1701年9月13日にナポリの教会付き作曲家兼オルガン奏者に15歳で就任した[6]。しかしこの頃、ナポリではナポリ副王を狙った暗殺未遂であるマッキア侯の陰謀事件やスペイン継承戦争などの政情不安や、父アレッサンドロの勤めていた宮廷での不定期な給料の支払いによる経済的な不安定さなどから父とともにナポリを去ろうと考えていた[7]。最終的に1702年6月14日より4ヶ月間の休暇を得て、父アレッサンドロとともにフィレンツェへと向かった[8]。フィレンツェではナポリでの政治的な騒乱を避けるため4ヶ月以上滞在し、11月にはナポリに戻ったとされる[9]。この頃、スカルラッティの最初のオペラである「オッタヴィーア」と「ジュスティーノ」が1703年12月19日に初演された[9]。父の命令によって1705年にヴェネツィアに移った[10][11]。この頃、ピエタ教会に足繁く通っていたとされ、また同教会で聖歌隊の指揮をしていたフランチェスコ・ガスパリーニのもとで音楽的な訓練を受けていたと考えられる[12]。1709年からはローマに住み、同地に当時亡命していたポーランド王妃マリー・カジミールの音楽監督(maestro di cappella)の職を得た[13]。また、サン・ピエトロ大聖堂のジュリア礼拝堂で働き、1714年末に音楽監督のトンマーゾ・バイが没すると、その後を引き継いだ[10]。この頃、スカルラッティはカジミールのため毎年1作のペースでオペラを作曲した[14]。その多くの作品の台本はスカルラッティと同様にカジミールに仕えていたカルロ・シジスモンド・カペーチによるものを使用している[14]。
1738年、ジョアン5世はスカルラッティをサンティアゴ騎士団の騎士に叙した。スカルラッティは最初のソナタ集である「Essercizi per gravicembalo」(チェンバロ練習曲集、30曲。K.1-30)を出版し、ジョアン5世に献呈した[10]。スカルラッティの名声はこの曲集によってヨーロッパ中に広がった。最終曲が有名な「猫のフーガ」である。
^ abcdeJohn Whenham (2001). “Domenico Scarlatti”. The New Grove Dictionary of Music and Musicians. 22 (2nd ed.). Macmillan Publishers. pp. 398-417. ISBN1561592390