の台頭を支えた。18世紀、ブルボン家 はスペイン本土を中央集権化 することとなった[ 2] 。19世紀 、ナポレオン・フランス帝国 に抗う形で起こした独立戦争 後、その後の自由主義者 と絶対主義者 間の政治的分裂は、アメリカ大陸のスペイン領植民地 (英語版 ) の分離へとつながった。これらの政治的分裂は、20世紀 に内戦 と共に漸く収束し、1975年まで続いたフランコ主義独裁政権 を生み出すこととなった。民主主義 の回復と欧州連合 への加盟により、同王国は社会的および政治的に大きく変貌する好景気を経験している。黄金時代 以降、スペインの芸術、建築、音楽、詩、絵画、文学、料理といった文化の数々は、特に西ヨーロッパとアメリカ大陸を中心に、世界中で影響力を持つようになった。その広い文化的な豊かさを反映するかのように、スペインは世界第2位の観光地であり、世界で最も多くの世界遺産があり、ヨーロッパの学生に最も人気のある観光地ともなっている[ 注釈 5] 。その文化的影響は6億人以上のスペイン語圏地域 (英語版 ) の国々にまで及んでいる。また、スペイン語は母語話者数が世界2位であり、分類される語群 であるロマンス語 の中では世界で最も広く話されている言語となっている[ 3] 。
スペインは世俗的な議会制民主主義と立憲君主制を兼ね備えた国家であり[ 4] 、フェリペ6世を国家元首としている。中国からは、主要な先進資本主義経済国家と見做されており[ 5] 、名目GDPとPPPの両方で世界第15位である。スペインは、国際連合 (UN)、欧州連合(EU)、ユーロ圏 、北大西洋条約機構 (NATO)、G20 の常任理事国であり、欧州評議会 (CoE)、イベロアメリカ諸国機構 (英語版 ) (OEI)、地中海連合 、経済協力開発機構 (OECD)、欧州安全保障協力機構 (OSCE)および世界貿易機関 (WTO)に加盟している。他、多くの国際機関 に加盟している国家の一部として知名度が高い存在でもある。
国名
1978年改正の憲法 では正式な国名は定められておらず[ 注釈 6] 、スペイン語で、España ([esˈpaɲa] ( 音声ファイル ) 、エスパーニャ)のほか、Estado español (エスタード・エスパニョール)、Nación española (ナシオン・エスパニョーラ)、Reino de España (レイノ・デ・エスパーニャ)などがある[ 7] 。
日本語の表記はそれぞれ、スペイン 、スペイン王国 、スペイン国 。これは英語表記の「Spain 」に基づく。中国語から漢字による表記 は西班牙 で、西 と略す。ただし、江戸時代 以前の日本においては、よりスペイン語の発音に近い「イスパニア (イスパニヤ )」という呼称が用いられていた。語源は古代ローマ 人のイベリア半島の呼び名「ヒスパニア 」である。
英語表記で国民はSpaniard (個人を指す場合。総体としてはSpanish )、形容詞はSpanish 。
「España (エスパーニャ)」の由来は諸説あり、フェニキア語 で「ハイラックス の島」を意味する「i-shaphanim」に由来するという説、または文献学の専門家である歴史家のヘスス・ルイス とホセ・アンヘル が提唱したフェニキア語で「冶金の島」を意味する「I-span-ya」が「España 」の由来だという説もある。
(アンダルシアの海岸またはタルテッソス王国 にフェニキア人が到着した際に、激しい採鉱と冶金活動がされていたことに関係している)
なお、現在は後者の「冶金の島」が国名の由来として最も信憑性が高いとして扱われている[ 8] [ 9] 。
「エスパーニャ」という名称は、長らく同地を指す俗称だった。カスティーリャ王国 とアラゴン王国 の1492年の統合以降でも国王はあくまで連合王国(「カトリック (またはスペイン)君主制 国(モナルキア)」と称されることが多かった)の共通君主に過ぎず、宮廷や議会・政府は各構成国毎に置かれている諸侯連合だった。1624年に宰相オリバーレス は国王に「スペイン国王」となるよう提案したが実現しなかった。1707年発布の新組織王令により複合王政は廃止され、単一の中央集権国となった。しかしこの時もスペインは国号 とはならず、1808年にナポレオン・ボナパルト の兄ホセ1世 の即位した時に正式にスペイン国王が誕生した(スペインの国旗 が登場したのは1785年)。
1978年憲法で、それまで明記されていた国号が定められなかったのは、君主制は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するために採られた措置であった。
なお、スペイン外務省は1984年に、「スペイン王国」と「スペイン」を国際条約においては同等と見なすとの法令を出した。現在は国際条約や国際組織の文書、国内の公式文書や外交文書において前者が公式国名として使用される事が多い[ 10] 。
歴史
先史時代から前ローマ時代
アルタミラ洞窟壁画 のレプリカ
アタプエルカ 遺跡の考古学的研究から120万年前にはイベリア半島 に人類が居住していたことが分かっている[ 11] 。3万5000年前にはクロマニョン人 がピレネー山脈 を越えて半島へ進出し始めている。有史以前の最もよく知られた遺物が北部カンタブリア州 のアルタミラ洞窟 壁画(紀元前1万5000年)である。
イベリア美術の傑作「エルチェの貴婦人
鉄器時代 の半島には北東部から南西部の地中海側にイベリア人 が、北部から北西部の大西洋側にはケルト人 が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わりケルティベリア 文化が生まれている。また、ピレネー山脈西部にはバスク人 がいた。アンダルシア 地方には幾つものその他の民族が居住している。南部の現在のカディス 近くにはストラボン の『地理誌 』に記述されるタルテッソス王国 (紀元前1100年ごろ)が存在していたとされる。
紀元前500年から紀元前300年ごろにフェニキア人 と古代ギリシャ 人が地中海沿岸部に植民都市 を築いた。ポエニ戦争 の過程でカルタゴ が一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、ローマ帝国 の支配に代わった[ 12] 。
ローマ帝国とゲルマン系諸王国
メリダ のローマ劇場
紀元前202年、第二次ポエニ戦争 の和平でローマは沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州 ヒスパニア とした。法と言語とローマ街道 によって結びつけ、その支配はその後500年以上続くことになる[ 13] 。原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、部族長たちはローマの貴族階級 に加わった[ 12] 。ヒスパニア州はローマの穀倉地帯 となり、港からは金、毛織物、オリーブオイル そしてワイン が輸出された。キリスト教 は1世紀に伝えられ、2世紀には都市部に普及した[ 12] 。現在のスペインの言語、宗教、法原則のほとんどはこの時期が原型となっている[ 13] 。
ローマの支配は409年 にゲルマン系 のスエビ族 、ヴァンダル族 、アラン族 が、それに続いて西ゴート族 が侵入して終わりを告げた。410年 ごろ、スエビ族はガリシア と北部ルシタニア (現ポルトガル )の地にスエビ王国 (ガリシア王国 )を建て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方のドウロ川 にかけて王国を建てている。415年 ごろ、西ゴート族が南ガリアに西ゴート王国 を建国し、418年 ごろに最終的にヒスパニア全域を支配した。552年 には東ローマ帝国 もジブラルタル海峡 の制海権 を求めて南部に飛び地のスパニア (英語版 ) 属州を確保し、ローマ帝国再建の足がかりにしようとした。西ゴート王国治下の589年 にトレド教会会議 が開催され、国王レカレド1世 がそれまで西ゴート族の主流宗旨だったアリウス派 からカトリック教会 に改宗し、以後イベリア半島のキリスト教の主流はカトリックとなった。
イスラームの支配
ナスル朝 の首都グラナダ に建設されたアランブラ宮殿
711年 に北アフリカからターリク・イブン=ズィヤード 率いるイスラーム勢力 のウマイヤ朝 が侵入し、西ゴート王国 はグアダレーテ河畔の戦い で敗れて718年 に滅亡した。この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、イスラームに征服された半島はアラビア語 でアル・アンダルス と呼ばれようになった。他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部(現在のアストゥリアス州 、カンタブリア州 、ナバーラ州 そして 北部アラゴン州 )に逃れてアストゥリアス王国 を築き、やがてレコンキスタ (再征服運動:Reconquista ))を始めることになる[ 12] 。
イスラームの支配下ではキリスト教徒 とユダヤ教徒 は啓典の民 として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー (庇護民)として一定の制限を受けた[ 14] 。
後ウマイヤ朝 の首都コルドバ に建設されたメスキータ (モスク )の内部
