フン族を描いた19世紀の歴史画(ヨーハン・ネーポムク・ガイガー 画)
フン帝国は中央アジア のステップ から現代のドイツ 、黒海 からバルト海 にまで広がっていた
フン族 (フンぞく、Hun)は、4世紀 から6世紀 にかけて中央アジア 、コーカサス 、東ヨーロッパ に住んでいた遊牧民 である。ヨーロッパの伝承によれば、彼らはヴォルガ川 の東に住んでおり、当時スキタイ の一部だった地域で初めて報告された。フン族の到来は、イランの人々 、アラン人 の西方への移住に関連している。370年までにフン族はヴォルガ川に到着し、430年までにヨーロッパに広大で短命の支配権を確立し、ローマ国境 の外に住むゴート族 や他の多くのゲルマン民族 を征服し、他の多くの民族のローマ領土への逃亡を引き起こした。フン族は、特に彼らのアッティラ 王の下で、東ローマ帝国 に頻繁に破壊的な襲撃を行った。451年、フン族は西ローマ帝国 のガリア 州に侵攻し、カタラウヌムの戦いで ローマ人 とゴート族 の連合軍と戦い、452年にイタリア 半島に侵攻した。453年のアッティラの死後、フン族はローマにとって大きな脅威となることは無くなり、ネダオの戦い (454年)で帝国の領土の大部分を失った。フン族の子孫、または同様の名前を持つ後継者が約4〜6世紀に東ヨーロッパ と中央アジア の一部を占領したとする記録が、南、東、および西の近隣の住民によってなされている。フン系の名前の変種は、8世紀初頭までコーカサス で記録されている。
18世紀、フランスの学者であるジョセフ・ド・ギーニュ は、フン族と、紀元前3世紀に中国 の北の隣国だった匈奴 族とのつながりを最初に指摘した。ギーニュの時代以来、そのような関係を調査するためにかなりの学術的努力が注がれてきた。この問題には依然として議論の余地がある。イランのフン族やインドにおいてフーナ(Hūṇa )として知られている他の民族との関係も論争になっている。
フン族の文化についてはほとんど知られておらず、フン族と結びついた考古学的な遺物はほとんどない。彼らは青銅の大釜を使用し、頭蓋変形 を行ったと信じられている。アッティラの時代のフン族の宗教についての記述はないが、占い などの慣行が明らかになっており、シャーマン も存在し得たとされている。フン族は独自の言語 を持っていることも知られているが、それを証明するのは3つの単語と個人名だけである。経済的には、彼らは遊牧 を実践したことが知られている。ローマの世界との接触が拡大するにつれて、彼らの経済は、貢物、襲撃、貿易を通じてますますローマと結びついた。彼らはヨーロッパに入ったときに統一政府を持っていなかったらしく、むしろローマ人との戦争の過程で統一部族としてのリーダーシップを発展させたとされている。フン族は、さまざまな言語を話すさまざまな人々を統治し、その一部は独自の支配者を維持した。彼らの主な軍事技術は騎射 であった。
フン族は、西ローマ帝国 の崩壊の大きな要因である大移動 を刺激した可能性が指摘されている。フン族に関する記憶は、フン族が敵対者の役割を演じるさまざまなキリスト教の聖人の生活 や、フン族がゲルマンの主要人物の様々な敵対者または同盟者であったゲルマン英雄伝説でも生き続けた。ハンガリーでは、中世の年代記に基づいて発生した伝説で、ハンガリー人 、特にセーケイ人 はフン人の子孫とされている。しかし、主流の学術界では、ハンガリー人とフン族の密接な関係を否定している。近代文明は、一般にフン族を極端な残酷さと野蛮さに結びつけている。
歴史上の記録
フン族の西方への移動の推定図
アッティラ以前
