クレルモン伯ロベール (カペー朝 第9代フランス王ルイ9世 の末息子)と同妃ベアトリス
ブルボン家 (ブルボンけ、仏 : Maison de Bourbon )は、ヨーロッパの王家 で、フランス 王家カペー家 の支流の一つ。かつてのフランス王家、また現在のスペイン 王家であり、さらに両シチリア王国 など現在のイタリアの一部を治めていた家系もある。現在のルクセンブルク大公 家も男系ではブルボン家の後裔。
ブルボン朝以前のブルボン家
起源
初代ブルボン公 ルイ1世
ブルボン家の家名の由来となったブルボネー [ 1] はフランス の中心部に位置し、文字通り王国の心臓部とも呼ぶべき場所であった。カール・マルテル の子孫といわれるアデマール (fr ) が10世紀にこの地の最初の領主となり、ブルボン城(現在のブルボン=ラルシャンボー にあった)にちなんで自らの家名をブルボン家と称した。この古ブルボン家 とも呼ぶべき家系 (fr ) は、1218年に女領主マティルド の死によって断絶し、その息子であるダンピエール家 (fr ) (ダンピエール 領主)のアルシャンボー8世 によって相続される。しかしこのダンピエール=ブルボン家も、アルシャンボー8世の息子アルシャンボー9世 が1249年に男子を残さず没する。その娘アニェス はブルゴーニュ公 ユーグ4世 の息子ジャンと結婚し、2人の娘ベアトリス は国王ルイ9世 の末子クレルモン伯ロベール と結婚する。ベアトリスとロベールの息子ルイ1世 は国王シャルル4世 によって1327年にブルボン公 に叙せられる。これがカペー系 ブルボン家の始まりである。
第一ブルボン家
百年戦争期
1328年 にシャルル4世が死去し、ヴァロワ家 のフィリップ6世 が即位してヴァロワ朝 が始まるが、イングランド王 エドワード3世 がこれに異を唱え、百年戦争 が勃発する。ブルボン家はヴァロワ家の外戚 、有力諸侯としてこれを支えていくことになる。
第2代ブルボン公ピエール1世 は1356年 のポワティエの戦い で戦死し、息子ルイ2世 が公位を継いだ。この戦いで捕虜となった国王ジャン2世 はロンドン で虜囚のまま1364年 に死去し、ルイ2世の妹ジャンヌ を妃とするシャルル5世 が即位する。ジャンヌは1373年 に突如発狂したが、精神障害はブルボン家の近親者に多かれ少なかれ見られ、遺伝性疾患 であったと考えられている。これはヴァロワ家、後にランカスター家 にも遺伝し、フランスとイングランドの歴史を大きく左右することになる。
1380年 にシャルル5世とジャンヌの息子シャルル6世 が王位に即き、新王の伯父ブルボン公ルイ2世は先王の弟たちとともにその後見人となった。シャルル6世が1392年 に発狂して以後、王弟オルレアン公 ルイ の一派(オルレアン派)と叔父フィリップ豪胆公 (後に息子ジャン無怖公 )の一派(ブルゴーニュ派 )の間で権力抗争が繰り広げられたが、ルイ2世はこの争いには加担しなかったらしい。1410年 にルイ2世が73歳で没すると、ブルボン公位を継いだ息子ジャン1世 は、暗殺されたオルレアン公ルイの遺児シャルル を首領として同年に結集したアルマニャック派 に加わった。
1415年のアジャンクールの戦い で、フランス軍はヘンリー5世 率いるイングランド軍に大敗し、オルレアン公シャルルを始めとする多くの貴族が捕虜となった。ブルボン公ジャン1世も捕虜となってロンドンへ送られ、ジャン1世の息子シャルル1世 が不在の父に代わって実質的な家長となったが、若年のため母マリー が後見した。翌1416年には、マリーの父でヴァロワ家の長老であったベリー公 ジャン が没するが、ベリー公には男子の後継者がなく、マリーが所領の一部であるオーヴェルニュ 公領およびモンパンシエ伯領を相続した。のち、マリーの長男であるシャルル1世は前者を譲られ、三男ルイ は後者を譲られてブルボン=モンパンシエ家を興す。