シリア のダマスカス にその中心があったウマイヤ朝はアッバース革命 により750年 に滅ぼされたが、アッバース朝 の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世 はアンダルスに辿り着き、756年 に後ウマイヤ朝 を建国した。後ウマイヤ朝のカリフ が住まう首都コルドバ は当時西ヨーロッパ 最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリム は中東 や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進み、10世紀ごろのアンダルスではムワッラド(イベリア半島出身の改宗ムスリム)が住民の大半を占めていたと考えられている[ 15] [ 16] 。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、度々北アフリカのベルベル人 が侵入してアラブ人 と戦い、多くのムーア人 がグアダルキビール川 周辺を中心に沿岸部のバレンシア州 、山岳地域のグラナダ に居住するようになった[ 16] 。
11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ 諸王国に分裂した。イスラーム勢力の分裂は、それまで小規模だったナバラ王国 やカスティーリャ王国 、アラゴン王国 などのキリスト教諸国が大きく領域を広げる契機となった[ 16] 。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入したムラービト朝 とムワッヒド朝 が統一を取り戻して北部へ侵攻したものの、キリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった[ 12] 。
イスラーム支配の終焉と統一
マンサナーレス・エル・レアル (英語版 ) の城
レコンキスタはアストゥリアス王国のペラーヨ が722年 のコバドンガの戦い に勝利したことに始まると考えられ、イスラームの支配時期と同時に進行し、数百年続いた。キリスト教勢力の勝利によって北部沿岸山岳地域にアストゥリアス王国 が建国された。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、トゥール・ポワティエ間の戦い でフランク王国 に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、エブロ川 とドウロ川 を境界とする。739年 にはイスラーム勢力はガリシア から追われた。しばらく後にフランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領(スペイン辺境領 )を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域はバスク地方 、アラゴン そしてカタルーニャ を含んでいる[ 12] 。
1212年のナバス・デ・トロサの戦い
アンダルスが相争うタイファ諸王国に分裂してしまったことによって、キリスト教諸王国は大きく勢力を広げることになった。1085年 にトレド を奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀 にイスラーム勢力は一旦は再興したものの、13世紀 に入り、1212年 のナバス・デ・トロサの戦い でキリスト教連合軍がムワッヒド朝 のムハンマド・ナースィル に大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年 にコルドバ が、1248年 にセビリア が陥落し、ナスル朝 グラナダ王国 がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった[ 17] 。
カトリック両王 (フェルナンド2世 とイサベル1世 )
13世紀 と14世紀 に北アフリカからマリーン朝 が侵攻したが、イスラームの支配を再建することはできなかった。13世紀にはアラゴン王国 の勢力は地中海を越えてシチリア に及んでいた[ 18] 。このころにヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学 (1212年 /1263年 )とサラマンカ大学 (1218年 /1254年 )が創立されている。1348年 から1349年 の黒死病 大流行によってスペインは荒廃した[ 19] 。
1469年 、イサベル女王 とフェルナンド国王 の結婚により、カスティーリャ王国 とアラゴン王国が統合される。再征服の最終段階となり、1478年 にカナリア諸島 が、そして1492年 にグラナダが陥落した。これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。グラナダ条約 (英語版 ) ではムスリムの信仰が保障されている[ 20] 。この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブス がアメリカ大陸 に到達している。またこの年にスペイン異端審問 が始まり、ユダヤ人 に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた[ 21] 。その後同じ条件でムスリムも追放された[ 12] 。
イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して中央集権 化を進め、またローマ時代のヒスパニア (Hispania ) を語源とするエスパーニャ (España ) が王国の総称として用いられるようになった[ 12] 。政治、法律、宗教そして軍事の大規模な改革が行われ、スペインは史上初の世界覇権国家 として台頭することになる。
スペイン帝国
スペイン・ポルトガル同君連合 (1580年–1640年)時代のスペイン帝国 の版図(赤がスペイン領、青がポルトガル領)
1516年 、ハプスブルク家 のカール大公がスペイン王カルロス1世 として即位し、スペイン・ハプスブルク朝 が始まる。カルロス1世は1519年 に神聖ローマ皇帝 カール5世としても即位し、ドイツ で始まったプロテスタント の宗教改革 に対するカトリック教会 の擁護者となった。
16世紀前半にエルナン・コルテス 、ペドロ・デ・アルバラード 、フランシスコ・ピサロ をはじめとするコンキスタドーレス がアステカ文明 、マヤ文明 、インカ文明 など中南米 の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民はインディオ と呼ばれ、奴隷労働によって金 や銀 を採掘させられ、ポトシ やグアナフアト の銀山から流出した富はオスマン帝国 やイギリス との戦争によってイギリスやオランダ に流出し、ブラジル の富と共に西ヨーロッパ 先進国 の資本の本源的蓄積 の原初を担うことになった。これにより、以降5世紀に及ぶラテンアメリカ の従属と低開発が規定された[ 22] 。
スペイン帝国はその最盛期にはブラジル などを除く南アメリカ大陸 、中央アメリカ の大半(メキシコ など)、北アメリカ の南部と西部、フィリピン 、グアム 、マリアナ諸島 、北イタリア の一部、南イタリア 、シチリア島 、北アフリカのいくつかの都市、現代のフランス とドイツの一部、ベルギー 、ルクセンブルク 、オランダ を領有していた[ 23] 。また、1580年 にポルトガル王国 のエンリケ1世 が死去してアヴィシュ王朝 が断絶すると、スペイン王がポルトガル王を一時兼ねた。植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀 から17世紀 のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。
フェリペ2世
このハプスブルク朝のカルロス1世(1516年 - 1556年 )とフェリペ2世 (1556年 - 1598年 )の治世が最盛期であり、スペインは初めての「太陽の没することなき帝国 」となった。海上と陸上の探検が行われた大航海時代 であり、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの植民地主義 が始まった。探検者たちは貴金属 、香料 、嗜好品、新たな農作物とともに新世界 に関する新たな知識をもたらした。この時期はスペイン黄金世紀 と呼ばれる。なお、1561年 、フェリペ2世は宮廷をマドリード に移し、以後マドリードは今日に至るまでスペインの首都となっている。
この時期にはイタリア戦争 (1494年 - 1559年 )、コムニダーデスの反乱 (1520年 - 1521年 )、ネーデルラント の反乱(八十年戦争 )(1568年 - 1648年 )、モリスコの反乱 (英語版 ) (1568年 )、オスマン帝国との衝突 (英語版 ) (レパントの海戦 , 1571年)、英西戦争 (1585年 - 1604年 )、モリスコ追放 (1609年 )、そしてフランス・スペイン戦争 (1635年 - 1659年 )が起こっている。
16世紀末から17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。急速に勃興したオスマン帝国 と地中海で戦い、イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。さらに、プロテスタント の宗教改革 運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった[ 24] 。
16世紀のスペインのガレオン船
1588年 のアルマダの海戦 で無敵艦隊 が英国 に敗れて弱体化を開始する。三十年戦争 (1618年 - 1648年 )にも部隊を派遣。白山の戦い の勝利に貢献し、ネルトリンゲンの戦い では戦勝の立役者となるなど神聖ローマ皇帝軍をよく支えた(莫大な財政援助も行っていた)。しかしその見返りにスペインが期待していた皇帝軍の八十年戦争参戦やマントヴァ公国 継承戦争への参戦は実現しなかった。戦争の終盤にはフランス に手痛い敗北を受けている。これらの戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。