139年 、ローマ の地理学者プトレマイオス はクーノイ族(Χοῦνοι またはΧουνοἰ )がスニ(Suni )の統治下にあるポントス 地方のバスタルン族 (英語版 ) とロクソラン族 (英語版 ) の間に住んでいると述べている。彼は2世紀 の初めに列挙したが、これらの民族がフン族か否かは不明である。西ローマ帝国 がしばしば「クーノイ」 (Χοῦνοι )または「ウーノイ」(Ουννοι )と書いており、東ローマ帝国 では名称のはじめにXの喉頭音を一度も用いていないことを考慮すると「クーノイ」 (Χοῦνοι ) と「ウーノイ」(Ουννοι ) の類似は偶然である可能性もある[ 5] 。5世紀 のアルメニア の歴史家モヴセス・ホレナツ (英語版 ) は「アルメニア史」でサルマタイ族 の近くに住むフン族について紹介し、194年 から214年 の間の何れかに起きたフン族によるバルフ 攻略について物語り、この街をギリシャ人が「フヌク」(Hunuk )と呼ぶ理由を説明している。
確実な記録としては、フン族は4世紀 に初めてヨーロッパに現れた。彼らは370年 頃に黒海 北方に到来した。フン族はヴォルガ川 を越えてアラン族 を攻撃して彼らを服従させた。6世紀の歴史家ヨルダネス [ * 1] によるとバランベル (英語版 ) (ゴート族によって創作された架空の人物ではないかと疑われている[ 5] )に率いられたフン族はグルツンギ (英語版 ) (東ゴート族 )の集落を襲撃した[ 5] 。グルツンギ王エルマナリク は自殺し、甥の息子のヴィティメール (Vithimiris )が後を継いだ。376年 にヴィティメールはフン族とアラン族との戦いで戦死した。この結果、東ゴート族の大半がフン族に服従した[ 5] 。ヴィティメールの息子のヴィデリック(Viderichus )はまだ幼なかったため、残った東ゴート族の難民軍の指揮権はアラテウス (英語版 ) とサフラスク (英語版 ) に委ねられた。難民はドニエストル川 西方のテルヴィンギ (英語版 ) (西ゴート王国 )の領域へ逃げ込み、それからローマ帝国 領へ入った。(ゴート族のローマ帝国侵入後については「ゴート戦争 (376年–382年) 」も参照) [要出典 ]
フン族の都市包囲戦を騎士道的 空想に基づいて描いた14世紀 の絵画。注)武器と鎧と都市は時代錯誤 である。ハンガリーのピクタム・クロニクル (英語版 ) 。1360年
フン族による略奪。ジョルジュ・ロシュグロス 画。1910年
逃げ出した東ゴート族の一部に続いてフン族はアタナリック (英語版 ) の西ゴート族の領土に入った。アタナリックはドニエストル川を越えて遠征軍を派遣したが、フン族はこの小部隊を避けて直接アタナリックを攻めた。ゴート族はカルパティア山脈 へ後退した。ゴート族の難民たちはトラキア へそしてローマ駐留軍のいる安全地帯へ向かった。 [要出典 ]
395年 、フン族は初めて東ローマ帝国へ大規模な攻撃をかけた[ 5] 。フン族はトラキアを攻撃し、アルメニア を蹂躙してカッパドキア を劫略した。彼らはシリア の一部に侵入してアンティオキア を脅かし、ユーフラテス属州 を通って押し寄せた。皇帝テオドシウス1世 は軍隊を西方へ派遣しており、そのためフン族は抵抗を受けることなく暴れ回り、398年 に宦官エウトロピウス がローマ人とゴート人の軍隊をかき集めて撃退して、ようやく平和を回復することに成功した。
一時的に東ローマ帝国から逸れた間、405年 のラダガイスス 率いる蛮族の集団のイタリア侵攻や406年 のヴァンダル族 、スエビ族 そしてアラン族のガリア侵入に証明されるようにフン族ははるか西方に移動したようである[ 5] 。この時のフン族は一人の統治者元の一つの軍隊ではなかった。多数のフン族が東西ローマ、そしてゴート族の傭兵として雇われていた。ウルディン (個人名が知られる初めてのフン族[ 5] )はフン族とアラン族の集団を率いてイタリアを守るためにラダガイススと戦った。ウルディンはドナウ川周辺の東ローマ領で騒乱を起こしていたゴート族を破り、400年から401年頃にゴート族のガイナス の首を斬った。ガイナスの首は贈物と引き換えに東ローマへ与えられてコンスタンティノープル で晒された。
