市章
地図
基本情報
連邦州 :
ザクセン州
行政管区:
旧ライプツィヒ行政管区
郡:
郡独立市
緯度 経度 :
北緯 51度20分25.2秒 東経 12度22分29.1秒
標高:
海抜 113 m
面積:
297.8 km²
人口:
601,866人(2021年12月31日現在)
[ 1]
人口密度:
2,021 人/km²
外国人:
5.9 % [ 2]
郵便番号:
04003–04357 (旧: 70xx)
市外局番:
0341
ナンバープレート:
L
自治体コード:
14 7 13 000
UN/LOコード :
DE LEJ
市の構成:
10 市区、 63 小街区
市庁舎の住所:
Neues Rathaus Martin-Luther-Ring 4-6 04109 Leipzig
公式ウェブサイト:
www.leipzig.de
行政
上級市長:
ブルクハルト・ユンク (Burkhard Jung) (SPD )
座標 : 北緯51度20分25.2秒 東経12度22分29.1秒 / 北緯51.340333度 東経12.374750度 / 51.340333; 12.374750
ライプツィヒ (ドイツ語 : Leipzig [ヘルプ /ファイル ] )は、ザクセン州 に属するドイツ の都市である。人口は約60万人。ザクセン州では州都ドレスデン をやや上回って最大の都市で、旧東ドイツ 地域ではベルリン に次いで2番目である。日本語ではライプチヒ とも表記される(表記 参照 )。南部ドイツ語 ではライプツィク と発音されることもある。
バッハ やメンデルスゾーン そしてヴァーグナー らゆかりのドイツを代表する音楽の街、またベルリンの壁崩壊 、ひいては東西両ドイツの統一 の端緒となった住民運動の発祥地として知られる。
表記
日本語表記においては本項で用いるライプツィヒ のほか、外来語表記の慣用によるライプチヒ とするものも多い。その他、ライプチッヒ 、ライプツィッヒ とするものも見られる。ライプツィヒはドイツ語 的な発音の地名に聞こえるが、ラテン語 ではリプシア(Lipsia)と呼ばれ、もともとはスラブ語 のセイヨウシナノキ (ドイツ語でリンデンバウム )を意味する言葉から出ていて、ロシア のリペツク 、ラトビア のリエパーヤ (Liepāja)と語源 を共有している。
地理
地勢
ザクセン州 北西部のライプツィヒ盆地に位置し、約30km北西にハレ 、約100km南東にドレスデン 、約160km北東に首都ベルリン がある。ドイツ中部圏 (Metropolregion Mitteldeutschland)の中央に位置する同圏の中心都市である。
市内中心部にはリング(Ring)と呼ばれる環状大通りが一周しており、これに囲まれた部分は中世以来の都心部として特に中心街(Innenstadt)と呼ばれる。リングはかつての市壁(街自体を囲む城壁)の外周を巡っていた遊歩道跡で、近世以降その外側へと市街地が拡大していった。中心街は直径約1kmの円状をなし、その中央にマルクト広場(Marktplatz)が位置する。
気候
気候は大陸性気候 に属し、年平均気温は約8℃。夏季でも気温が30℃を超えることはまれであるが、1992年には38℃の過去最高気温を記録している。冬の気温の最低記録は1987年の-24.1℃。[ 3] 真冬には多くのドイツの地域と同様降雪が見られ、雪に覆われる。氷点下になることがよくあり、2010年の0℃以下記録日数は62日であった。[ 4]
ライプツィヒの気候
月
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
年
平均最高気温 °C (°F )
3.2 (37.8)
4.1 (39.4)
8.7 (47.7)
13.0 (55.4)
18.6 (65.5)
21.5 (70.7)
23.7 (74.7)
23.9 (75)
19.3 (66.7)
13.7 (56.7)
7.2 (45)
4.0 (39.2)
13.41 (56.15)
日平均気温 °C (°F )
0.7 (33.3)
1.1 (34)
5.0 (41)
8.4 (47.1)
13.4 (56.1)
16.5 (61.7)
18.5 (65.3)
18.6 (65.5)
14.8 (58.6)
9.9 (49.8)
4.5 (40.1)
1.7 (35.1)
9.43 (48.97)
平均最低気温 °C (°F )
−1.9 (28.6)
−2.0 (28.4)
1.2 (34.2)
3.7 (38.7)
8.1 (46.6)
11.4 (52.5)
13.3 (55.9)
13.3 (55.9)
