フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス (スペイン語 : Francisco José de Goya y Lucientes , 1746年 3月30日 - 1828年 4月16日 )は、スペイン の画家 。ディエゴ・ベラスケス とともにスペイン最大の画家と謳われる。ベラスケス 同様、宮廷画家 として重きをなした。西洋ではゴヤは最後のオールド・マスター と呼ばれている[ 2] 。
生涯
自画像(1815年)
『カルロス4世の家族 』(1800-1801年、プラド美術館 所属)
『1808年5月3日、マドリード 』(1814年、プラド美術館所属)
1746年 、スペイン北東部サラゴサ 近郊のフエンデトードス (スペイン語版 ) (当初はFuentedetodos フエンテデトードスと呼ばれていた。la fuente de todos“総ての者の泉”という意味)に生まれた。父親は鍍金 師であり、芸術を愛好する気風の中で育った。
14歳の時から約4年間、サラゴサで地元の画家に師事して絵画の修行をする。この間、後に義兄となる兄弟子フランシスコ・バイユー 、その弟ラモーン・バイユー (英語版 ) に出会う。1763年と1766年の2回、サン・フェルナンド王立アカデミーに出品したが落選している。
1770年、大画家を目指してイタリア のローマ に出た。イタリア滞在中にルネサンス の傑作に出会い、フレスコ画 の技法を学んだ。パレルモ・アカデミーから奨励賞を受け、1771年に帰国した。1772年にサラゴザのピラール聖母教会から大聖堂の天井装飾の注文も受け、そのほかのことも任された[ 3] 。27歳でバイユーの妹ホセーファ・バイユー (スペイン語版 ) と結婚。
1774年 、バイユーの手引きでマドリード へ出て、1775年 から十数年間、王立タペストリー工場でタペストリー の下絵描きの仕事に携わる。
1786年 、40歳で国王カルロス3世 付き画家となり、1789年には新王カルロス4世 の宮廷画家となる。
このように、40歳代にさしかかって、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たが、1792年 、不治の病に侵され聴力を失う。代表作として知られる『カルロス4世の家族 』、『着衣のマハ 』、『裸のマハ 』[ 注釈 1] [ 3] 、『1808年5月3日、マドリード 』[ 注釈 2] [ 3] 、『巨人 』などはいずれも聴力を失って以後の後半生に描かれたものである。
1807年 、ナポレオン 率いるフランス軍がスペインへ侵攻し、翌1808年 にはナポレオンの兄ジョゼフ をホセ1世としてスペイン王位につけた。事実上、ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインは、1808年から1814年 にかけてスペイン独立戦争 のさなかにあった。
こうした動乱の時期に描かれたのが『1808年5月3日、マドリード』、『巨人』などの作品群である。1810年 には版画集『戦争の惨禍 (英語版 ) 』に着手している。1815年 、すでに69歳に達していたゴヤは、40歳以上も年下のレオカディア・ワイス (Leocadia Weiss)というドイツ系 の家政婦と同棲していた(妻ホセーファはその3年ほど前に死去)。
1819年 、マドリード郊外に「聾者の家 (スペイン語版 ) 」と通称される別荘を購入した。1820年 から1823年 にかけて、この「聾者の家」のサロンや食堂を飾るために描かれた14枚の壁画群が、今日「黒い絵 」と通称されるものである。
当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて1824年 、78歳の時にフランスに亡命 し、ボルドーに居を構えた[ 4] 。1826年 にマドリードに一時帰国し、宮廷画家 の辞職を認められるが、1828年 、亡命先のボルドー において82年の波乱に満ちた生涯を閉じた。
現在はマドリードのプリンシペ・ピオ 駅にほど近いサン・アントーニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂 (スペイン語版 ) 、通称:ゴヤのパンテオン (Panteón de Goya) に眠っている。この聖堂の天井に描かれたフレスコ画 、『聖アントニオの奇跡』もゴヤの作品である。なお、遺骸の頭蓋骨は失われている。亡命先の墓地に埋葬されている期間に盗掘に遭ったためだが、その犯人も目的も、その後の頭蓋骨の所在についても一切が不明のままである。
日本にあるゴヤの油彩画としては、東京富士美術館 の『ブルボン=ブラガンサ家の王子、ドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル[ 注釈 3] 』、三重県立美術館 の『アルベルト・フォラステールの肖像[ 注釈 4] 』が挙げられる。版画となるともう少し多くなり、国立西洋美術館 、町田市立国際版画美術館 、神奈川県立近代美術館 、姫路市立美術館 、長崎県美術館 などが所蔵し、企画展などの際に展示される。また、大塚国際美術館 では、「聾者の家」を当時そのままの配置で再現している。
『巨人』の作者について
助手の作とされた『巨人 』(プラド美術館蔵)
2009年1月、プラド美術館 は、従来代表作とされていた『巨人 』はゴヤの作ではないと結論する報告書を公表した。この作品は1931年に同美術館に寄贈されたもので、当時はゴヤについての研究が進展していなかったため、疑いなく真筆とされていた。しかし、ゴヤの作にしては、逃げまどう群衆や動物の筆致が粗い点などが指摘され、プラド美術館が様式、伝来等を総合的に検討した結果、本人ではなくその追随者の作であると結論付けられた。決め手の1つは画面左下に「AJ」というサインが発見されたことで、同じイニシャルを持つ弟子、アセンシオ・フリア が作者と見られている[ 5] 。もっとも、フリアは自身の作品にイニシャルではなくJuliaと記入しているため、これはフリアの作品ではないという反論もある。
代表作
着衣のマハ (1797年-1803年頃、プラド美術館蔵)
裸のマハ (1797年-1800年頃、プラド美術館蔵)
主な日本語文献
主な作品集
『視覚表現史に革命を起した天才ゴヤ版画集』全3巻 未知谷 ※ゴヤの全版画集
関連作品
脚注
注釈
出典
外部リンク