408年 、東ローマはウルディンのフン族から再び圧力を感じ始めた。ウルディンはドナウ川を越えてモエシア属州 のカストラ・マルティス要塞を攻略した。それから、ウルディンはトラキア一帯を略奪した。東ローマはウルディンを買収しようとしたが、彼の要求額が大きすぎて失敗し、代わりに彼の部下たちを買収した。これによりウルディンの陣営から多数が脱走し、ローマ軍に大敗を喫して撤退を余儀なくされた[ 6] [ 7] 。これ以降、ウルディンの名は古記録から消える。
西ゴート王アラリック1世 の義弟アタウルフ は、409年 にジューリア・アルプス山脈 南方でフン族の傭兵を雇っていたようである。彼らは皇帝ホノリウス の最高法官オリンピウスに雇われた別のフン族の小集団と対峙した。409年後半に西ローマ帝国は、アラリックを防ぐためにイタリアとダルマチア に数千のフン族を駐留させ、このためアラリックはローマへ進軍する計画を放棄している。
410年頃にフン族は、ドナウ川中流域の平原を制圧した[ 8] 。フン族は東ローマ帝国への侵入と略奪を繰り返し、このため東ローマ皇帝テオドシウス2世 は430年頃に、フン族へ毎年金350ポンドの貢納金を支払う条約を結んだ[ 9] 。
一方で、フン族は西ローマ帝国 の将軍アエティウス (少年時代にフン族の人質となった経験を持つ)の傭兵となって帝国内の内戦やゲルマン諸族との戦争に参加した。433年 、フン族は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世 の母后ガッラ・プラキディア との内戦状態にあったアエティウスとの取引により、軍事力提供の見返りにパンノニア (とイリュリクム の一部)の支配を西ローマ帝国に認められた[ 10] 。
アッティラ統治下の統一帝国
アッティラ のレリーフ。16世紀製作:チェルトーザ・ディ・パヴィーア修道院 (英語版 )
アッティラ の指導のもとでフン族は複合弓 と優れた馬術による伝統的な騎乗弓射 戦術を用いて対抗勢力に対する覇権を確立した。フン族はローマ 諸都市からの略奪と貢納金によって富を蓄えて、ゲピド族 、スキール族 (英語版 ) 、ルギイ族 (英語版 ) 、サルマタイ族 、東ゴート族 といった従属部族の忠誠を維持していた。フン族の状況に関する唯一の長文の直接的な文書は、アッティラへの使節の一員だったプリスクス (英語版 ) によるものである。
434年 にルーア王 が死去して、甥のブレダ とアッティラ の兄弟が共同王位に就いた。即位直後にブレダとアッティラは東ローマ帝国の貢納金を倍額にさせる有利な協定を結んだものの、440年 に和平を破って東ローマ帝国へ侵入してバルカン半島一帯を荒らしまわった。東ローマ帝国軍は敗退し、443年 に皇帝テオドシウス2世 は莫大な貢納金の支払いを約束する条約の締結を余儀なくされた。445年 頃にブレダが死に、アッティラの単独統治となった。447年 、アッティラは再び東ローマ領を侵攻して略奪を行い、東ローマ帝国軍を撃破している。
『レオ1世 とアッティラの会見 』ラファエロ 画。
451年 、アッティラは西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世 の姉ホノリア からの求婚を口実に、大軍を率いてガリア に侵入した。カタラウヌムの戦い でアッティラは、アエティウス 将軍が率いる西ローマ=西ゴート連合軍に敗れ撤退するが、勝ったローマ軍も西ゴート王テオドリック1世 が戦死するなど損害も多く、追撃はできなかった。
翌452年 、体勢を立て直したアッティラはイタリア半島 に侵入して北イタリア各地を劫略するが、教皇レオ1世 の説得により引き返す(実際は、フン族の陣営に疫病 と飢餓が発生していたと見られている[ 11] [ 12] [ 13] )。
パンノニアに帰還したアッティラは、再度の東ローマ帝国侵攻を企図するが、翌453年 に自身の婚礼の祝宴の席で死亡した(脳出血 または脳梗塞 という説が有力である)。