1640年 にはポルトガル王政復古戦争 によりブラガンサ朝 ポルトガルが独立し、1648年 にはオランダ共和国 独立を承認、1659年 にはフランス・スペイン戦争を終結させるフランスとのピレネー条約 を不利な条件で締結するなど、スペインの黄金時代 は終わりを告げた。
18世紀 の初頭のスペイン継承戦争 (1701年 - 1713年 )が衰退の極みとなった。この戦争は広範囲の国際紛争になったとともに内戦でもあり、ヨーロッパにおける領土の一部と覇権国としての地位を失わせることとなる[ 12] 。しかしながら、スペインは広大な海外領土を19世紀 のラテンアメリカ諸国独立 や米西戦争 まで維持した。
フィリップ5世の家族》ルイ・ミシェル・ヴァン・ロー作、1743年
この戦争によって新たにブルボン家 が王位に就き、フェリペ5世 がカスティーリャ王国とアラゴン王国を統合させ、それまでの地域的な特権を廃止し、二国で王位を共有していたスペインを真に一つの国家としている[ 12] 。
1713年 、1714年 のユトレヒト条約 とラシュタット条約 によるスペイン・ブルボン朝 の成立後、18世紀には帝国全域において再建と繁栄が見られた。1759年 に国王に即位した啓蒙専制君主 カルロス3世 治下でのフランスの制度の導入は、行政と経済の効率を上げ、スペインは中興を遂げた。またイギリス、フランス発の啓蒙思想 がホベジャーノス (スペイン語版 、英語版 ) や、フェイホー (スペイン語版 、英語版 ) によって導入され、一部の貴族や王家の中で地歩を築くようになっていた。18世紀後半には貿易が急速に成長し、1776年に勃発したアメリカ独立戦争 ではアメリカ独立派 に軍事援助を行い、国際的地位を向上させている[ 25] 。
斜陽の帝国
スペイン独立戦争 を描いたフランシスコ・デ・ゴヤ 画『マドリード、1808年5月3日 』
1789年にフランス革命 が勃発すると、1793年 にスペインは革命によって成立したフランス共和国 との戦争(フランス革命戦争 )に参戦したが、戦場で敗れて1796年にサン・イルデフォンソ条約 を結び、講和した。その後スペインはイギリス、ポルトガルに宣戦布告し、ナポレオン 率いるフランス帝国 と結んだスペインは、フランス海軍 と共に1805年にイギリス海軍 とトラファルガーの海戦 を戦ったものの惨敗し、スペイン海軍 は壊滅した。
19世紀初頭にはナポレオン戦争 とその他の要因が重なって経済が崩壊状態になり、1808年 3月にスペインの直接支配を目論んだフランスによってブルボン朝のフェルナンド7世 が退位させられ、ナポレオンの兄のジョゼフ がホセ1世としてスペイン国王に即位した。この外国の傀儡 国王はスペイン人にとっては恥辱とみなされ、即座にマドリード で反乱が発生した。これが全土へ広がり、1808年からいわゆるスペイン独立戦争 に突入する[ 26] 。ナポレオンは自ら兵を率いて介入し、連携の悪いスペイン軍とイギリス軍を相手に幾つかの戦勝を収めるものの、スペイン軍のゲリラ 戦術とウェリントン 率いるイギリス・ポルトガル軍を相手に泥沼にはまり込んでしまう。その後のナポレオンのロシア遠征 の破滅的な失敗により、1814年 にフランス勢力はスペインから駆逐され、フェルナンド7世が復位した[ 27] 。フェルナンド7世は復位後絶対主義 への反動 政策を採ったため、自由主義 を求めるスペイン人の支持を受けて1820年にラファエル・デル・リエゴ 将軍が率いるスペイン立憲革命 が達成され、戦争中にカディス で制定されたスペイン1812年憲法 が復活したが、ウィーン体制 の崩壊を恐れる神聖同盟 の干渉によって1823年にリエゴ将軍は処刑され、以後1世紀に及ぶ政治的不安定と分裂を決定付けた。また、挫折した立憲革命の成果もあって、1825年 にシモン・ボリーバル をはじめとするリベルタドーレス の活躍によって南米最後の植民地ボリビア が独立し、キューバ とプエルトリコ 以外のアメリカ大陸 の植民地を失った。
立憲革命挫折後の19世紀スペインは、王統の正統性を巡って三次に亘るカルリスタ戦争 が勃発するなどの政治的不安定と、イギリスやベルギー、ドイツ帝国 、アメリカ合衆国 で進行する産業革命 に乗り遅れるなどの経済的危機にあった。1873年にはスペイン史上初の共和制 移行(スペイン第一共和政 )も起こったが、翌1874年には王政復古 した。また、19世紀後半には植民地として残っていたフィリピン とキューバで独立運動が発生し、1898年 にキューバのハバナ でアメリカ海軍 のメイン 号が爆沈したことをきっかけに、これらの植民地の独立戦争にアメリカ合衆国が介入した。この米西戦争 に於いて、スペイン軍の幾つかの部隊は善戦したものの、高級司令部の指揮が拙劣で短期間で敗退してしまった。この戦争は "El Desastre"(「大惨事 」)の言葉で知られており、敗戦の衝撃から「98年世代 」と呼ばれる知識人の一群が生まれた。
スペイン内戦終結まで
国王アルフォンソ13世 とミゲル・プリモ・デ・リベラ 将軍(1930年)
スペイン内戦 に参戦した国際旅団 のポーランド人 義勇兵
スペインはアフリカ分割 では僅かな役割しか果たさず、スペイン領サハラ (西サハラ )とスペイン領モロッコ (モロッコ )、スペイン領ギニア (赤道ギニア )を獲得しただけだった。スペインは1914年 に勃発した第一次世界大戦 を中立 で乗り切り、アメリカ合衆国発のインフルエンザ のパンデミック が中立国 スペインからの情報を経て世界に伝わったため、「スペインかぜ 」と呼ばれた。第一次世界大戦後、1920年 にスペイン領モロッコで始まった第3次リーフ戦争 では大損害を出し、フランス軍の援軍を得て1926年 に鎮圧したものの、国王の権威は更に低下した。内政ではミゲル・プリモ・デ・リベラ 将軍の愛国同盟 (英語版 ) (後にファランヘ党 に吸収)による軍事独裁政権(1923年 - 1930年 )を経て、1930年にプリモ・デ・リベーラ将軍が死去すると、スペイン国民の軍政と軍政を支えた国王への不満の高揚により、翌1931年にアルフォンソ13世 が国外脱出し、君主制は崩壊した。君主制崩壊によりスペイン1931年憲法 (英語版 ) が制定され、スペイン第二共和政 が成立した。第二共和国はバスク 、カタルーニャ そしてガリシア に自治権を与え、また女性参政権 も認められた。
しかしながら、左派 と右派 との対立は激しく、政治は混迷を続けた。1936年 の選挙にて左翼共和党 (英語版 ) (IR)、社会労働党 (PSOE)、共産党 (PCE) ら左派連合のマヌエル・アサーニャ スペイン人民戦線 政府が成立すると軍部 が反乱を起こし、スペイン内戦 が勃発した。3年に及ぶ内戦はソビエト連邦 の支援を受けた共和国政府を、ナチス・ドイツ とイタリア王国 の支援を受けたフランシスコ・フランコ 将軍が率いる反乱軍 (英語版 ) が打倒することで終結した。第二次世界大戦の前哨戦となったこの内戦によってスペインは甚大な物的人的損害を被り、50万人が死亡[ 28] 、50万人が国を捨てて亡命し[ 29] 、社会基盤 は破壊し、国力は疲弊しきってしまっていた。
フランコ独裁体制
フランシスコ・フランコ 総統。1939年から1975年までスペインの最高指導者として君臨した。
1939年 4月1日 から1975年 11月22日 まで、すなわちスペイン内戦終結からフランシスコ・フランコ の死去までの36年間は、フランコ独裁時代 であった。フランコが結成したファランヘ党 (1949年 に国民運動に改称)の一党制 となり、ファランヘ党は反共主義 、カトリック主義 、ナショナリズム を掲げた。
第二次世界大戦 ではフランコ政権は枢軸国 寄りであり、独ソ戦 ではソ連と戦う義勇兵 「青師団 」をナチス・ドイツ側に派遣したが、正式な参戦はせずに中立を守った。
第二次世界大戦終結後、ファシズム体制のスペインは政治的、経済的に孤立し、1955年 まで国際連合 にも加入できなかった。しかし、東西冷戦 の進展とともにアメリカはイベリア半島への軍事プレゼンスの必要性からスペインに接近するようになり、スペインの国際的孤立は緩和した。また、フランコは1957年 にモロッコとの間で勃発したイフニ戦争 (Ifni War )などの衝突を経た後、国際的な脱植民地化 の潮流に合わせて徐々にそれまで保持していた植民地を解放し、1968年 10月12日 には赤道ギニア の独立を認めた。フランコ主義 下のスペイン・ナショナリズムの高揚は、カタルーニャ やバスク の言語や文化への弾圧を伴っており、フランコ体制の弾圧に対抗して1959年に結成されたバスク祖国と自由 (ETA)はバスク民族主義 の立場からテロリズムを繰り広げ、1973年にフランコの後継者だと目されていたルイス・カレーロ・ブランコ 首相を暗殺した。
王政復古から現在
首都マドリードのクアトロ・トーレス・ビジネス・エリア
1975年11月22日にフランコ将軍が死去すると、その遺言により フアン・カルロス王子 (アルフォンソ13世の孫)が王座に就き、王政復古 がなされた。
フランコの死により左派の巻き返しが生じ、1976年10月にはマドリード市内で青年らによる暴動が発生。左派の呼びかけにより数万人が参加する規模のゼネラル・ストライキ も発生したが、国民の多くには支持されず、暴徒は警官隊に鎮圧された[ 30] 。
