スペイン帝国
Imperio español (スペイン語 )
国の標語: Plus Ultra (ラテン語) 更なる前進 国歌 : Marcha Real (スペイン語) 国王行進曲 かつてスペイン帝国の一部であったすべての領土
黄金の世紀 におけるスペイン帝国(赤はスペイン王国 、青はポルトガル王国 )の領土、植民地、属領(1580年 - 1640年)
スペイン帝国 (スペインていこく、西 : Imperio español )は、スペイン とその植民地 ・属領 などの総称である。カスティーリャ王国 とアラゴン王国 の合併 によって成立したスペイン王国 がナスル朝 グラナダ王国 を滅ぼし、イベリア半島 からイスラーム 勢力を一掃した1492年以降、1898年の米西戦争 に敗北して、ほぼ全ての海外植民地を失うまでの期間を指す。「帝国 」の名称はその広大な統治領域に由来する。君主号 (皇帝 )とは無関係である。1868年から1874年は革命政権の支配の下で、国王は空位となり、やがて共和制 に移行した。
とりわけ、16世紀中盤から17世紀前半までの約80年間はスペインが史上最も繁栄した時期であり、黄金世紀 (Siglo de oro)と呼ばれている。スペイン君主のカルロス1世 が神聖ローマ帝国 皇帝 に即位した際には、ヨーロッパ にも本国以外の広大な領土を持つなど、その繁栄の様は「太陽の沈まない国 」と形容された。
概要
長らく分裂状態にあったイベリア半島であったが、カトリック両王 の下で統合を果たしたスペイン王国が1492年 にグラナダ を陥落させてナスル朝 を滅ぼし、レコンキスタ を完成させた。その後、スペインは国力を蓄えていき、1519年 には国王カルロス1世 が皇帝 カール5世として即位し、ハプスブルク家 の全盛期を迎えるに至る。
この時代、スペインは「アメリカ大陸の発見 」によって新たな領土を獲得し、国家としても隆盛を極めていた。1521年 にアステカ王国 を、1532年 にはインカ帝国 を滅ぼし、アメリカ大陸 はそのほとんどがスペインの植民地となっていた。
「帝国」スペインはフェリペ2世 の在位中に最盛期を迎えた。1580年 から1640年 にかけて王朝連合 によってスペイン王がポルトガル 王も兼ねるようになり(イベリア連合)、中南米 やアジア・アフリカ沿岸に点在するポルトガルの海外植民地 を獲得した。また、ヨーロッパではネーデルラント や南イタリア (シチリア王国 、ナポリ王国 )などを属領とし、フィリピン などの従来植民地と併せた広大な領土を統治する大国となった。しかし、その治世は多難であり、イタリア戦争 、宗教改革 、第一次ウィーン包囲 といった脅威にさらされ、プレヴェザの海戦 、アルマダ海戦 での敗北など、衰退の兆しも現れ始めていた。1588年 のアルマダ海戦 にて、スペインの無敵艦隊 がイングランド海軍 に敗れると、スペインの衰退は顕著になっていった。イングランド はこの後急速に国力を高め、17世紀 後半から史上最大の帝国であるイギリス帝国 へと発展していった。
その後のスペインは衰退の一途を辿り、1640年 にはポルトガル が独立する(ポルトガル王政復古戦争 )。八十年戦争 の結果、ネーデルラント連邦共和国 (オランダ)も独立を確保する。さらに三十年戦争 に介入するが敗退し、1659年 にフランス と不平等条約であるピレネー条約 を締結し、スペインの黄金世紀 は終焉を迎えた。ただ、スペインの植民地は成長を続け、19世紀 まで続く植民地帝国としての地位を維持し続けた。
17世紀 末にはスペイン・ハプスブルク家 が断絶し、王位継承問題のこじれからスペイン継承戦争 が始まった。この戦争は12年に及び、戦後処理としてイギリス にジブラルタル とフロリダ を譲るなど、スペインの影響力は著しく低下した。カルロス3世 (在位:1759年 - 1788年 )の時代に一定の中興が成されたものの、イギリス、フランス、オランダなどの新興勢力の後塵を拝することとなった。それでもアメリカ独立戦争におけるスペイン の躍進は、スペインの強国としての活気を取り戻した印象をスペイン人 に抱かせることとなった。しかしこの結果、新世界 においてはアメリカ合衆国 の独立によって、スペインによる植民地支配からの脱植民地化 の時代へと転換していく契機となった。皮肉にもスペイン本国からの独立を志向した旧植民地の多くが、かつてスペインが独立を助けたアメリカ合衆国を参考とした新国家モデルを模索するようになる。
その後は、ナポレオン・ボナパルト 率いるフランス帝国 の侵攻(ナポレオン戦争 )とボナパルト家 による王位の奪取、フランスによる占領に抵抗するスペイン独立戦争 、1820年のリエゴ革命 による王政の一時廃止と、それまでの混乱に乗じたスペイン領インディアス 植民地 の相次ぐ実質的独立など、スペインは苦難の歴史を迎えることとなる。
1868年のスペイン9月革命、1873年 のスペイン第一共和政 成立を経て、1874年 にスペインは王政復古 を果たすが、1898年 に勃発した米西戦争 でアメリカ合衆国に敗北し、パリ条約 によってカリブ海域 ではキューバ の独立、アメリカ合衆国 へのプエルトリコ 割譲、太平洋地域ではアメリカへのフィリピン 割譲、米・独 によるミクロネシア諸島 分割により残された海外植民地のほぼ全てを失った。
こうして19世紀末までに、かつての「世界帝国」スペインの遺産はそのほとんどが失われてしまった。これ以後、スペインはわずかに残された植民地はアフリカ にある4つの領土のみで、北アフリカ にあるスペイン領西アフリカ に属するスペイン領サハラ (西サハラ )とイフニ 、ギニア湾 沿岸にあるスペイン領ギニア に属するフェルナンド・ポー島 (ビオコ島)とリオムニ だけであった。この4つの領土は1959年 以降の一時期フランシスコ・フランコ 独裁政権の間にアフリカのスペインの県 の地位を得られていた。北アフリカの植民地スペイン領サハラの維持・拡大を、長年の隣国でもあり盟友でもあるフランスとの提携を通じて模索していくことになる。1975年 のマドリード協定 によって、そのスペイン領サハラも放棄された。イフニは1969年 にモロッコに譲渡した。スペイン領ギニアのフェルナンド・ポー島とリオムニは1778年 から1956年 まで植民地と見なされていた。フェルナンド・ポー島とリオムニは1959年 に県となり、1964年 にそれぞれ自治権が与えられていた。1968年 にフェルナンド・ポー島とリオムニは統合して赤道ギニア共和国 として独立した。
関連項目