ヨーロッパでは、ローマ教皇 の忠告を守らなかったアッティラに神の天罰が下り死亡、残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして生まれ故郷の東方に帰っていった、という非常に有名な伝承が残っている。この事件をキリスト教 が布教活動に利用、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになったとされる。
アッティラ以後
5世紀の蛮族の侵入 は372年 から375年 のフン族による両ゴート王国破壊が契機になっている。ローマ は410年 に西ゴート族 、455年 にヴァンダル族 に掠奪された。
カタラウヌムの戦い (アルフォンス・ドヌー (フランス語版 ) 画)
アッティラの死後、彼の息子のエラク が兄弟のデンキジック (英語版 ) およびイルナック (英語版 ) との争いに勝ってフン族の王となった。だが、従属部族たちがゲピド族長アルダリック (英語版 ) の元に集まり、454年 にネダオ川でフン族に挑んだ(ネダオ川の戦い (英語版 ) )。フン族が敗れ、エラク王も戦死したことによりヨーロッパにおけるフン族の覇権は終わり、それからほどなくして同時代の記録から彼らは消え失せた。パンノニア平野は東ゴート族にトランシルヴァニア はゲピード族に占領され、その他の諸部族も中央ヨーロッパ各地に割拠した[ 14] 。
後代の歴史家たちは、アッティラの民たちの離散と解明についての一瞥を提供している。伝統に従ってエラクの死後、彼の兄弟たちは2つに分離しているが近く関係する遊牧集団を黒海北方の平原で率いた。デンキジックはクトリグール (英語版 ) ・ブルガール族およびウトリグール (英語版 ) ・ブルガール族の王(カーン)となったと信じられ、一方プリスクスはクトリグール族とウトリグール族はイルナックの2人の息子に率いられ、彼らにちなんで名づけられたと主張している。このような区別は不明確であり、そして状況はそれほど明快ではなさそうである。 [要出典 ]
デンキジックとイルナックに率いられたフン族の一部は、パンノニアの東ゴート族に復讐を挑むが撃退され、ダキア・リペンシス (英語版 ) やスキュティア・ミノル (英語版 ) といった東ローマ帝国領へ避難した[ 15] 。おそらく、その他のフン族と遊牧集団はステップへ撤退した。事実その後、クトリグール族、ウトリグール族、オグール族(Onogur )、サダギール族(Sarigur )と云った新たな同盟が出現し、これらはひとまとめに「フン族」と呼ばれている。同時に6世紀のスラブ人たちも、プロコピオス によってフン族として紹介されている。 [要出典 ]
指導者
※アッティラ以前のフン族の指導者については不明な点が多く、諸説ある。
社会
フン族の野営地の想像画。シャーロット・ヤング 作『少年向けローマの歴史(Young Folks' History of Rome )』の挿絵。19世紀
外見
ヨルダネス は、『ゴート人の起源と行為』において、フン族の起源に関する神話的記述の中で、フン族について以下のように述べている。
まず沼に囲まれた所に住みついた、取るに足らない、汚らしい、貧弱な種族である。人間の一種族のようでもあるが、その話す言葉については、人間の言葉との類似が認められるということしか知られていない。
— ヨルダネス、『ゴート人の起源と行為』24章(122節)[ 22] [ 23]
それに続くフン族についての伝説を語る中で、以下のように述べている。