フアン・カルロス国王は専制支配を継続せず、スペイン1978年憲法 の制定により民主化が達成され、スペイン王国は制限君主制 国家となった。1981年 2月23日には軍政復帰を目論むアントニオ・テヘーロ 中佐ら一部軍人によるクーデター 未遂事件が発生したものの、毅然とした態度で民主主義を守ると宣言した国王に軍部の大半は忠誠を誓い、この事件は無血で鎮圧された (23-F )。
民主化されたスペインは1982年 に北大西洋条約機構 (NATO)に加入、同年の1982年スペイン議会総選挙 により、スペイン社会労働党 (PSOE) からフェリペ・ゴンサレス 首相が政権に就き43年ぶりの左派 政権が誕生した。1986年 にはヨーロッパ共同体 (現在の欧州連合 )に加入[要出典 ] 。1992年 にはバルセロナオリンピック を開催した。一方、国内問題も抱えており、スペインはバスク地域 分離運動のETAによるテロ活動に長年悩まされている。1982年に首相に就任したゴンサレスは14年に亘る長期政権を実現していたが、1996年スペイン議会総選挙 で右派 の国民党 (PP) に敗れ、ホセ・マリア・アスナール が首相に就任した。
21世紀 に入ってもスペインは欧州連合の平均を上回る経済成長を続けているが、住宅価格の高騰と貿易赤字が問題になっている[ 31] 。
2002年 7月18日 、ペレヒル島危機 (英語版 ) が起こり、モロッコとの間で緊張が高まったが、アメリカの仲裁で戦争には至らなかった。同年9月、アスナール 首相がイラク戦争 を非常任理事国 として支持、2003年3月のイラク戦争開戦後は有志連合 の一員として、米英軍と共にイラク にスペイン軍 1400人を派遣した。2004年 3月11日 にマドリード列車爆破テロ事件 が起き、多数の死傷者を出した。選挙を3日後に控えていた右派のアスナール首相はこれを政治利用し、バスク祖国と自由(ETA)の犯行だと発表したが、3月14日 に実施された2004年スペイン議会総選挙 では左派の社会労働党が勝利し、サパテロ 政権が誕生した。サパテロ首相は就任後、2004年5月にイラク戦争に派遣されていたスペイン軍を撤退させた。また、後に2004年の列車爆破事件はアルカーイダ の犯行[ 32] と CIA からの発表があると、この対応を巡って政治問題となった。サパテロ政権は2008年スペイン議会総選挙 でも勝利したが、同年9月のリーマン・ショック 勃発により、スペインの経済 (英語版 ) は壊滅的な打撃を受けた。
2011年スペイン議会総選挙 では国民党が勝利し、マリアーノ・ラホイ が首相に就任した。
2016年 9月、去年と今年の2度の総選挙を行っても政権を樹立出来ないままだったが、第一党の国民党のラホイ 首相を首班とする政権樹立を下院で反対多数で否決し、またもや政権樹立に失敗。11月3日になってようやくラホイ再任が決定し新内閣が発足した。
2017年 10月27日 、カタルーニャ州 が独立宣言を行う(カタルーニャ共和国 )も、スペイン側はカタルーニャの自治権を剥奪し直轄統治を開始[ 33] 。2020年 には新型コロナウイルス の拡大が深刻となった。
2021年 9月から10月にかけて、例年、降水量が少ない南東部、アンダルシア州、バレンシア州などで記録的な集中豪雨 が次々に発生。鉄砲水 や河川の氾濫などで住宅地が冠水、自動車に取り残された者が死亡するなどの被害が出た[ 34] [ 35] 。
地理
地形
スペインの地形
スペインの都市名
スペイン本土は高原や山地(ピレネー山脈 やシエラ・ネバダ山脈 )に覆われている。高地からはいくつかの主要な河川(タホ川 、エブロ川 、ドゥエロ川 、グアディアナ川 、グアダルキビール川 )が流れている。沖積平野 は沿岸部に見られ、最大のものはアンダルシア州のグアダルキビール川の平野である。東部の海岸にも中規模な河川(セグラ川 、フカール川 、トゥリア川 )による平野が見られる。
南部と東部は地中海 に面し、バレアレス諸島 が東部の海岸沖にある。北と西は大西洋 に面し、北部で面している海域はカンタブリア海 (ビスケー湾 )と呼ばれる。カナリア諸島 はアフリカ大陸 の大西洋沖にある。
生態系
スペインの生物相はヨーロッパ諸国の中では多様なものとなっている。
動物相は、大西洋と地中海の間、アフリカとユーラシアの間に位置するイベリア半島の地理的位置と、気候の多様性ならび地域区分の明確化による生息地や生息域の多様性に大きく起因している点から、多種多様な生物が生息している。
対して植物相は、地形、気候、緯度の多様性など、いくつかの要因により動物相より豊かなものとなっている面を持つ。同王国には様々な植物地理学的地域が存在しており、それぞれが独自の花の特徴を持っているが、これは主に気候、地形、土壌の種類と火災、生物的要因の相互作用によるものである。2019年時点のスペイン国土における森林景観完全性指数の平均値は4.23/10で、172か国中世界130位にランクされている[ 36] 。
スペインはヨーロッパ領土内においては、ヨーロッパ諸国の中で最も多くの植物種(7,600種の維管束植物)を保有している[ 37] 。傍ら、同王国では178億400万本の樹木があり、毎年平均2億8400万本が新たに成長している[ 38] 。
気候
地理的状況と地形条件に応じて3種類の主要な気候帯に分けられる[ 39] 。全国的には地中海性気候 に属する地域が多い。バスク州 からガリシア州 にかけての北部は西岸海洋性気候 であり、降水量が多い。また、本土から南西に離れたカナリア諸島は亜熱帯気候 に属する。
18~19世紀にカトリック教会から収容された広大な土地で鉱業や農業が行われ、後者は地下の帯水層 から過剰に汲み上げられる地下水 による灌漑 に頼っているため、国土の20%程度が砂漠化 し、乾燥地・半乾燥地全体では75%にも達する。森林火災 も表土 喪失に拍車をかけている[ 40] 。
災害
2024年スペイン洪水 で、200名以上死亡した[ 41] 。
標準時
スペインはイギリス同様、国土の大部分が本初子午線 よりも西に位置しているが、標準時としてはイギリスよりも1時間早い中央ヨーロッパ時間 を採用している(西経13度から18度にかけて存在するカナリア諸島は、イギリス本土と同じ西ヨーロッパ時間 )。このため、西経3度42分に位置するマドリードにおける太陽の南中 時刻は午後1時15分ごろ(冬時間)、午後2時15分ごろ(夏時間 )となり、日の出や日の入りの時刻が大幅に遅れる(カナリア諸島についても同様)。スペインでは諸外国と比べて昼食(午後2時ごろ開始)や夕食(午後9時ごろ開始)の時刻が遅いことで有名だが、これは太陽の南中や日没に時間を合わせているためである。
主要都市
スペインにはマドリードやバルセロナ、バレンシアなど国際的な観光都市が多数存在する。
政治
国政
スペイン下院 議事堂
政体 は立憲君主制 ・議院内閣制 。1975年のフアン・カルロス1世の即位による王政復古により成立した現在の政体では、国王 は象徴君主という位置づけであり、主権 は国民に在する。国王は国家元首 であり、国家の統一と永続の象徴と規定されており、国軍の名目上の最高指揮官 である。国王は議会 の推薦を受けて政府首班(首相 )の指名を行うほか、首相の推薦を受けて閣僚 の任命を行う。現行憲法 はスペイン1978年憲法 である。
国会 は両院制 であり、スペイン下院 は定数350議席で4年ごとの直接選挙で選ばれ、スペイン上院 は定数264議席で208議席が選挙によって選出され、残り56議席が自治州の推薦で選ばれる。
2019年2月現在の与党はスペイン社会労働党 で、国民党 と共に二大政党制 を構成する。2012年ごろより勢力を拡大した共和系政党であるポデモス 、2015年ごろより勢力を拡大したシウダダノス を併せて四大政党制とされることもある。上述のようにスペインの首相は国王が指名を行うため必ずしも議会の最多議席政党の党首が首相に就任するわけではなく、議席上は上下院ともにスペイン社会労働党はスペイン国民党よりも議席数が少ない状態になっている。その他には、スペイン共産党 を中心に左翼少数政党によって構成される政党連合統一左翼 や連合・進歩・民主主義 などの全国政党のほかに、集中と統一 (CiU)、カタルーニャ共和主義左翼 (ERC)、バスク民族主義党 (EAJ-PNV)、ガリシア民族主義ブロック (BNG)、カナリア連合=カナリア民族主義党(CC–PNC)などカタルーニャやバスク、ガリシア州 、カナリア諸島の民族主義地域政党が存在する。
地方行政区画
自治州と県
スペインは17の自治州 (comunidad autónoma) から構成される。また、自治州の下に50の県 (provincia) が存在する。
トレド
また、アフリカ沿岸にも5つの領土がある。セウタ とメリリャ の諸都市は、都市と地域の中間的な規模の自治権を付与された都市として統治されている。チャファリナス諸島 、ペニョン・デ・アルセマス島 、ペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラ で構成されるプラサス・デ・ソベラニア は、スペイン政府が直轄統治する地域である。
主要都市
順位
都市
行政区分
人口(人)
都市
行政区分
人口(人)
1
マドリード
マドリード州
3,277,451
11
アリカンテ
バレンシア州
338,768
2
バルセロナ
カタルーニャ州
1,627,559
12
コルドバ
アンダルシア州
322,327
3
バレンシア
バレンシア州
788,842
13
バリャドリッド
カスティーリャ・イ・レオン州
297,370
4
セビリア
アンダルシア州
684,340
14
ビーゴ
ガリシア州
294,650
5
サラゴサ
アラゴン州
681,430
15
ヒホン
アストゥリアス州
269,311
6
マラガ
アンダルシア州
578,063