1419年、無怖公はアルマニャック派によって暗殺され、息子フィリップ善良公 は報復としてイングランドと同盟する(アングロ=ブルギニョン同盟)。1422年 にヘンリー5世とシャルル6世が相次いで没するが、ブルボン公シャルル1世はシャルル6世の息子シャルル7世 に忠実に仕え、シャルル7世も自分とほぼ同年齢で有力な一族であるシャルル1世を信頼し重用するようになった。イングランドとブルゴーニュがネーデルラント を巡って仲違いを始めると、シャルル7世はすかさず善良公と1424年 にシャンベリーの協定 を結んで相互不可侵を獲得する。さらにシャルル7世は善良公を自分の陣営に引き込むため、翌1425年にシャルル1世及び懐刀でもあるフランス元帥 アルテュール・ド・リッシュモン を善良公の姉妹であるアニェス 、マルグリット とそれぞれ結婚させた。
1434年 にジャン1世がロンドンで虜囚のまま没したことにより、シャルル1世は名実ともにブルボン公となった。同年末のヌヴェール での協議において、リッシュモン元帥の調停によりシャルル1世と善良公は和解する。翌1435年 のアラス会議には、フランス側の代表としてシャルル1世とリッシュモンが派遣された。会議は成功しアラスの和約 が結ばれ、シャルル1世とリッシュモンは善良公の前で十字架に手を差し伸べ、無怖公への哀悼を示した。その後、シャルル1世は善良公と手を組んで街中を行進することで和解をアピールした[ 2] 。
しかしその頃から、リッシュモンによる常備軍 としての国王軍創設の改革を原因として、ブルボン公シャルル1世とシャルル7世の関係は微妙なものとなる。1440年 に発覚したプラグリーの乱 は、シャルル1世がアランソン公 ジャン2世 やジャン・ド・デュノワ ら他の王族と謀り、シャルル7世を廃位して王太子 ルイを王位に就けようと企てた事件であった。陰謀はリッシュモンに露見して失敗に終わり、シャルル1世は逃亡したが、後に自らシャルル7世の許に出頭して謝罪した。シャルル1世は罪を許されたものの、領地の一部を没収された。
百年戦争終結後
シャルル1世は百年戦争終結から3年後の1456年 に没し、息子ジャン2世 が公位を継ぐ。1461年 にはシャルル7世が死去し、ブルゴーニュ公国 に亡命していた王太子ルイがルイ11世 として王位に就く。ルイ11世は父王の中央集権 化政策をさらに推し進め、ジャン2世を始めとする多くの諸侯の反発を招いた。ジャン2世は、自らの従弟で妹 婿でもある善良公の嫡男シャルル (のちの突進公)らを始めとする諸侯を糾合して公的同盟 (en ) を結成する。
1467年 にブルゴーニュ公位を継いだシャルル突進公は、ヨーク家 のイングランド王エドワード4世 と同盟し、共同でフランスに攻め寄せた。この戦いに際して、ジャン2世の庶弟ルイはフランス海軍元帥 に任じられ、艦隊を率いてアラス 一帯でゲリラ活動を行い、アングロ=ブルギニョン連合軍を撹乱した。ルイはさらに、エドワード4世との間で1475年 にピキニー条約 (英語版 ) を取りまとめてアングロ=ブルギニョン同盟を崩壊させた[ 3] 。
1488年 に死去したジャン2世には庶子 しかいなかったため、聖職にあった三弟シャルル2世 が公位を継いだ。ジャン2世の庶子の家系はラヴェンダン子爵、バシアン男爵、マローズ公爵となった。しかしシャルル2世は兄の死から5ヶ月余り後に死去した。四弟のリエージュ司教 ルイ (en ) には男子がいたものの庶子扱いされ(この家系はブルボン=ビュッセ家 (en ) と呼ばれ、現在まで続いている)、末弟ピエール2世 が公位を継いだ。ピエール2世はシャルル8世 王の姉アンヌ・ド・ボージュー の夫であり、妻と共に義弟の摂政 を務めていた。
ブルボン=モンパンシエ家
ブルボン公シャルル3世
唯一の男子に先立たれていたピエール2世が1503年 に死去すると、ブルボン家嫡流(第一ブルボン家)の男子は絶えた。そのため、ピエール2世の娘シュザンヌ と、その又従兄に当たる傍系ブルボン=モンパンシエ家 のモンパンシエ伯シャルル(シャルル3世 )が結婚して、共同で公位を継承した。ヴァロワ家でもシャルル8世の死で嫡流が絶え、オルレアン公シャルルの息子ルイ12世 が王位を継承し、続いて従甥 で娘婿であるフランソワ1世 が1515年 に王位に就く。
シャルルはモンパンシエ伯ルイ1世の孫で、その息子ジルベール とマントヴァ侯 フェデリーコ1世 の娘クララの息子であった。伯位は父からシャルルの兄ルイ2世 に継承されていたが、ルイ2世が未婚のまま早世したためシャルルが継承者となった。