彼ら[フン族]は或いは戦闘において少しも優勢でないと見えても、彼らの凄まじい顔付きがとてつもない恐怖を引き起こし、相手を恐ろしさのあまり逃げ出させた。浅黒い見た目が恐ろしかったのである。それは、いわば形を成していない塊のようなものであり、顔ではない。そこにあるのは、眼というより点のような穴である。彼らの気性の剛胆さは、その酷薄な外見に表れている。彼らは、自分の子に対しても狂暴になる。子が生まれたその日に、彼らは男子の頬を鉄剣で切開するのである。母乳の滋養を受ける前に、傷に耐えることを否応なく体験するためである。このゆえに、彼らは髭が無いまま年老いていき、若者たちは見栄えが良くない。鉄剣で顔面に刻まれた傷痕が、年齢にふさわしい髭の魅力を無駄にしてしまうからである。彼らはまったく粗末な姿形をしているが、身のこなしが軽快で、乗馬への意気込み鋭く、肩幅が広く、弓矢に熟練しており、頑丈な首をし、誇りをもって常に堂々としている。この者たちは、確かに人間の形をしてはいるが、野獣の獰猛さをもって生きている。
— ヨルダネス、『ゴート人の起源と行為』24章(127-128節)[ 22] [ 23]
フン王アッティラと会見した東ローマ帝国 のプリスクス (英語版 ) の所伝を引用したヨルダネス は「アッティラは背が低く、胸は広く、巨大な顔を持ち、眼は小さくて落ちくぼみ、髯は薄く、鼻は低く、顔色は黒ずんでいた」と記しており、フンがモンゴル型種族(モンゴロイド )であったことを示している[ 24] 。
文化と習慣
フン族の大釜
4世紀の歴史家マルケリヌス・アンミアヌス はフン族の生活習慣について「食料を煮たり焼いたりせずに生のままで食べ、鞍の下に蓄えた腐肉も食する。女子供は常に荷車の中で生活し育てられる」と述べている[ 25] 。
フン族の弓矢の複製品:屈曲型短弓 の複合弓
フン族は牛、馬そして山羊と羊の群れを飼っていた[ 5] 。彼らの他の食料源は狩猟と野草の採集だった。衣類は山羊の皮からつくった丸い帽子、ズボンまたレギンスと亜麻または齧歯類の皮の上着を着ていた。アンミアヌスはフン族はこれらの衣類がぼろぼろになるまで着ていたと伝えている。戦闘では彼らは弓と投げ槍を用いた。矢じりと槍先は骨でつくられていた。また、接近戦では鉄剣と投げ縄を用いた。フン族の剣は長く、真っ直ぐな両刃のサーサーン朝 形式のものである[ 26] 。フン族の中の地位の象徴は金箔の弓である[ 26] 。
彼らは男児の顔を剣で切るスカリフィケーション (傷による身体装飾)を行う。その他の一般的なフン族の習慣は、顔面を広げて敵に恐怖心を与えるために、幼児の頃から子供の鼻を縛り付けて平たくすることである。発掘されたフン族の頭蓋骨は、幼児期に頭を儀式的に縛り付けた結果である人工的な頭蓋骨奇形の証拠を示している[ 27] 。
フン族はこの時代の他の蛮族と異なり、ヨーロッパに入ってからも定住生活を行わず、遊牧による移動生活を続けていた[ 16] 。アッティラの時代になると、フン族社会の経済は遊牧ではなく、略奪と従属部族からの搾取によって成り立っていたと考えられている[ 28] 。
アンミアヌスは、フン族には王はおらず、貴族たちに率いられていると述べている。重大な事柄については、彼らは会議を開き、馬上で議論する。ルーア王の頃にフン族全体をまとめる王権が形づくられ[ 29] 、次のアッティラ王の時代に全盛期を迎えた。
フン族の人口は、ローマ側の史料では女子供を含めた60万から70万人とあるが[ 30] 、現代の研究者は実際の人口はかなり少なく、兵力は数千騎程度だったと考えている[ 31] [ 32] 。
民族系統の考察
言語系統
19世紀初頭、ドイツ のJ・クラプロート がフンの言語 はウラル語 系のフィン・ウゴル語派 ではないかと提唱した。日本 の白鳥庫吉 もこの説を支持した。この時代の説を引いて、フィン・ウゴル語派に属する「フィンランド人 がフン族の裔」とする説も流れた。しかしこの説は、東ローマの僧の「ハンガリー人はフンと同一民族である」との言い伝えと、同様の内容のハンガリー の古記録、フンの種族名の一つにOungri/Ougri(ハンガリー)とあったのを根拠としていた。