10.2 (50.4)
6.0 (42.8)
1.8 (35.2)
−0.7 (30.7)
5.37 (41.66)
雨量 mm (inch)
30.9 (1.217)
26.7 (1.051)
36.5 (1.437)
42.4 (1.669)
42.1 (1.657)
55.1 (2.169)
58.2 (2.291)
58.6 (2.307)
44.5 (1.752)
35.8 (1.409)
37.1 (1.461)
38.9 (1.531)
506.8 (19.951)
平均降雨日数 (≥1.0 mm)
8.1
6.6
8.0
7.6
8.5
9.4
8.8
8.1
7.6
7.3
7.9
8.9
96.8
出典:World Meteorological Organization.[ 5]
歴史
2つの通商街道、Via Regia(国王の道)とVia Imperii(帝国の道)
中世 10世紀頃、この地を流れるエルスター川 とパルテ川の合流地点近く(現在の中心街北西の一角)のスラヴ系 ソルブ人 の集落に、ドイツ人により城砦が築かれたことが街の始まりとされている。これを表す "urbs Libzi" という名称は1015年 に初めて史料に現れる(地名の元になっている lipa は古ソルブ語 で「菩提樹 」の意)[ 6] 。このため、日本でも稀に菩提樹市と称される場合がある。ちなみに明治時代に日本で用いられた漢字表記は来責府 である[ 7] )。
旧市庁舎 (1557年完成のドイツを代表するルネッサンス建築 物の一つ)
東方植民 に続いてやがてヨーロッパ大陸を縦横に貫く2つの通商街道が形成され、広範囲の交易が盛んになると、ライプツィヒはちょうどその交差点に位置する町として神聖ローマ帝国 有数の商都 へと発展してゆく。王侯貴族や司教の拠点としてではなく商人の町として1165年 には都市権・市場権を獲得し、商人たちの守護聖人である聖ニコラウス に捧げられた市内最初の教会・ニコライ教会 が創建された。興隆に伴って入植者が増加してゆき、1212年 にはアウグスチノ会 トーマス修道院(現・トーマス教会 )とそれに付属するトーマス学校が創設された。1409年 に同修道院内に開学したライプツィヒ大学 は、現在のドイツ国内で最古の大学の一つである[ 8] 。15世紀 に入ると、「大市開催地として国際的な意義を獲得した」 [ 9] 。16世紀 にはルター が当地で信仰をめぐる論争を繰り広げ(ライプツィヒ討論 )、ライプツィヒは後に彼によってプロテスタント 化された。
諸国民戦争記念碑 (戦闘から100年となる1913年、古戦場中央に建設されたヨーロッパ最大の記念建造物)
ザクセン選帝侯領 の都市となった近世 以降のライプツィヒは、三十年戦争 (ブライテンフェルトの戦い ・リュッツェンの戦い )の混乱を挟みつつメッセ (後述の「見本市 」参照 )の開催地としてヨーロッパ屈指の商都へと成長してゆく。そして17世紀 後半から「時計職、馬具職、鞣皮職、染色職などのインヌンク(ギルド )が続々と成立した」ように手工業が栄えた[ 10] 。それと共に市民層による各時代の芸術・文化が花開き、18世紀にはドイツ地方初のコーヒー店が登場し、テレマン やバッハ が市民の音楽活動を率い、ゲヴァントハウス管弦楽団 が創設された。1813年 にはナポレオン戦争 中最大規模の戦いとなった諸国民戦争(ライプツィヒの戦い) が行われ、ナポレオン1世 麾下のフランス 軍19万と、プロイセン ・ロシア帝国 ・オーストリア帝国 ・スウェーデン の連合軍36万が激突する舞台となった。
戦乱から復興後のライプツィヒは商業と並んで学芸、とりわけ西洋音楽 における中心地として栄華を極める。19世紀のライプツィヒはウィーン 、パリ と共にヨーロッパを代表する音楽の都として名を馳せ、この時代にメンデルスゾーン やシューマン らが活躍した。工業化 時代に入ると、ライプツィヒはその強固な経済基盤の下で工業都市として急速に発展し、それと共にドイツにおける社会民主主義運動や婦人運動の重要な拠点となった。ドイツ帝国 ・ヴァイマル共和国 有数の大都市として更なる拡大を見せ、1931年 には人口71万9千人を数えた(現在までの最高記録)。
第二次大戦による惨禍の後、ライプツィヒのある中部ドイツはソ連占領区 となり、1949年にそれがドイツ民主共和国(東ドイツ) となった。社会主義 化したこの時代にはドレスデン、カール・マルクス・シュタット(現・ケムニッツ )と共に東ドイツの主要工業地域を形成した。メッセは社会主義政権下でも継続され、西側世界との貴重な窓口となった。東ドイツ時代末期の1989年 にはニコライ教会での集会を発端とする「月曜デモ 」と呼ばれる反体制運動が起き、これが東ドイツにおける民主化運動の出発点となった。当地の市民蜂起に始まり、ベルリンの壁崩壊、そして東西ドイツが犠牲者を出すことなく統一された一連の出来事は、現在東欧革命 の一部として「東ドイツ平和革命(Friedliche Revolution)」と呼ばれる。
