『祖父の代までも』(そふのだいまでも、西: Asta su Abuelo, 英: As for back as his grandfather)は、フランシスコ・デ・ゴヤが1797年から1799年に制作した銅版画である。アクアチント。80点の銅版画で構成された版画集《ロス・カプリーチョス(英語版)》(Los Caprichos, 「気まぐれ」の意)の第39番として描かれた[1][2][3][4]。本作品は《ロス・カプリーチョス》の第37番から第42番まである6点のロバをモチーフに描いた小連作の1つで、自らの身分や出自を自慢する貴族たちを風刺している。ゴヤはこの作品をエッチングではなくアクアチントの技法のみを使用して描いた。準備素描がマドリードのプラド美術館に所蔵されている[5][6]。
制作背景
18世紀後半、貴族階級に属することを自慢する人々に対して盛んに風刺が行われた。啓蒙主義の知識人たちは世襲貴族を衰退した時代遅れの階級であり、近代化を目指す国家の障害と考えた。啓蒙主義の学者ホセ・カダルソ(英語版)は死後の1789年に出版された小説『モロッコ人の手紙(スペイン語版)』(Cartas marruecas)で非生産的な世襲貴族を厳しく非難した。彼らに対する反発意識は一般大衆の間でも受け入れられた。1792年に出版されたプリモ・フェリシアーノ・マルティネス・デ・バレステロス(スペイン語版)の『著名なロバ・アカデミーの回想録』(Memorias de la Insigne Academia Asnal)の挿絵の1つ「貴族のロバ」の題辞はスペイン社会に生まれつつあった変化を明らかにしている。「あらゆる人間は、他の人間と平等である・・・一人の人間を、その生まれによって、他の人間から区別しようとするとはとんでもない幻想である」[1][7]。
直接の図像的源泉は《ロス・カプリーチョス》構想以前の1794年から1795年に制作された『素描帖B』第72番の素描「文学者のロバに変装した仮面もある」(También hay máscaras de borricos literatos)である。ゴヤはこの文学者としての図像を発展させる過程で様々な要素を追加ないし除去し、図像の意味も変更した。次に描いたのは《ロス・カプリーチョス》の初期構想である《夢》第26番「文学者姿のロバ」(El asno literato)で、『素描帖B』第72番の図像を再利用して描かれた。添えられた題名はいずれも無知の象徴としてのロバで表された文学者批判であったことが分かる[1][7]。この文学者に対する批判的言及は他のロバの小連作と共通しており、人間の最も称えられるべき活動、教育・音楽・医学・文学・芸術の実践がロバの姿を借りて批判されている。さらに完成作直前の準備素描で批判の対象が文学者から世襲貴族へと変化する[1][7]。
プラド美術館所蔵の《ロス・カプリーチョス》の準備素描は、ゴヤの死後、息子フランシスコ・ハビエル・ゴヤ・イ・バイユー(Francisco Javier Goya y Bayeu)、孫のマリアーノ・デ・ゴヤ(Mariano de Goya)に相続された。スペイン女王イサベル2世の宮廷画家で、ゴヤの素描や版画の収集家であったバレンティン・カルデレラ(英語版)は、1861年頃にマリアーノから準備素描を入手した。1880年に所有者が死去すると、甥のマリアーノ・カルデレラ(Mariano Carderera)に相続され、1886年11月12日の王命によりプラド美術館が彼から購入した[6]。