1882年 、ハンガリーのヴァーンベーリ は『マジャール人 の起源』において、フン語 =トルコ語 であるとした。その後様々な研究者によってフン語=トルコ語説が支持され、その中でもM・A・アリストフ はチュヴァシ人 (現在はフンの子孫とされている)の言語がフィノウグール語の影響を受けてはいるが、トルコ語がその語幹をなしていると論じた。一方、ポッペ はその説に対して反論を行い、フン語はアルタイ諸語 で、蒙古語 でもトルコ語でもない別の言語であるとした。これをバルトリド も支持し、フン語はテュルク語 系統の古トルコ語 とブルガール語 近縁とされるチュヴァシ語 が分岐する前の古チュヴァシ・トルコ語 であるとした。
古代歴史書の見解
4世紀の歴史家アンミアヌス は「氷結した大海に近い北方からやって来た」と述べた[ 33] 。
5世紀のローマ外交官でギリシャ歴史学者でもあったプリスクス (英語版 ) は、フン族が独自の言葉を持っていたことに言及している。
6世紀の歴史家ヨルダネスはフン族の起源をゴート族 の魔女 と不浄な魂との交合によるものであると述べている[ 34] 。
アラン人を移民に追いやった経過からは、フン族がヴォルガ川以東のかつてのスキタイ 方面からの遊牧民の可能性が高いをことを示しているが、これらの古い記述は、フン族が少なくともかなりの北方から渡来してきたことを示唆した。しかし、これ以上の具体的な起源は不明であった。 [要出典 ]
「フン族」=「匈奴」説
250年頃の匈奴 の領域
「フン族は紀元前3世紀頃に中国の北方に勢力があった匈奴 の子孫であり[ 35] 、テュルク系民族 がユーラシア大陸 に広がった最初の端緒である[ 36] 」とする説がある。
フン=匈奴 説は、先ずフランスのコレージュ・ド・フランス 教授ジョゼフ・ド・ギーニュ が『フン・トルコ・モーコ通史』(1756年 )において、フン=北匈奴であるとした。
また、フン族の指導者たちの名はテュルク諸語 で表されているとされているとした[ 37] [ 38] 。
これらの学説の論拠は史書の記録、国名の類似、墓相・装飾品の類似などである。研究者は「匈奴」の当時の発音が「フンナ」もしくは「ヒュンナ、ヒョウナ」など、フンとよく似た音である事から(匈奴#読み を参照)、また後漢 が北匈奴を討ち(91年 )残党が西走した記録から、また王名などの分析から言語学 的にモンゴル系 に属すると判断し得る、等々の根拠からフン=匈奴であるとしている。しかし、それ以外の言語学的資料が少なく言語面のみからの判断は不詳かもしれない。当時の北アジア ・中央アジア に至る草原地帯の地域的気候変動が遊牧経済に打撃を与えたことが彼らの大移動の要因になっているとする説もある[ 39] 。
多くの学者はフン族と匈奴の関連性について、肯定的に捉えつつも断定はしていない。遊牧民の集団は血統を重視するため首長家の婚姻や政治的連合によっても主要な中枢集団の構成要素は容易に変動しないが、フン族集団全体としては匈奴の西走集団と系譜的に繋がるとしても、これを中国北方から西走した匈奴国家の部民が元の体制を維持したまま西方にフン族として登場した可能性には疑問がある。
遺伝子学的なアプローチ
フン族の遺骨から古代のDNA を分析するアプローチも行われ、これまでにいくつかの手がかりが得られている。「フン族=匈奴説」にもとづいて、紀元前300年~西暦200年頃の匈奴があったモンゴルの地域からのいくつかのサンプルからY染色体 のハプロタイプ を調べたところ、これまで2つから北東アジアに特徴的なC2 、匈奴と同じく北東アジアの古代遊牧民である突厥人に多いQ-M242 、N1c1 、他にR1a1a-M17 が見つかっている。新疆 バルクルからのサンプルでは3つ全てからQ1a3a-M3が見つかった、殆どは東アジアの出自を示している。
mtDNA でも45個のサンプルから調査が行われ、ほとんどから東アジアの出自を示すB4b 、C 、D4 、F1b 、G2a が見つかっているが、6つはU2 、U5a 、J1といったヨーロッパ起源のものが含まれていた[ 40] 。
民族集団説
