マキシミリアノ・マリア・コルベ [ 注釈 1] (ポーランド語 : Maksymilian Maria Kolbe 、1894年 1月8日 - 1941年 8月14日)は、ポーランド のカトリック 司祭 。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 で餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなったことで知られ、「アウシュヴィッツの聖者 」と呼ばれる。カトリック教会の聖人 で記念日は8月14日 。
生涯
幼少時代
マキシミリアノ・マリア・コルベ神父(出生名ライムンド・コルベ・Rajmund Kolbe )は、1894年 1月8日に当時ロシア帝国 の衛星国 であったポーランド のズドゥニスカ・ヴォラで、織物職人であるユリオ・コルベとマリア・ドンブロフスカの5人兄弟の次男として生まれた。成長したのは彼と兄のフランシスコ(1892年 - 1945年 )と弟のヨゼフ(1896年 - 1930年 、後に同じく司祭となる)の3人で、下の2人の弟であるヴァレンチオ(1897年 11月1日生)とアントニオ(1900年 5月19日生)は夭逝している[ 1] 。
父のユリオ・コルベは、在俗フランシスコ会のリーダーであった。そして、愛国心に富んだ彼は、第一次世界大戦 中にポーランド独立のための義勇軍に参加し、ロシア軍 に捕らえられ、1914年 に処刑されている[ 2] 。母のマリア・ドンブロフスカは、結婚前は修道生活を志したことがあったが、帝政ロシアの統治下にあった地域ではカトリックの修道院は許されていなかったため、修道生活は不可能であった[ 3] 。母のマリアは、1946年5月に76歳で修道院で死去した。
ユリオ・コルベの先祖はボヘミア からの移民であり[ 5] 、「コルベ」はドイツ 風の名前であったが、コルベは一生ポーランド人 であるという意識を持っていた。ローマ の神学校 で同級生に「ドイツ人」と言われて、顔は真っ赤になったといわれている[ 6] 。
信心の面では、一家は聖母マリア崇敬が強く、子供時代の聖母マリア の出現に強い影響を受けていた。後の母の回想では、彼は以下のように語っている。
私は聖母に私はどうなるのかと尋ねました。そのとき、聖母が白と赤の2つの冠を持ってやって来ました。そして、どちらの冠を喜んで受け入れるかお聞きになりました。白は純潔を保ち、赤は
殉教者 となることを意味していました。私は両方ほしいと言いました。
[ 7]
コンヴェンツアル聖フランシスコ修道会入会
両親は兄のフランシスコを神学校へ進学させるため、ライムンドは家業を継ぐこととなり進学が出来なくなった。ところが助産婦をしていた母の使いで薬局に行った際、薬品のラテン語 名をすらすらと言えるライムンドの賢さに薬剤師のコフフスキーは驚き、その後は個人的に勉強を教え、兄と共に中等教育が受けられるよう援助した。
1907年 に、ライムンドは兄のフランシスコと共にコンベンツァル聖フランシスコ修道会 への入会を決め、ロシアとオーストリア・ハンガリー帝国 の国境を越えてルヴォフ(現在はウクライナ 領のリヴィヴ )にあるコンベンツァル聖フランシスコ修道会の小神学校に入学した。 彼は数学の才能に恵まれ、数学の授業を担当した教師が「こんな才能をもっているのに司祭になるのは惜しい」と嘆く程であった[ 8] 。この頃に彼はロケットで月に行けると考え、ロケットの図面を描いたという[ 8] 。
1910年 、彼は修練院に入ることを許され、翌年の1911年 に初誓願をたて、マキシミリアンの名前を与えられた。後の1914年 にローマで聖母マリアの崇敬を示すために、さらにマリアの名前を取って、マキシミリアノ・マリアとした。1912年 、彼はクラクフ に送られ、そしてローマへの留学生に選ばれたが、最初は長上に健康がすぐれないなどの理由で辞退した。しかし、長上の決定に従わなかったことで悩み、結局はローマ行きを決めている[ 9] 。