シャルル3世はマリニャーノの戦い (英語版 ) で功を立てて元帥に任じられ、さらにはミラノ 総督 に任じられたが、有能さ故に恐れられたのか、間もなく更迭されて帰国を命じられた。1521年 に妻シュザンヌが没すると、フランソワ1世の母でブルボン公シャルル1世の娘マルグリット を母とするルイーズ・ド・サヴォワ がブルボン家の相続権を主張し、シュザンヌの領地はフランソワ1世に没収された。これに憤激したシャルル3世は1523年 、フランソワ1世の宿敵である神聖ローマ皇帝 カール5世 と密約を交わし、イングランド王ヘンリー8世 も巻き込んだ陰謀を企てた。しかし、この陰謀はフランソワ1世に露見し、シャルル3世はカール5世の許へ逃亡した。
カール5世の下で軍の指揮を委ねられたシャルル3世は、1525年 のパヴィアの戦い でフランソワ1世を捕虜とする活躍を見せた。フランソワ1世は翌1526年にマドリード条約 を締結して釈放されるが、すぐに破棄して1527年 に戦争を再開する。カール5世は、フランソワ1世に与した教皇 クレメンス7世 への懲罰として、シャルル3世を指揮官とする軍勢をローマ へ差し向けた。シャルル3世率いる皇帝軍は教皇軍を敗走させたが、ローマを包囲中にシャルル3世は戦死した。指揮官の死によって皇帝軍は統制を失い、ローマ略奪 が起こった。
ブルボン=ヴァンドーム家
シャルル3世の死をもってブルボン家の本流は絶えた。代わって、ブルボン公ルイ1世の四男ラ・マルシュ伯ジャック1世 (en ) から5代目の末裔であるヴァンドーム公シャルル がブルボン家の家長となったが、ブルボン公の称号と所領はルイーズ・ド・サヴォワを経てヴァロワ=アングレーム王家 のものとなった。ラ・マルシュ伯の家系をブルボン=ラ・マルシュ家 と呼ぶが、ジャック1世の子ジャン1世 (en ) は婚姻によりヴァンドーム伯位を獲得し、次男ルイ (en ) がこれを継承した。ラ・マルシュ伯はルイの兄ジャック2世 (en ) が継承したが、男子がなく断絶した。ラ・マルシュ伯はルイから3代にわたって継承されたが、シャルルの代に至ってヴァンドーム公に昇叙されていた。この家系を特にブルボン=ヴァンドーム家 と呼ぶ。一方、シャルルの叔父ルイ (en ) はシャルル3世の姉ルイーズ (en ) と結婚しており、ブルボン朝初期まで続く第二ブルボン=モンパンシエ家を興している。
ヴァンドーム公シャルルの伯母ジャンヌ は、初め宗家のブルボン公ジャン2世の3人目の妻となり、死別後の再婚でカトリーヌ・ド・メディシス の母マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ をもうけている。また、シャルルの妹アントワネット はギーズ公 クロード に嫁いでおり、フランソワ2世 の王妃でもあったスコットランド 女王メアリー・ステュアート やアンリ4世と敵対するギーズ公アンリ1世 はその孫であった。
シャルルの息子アントワーヌ は、ナバラ女王 ジャンヌ・ダルブレ と結婚してナバラ王位を獲得した。ジャンヌの家系アルブレ家はナバラ王家としてピレネー山脈 以北のバス=ナヴァール (低ナバラ、現在のフランス領バスク )を治めた他、フォワ 、ベアルン などフランス南部に所領を持つ大貴族であり、ジャンヌはその最後の当主であった。また、ジャンヌの母マルグリット はフランソワ1世の姉であり、さらに最初の夫アランソン公シャルル4世 がアントワーヌの母方の伯父であるという縁もあった。ジャンヌは熱心なユグノー であり、カルヴァン派 を国教として領内のカトリック教徒 を弾圧した。1553年 にジャンヌが夫アントワーヌとの間に儲けたのが、のちのフランス王アンリ4世 である。
アントワーヌの弟のうち、ブルボン枢機卿 およびルーアン 大司教 シャルル は国王アンリ3世 の死後にアンリ4世の対立王 「シャルル10世」として擁立されたが、間もなく死去した(1589年 - 1590年 )。末弟のコンデ公 ルイ1世 はブルボン=コンデ家 の祖である。この家系からはさらにブルボン=コンティ家 が分かれている。
アンリ4世の即位後、ヴァンドーム公位は庶子セザール に授けられ、第2のブルボン=ヴァンドーム家を興したが、孫のフィリップ の代で断絶した。
歴代当主
第一ブルボン家
ブルボン=モンパンシエ家
ブルボン=ヴァンドーム家
フランス・ブルボン家