16
ルスピタレート・ダ・リュブラガート
カタルーニャ州
265,003
7
ムルシア
ムルシア州
459,778
17
ビトリア=ガステイス
バスク州
252,953
8
パルマ・デ・マヨルカ
バレアレス諸島州
424,837
18
ア・コルーニャ
ガリシア州
245,541
9
ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア
カナリア諸島州
380,667
19
エルチェ
バレンシア州
235,566
10
ビルバオ
バスク州
345,749
20
グラナダ
アンダルシア州
233,680
2021年国勢調査[ 42]
国際関係
旧植民地であったラテンアメリカ 諸国との伝統的友好関係も非常に重要となっており、毎年スペイン、ポルトガルとラテンアメリカ諸国の間で持ち回りで開催されるイベロアメリカ首脳会議 にも参加している。1986年のEC 加盟以降、そこに属してスペインへ資本を輸出する国との関係が相対的に密接となっている。スペインはアフリカ大陸に位置するスペイン領のセウタとメリリャの帰属を巡り、モロッコと領土問題を抱えている。モロッコはダノン などのフランス企業が既に60年以上かけて事業関係を築いてきた国である。また、スペインが1801年以来実効支配 しているオリベンサ に対してポルトガルが返還を求めている。ポルトガルとの間には両国を統一すべきであるとのイベリスモ 思想も存在する。この点、英葡永久同盟 の存在と、イギリスからスペインへ投資が行われていることに注意を要する。ジブラルタル海峡 はヨーロッパ大陸 とアフリカ大陸が近接し、地中海と大西洋を結ぶチョークポイント であり、ケーブル・アンド・ワイヤレス の海底ケーブル が敷設されている。
日本との関係
日西関係史 としては、岩倉使節団 の記録である『米欧回覧実記 』(1878年発行)には、その当時のスペインの地理・歴史について記述した個所がある[ 43] 。日本の鉱業法 はスペインのそれをモデルとしている。
2018年1月1日付けで、外交関係樹立150周年を記念し「日本・スペイン外交樹立関係150周年推進委員会」を設立、「日本・スペイン外交樹立150周年事務局」を外務省欧州局に設置し、周年事業のための公式ロゴも用意された[ 44] 。周年事業登録を募集するサイトも日本語とスペイン語で公開された[ 45] 。同年10月には安倍首相がスペインを訪問。サンチェス首相と会談し、両国の関係を戦略的パートナーシップに格上げすることが合意された[ 46] 。
国家安全保障
空母プリンシペ・デ・アストゥリアス
同王国軍は陸軍 、海軍 、空軍 、グアルディア・シビル の4つの組織から構成されている。国王は憲法によって国軍の最高指揮官であると規定されている。2001年末に徴兵制 が廃止され、志願制 に移行した。2007年の時点で総兵力は147,000人、予備役 は319,000人である。
軍事費 (防衛費)の対国内総生産 (GDP)比は日本 と同程度の約1%内外[ 47] にとどまり、NATO諸国の中で比較しても低率な方ではあるが、イージス艦 や軽空母 、強襲揚陸艦 、マルチロール機 のユーロファイター タイフーン 、レオパルト2EA6 戦車など、他の主要先進国にも引けを取らない最新鋭の兵器を配備している。
また、国境警備隊 として王立国家警察 (スペイン語版 、英語版 ) が存在する。
情報機関
スペインの情報機関は3つの部門に分けられており、全ての部門に様々な警察部隊の諜報機関が付属されている特徴を持っている。
経済
クアトロ・トーレス・ビジネス・エリア
IMF によると、2022年のスペインのGDPは1兆4189億ドル であり、世界第14位である。メキシコ と同じかやや下回る程度の経済規模であり、欧州連合加盟国 では4位である[ 48] 。
世界遺産 や歴史的建築物が多数あるため観光産業 の比重も大きく、国全体のGDPに占める観光産業の割合は10%を超えている[ 49] 。
大企業の社名を挙げるならば、金融のサンタンデール銀行 やビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行 、通信関連企業のテレフォニカ 、電力のイベルドローラ 、ザラ で知られるアパレルのインディテックス 、コンピュータ予約システムで高いシェアを有するアマデウス を提供するIT企業のアマデウスITグループ などが大企業として挙げられる。
欧州統合の効果
1960年代以来、労働組合 の力が弱まり、フランスを主体とする外資が戻ってきた。欧州経済共同体 加盟により投資環境が一挙に改善された。すなわち、近世から旧態依然として障壁となっていたスペインの経済法が欧州全体のルールに取って代わられ、さらに全国産業公社(Instituto Nacional de Industria )というコンツェルン も意義を問われ解体されていった。こうしてスペイン経済は1992年バルセロナオリンピック ごろまで高度成長を続け、「スペインの年」と一部では呼ばれた。しかしユーロダラー の供給量が増えていたせいで、1992年9月にドイツ・マルク が暴騰した。ここで欧州経済は混乱、スペインもその巻き添えとなった。翌1993年に欧州連合(EU)が発足、1999年ペソ がユーロ へ切替わった。21世紀に入ってもスペインは欧州連合の平均を上回る経済成長を続けているが、住宅価格の高騰と貿易赤字が問題となっている[ 50] 。アスナール国民党政権の新自由主義 的な雇用の流動化政策や土地法(Ley del Suelo de España )改正による土地開発制限の緩和、大規模な公共投資の実地、2003年改正EU電力自由化指令年内達成などによって、独仏伊といった欧州の経済大国を上回る勢いの経済成長を達成した。市場為替相場を基としたGDPは2008年は世界9位でカナダ を超えたが、カナダが参加している主要国首脳会議 のメンバーにはなっていない。
高失業率
OECD各国の失業率 [ 51]
2012年10月5日、スペインの月次の失業率はスペインの近代史上初めて25%を突破した(スペイン経済危機 )。2013年には失業率 26.1%、失業者は605万人と過去13年間で最悪の数字となっている[ 51] 。若年失業率 は2013年に52%を超えており、OECD平均の3倍以上に上っている[ 51] 。
欧州各国の例にもれなく、スペインでも反グローバリゼーション を主張する運動が展開された。2014年、ベーシックインカム (最低限所得保障)を政治主張に掲げる政治団体ポデモス が結党され、国民党 に次ぐ2番目の党員数を集めるなど急速に支持を拡大している。
業界
観光産業
観光産業 はスペイン経済の重要な基盤のひとつであり、2017年にはGDPの11.8%を占めた。2018年の統計では雇用の13.5%、260万人の直接雇用が観光産業によるものであり、625億ユーロの収益をもたらして、スペインの貿易赤字の低減に貢献した[ 52] 。2018年の国外からスペインを訪れたインバウンド観光客の数は8,280万人に達し、898億ユーロにおよぶ国際収支上の収益をもたらした[ 52] 。
現在のスペインは世界有数の観光大国である。欧州内で比較すると首位フランスに次ぐ第2位であり、イタリアより上位である。世界比較でも、2017年の国際観光客到着数 では世界2位、2017年の旅行・観光競争力レポート では世界1位を記録した。
スペインを訪れる外国人旅行者(国際観光客到着数)の中ではイギリス人 が最も多く、2018年時点では約1852万人に達していた[ 52] 。
主な観光都市や観光スポット
主な観光都市としてはバルセロナ 、マドリード 、グラナダ で、いずれも世界遺産 を有し、世界の観光客を引き寄せている。またコスタ・デル・ソル やカナリア諸島 を中心とした避寒目的のリゾート需要もスペインの観光産業を支えている。
主な観光スポットを挙げると、たとえばサグラダ・ファミリア は、2019年に470万人の観光客数を記録した[ 53] 。他にもアルハンブラ宮殿 、コルドバの聖マリア大聖堂 (メスキータ )、エル・エスコリアル修道院 、イビサ島 、クエンカ (世界遺産 歴史的城塞都市クエンカ )、セゴビア旧市街と水道橋 などの観光スポットを挙げることができる[ 54] 。
農業
農業は適地適作 であり、北部は麦 類、畜産物を産する。中央部では麦類、ぶどう 、畜産物を産する。東部では柑橘類 、コメ 、南部ではオリーブ 、ぶどう、野菜、コメなどの生産が盛んである。
但し、1960年代以降からは先述されている土地の砂漠化などの問題から農業が衰退して行く傾向にあり、現在では活動人口の約 6%しか雇用されていない深刻な状況に見舞われている[ 55] 。
鉱業
現在、4ヶ所の鉱山 が操業中であり、ニッケル 、銅 、亜鉛 、タングステン を生産している。
スペインの鉱業資源は19世紀からリオ・ティント などの外国資本に採掘されてきた[ 56] 。21世紀以降、採掘量は減少傾向にある。国際競争力が相対的に低下し、外資の投下される産業分野が多様化している。
有機鉱物資源では、世界の市場占有率の1.4%(2003年時点)を占める亜炭 (1228万トン)が有力。品質の高い石炭 (975万トン)、原油 (32万トン)、天然ガス (22千兆ジュール )も採掘されている。主な炭鉱はアストゥリアス州 とカスティーリャ・イ・レオン州 にある。石炭の埋蔵量は5億トンであり、スペインで最も有力な鉱物である。