民族集団を形成論的に考察した解釈に[ 41] 、歴史上の大草原における部族連合 は民族的に同種ではなく[ 41] 、むしろテュルク語族 、エニセイ語族 (en )、ツングース語族 、ウラル語族 、イラン語族 [ 42] 、モンゴル語族 などのような多民族の連合である。これはフン族も同様であることを示唆している[ 41] 、とするものがある。
説では、威信と名声に基づいて多くの氏族が自らをフン族であると主張したであろうし、それは彼らの共通の特徴や信じられていた起源の場所、評判を記述した部外者のためである[ 41] 。
民族集団形成のアプローチでは集団が単一の土地を起源とするか単一の歴史を持つ言語学的または遺伝学的に均質の部族を想定しない。寧ろ貴族階級の戦士たちの小集団が土地から土地へ、世代から世代へと民族的な慣習を受け継ぐであろうとしている。臣下たちはこれら伝統の中枢の周辺に合同したり、離散したりする。フン族の民族性はこれらの集団に受け入れさせることを必要とするが、その際に「部族」の中から生まれたことは必要条件ではない。「私たちが差支えなく言えることは古代末期(4世紀)におけるフン族の名称は草原の戦士の名声のある支配集団を表現していると云うことである」と歴史学者ヴァルター・ポール は述べている[ 41] 。フランク王国 を建国したサリー族 にもあてはめる議論があり[ 43] 、こちらは通説となりつつある。
後継国家
フン王ブレダの名に由来する[ 44] ブダ城
フン帝国の崩壊後、フン族は東ヨーロッパ一帯に子孫を残したが、彼らがかつての栄光を取り戻すことはなかった。その理由の一つはブルガール人やマジャール人、金帳汗国 と異なり、フン族が税制や官僚制度といった完全な国家機構を確立することがなかったためである。いったん組織が崩れると、フン族はより組織化された政治体に吸収されてしまった。彼らの後のアヴァール と異なり、一度フン族の政治的統一が崩れると、フン族はアッティラを頂く多民族帝国になっていたため、それを再建する手段はなかった。フン族は(少なくとも通常は)様々な人々の大群を含んでおり、彼らの各々が自らをフン族の「子孫」であると考えていた。しかしながら、フン族は固有の人民や国家ではなく政治的産物であったので、454年の敗北がこの政治体の終わりとなった。その後に発生した新たな政治体は、以前のフン族連合の人々から構成されており、同じステップ文化を継承していたが、彼らは新たな政治的産物である。 [要出典 ]
後の多くの国々がフン族の民族的、文化的後継者であると主張している。ブルガール王侯表 (英語版 ) は、ブルガリア王家がアッティラの子孫であると信じていたことを示している。ブルガール人 はおそらくフン族の民族同盟の主要構成員であったであろう。フン族とブルガール人の文化には幾つかの類似があり、例えば人工的頭蓋変形 の習慣などの考古学的証拠は、両者の強い連続性を示唆する。フン族とブルガール人の最も特徴的な武器(複合弓や長く垂直の両刃の剣など)はその外観がほとんど同じである。何人かの学者はチュヴァシ語 (ブルガール語 の後裔であると信じられている)はフン語 に最も近い同族言語であると仮説を立てた[ 45] 。
マジャル人 (ハンガリー人)はフン族の相続者たるを特に強く主張している[ 46] 。マジャル族はフン部族連合が消滅した約450年後の9世紀 末に現在のハンガリー地方に定住し始めたが、マジャル起源伝説を含むハンガリー先史時代(en )は幾つかの歴史的事実を残しているとされる。ヨーロッパを侵略したフン族は様々な人々の緩やかな連合を代表し、マジャル人の幾らかもその一部であったろうし、または後になって依然としてフン族を名乗っていたアッティラの子孫に参加したのかもしれない。確定的な歴史学的または考古学的証拠がないにもかかわらず、賛称 (ハンガリー国歌)はハンガリー人を「ムンズク (Bendegúz :en )の血統」(アッティラの父)であると述べている。アッティラの兄ブレダ (Bleda )は現在のハンガリー語ではブダ(Buda )と呼ばれている。ブダペスト 西側のブダ 地区は彼の名に由来するとされている。20世紀前半まで、ハンガリーの歴史学者の多くはセーケイ人 はフン族の後裔であると信じていたが、現在では学界の一般的見解ではない。 [要出典 ]