東側から見る中心街
ドイツ再統一後には街並みの修復や再開発、芸術・文化面の再興などで再び急速な変遷を遂げ、現在のドイツ中部圏を代表する文化・経済都市となっている。ポルシェ やBMW の開発を担う新工場の建設や、アマゾン やヤマザキマザック による拠点開設、そしてDHL のヨーロッパ・ハブのブリュッセル から当地への移転といった企業進出に加え、音楽に代表される文化的環境(後述 )を生かした文化 ・創造産業 も盛んである。
2015年 には史料初出から1000年目を迎え、千年史記念祭の開催が予定されている。
交通
鉄道
ヨーロッパ最大の頭端式駅であるライプツィヒ中央駅 があり、ドイツ中部圏における鉄道交通の要所である。同駅には一日700以上の列車が発着しており、ICE ・RE ・Sバーン などが利用できる。ベルリン 、フランクフルト (中央駅 および空港長距離列車駅 )、ミュンヘン といった国内の各主要都市に乗り換えなしで行くことが可能。特に首都ベルリンとは毎時間運行のICEで約1時間15分で連絡している。中央駅から中心街の地下を通って市街南部へと抜ける「シティー・トンネル(City-Tunnel Leipzig)」が2013年 12月に開通、中心街直下に地下駅が開業。
ライプツィヒ交通公団(Leipziger Verkehrsbetriebe GmbH)の運営する都市交通も充実しており、市内を多くの路面電車 やバスが走っている。
空路
ライプツィヒ・ハレ空港 (Flughafen Leipzig/Halle)が市内中心部より北西約15kmの所にある。空港はハレとライプツィヒの間にあり、貨物ターミナルにはDHLのヨーロッパ・ハブが置かれている。旅客ターミナルは鉄道駅と直結しており、市街とはSバーンやIC 、バスで結ばれている。上述のシティー・トンネル開通後は空港駅から中央駅・マルクト駅(マルクト広場直下)といった中心街各駅まで乗り換えなしでアクセス可能となった。
文化
多彩な文化が栄えてきたライプツィヒは特に音楽 の街として知られ、市街各地に音楽ゆかりの場所がある。芸術的環境やドイツで2番目に古い大学 を有する都市として歴史上の様々な著名人がこの地へと集まった。また、世界で初めて日刊紙 発行、見本市 (ライプツィヒ・メッセ )開催がなされた都市である。ドイツ有数のスポーツ の街としての一面も持つ。
音楽
合唱団
トーマス教会
トーマス教会少年合唱団 (Thomanerchor)はトーマス修道院・トーマス学校と共に1212年に創設された市内最古の音楽団体で、その歴史を通しトーマス教会と市の中央教会であるニコライ教会を演奏の場としてきた。その指導者であり、市の音楽活動を統轄する立場にあったトーマス教会音楽監督(トーマスカントル) は近世以来ドレスデンの聖十字架教会 と並んでドイツ・プロテスタント圏の教会音楽 をリードしてきた。
歴代のトーマスカントルの中ではヨハン・ゼバスティアン・バッハ (任期:1723~50年)が最も著名で、ここで『ヨハネ受難曲 』『マタイ受難曲 』『クリスマス・オラトリオ 』といった代表的作品が創作・初演された。合唱団は現在でも毎週トーマス教会の礼拝に出演し、800年にわたる合唱の伝統が守られている。
管弦楽団
ゲヴァントハウス・コンサートホール
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 は、18世紀に市民の音楽文化が栄えるなか、市民階級による自主経営団体として1743年 に発足した世界初の民間オーケストラである。フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ やアルトゥル・ニキシュ 、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー 、ブルーノ・ワルター 、フランツ・コンヴィチュニー といった著名音楽家が楽長 (首席指揮者)を務めた。 ベートーヴェン 『ピアノ協奏曲《皇帝》 』、シューベルト 『交響曲《ザ・グレート》 』、シューマン 『交響曲《春》 』、メンデルスゾーン『ヴァイオリン協奏曲 』、ブラームス 『ドイツ・レクイエム (全曲)』『ヴァイオリン協奏曲 』などの初演を行なったことでも知られる。