金属鉱物資源では、世界第4位(占有率9.8%)の水銀 (150トン)のほか、2.1%の占有率のマグネシウム 鉱(2.1万トン)の産出が目立つ。そのほか、金 、銀 、亜鉛、銅、鉛 、わずかながら錫 も対象となっている。鉱山はプレート 境界に近い南部地中海岸のシエラネバダ山脈 とシエラ・モレナ山脈 に集中している。水銀 はシエラ・モレナ山脈が伸びるカスティーリャ地方のシウダ・レアル県 に分布する。アルマデン鉱山は2300年以上に亘って、スペインの水銀を支えてきた。鉄は北部バスク地方に分布し、ビルバオ が著名である。しかしながらスペイン全体の埋蔵量は600万トンを下回り、枯渇が近い。
その他の鉱物資源では、世界第10位(市場占有率1.5%)のカリ塩 、硫黄 (同1.1%)、塩 (同1.5%)を産出する。
自動車産業
スペインは2019年時点において、世界で9位の自動車生産国(280万台)となっている。それに伴い、鉄鋼 生産は同年時点で17位(360万トン)であった[ 57] [ 58] [ 59] 。2023年時点では245万台の自動車を生産し、世界8位の自動車生産国となり、ヨーロッパにおいてはドイツに次ぐ2位の自動車生産国となっていて[ 60] 、2024年現在もその地位を維持する[ 61] 。
エネルギー
スペインにおけるエネルギー部門は同王国のGDPの約2.5%を占めている。
物価
スペインの物価は日本とほぼ同じで、日本が3%高い[ 62] 。
性風俗産業
スペインは、売春 が合法化されている。有料の性的サービスを自発的に提供する行為は、公共の場所で行われない限り、罰則の対象にならない。ただし、売春の斡旋、仲介行為は違法である[ 63] 。
2016年の国連 の調査によれば、スペインの性風俗産業 の規模は、年37億ユーロ (約4900億円 )規模に達しており、国内で売春を行ってる女性は30万人ほどと推定されている。また、スペインの男性の3割から4割が、金銭を支払って性行為 をしたことがあるとの調査がある。国連の2011年の調査では、スペインはタイ 、プエルトリコ に続いて、世界で3番目の規模の売春大国とされた[ 63] 。
スペインの社会労働党 は、この状況について、売春は女性を「奴隷 化している」と主張しており、売春の非合法化を目指している[ 63] 。
交通
スペインの鉄道 は主にレンフェ (RENFE) によって経営されており、標準軌 (狭軌)路線など一部の路線はスペイン狭軌鉄道 (FEVE) によって経営されている。一般の地上鉄道の他、高速鉄道のAVE が国内各地を結んでいる。
地上路線の他にも、マドリード地下鉄 をはじめ、バルセロナ地下鉄 、メトロバレンシア など、主要都市には地下鉄 網が存在する。
科学技術
ロケ・デ・ロス・ムチャーチョス天文台 に位置するグラン・テレスコピオ・カナリアス 日没時に撮影
スペインは科学出版物の総数の2.5%を占めており、世界9位の科学大国となっている。科学生産における世界ランキングではロシア を上回り[ 64] 、科学そのものの質ではスイス やオーストラリア を上回っている。
同王国の科学技術は科学技術革新省 (英語版 ) [ 65] やその他の研究、開発、革新(R&D&I)を目的とした機関によって実施される一連の政策、計画、プログラム、および大学や商業研究所などの科学技術インフラストラクチャー と関連施設の強化に関連している。
国民・社会
分離主義者が主張するイベリア半島 の民族分布。この論に立つ場合、スペイン人 は諸民族の大部分を統合する概念となる。
サニェーラ を掲げて行進するカタルーニャ独立派のデモ隊。
「カタルーニャ はネーションである」、こうした落書きはさほど珍しいものではない。
バスク祖国と自由 (ETA)の構成員と支持者達。スペイン内戦 でフランコ軍との戦いに殉じた独立派兵士の死を悼む式典を行っている。
ETAによって書かれた壁画。シンボルマークにナバラ王国 の紋章が用いられているのがわかる。
「Espanha」と書かれた看板に「não é Galiza」と落書きされている。2つを続けて読むと「Espanha não é Galiza」(「ガリシア はスペインではない!」)になる。
アンダルシア人 の「国父 」、歴史学者ブラス・インファンテ の銅像。彼の功績と殉死を示したオブジェの傍にはアンダルシア旗 (英語版 ) が立てられている。
民族
ラテン系 を中核とするスペイン人 が多数を占める。一方で統一以前の地方意識が根強く、特に、カタルーニャ州 のカタルーニャ人 、バスク州 のバスク人 などはスペイン人としてのアイデンティティ を否定する傾向にあり、ガリシア州 のガリシア人 やカナリア諸島 のカナリア人 (英語版 ) も前二者に比べると、穏健ではあるが、民族としての意識を強く抱いており、それぞれの地方で大なり小なり独立運動がある。それ以外の地方でも地域主義、民族主義の傾向が存在し、運動としては非常に弱いものの独立を主張するものまで存在する。一般に「スペイン人」もしくはその中核とされる旧カスティーリャ王国圏内 のカスティーリャ人 の間でも、イスラーム文化 の浸透程度や歴史の違いなどから、アラゴン州 のアラゴン人 、アンダルシア州 のアンダルシア人 とその他のスペイン人とでは大きな違いがあり、それぞれの地方で、風俗、文化、習慣が大きく異なっている。
近年は、世界屈指の移民受け入れ大国となっていて、不況が深刻化した現在では大きな社会問題となっている。外国人の人口は、全人口の11%に当たる522万人にも上る。
スペインは、ヨーロッパでも最大級の規模、おそらくルーマニア に次いで2番目に多いロマ人 を抱えているが[ 66] 、恐怖、恥 、差別 、「ジプシー 」という烙印を押されるのを免れようとして、多くのロマ人 が出自 を隠しているため、正確なロマ人の人口を把握することは困難であり、スペインにおけるロマ人 の人口は、約80万人[ 66] 、約57万人から約110万人[ 66] 、約80万人から約97万人[ 66] 、約50万人から約100万人ともいわれる[ 66] 。欧州評議会 は2010年度調査で、約72万5千人のロマ人がスペインに住んでおり、スペイン全人口の約1.57%がロマ人と推計している[ 67] 。ある研究では、スペインのコミュニティ を調査したところ、住民100人あたり1.87%がロマ人であったことから、約110万人と推計している[ 66] 。被抑圧民族協会 は、約150万人のロマ人がスペインに住んでいると推計している[ 68] 。
言語
スペイン語 (カスティーリャ語とも呼ばれる)がスペインの公用語 であり全国で話されており、憲法 にも規定されている。その他にも自治州憲章によってカタルーニャ語 、バレンシア語 、バスク語 、ガリシア語 、アラン語 が地方公用語になっているほか、アストゥリアス語 とアラゴン語 もその該当地域の固有言語として認められている。バスク語以外は全てラテン語 (俗ラテン語 )に由来するロマンス語 である。また、ラテンアメリカ で話されているスペイン語は、1492年以降スペイン人征服者や入植者が持ち込んだものがその起源である。ラテンアメリカで話されるスペイン語とは若干の違いがあるが、相互に意思疎通は問題なく可能である。
ローマ帝国 の支配以前にスペインに居住していた人々はケルト 系の言語を話しており、ケルト系の遺跡が散在する。現在はケルト系の言葉は廃れている。
スペイン北東部からフランスにかけて、バスク語を話すバスク人 が暮らしている。バスク民族の文化や言葉は、スペインのみならず他のヨーロッパ諸民族とも共通することがなく、バスク人の起源は不明である。このことが、バスク人がスペインからの独立を望む遠因となっている。地域の学校ではバスク語も教えられているが、スペイン語との共通点はほとんどなく、学ぶのが困難である。
言語の一覧
現在、エスノローグ はスペイン国内に以下の言語の存在を認めている。
結婚
結婚前の姓は、一般的には「名、父方の祖父の姓、母方の祖父の姓」であるが、1999年に「名、母方の祖父の姓、父方の祖父の姓」でもよい、と法律が改正された。婚姻によって名前を変える必要はないが、女性はその他の選択肢として「de + 相手の父方の姓」を後置する、「母方の祖父の姓」を「相手の父方の姓」に置き換える、「母方の祖父の姓」を「de + 相手の父方の姓」に置き換える、などの選択が可能である[ 69] 。
2005年より同性婚 が可能となった。
トランスジェンダー
トランスジェンダー が住みやすい国として知られている。
自認する性 のトイレを使用できるか、性別適合手術 が許されるか、同性婚者が、養子を持つことが許されるか、などが基準のアンケート調査の結果、スペインが世界で最もトランスジェンダーに寛容な国であるという結果が示された。
更にトランスジェンダーのアンヘラ・ポンセ を第67回ミス・ユニバース 世界大会(2018年)に、スペインの代表として選出するなど、様々な場面で寛容さが窺える[ 70] 。
宗教
中世 末期のレコンキスタ 完了以前はイスラム教 が多数派を占める地域もあったが、現在ではカトリック が94%である。イベリア半島では近代に入って多様な宗教の公認とともに、隠れて暮らしていたユダヤ教徒 が信仰を取り戻し始めている。戦争時など様々な折にスペインに「帰還」し、祖国のために闘ったセファルディム もいた。残りはムスリム など。
なお、国民の大多数がカトリック教徒であるにもかかわらず、近年ではローマ教皇庁 が反対している避妊具 の使用や同性婚 を解禁するなど社会的には政教分離 の思想が進んでいる点も特徴である。
教育
サラマンカ大学 (1218年創立)の図書館
スペインの教育制度は初等教育 が6歳から12歳までの6年制、前期中等教育 が12歳から16歳までの4年制であり、以上10年間が義務教育 期間となる。後期中等教育 はバチジェラト と呼ばれる16歳から18歳までの2年制であり、このバチジェラト期に進路が決定する。2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率 は97.9%であり[ 71] 、これはアルゼンチン (97.2%) やウルグアイ (98%)、キューバ(99.8%)と並んでスペイン語圏 最高水準である。
