古代イタリアにおいては、新たに征服した地を確保し続けるため、そこに植民都市(コロニア、ラテン語: Colonia)を築くという習慣があった。共和政ローマには常備軍がなく、一部市民を一種の守備隊として征服した町に送り込み、植民地化するのが通例だった。この守備隊はローマ市民権を持つ者が300人ほど含まれ、その他の一部はラテン同盟の諸都市の市民だった。coloniae civium Romanorum(ローマ市民の植民地)はイタリアの2つの海岸線の防衛を特に意図したもので、coloniae maritimae とも呼ばれた。特に数が多い coloniae Latinae はほとんどローマ本国と同じに扱われた。
入植者を指揮し居住地を建設する責任者として、通常3人から成る委員会が選ばれた。この委員は植民都市建設後もパトロン(パトロヌス)としてその都市と関係を保ち続けた。入植者は旗を先頭に掲げ隊列を作って征服した町に入り、特別な儀式で植民都市創立を祝った。植民都市は免税され、ローマを真似た独自の運営体制を作り、自前の元老院議員や役人を選出した。このような体制に原住民は従うことになった。coloniae civium Romanorum ではローマ市民権が保持されたが、前線基地としての役割があることから兵役が免除された。coloniae Latinae はソキイすなわち同盟国として仕え、その市民はラテン市民権を保持していた。ラテン市民権を持つ者は、コメルキウムすなわち財産取得権が保証され、ローマに住むこともでき、場合によってはローマ市民権を授与されることもあった。ただし、その権利には徐々に多くの制限が設けられていった。
^Ancient Greece: From Prehistoric to Hellenistic Times (Yale Nota Bene) by Professor Thomas R. Martin (Paperback - Aug 11, 2000),page 46,"... new location, colonists were expected to retain ties with their metropolis. A colony that sided with its metropolis's enemy in a war, for example was regarded as disloyal..."
^Naomi Porat and Edwin van den Brink (editor), "An Egyptian Colony in Southern Palestine During the Late Predynastic to Early Dynastic", in The Nile Delta in Transition: 4th to 3rd Millennium BC (1992), pp. 433-440.
^ abNaomi Porat, "Local Industry of Egyptian Pottery in Southern Palestine During the Early Bronze I Period," in Bulletin of the Egyptological, Seminar 8 (1986/1987), pp. 109-129. See also University College London web post, 2000.
^The Oxford Classical Dictionary by Simon Hornblower and Antony Spawforth,ISBN 0198606419,page 1515,"From the 8th century BC the coast Thrace was colonised by Greeks"
^Robin Lane Fox examines the cultural connections made by Euboean adventurers in the 8th century in Travelling Heroes in the Epic Age of Homer, 2008.