同団は通常のオーケストラの倍の人数を持ち、ローテーションでライプツィヒ歌劇場 のピットに入るほか、トーマス教会では毎週トーマス教会少年合唱団のカンタータ を伴奏する。1809年 結成のゲヴァントハウス弦楽四重奏団(世界最古の弦楽四重奏団)も著名。人口10数万の小都市でもカンパニーが完備したオペラハウスを持つことが多いドイツ圏において50万以上の人口を擁する都市で専属オーケストラを持たないライプツィヒ歌劇場 は、制度上異色の存在であるが、上記のようにゲヴァントハウス管弦楽団の多人数ローテーションで支えられているため、事実上常設オーケストラを有する歌劇場として運営されている。他にも、ライプツィヒに本拠を置く中部ドイツ放送(MDR)交響楽団 や中部ドイツ放送合唱団(それぞれドイツで最初の放送管弦楽団 ・放送合唱団)も知られている。
歌劇場
ライプツィヒ歌劇場
上述のライプツィヒ歌劇場 は1693年 の開場で、ヴェネツィア 、ハンブルク に次いでヨーロッパで3番目に古い市民劇場としての歴史を持つ。ワーグナー は1813年 にこの地で生まれた。彼が音楽の授業を受けた旧ニコライ学校校舎(Alte Nikolaischule)が現存する。メンデルスゾーンは1843年 にドイツ初の音楽高等学校であるライプツィヒ音楽院を創設し、同校における日本人留学生第一号は瀧廉太郎 であった。現在はメンデルスゾーン音楽演劇大学 として受け継がれている。ドイツを代表する名門ピアノメーカーの一つであるブリュートナー もライプツィヒにて創業した。
その他、バッハがトーマスカントルの契約書に署名した旧市庁舎(Altes Rathaus)や、ドイツ最古のコーヒー店で様々な音楽家が訪れたカフェ・バウム 、メンデルスゾーン旧宅(Mendelssohn-Haus)、シューマン旧宅(Schumann-Haus)、世界屈指のコレクションを有するグラッシィ楽器博物館(Grassimuseum für Musikinstrumente)などが市内に点在し、これらの音楽史跡を繋いだ「ライプツィヒ音楽軌道(Leipziger Notenspur)」という街路を世界遺産 に登録するための整備事業が開始されている。毎年初夏に行われるバッハ音楽祭 は世界的に重要な音楽行事の一つに数えられる。
見本市
ライプツィヒ・メッセ (現在の見本市会場)
メードラー・パッサージュ街 (ミラノのガッレリア がモデル)
ライプツィヒは世界有数の見本市 の街としても知られる。15世紀以降のドイツや中欧では、商都としての経済的発展のもとで「メッセ(Messe)」と呼ばれる大規模な定期市が開かれた[ 注釈 1] 。神聖ローマ皇帝 のマクシミリアン1世 はメッセを保護し、これによってライプツィヒは神聖ローマ帝国内初の帝国市「ライプツィヒ・メッセ 」の街として経済的優位を確立する。
当時のメッセは商品を直接売買する現物市であった。数世紀にわたる交易を通して諸国から最新の知識や技術などがもたらされ、ライプツィヒの国際的な繁栄を支えた。ドイツにおいてライプツィヒとフランクフルト がメッセの2大都市として知られ、16世紀からはライプツィヒのメッセがフランクフルトを上回った。その原因としては、周辺地域での工業の発達、移民の受け入れ、内陸の通商路の重要性の高まり、ザクセンにおける手工業 の発展などがあげられる[ 11] 。
19世紀には、メッセという語は見本市も指すようになった。近代に入ると、これまでの現物市に代わり商品見本の展示を主とする世界初の「見本市」が1895年 に当地で開催され、これによってライプツィヒは見本市の街として世界的に知られるようになる。「メッセ」という語は以降「見本市」を表すこととなった。マイセン磁器 やシュタイフ社 のテディベア なども、ライプツィヒ・メッセを通して世界へと紹介された。中心街には世界で初めて建設された見本市開催施設である市立商館(Städtisches Kaufhaus)、メードラー・パッサージュ街 (Mädler Passage)に代表される戦前の壮麗な見本市商館が残り、国際見本市都市の栄華を物語る。現在の見本市会場は東西ドイツ統一後に市街北部に新設されたものである。
書籍
ライプツィヒは書籍・印刷の街としても世界有数の歴史を有す。ヨーロッパ屈指の商都として様々な物品が取引されたなか、重要な位置を占めたのが書籍である。15世紀末までは、地域外の印刷業者や書籍商により印刷物が持ち込まれていたが、1481年 、ライプツィヒでも本の印刷が開始される。1530年 までに1300種類もの本が出版された。1594年 からは書籍市のカタログまで出版されるようになり、1650年 には世界初の日刊紙 がライプツィヒに登場する。