主な高等教育 機関としては、サラマンカ大学 (1218年)、マドリード・コンプルテンセ大学 (1293年)、バリャドリード大学 (13世紀)、バルセロナ大学 (1450年)、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学 (1526年)、デウスト大学 (1886年)などが挙げられる。大学は4年制ないし6年制であり、学位 取得が出来ずに中退する学生の多さが問題となっている。
保健
医療
世界一の臓器提供者数
スペインは臓器移植 大国である。スペインの臓器提供者数は長年にわたり世界一である。2006年スペイン人100万人あたりの提供者数は33.8人である。第2位のアメリカ合衆国は27人で、欧州連合加盟国平均が18人であった。スペインの提供率が高い地域は順にバスク州、カンタブリア州、アストゥリアス州、ナバーラ州である。40-60歳代が提供者の29%を占める。男女比は62対38である。提供者の死亡原因は脳出血が最多の60%を占める。スペインは脳死 を人の死として規定している。提供臓器は国内だけでなく欧州連合各国にも「輸出」されている。2006年の移植件数は3756件であった。[ 72]
スペインでは、本人が臓器提供拒否の意思表示をしていない以上、臓器を摘出してもよいとする「オプト・アウト方式」を採用している。この臓器移植体制はスペインで1979年に法制化された。1984年、臓器修復および臓器移植の病院が充足すべき要件が、1979年の臓器移植法に符合するよう規定された。1985年カタルーニャ州 は、この分野で異なる病院の連携に責任をもつ部署を設置した。この部署は基本として国内だけでなく、スペインとEU各国との連携も担ってきた。1989年スペイン政府保健医療省が同様の機関を設けて、カタルーニャを除いた国内全域を担当させるようになった。[ 73]
治安
スペインは、2022年世界平和度指数の「安全・セキュリティ」カテゴリーで1.827となり、日本から見ると極めて危険な状況にあるが、米国よりはましな状況であると言える[ 74] 。2019年の「一般犯罪 統計」によれば、一般犯罪件数は2,201,859件で、前年より3.3%増加している。内訳は、殺人:332件(+14.9%)、強盗・脅迫:66,209件(+9.8%)、傷害:19,974件(+9.2%)、置き引き ・スリ など:700,477件(Δ0.8%)、侵入窃盗 (家屋):98,520件(Δ8.1%)、車両窃盗:35,248件(Δ1.8%)、薬物 犯罪:16,268件(+15.1%)となっている[ 75] 。
スリには様々な種類があることが判明しており、広げた新聞・地図などで鞄 やポケット を覆って財布 などを盗む「目隠しスリ」、ケチャップ などを衣服 に付けた上で汚れを指摘し、注意をそらした上で鞄や財布などを盗む「ケチャップスリ」の他に署名活動 を装った手口のスリも存在している。
主要な犯罪の一例としては、先述のスリの他にひったくり や車上荒らし や首絞め強盗、タイヤ のパンクを指摘し車を停車させ、確認・修理をする隙に油断させておいて、車内の物品や車両の窃盗に走る「パンク窃盗」、偽警官の出没が挙げられる。
法執行機関
スペインの法執行は多数の機関によって行われている。同王国における法執行は公的なものと民間組織の2種類が連携を取り合って機能している。
またスペインは警察の種類が豊富であり、全国規模で活動する部隊と事実上の自治警察として機能する保安機関が混在する特徴を持っている。
人権
他人の権利の尊重などの基本的人権で決まる2020年積極的平和指数は1.833で、世界ランキングではアメリカの1.949よりわずかに上だが、日本の1.466よりは下[ 76] 。スペインは、アジア人に対する差別が欧州連合平均より少ない[ 77] 。
マスコミ
文化
グラナダ市南東の丘に位置するアルハンブラ宮殿
バルセロナ のサグラダ・ファミリア
情熱的で明るい、気さくなスペイン人 という印象が強いが、これはスペイン南部の人々の特徴で北側の人々は違った性格が強い。1991年に創設されたセルバンテス文化センター によって、世界各地にスペイン語やスペイン文化が伝達されている。
闘牛
スペインの国技 であり伝統的スポーツとして闘牛 がある。数百年の歴史を持つ闘牛 は世界中に知られている。一方で、動物虐待との批判もあり、一部の地域は闘牛を禁止している。政府は2024年、「スペイン人の大多数が動物福祉について懸念を抱いているため、動物虐待の一形態を表彰する賞を維持するのは適切ではない」との考えから、闘牛賞の廃止を決定した[ 78] 。
食文化
スペイン料理の特徴として素材を生かした調理があり、地方にはそれぞれの地域の特産品を生かした独特の料理がある[ 79] [ 80] 。イベリア半島は「ヨーロッパの尾」「アフリカの頭」と言われ、古来から異なる民族・文化・宗教が交差しており、スペインの食文化はイベリア半島の歴史的背景の影響を受けている[ 81] 。スペインは地方によって気候や風土 、文化、習慣が異なるため、食材やその調理方法は様々で、事実上スペイン料理として一括りにはできない。スペイン料理の地域差を表した言い回しに「スペインのどこに行ってもあるものはワイン 、オルチャータ 、クァハダ(素焼きの壺に入れられたヨーグルト )だけ」というものがある[ 82] 。「北では煮込み、中部では焼きもの、南部ではフライ」と、地域ごとの調理法の違いを表した言葉もある[ 83] 。全ての地方料理に共通する事項としては、オリーブオイル が使用されることが挙げられる[ 84] 。2010年にはスペイン料理 が、イタリア料理 、ギリシア料理 、モロッコ料理 とともに「地中海の食事」としてユネスコ の無形文化遺産 に登録された。
文学
『ドン・キホーテ 』の著者ミゲル・デ・セルバンテス
12世紀中盤から13世紀初頭までに書かれた『わがシッドの歌 』はスペイン最古の叙事詩 と呼ばれている。
スペイン文学 においては、特に著名な作家として世界初の近代小説と呼ばれる『ドン・キホーテ 』の著者ミゲル・デ・セルバンテス が挙げられる。
1492年から1681年までのスペイン黄金世紀 の間には、スペインの政治を支配した強固にカトリック的なイデオロギーに文学も影響を受けた。この時代には修道士詩人サン・フアン・デ・ラ・クルス の神秘主義 や、ホルヘ・デ・モンテマヨール の『ラ・ディアナの七つの書』(1559) に起源を持つ牧歌小説 、マテオ・アレマン の『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1599年, 1602年) を頂点とするピカレスク小説 、『国王こそ無二の判官』(1635年) のロペ・デ・ベガ 、『セビーリャの色事師と石の招客』(1625年) のティルソ・デ・モリーナ などの演劇が生まれた。
近代に入ると、1898年の米西戦争 の敗戦をきっかけに自国の後進性を直視した98年世代 と呼ばれる一群の知識人が現れ、哲学者のミゲル・デ・ウナムーノ やオルテガ・イ・ガセット 、小説家のアンヘル・ガニベー 、詩人のフアン・ラモン・ヒメネス (1956年ノーベル文学賞 受賞)やアントニオ・マチャード などが活躍した。
スペイン内戦 の時代には内戦中に銃殺された詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカ などが活躍し、内戦後にフランコ独裁体制が成立すると多くの文学者が国外に亡命して創作を続けた。フランコ体制期にはラモン・センデール やカルメン・ラフォレ 、フアン・ゴイティソーロ 、ミゲル・デリーベス らがスペイン内外で活躍した。
1974年にはスペイン語圏の優れた作家に対して贈られる文学賞としてセルバンテス賞 が創設された。民主化以後の1989年にはカミーロ・ホセ・セラ がノーベル文学賞を受賞している。
哲学
ホセ・オルテガ・イ・ガセット 。20世紀の精神に多大な影響を与えた『大衆の反逆 』(1929年)で知られる。
古代ローマ 時代に活躍したストア派 哲学者の小セネカ はコルドバ出身だった。中世において、イスラーム勢力支配下のアル=アンダルス では学芸が栄え、イブン・スィーナー (アウィケンナ)などによるイスラーム哲学 が流入し、12世紀のコルドバ ではアリストテレス 派のイブン・ルシュド (アウェロエス)が活躍した。その他にも中世最大のユダヤ哲学者マイモニデス もコルドバの生まれだった。コルドバにもたらされたイブン・スィーナーやイブン・ルシュドのイスラーム哲学思想は、キリスト教徒の留学生によってアラビア語 からラテン語 に翻訳され、彼等によってもたらされたアリストテレス哲学はスコラ学 に大きな影響を与えた。
16世紀にはフランシスコ・デ・ビトリア やドミンゴ・デ・ソト らのカトリック神学者 によってサラマンカ学派 が形成され、17世紀オランダのフーゴー・グローティウス に先んじて国際法 の基礎を築いた。17世紀から18世紀にかけては強固なカトリックイデオロギーの下、フェイホー (スペイン語版 、英語版 ) やホベジャーノス (スペイン語版 、英語版 ) などの例外を除いてスペインの思想界は旧態依然としたスコラ哲学 に覆われた。19世紀後半に入るとドイツ観念論 のクラウゼ (Krause ) 哲学が影響力を持ち、フリアン・サンス・デル・リオ と弟子のフランシスコ・ヒネル・デ・ロス・リオス を中心にクラウゼ哲学がスペインに受容された。
20世紀の哲学者としては、「98年世代」のキルケゴール に影響を受けた実存主義 者ミゲル・デ・ウナムーノ や、同じく「98年世代」の『大衆の反逆 』(1929年)で知られるホセ・オルテガ・イ・ガセット 、形而上学 の再構築を目指したハビエル・スビリ の名が挙げられる。