ベーダ はアングロサクソン が部分的にフン族の血筋を引いていると主張した[ 47] 。
伝説
『聖ウルスラの受難 』。結婚を拒否した聖ウルスラ を矢で突き刺すフン王。ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ 画、1610年。
第一次世界大戦時のイギリス の対独プロパガンダのポスター。敵国ドイツ を"Hun "と形容している。
フランク王国のカロリング朝 はアッティラの子孫だと自称していた(一説に、カール大帝はアッティラの雲孫の曾孫(アッティラから数えて12代目)とされている。アッティラ - 名前不詳の娘(435年 頃生誕) - エレムンド(父はアルダリック(474年 没)) - アウストリグサ(490年 頃生誕。夫はワッコ(490年 - 540年 )) - ワルデラダ(525年 - 570年 以降に没。夫はバイエルン 王ガリバルド1世(525年 - 590年 )) - ゲルトルデ(557年 頃生誕。夫はユーグ(カルロマン)) - ピピン1世 (大ピピン) - ベッガ(620年 - 693年 ) - ピピン2世 (中ピピン) - カール・マルテル - ピピン3世 (小ピピン) - カール大帝という系譜である)。
フン族の征服の記憶はゲルマン民族 の中で口伝伝承 され、古ノルド語 の『ヴォルスンガ・サガ 』や『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ 』そして中高ドイツ語 の『ニーベルンゲンの歌 』の重要な構成要素となった。これらの物語は千年紀 前半の民族移動時代 の事件を題材としている。
『ヘルヴォルとヘイズレク王のサガ』では、ゴート族は弓を巧みに扱うフン族とはじめて接触し、ドナウ川 の平原で勇壮な戦闘を行う。
『ニーベルンゲンの歌 』では、ブルグント 王グンテルの陰謀により重臣ハゲネ に夫ジーフリト を殺されたクリエムヒルト が、フン族の王エッツェル(アッティラ )と結婚する。その後、彼女はエッツェルの妻としての権力を用いて、ハゲネとグンテル王だけでなく全てのブルグント騎士に血なまぐさい復讐を行った。
『ヴォルスンガ・サガ 』では、アトリ(アッティラ)は夫シグルズを失い寡婦となったブルグントの王妹グズルーン と再婚し[ 48] 、黄金を手に入れるためにブルグント王グンテルと弟ホグニを騙して自国に招き殺害するが、ホグニの息子に復讐される[ 49] 。
中世のキリスト教 伝説では、1万1千人の処女とともに巡礼の旅に出た聖ウルスラ はフン族に襲われ、聖ウルスラはフン王の矢で射殺され、1万1千人の処女たちは虐殺されている。
16世紀 のノルウェー 南部の農民反乱において、叛徒たちは法廷で「フン王アトル(Atle )」が大軍とともに北から来援することを期待していたと主張している。
近代になって、フン族(Hun )の名称は第一次世界大戦 と第二次世界大戦 におけるドイツ のあだ名として用いられた[ 50] 。1900年 の義和団の乱 に際してドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 が「敵に対してフン族のように容赦するな」と将兵に命じた[ 51] 。この演説が第一次世界大戦の際にドイツ人の野蛮性を強調すべく、連合国 に利用された。第二次世界大戦でも、連合国の人々は同じようにドイツ人を形容している。
脚注
注釈
^ ヨルダネスは6世紀のアリウス派僧侶のローマ帝国官僚でゴート人についての歴史家。
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