ザクセン選帝侯領 では神聖ローマ帝国の他の地域に比べて検閲や出版統制が緩かったことから、ドイツ各地の出版業者もライプツィヒに集まってきた。特に、17世紀 までの出版の中心地であったフランクフルト・アム・マイン には、神聖ローマ帝国が反カトリック的書物に対する検閲機関(Kaiserliche Bücherkommission )を置き、出版への統制を強めたため、統制を嫌った出版業者はフランクフルトからライプツィヒへと続々と移転した。18世紀 の啓蒙時代 にはライプツィヒがドイツ語圏の出版の中心地となり、ライプツィヒ書籍市 (Leipziger Buchmesse)がフランクフルト書籍市 からヨーロッパの書籍取引の中心の地位を奪った。
ライプツィヒでは次々と新しい印刷所と出版社が設立され、岩波文庫 を作る際に手本にしたとされるレクラム文庫 、当地の音楽文化とも影響し合って世界で最初の音楽出版社ブライトコプフ 、そしてペータース などがここで生まれた。1834年 にはシューマンによって『音楽新報 』が創刊された。1912年 にはドイツ帝国 の中央図書館であるドイツ国立図書館 も設立され、現在もドイツにおける書物研究の中心地となっている。毎年3月開催の書籍見本市もライプツィヒに欠かせない重要な行事である。
美術
当地における印刷工芸の発達、そして商人たちによる美術品の収集・芸術活動の促進によって、市民による膨大な美術コレクションが形成されていった。これらは現在ライプツィヒ造形美術館 やグラッシィ工芸美術館(Grassimuseum für Angewandte Kunst)に収められている。1764年 には美術院も創設され、若きゲーテ はライプツィヒ大学に通う傍ら、ここで美術の手ほどきを受けた。美術院の後身である視覚装丁芸術大学(Hochschule für Grafik und Buchkunst)は現在もドイツ有数の美術学校として美術界をリードしている。
東ドイツ時代には社会主義政権を暗に批判する絵画の一派「ライプツィヒ派(Leipziger Schule)」が民衆に大きな影響を与え、ライプツィヒから反体制の市民蜂起が起きる一つの遠因となった。現在は画家ネオ・ラオホ(Neo Rauch, 1960~)に代表されるこの伝統を受け継いだ「新ライプツィヒ派(Neue Leipziger Schule)」が隆盛を迎えている。市街西部には多くの現代芸術家たちが居を構える旧紡績工場シュピネライ がある。書籍印刷の歴史と相まってグラフィック・アート も盛んである。
スポーツ
ライプツィヒは近代以降、体操 をはじめとする各種スポーツの活動が盛んとなり、ドイツサッカー連盟 (DFB)も1900年 に当地で設立された。東ドイツ時代には国立のスポーツ選手・指導者養成機関としてドイツ身体文化大学 が創設され、国家の威信を懸けてオリンピック選手たちが育成された。同校は現在ライプツィヒ大学体育学部 となっている。市内を代表する競技場としてレッドブル・アレナ (ツェントラール・シュタディオン/中央競技場)がある。
中央競技場は元々1950年代 に「東ドイツ体操スポーツ祭」のために建設された。2006 FIFAワールドカップ ・ドイツ大会では組み合わせ抽選会の開催都市となったほか、中央競技場の基壇の上に新たなスタジアムが建設され、旧東ドイツの都市として唯一試合が開催された(ベルリン・オリンピアシュタディオン は旧西ベルリン 側に存在する)。
サッカー
ライプツィヒにはかつてオーバーリーガ (5部)に所属するサッカー チームの、FCザクセン・ライプツィヒ (ドイツ語 : FC Sachsen Leipzig )が存在していたが2011年 にクラブは解散した。アルフレート・クンツェ・シュポルトパルク (ドイツ語版 ) をホームスタジアムとしていた。同チームの解散後は、同じく当地のクラブであるRBライプツィヒ が本拠地 として使用している。
RBライプツィヒ は2009年 に創設され、レッドブル・アレナ をホームスタジアムとしている。クラブのオーナーは、エナジードリンク でも知られるレッドブル である。2021-22シーズン には、クラブ初の主要タイトルとなるDFBポカール を制覇した。
1900年代初頭に活動していた1.FCロコモティヴェ・ライプツィヒ はドイツ・サッカー選手権 を3度制した古豪クラブとしても知られている。
姉妹都市
ヨハンナ公園 (新市庁舎の塔とシティー・ビルを望む)
ライプツィヒは以下の姉妹都市 を有している:
ゆかりの著名人
旧交易会館前のゲーテ像
著名なバッハの肖像画(原物は旧市庁舎に掲げられている)
メンデルスゾーン旧宅
出身者
ライプツィヒ大学に学んだ人物 (詳しくはライプツィヒ大学 参照 )