音楽
マヌエル・デ・ファリャ
クラシック音楽 においては声楽 が発達しており、著名な歌手としてアルフレード・クラウス 、プラシド・ドミンゴ 、ホセ・カレーラス 、モンセラート・カバリェ 、テレサ・ベルガンサ などの名を挙げることができる。クラシック・ギター も盛んであり、『アランフエス協奏曲 』を残した作曲家のホアキン・ロドリーゴ や、ギター奏者のセレドニオ・ロメロ 、ペペ・ロメロ 、アンヘル・ロメロ 一家、マリア・エステル・グスマン などが活躍している。
その他にも特筆されるべきピアニストとしてアリシア・デ・ラローチャ とホアキン・アチュカーロ の名が挙げられる。
クラシック音楽史に名を残す作曲家としては、バロック音楽 ではイタリア出身でスペイン王家に仕えたドメニコ・スカルラッティ 、近代音楽 ではスペインの民謡や民話をモチーフとして利用したマヌエル・デ・ファリャ (特にピアノと管弦楽のための『スペインの庭の夜 』、バレエ 『三角帽子 』、同『恋は魔術師 』が有名)をはじめ、エンリケ・グラナドス 、イサーク・アルベニス 、現代音楽 ではホセ・マヌエル・ロペス・ロペス などがいる。
隣国フランス の作曲家もスペインをモチーフにした音楽を作曲した例は多く、ジョルジュ・ビゼー のオペラ 『カルメン 』をはじめ、エドゥアール・ラロ の『スペイン交響曲 』、エマニュエル・シャブリエ の狂詩曲『スペイン 』、クロード・ドビュッシー の『管弦楽のための映像 (第2曲・イベリア)』、モーリス・ラヴェル の『スペイン狂詩曲 』やオペラ『スペインの時計 』などがある。
日本では教育楽器 として親しまれているカスタネット は元々スペインの民族楽器であり、またタンブリン もイスラム文化とともにスペインに伝来した経緯があるため、フランスでは特に「バスクのタンブリン」と呼ばれる。上記のスペインやその他の国の作曲家がスペイン風情緒を強調する手段として、これらの打楽器が多用される。
北部のアラゴン から発祥したホタ 、南部のアンダルシア 地方のジプシー 系の人々から発祥したとされるフラメンコ という踊りと歌も有名である。
美術
イスラーム支配下のアンダルスでは、イスラーム式の壁画 美術が技術的に導入された。ルネサンス絵画 が定着しなかったスペインでは、16世紀に入るとマニエリズム に移行し、この時期にはエル・グレコ が活躍している。バロック芸術 期にはフランシスコ・リバルタ やホセ・デ・リベラ 、フランシスコ・デ・スルバラン 、アロンソ・カーノ 、ディエゴ・ベラスケス 、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 、フアン・デ・バルデス・レアル などが活躍した。18世紀から19世紀初めにかけてはフランシスコ・デ・ゴヤ が活躍した。スペイン黄金時代美術 を参照
19世紀末から20世紀半ばまでにかけてはバルセロナを中心に芸術家が創作活動を続け、キュビスムやシュルレアリズムなどの分野でサンティアゴ・ルシニョール 、ラモン・カザス 、パブロ・ピカソ 、ジョアン・ミロ 、サルバドール・ダリ 、ジュリ・ゴンサレス 、パブロ・ガルガーリョ などが活躍した。スペイン内戦後は芸術の古典回帰が進んだ。
映画
ペドロ・アルモドバル とペネロペ・クルス
スペイン初の映画は1897年に製作された。1932年にはルイス・ブニュエル によって『糧なき土地』が製作されている。スペイン内戦後は映画への検閲 が行われたが、1950年代にはルイス・ガルシア・ベルランガ やフアン・アントニオ・バルデム らの新世代の映像作家 が活躍した。
民主化以後はホセ・ルイス・ボラウ 、カルロス・サウラ 、マリオ・カムス 、ペドロ・アルモドバル 、アレハンドロ・アメナバル などの映像作家らが活躍している。
スペイン政府は、主要な全国テレビ局からの資金提供の保証を含む、地元の映画製作および映画館を支援することを目的とした措置を実施しており、その甲斐からスペイン映画は近年において高い評価を得ている。
被服・ファッション
スペインには、国全体を代表する「民族衣装」は存在しない。同王国は気候や歴史的影響に応じて、地域の衣装が豊富で多様性に富んでいる点から、歴史の中で着用されて来た被服類はスペインの伝統文化に関連する文化遺産の一つとして現今に至るまで保存されている。
建築
スペインの建築は、時代に応じて歴史および地理的な多様性を示している。また、同王国は建築物が世界遺産に選ばれている国の代表としても知られている。
更に、スペインの建築技法は同王国の植民地となった国々にも深い影響を及ぼしており、現在も元植民地に該当する国家地域にはその当時の建築物が遺されている。
世界遺産
スペイン国内には、ユネスコ の世界遺産 一覧に登録された文化遺産 が34件、自然遺産 が2件、複合遺産 が1件存在する。さらにフランスにまたがって1件の複合遺産が登録されている。
祝祭日
スポーツ
1992年 にはバルセロナオリンピック ・パラリンピック が開催された。
サッカー
伝統の一戦 として知られるエル・クラシコ
スペイン国内で最も人気のあるスポーツはサッカー である。1920年のアントワープ五輪 のために創設されたサッカースペイン代表 は、同大会で銀メダルを獲得している。1964年には自国開催となった欧州ネイションズカップ に初出場し、初優勝を果たした。さらに2008年のUEFA EURO 2008 、2010年の2010 FIFAワールドカップ 、2012年のUEFA EURO 2012 では、主要国際大会で3連続優勝を飾るなど黄金時代を築き上げた。FIFAランキング では、2008年から2013年の6年間にかけて世界1位となった[ 85] 。
1929年に全国リーグのラ・リーガ が創設された。レアル・マドリード 、FCバルセロナ 、アトレティコ・マドリード などのビッグクラブ が存在しており、中でもレアル・マドリードはUEFAチャンピオンズリーグ において歴代最多優勝を成し遂げている[ 86] 。さらに、セビージャFC もUEFAヨーロッパリーグ で歴代最多優勝を飾っており[ 87] 、スペインのクラブはヨーロッパの舞台でも優秀な成績を収めている。
バスケットボール
スペインではサッカーの次にバスケットボール の人気が高く、国内リーグであるリーガACB はヨーロッパ屈指のレベルとされる。バスケットボールスペイン代表 は1984年 のロサンゼルス五輪 で銀メダルを獲得し、2006年バスケットボール世界選手権 で優勝し、2008年の北京五輪 で銀メダルを獲得している。著名な選手としては、NBA でプレーしたパウ・ガソル などがいる。
自転車競技
自転車ロードレース も伝統的に盛んであり、ツール・ド・フランス 史上初の総合5連覇を達成したミゲル・インデュライン をはじめ、フェデリコ・バーモンテス 、ルイス・オカーニャ 、ペドロ・デルガド 、オスカル・ペレイロ 、アルベルト・コンタドール 、カルロス・サストレ が総合優勝の経験をもつ。毎年8月末から9月中旬まで開催されるブエルタ・ア・エスパーニャ は、ツール・ド・フランス やジロ・デ・イタリア とともにグランツール (三大ツール)のひとつとされる。
その他の競技
さらにテニス の水準も高く、男子ではカルロス・モヤ 、フアン・カルロス・フェレーロ 、ラファエル・ナダル が、女子ではアランチャ・サンチェス・ビカリオ が世界ランキング1位を経験している。男子の国別対抗戦であるデビスカップ でも好成績を収めている。モータースポーツ も人気を博しており、MotoGP ではマルク・マルケス などが、世界ラリー選手権 ではカルロス・サインツ などが、F1 ではフェルナンド・アロンソ などが総合優勝の経験をもつ。
著名な出身者
脚注
注釈
^ カタルーニャ語 (バレンシア語 )、バスク語 、ガリシア語 が該当の自治州においてカスティーリャ語(スペイン語)とともに公用語として認められている。2010年にはそれまでカタルーニャ州内のアラン谷 地域の公用語であったアラン語 がカタルーニャ州全体の公用語に規定された。
^ 1999年以前の通貨はペセタ 。
^ 「スペインのユーロ硬貨 」も参照。
^ カナリア諸島 はUTC±0を採用。
^ スペインは留学生の受け入れ制度を導入している国家の中で第1位となっている。これは、バルセロナ、バレンシア、マドリード、グラナダ、サラマンカなどの大学による働きが大きいものとされている。反面、他のヨーロッパの国々はスペインほどの誘致量ではないがドイツが第2位の規模となっており、フランス3位、イギリス4位、イタリアが5位となっている。 What are the most popular Erasmus destinations? Archived 30 June 2023 at the Wayback Machine .
^ 1978年憲法では国名について言及している条文はないが、同憲法内ではEspaña という語は23回使われている。またEstado español という語は2回使われている。国家を意味するEstado(英語のStateに相当)が大文字となっているため、このEstadoは固有名詞の一部と考えられる。一方、Reino de España は同憲法内では全く引用されていないが、一般に使われることも多い[ 6] 。なお、日本の外務省 では「スペイン王国」の国号を用いている。
^ この他に自治州の祝日や自治体単位での祝日がある。
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参考文献
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