ローマ
ローマで彼は哲学 、神学 、数学 および物理学 を学んだ。1915年 にグレゴリアン大学 で哲学の博士号を、そして1919年 には神学の博士号を聖ボナベントゥラ大学で取得した。この頃にはフリーメーソン による記念日の間に、教皇 ピウス10世 およびベネディクトゥス15世 に反対するデモを目撃している。
彼等は「ジョルダーノ・ブルーノ」の黒い色の軍旗をバチカンの窓の下に置きました。この軍旗には、
大天使 ミカエル が勝ち誇った
ルシファー の足元に横たわっているのが描かれていました。同時に、教皇を侮辱し攻撃する数え切れない量のパンフレットが人々に配られました。
[ 10] [ 11]
このできごとは、聖母マリアの取次ぎにより罪人やカトリック教会に敵対する人物、特にフリーメーソンを改心させるために働く聖母の騎士(ミリシャ・インマクラータ)を創立する契機となった。改心という目標に対して彼は非常に真剣であり、不思議のメダイ の祈りの後にさらに付け加えた。
原罪 なくして宿り給いし聖マリア御身に依り頼み奉る我等の為に祈り給え。「
また、御身により頼まざる人々、特に教会に敵対せし人々、かつ我等が御身に依り頼む全ての人々が為に祈り給え 」
[ 12]
1917年 10月16日に、6人の志願者と共に神学校聖堂の汚れなき聖母の祭壇の前で聖母へ奉献を行い、「汚れなき聖母の騎士会」を創立した[ 13] 。クラクフ にある大神学校の教会史の教授として3年間勤めたが、ローマで感染した結核 のため1920年 8月から1921年 4月まで保養地のザコパネ で療養生活を送っている[ 14] 。
無原罪の聖母の騎士
ポーランド語版『無原罪の聖母の騎士』
その後、出版による布教活動を志したコルベは1922年 に初めて『無原罪の聖母の騎士 』(Rycerz Niepokalanej )を執筆し出版した。部数は5,000部で、執筆者は神父一人であった[ 15] 。
同年にグロドノ の修道院に移り、当地での出版活動を開始した。この頃には、コルベと共に後に日本に宣教に来ることになるゼノ・ゼブロフスキー 修道士と出会っている[ 16] 。
ニエポカラノフ
グロドノが手狭となり、活動の拠点を移動する必要に迫られたコルベは、新たな土地を探していた。そのとき、ドウルッキ・ルベッキ公爵はワルシャワ の近くに所有する土地を寄贈するということになったが、当初の条件はルベッキ公爵の父のために永久的に追悼ミサを捧げることであった[ 17] 。
コルベは土地が聖母のものであるとして、真っ先にマリア像を立てた。ところが、会議で条件である永久的に追悼ミサを捧げることを断ることになったため、ルベッキ公爵は土地の寄贈を撤回し、マリア像を取り除くようにと言った。するとコルベはマリア像は聖母が初めて約束を守らなかったことを示すために残さなければならないと言い、この言葉に打たれたルベッキ公爵は無条件で土地を寄贈した[ 18] 。
1927年 にはニエポカラノフ修道院(無原罪の聖母の騎士修道院)を創立し、『無原罪の聖母の騎士』等の出版による宣教に力を入れた。
東洋での宣教
コルベは当初、中国 での宣教を考えていたが、日本へ布教活動に行くことになったのは、当時ローマに留学していた神学生里脇浅次郎 (後の長崎教区 大司教および枢機卿 )との関りによるものであった。「支那へ布教に行きたいがどうしたら良いでしょうか」と尋ねられた里脇は「支那は政情が不安定だから、しばらく日本で待機したらどうですか」と日本行きを勧め、日本に知人がいないというので、長崎教区の早坂久之助 司教あてに紹介状を書いた[ 19] 。コルベを含む5人の宣教師は、1930年 3月7日にフランス のマルセイユ から上海 行きのアンジェ号に乗船し、4月11日に上海に到着した[ 20] 。上海では実業家で慈善家のカトリック信者の陸伯鴻 と面識を持ち、援助の申し出を受けたが、布教活動は成功しなかった[ 21] [ 22] 。この後も陸伯鴻は1931年 に来日し、再び援助を申し出ている[ 23] 。