ライプツィヒ音楽院(メンデルスゾーン音楽演劇大学)に学んだ人物
その他
脚注
注釈
出典
^ Bevölkerung der Gemeinden Sachsens am 31. Dezember 2021 – Fortschreibung des Bevölkerungsstandes auf Basis des Zensus vom 9. Mai 2011 (Gebietsstand 01.01.2021)
^ ライプツィヒ市統計・選挙局発行「Daten und Informationen 2012」より
^ LIM - Klimastatistik - Extremwerte
^ http://www.leipzig.de/imperia/md/content/12_statistik-und-wahlen/lz_jb2011.pdf
^ Climatological Information for Leipzig , accessed 6 April 2012.
^ Lexikon des Mittelalters . Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X ), Sp. 1861. - 但し、Dieter Berger: de:Duden , geographische Namen in Deutschland: Herkunft und Bedeutung der Namen von Ländern, Städten, Bergen und Gewässern , Bibliographisches Institut, Mannheim/Wien/Zürich 1993 (ISBN 3-411-06251-7 ), S. 167 によれば、1012/18年の史料に "in urbe Libzi vocata"(「 Libziと呼ばれる町に」)との記述がある。
^ 例えば、 森林太郎 『鷗外 選集 第21巻』< 石川淳 編 >( 岩波書店 )1980、所収の「独逸日記(明治十七年十月)」には「ライプチヒ」(22頁)とともに「来責府」(52頁)の表記が見られる。
^ ドイツの有名な旅行案内書de:Baedeker : Deutschland . Ostfildern: Karl Baedeker 8.Aufl. 2005 (ISBN 3-8297-1079-8 ), S. 688や日本の大手旅行ガイドブック『地球の歩き方 A14 ドイツ』(ダイヤモンド・ビッグ社)(2013-2014年版、343頁)に「ハイデルベルク、ケルンに続いてドイツで3番目に古い大学」と記され、それを基にしたと思われる記述が他サイトやパンフレットなどに散見されるが、1379年創立のエアフルト大学は19世紀に学生数の減少で一旦閉鎖、1388年創立のケルン大学はナポレオンのドイツ侵攻時に一旦閉鎖、ヴュルツブルク大学は1402年創立だが運営に行き詰まって1582年に再編されている。つまり現在のドイツ連邦共和国内で、創立時から現代まで中断なく一貫して残っている大学としては、ウィキペディア「ライプツィヒ大学 」(ドイツ語版はじめ諸版)も記すように、1385年創立のハイデルベルク大学 ついで 2 番目に古い。もっとも、大学閉鎖や再編を加味しないのであれば 5 番目ということになる。Lexikon des Mittelalters . Bd. VIII. München: LexMA Verlag 1997 (ISBN 3-89659-908-9 ), Sp. 1252. - Alfred Hansel/Walter Leisering (Hrsg.): F.W.Putzger: Historischer Weltatlas . Bielefeld/Berlin/Hannover: Velhagen & Klasing.Jubiläumsausgabe 85. Auflage. 1963, S. 58, II.等も参照。
^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』 岩波書店 、1987年、(ISBN 4-00-002373-X ) 、171頁。
^ 高木健次郎『ドイツの職人』中央公論社 (中公新書 467)1977、79頁。
^ * 谷澤毅 「近世ドイツ・中欧の大市」(山田雅彦 編『伝統ヨーロッパとその周辺の市場の歴史 市場と流通の社会史1』所収) 清文堂出版、2010年
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
ライプツィヒ に関連するメディアがあります。