アントワーヌとジャンヌ・ダルブレ の子アンリは、父からヴァンドーム公位とともにブルボン家家長の地位およびフランス王位継承権を、母からナバラ 王位を継承していたが、ヴァロワ朝 の断絶に際してフランス王アンリ4世 として即位した。ルイ14世 のとき絶対君主制 を確立したが、フランス革命 で一時中断、復古王政 ののち1830年 の7月革命 をもって嫡流はフランス王位を失った。
歴代国王(フランスとナバラの王)
復古王政
オルレアン家(ブルボン=オルレアン家)
7月革命の後にブルボン家嫡流に代わって即位したルイ・フィリップ の家系オルレアン家 (ブルボン=オルレアン家)もブルボン家の支流の一つであり、ルイ14世の弟オルレアン公 フィリップ1世 に始まる。
スペイン・ブルボン(ボルボン)家
スペイン でアブスブルゴ(ハプスブルク)家 が断絶した後、1700年 にフランスのルイ14世が孫のアンジュー公フィリップ(フェリペ5世 )をスペイン王 に即位させた。この企てはスペイン継承戦争 を招いたが、戦争の結果各国が即位を承認し、ボルボン朝が成立した。1931年 にアルフォンソ13世 が退位した後、長く王位を失っていたが、1975年 に孫のフアン・カルロス1世 が即位して王制が復活した。
カルリスタ
フェルナンド7世 死後、その娘であるイサベル2世 が即位したが、フェルナンド7世の弟であるモリナ伯カルロス はこれに反発して、カルロス5世として独自に即位した。以後、スペインはイサベル2世派とカルロス5世派とに分かれて内戦が勃発した。カルロス5世及びその子孫を支持する一派をカルリスタと呼ぶことから、この内戦はカルリスタ戦争 という。カルロス5世の男系子孫の最後の男子であるサン・ハイメ公アルフォンソ・カルロス (アルフォンソ・カルロス1世)が死去した後は、カルリスタはそれぞれ独自の王を立て、分裂している。なお、モンティソン伯フアン・カルロス (フアン3世)以降はレジティミスト の要請により名目上のフランス王位も兼ねていた。
ナポリ・シチリアのブルボン(ボルボーネ)家
イタリア 南部のナポリ王国 とシチリア王国 はもともとアラゴン王国 の支配下にあったが、アラゴン王国がスペインに統合されることによって、スペイン王家の支配を受けるようになった。ナポリとシチリアは形式的に分かれているだけで、どちらもスペインの支配下にあり、スペイン・ブルボン朝の成立に伴いブルボン家の支配はこれら両王国にも及ぶことになった。ところが、スペイン・ブルボン家初代フェリペ5世即位後勃発したスペイン継承戦争 でオーストリア がナポリとシチリアを占領した。オーストリアの支配は1707年 から1734年 まで続いた。
ポーランド継承戦争 中、フェリペ5世の王子でパルマ公だったドン・カルロスが武力でナポリとシチリアを奪回し、ナポリ王カルロ7世およびシチリア王カルロ5世となった。ここにブルボン家は南イタリアをも獲得したことになる。その後、カルロ7世はスペイン王位に即位してカルロス3世 となり、ナポリとシチリアは息子のフェルディナンドに譲った。これがナポリ王フェルディナンド4世 (シチリア王フェルディナンド3世)である。
19世紀 始めのナポレオン戦争 でナポリは一時フランス帝国の支配下に落ちたが、1816年 のウィーン議定書 によって返還され、両シチリア王国 として再出発した。ナポリ王フェルディナンド4世(=シチリア王フェルディナンド3世)は両シチリア王フェルディナンド1世 となった。両シチリアのブルボン家は4代続いたが、1860年 にガリバルディ に征服され、統一イタリア王国 に併合された。廃位後も家系は今日まで存続している。
パルマのブルボン(ボルボーネ)家
イタリア北部のパルマ公国 はファルネーゼ家 によって建てられた国であるが、ファルネーゼ家が断絶した際に、フェリペ5世の王妃でファルネーゼ家出身のエリザベッタ・ファルネーゼ の尽力によって、フェリペ5世とエリザベッタの息子ドン・カルロス(カルロス3世 )が公位を継承した。その後パルマはポーランド継承戦争 の結果オーストリア・ハプスブルク家に渡るが(ドン・カルロスは代わってナポリとシチリアの王位に就く)、オーストリア継承戦争 の講和条約であるアーヘンの和約 で再びスペイン・ブルボン家に戻り、カルロスの弟フィリッポ が公位に就いた。このフィリッポの家系をブルボン=パルマ家 (ボルボーネ=パルマ家)と呼ぶ。
フィリッポの死後は息子フェルディナンド が公位を継いだが、パルマはナポレオン・ボナパルト に征服され、フェルディナンドの息子ルドヴィーコ は新たに建てられたエトルリア王国 の王位に就けられた。エトルリア王国はルドヴィーコの息子カルロ・ルドヴィーコ の代にフランスに併合され、カルロ・ルドヴィーコはウィーン会議 の結果ルッカ公 となったが、ルッカ公国は1847年 にトスカーナ大公国 に併合され、カルロ・ルドヴィーコはパルマ公位を得た後に死去した。
その後、パルマ公は2代続くが、パルマ公国は住民投票によって1860年 にサルデーニャ王国 に併合されて消滅した。因みに、最後のパルマ公ロベルト1世 は廃位後に24人の子をもうけており、10人の男子のうちから今日まで存続している家系もある。その一つは、ルクセンブルク大公 シャルロット と結婚したフェリックス 公子の家系である。ルクセンブルク大公家はルクセンブルク家あるいはナッサウ=ヴァイルブルク家 の家名を用いているが、男系ではブルボン家の後裔に当たる。
レジティミスト
フランス革命 以後もブルボン家をフランス王家として支持した王党派 をレジティミスト(Legitimists)あるいは正統派という。彼らはボナパルト家 支持者であるボナパルティスト 、あるいは同じく王党派とされるがオルレアン家 を支持するオルレアニスト (オルレアン派)と対立しながら、今日まで存在し続けている。
シャルル10世の孫、シャンボール伯アンリ・ダルトワ の死によってルイ15世の男系男子が絶えると、レジティミストの一部はオルレアニストに合流したが、一部はサリカ法 に基づいてスペイン・ブルボン家の王族をフランス王家継承者に推し、今日に至っている。
現在はスペイン・ブルボン家の分家のルイス・アルフォンソ・デ・ボルボーン が「ブルボン家家長」「フランス王ルイ20世」として支持されている。これに対してオルレアニストはパリ伯兼フランス公ジャン・ドルレアン (ジャン4世)がフランス王位を主張している。オルレアン家は「パリ伯」の称号をレジティミストから認められているが、ルイス・アルフォンソが用いている「アンジュー公」の称号をフランス公は認めておらず、フランスの裁判所に提訴したことがある(訴えは退けられた)。
レジティミストのフランス王位請求者(7月革命以後、シャンボール伯アンリまで)
以降は「レジティミスム 」を参照のこと。
インドのブルボン家
ルッスレの著書に描かれたエリザベス・ド・ブルボンの肖像(1867年)
インド のボーパール には、フランスからインドに渡ったという、ジャン・フィリップ・ド・ブルボンの後裔を称する「ブルボン家」が存在している。ボーパール藩王国 (英語版 ) では富裕な一門であり、バルタザール・ブルボン=シャサド・マシは藩王国の宰相を務めている。1882年にルイ・ルッスレ (英語版 ) が表した旅行記にもその存在が書かれている。現在の家長はバルタザール4世 。2007年にはミシェル・ド・グレース [ 4] が小説『Le Raja de Bourbon』において主題として取り上げている。ド・グレースはこの本の中で、ボーパールのブルボン家の先祖はアンリ4世の甥だとし、「証拠はないが、そう信じている」と述べている[ 5] 。
ブルボン家と近親婚
ブルボン家は初期から、一族内で近親婚 を繰り返し、それに伴う弊害をもたらしてきた。それはブルボン公時代の、シャルル5世の后であるジャンヌ の発狂で現れた。そして、フランス王位を継承し、更にはスペイン、ナポリ、シチリアの王位も獲得すると、王位を安定化するために一族間で血族結婚を頻繁に行った。国内に於いても、ブルボン系の有力貴族間で血族結婚が行われた。1750年代の外交革命 に伴い、同じく血族結婚が盛んであったハプスブルク=ロートリンゲン家 と縁組を頻繁に行うようになった。その結果、両家で早世したり、あるいは成人しても身体に障害を持つ者が続出した。
系図
古ブルボン家およびダンピエール=ブルボン家
クレルモン伯ロベールからアンリ4世まで
凡例
フランス・ブルボン王家
スペイン・ブルボン王家
両シチリア・ブルボン王家
ブルボン=パルマ家
脚注
出典
参考文献
関連図書
関連項目
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