1930年 4月24日にコルベ神父、ゼノ修道士、ヒラリオ修道士の3人で長崎に到着すると、早坂司教に『無原罪の聖母の騎士』の出版許可を願った。司教はコルベ師が哲学ならびに神学博士号を持っていることを知ると、長崎教区、大浦神学校で哲学を教える[ 24] ことを条件に出版を許可した[ 26] 。翌月の5月24日には、長崎 大浦の仮修道院[ 注釈 2] で日本語版の『無原罪の聖母の騎士』第1号が1万部も発行された[ 28] 。翌1931年 5月16日、長崎市本河内に聖母の騎士修道院を設立した。当時の生活は切り詰めたものであり、牛肉、馬鈴薯、牛乳はほとんど口にせず、パンと、麦とニンジンがわずかに泳いだスープと、お茶が主食であった。見るに見かねて信者の精肉店主が、たまに並肉とラードを差し入れた。
1932年 5月にはインド で修道院を設立するために神戸から船に乗り、エルナクラム (英語版 ) を訪れて、教区の司教から歓迎されて出版の許可も得たが、コルベがポーランドに戻ったこともあり、その後の計画は進まなかった[ 31] 。1933年 4月にポーランドでの管区会議に出席するために日本を離れたが、その間に重病であった駐ポーランド公使河合博之 のカトリックへの改宗に尽力している[ 32] 。そして再び日本に戻った後、1936年 にニエポカラノフ修道院の院長に選ばれたため、5月23日に故国ポーランドに帰国した。[ 注釈 3] [ 注釈 4]
帰国後
1936年のコルべ
帰国後はニエポカラノフ修道院の院長を務め、出版やラジオなどを通じての活発な布教活動を行った。コルベはこのころには既に将来の戦争と自分の運命を悟っていた。1937年 1月10日、彼は一部の修道士に日本で聖母マリアから「確実に天国に行ける」という約束を受けたということを打ち明けている[ 38] 。さらに、1939年 2月18日付の日本における後継者であるサムエル・ローゼンバイゲル神父あての手紙で、「戦争が勃発し、送金が出来ない場合に苦境に陥らないように、経常費に関しては自立できるよう徐々によく考えておくのが良いでしょう」と書いている[ 39] 。
1939年 9月1日のドイツ軍 のポーランド侵攻 による第二次世界大戦 の勃発により、活動の縮小や停止を余儀なくされた。ニエポカラノフ修道院も病院として接収され、多くの修道者が修道院を去った。
コルベはアマチュア無線家 であり、コールサイン SP3RNの無線局を開設していた[ 40] 。
逮捕、アウシュヴィッツへ
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の「死の壁」で祈るローマ教皇フランシスコ(2016年)
同年9月19日、コルベは修道院に残った修道者らと逮捕され、彼らはドイツにあるアムティッツ強制収容所へと収容され、11月にポーランド領にあるオスチェロー強制収容所へ移送された後、12月18日に釈放された。病院となっていたニエポカラヌフ修道院に戻ったコルベたちは、ユダヤ人 にもカトリック教徒にも分け隔てなく看護をした。この行為はナチスを刺激し、監視が強化された。どうにかポーランド語版のみ『無原罪の聖母の騎士』の再出版を許可された。修道院には再び多くの人が集まり、食料不足に悩まされた。
1941年 2月17日にゲシュタポ により、コルベは4人の神父と共に逮捕された[ 41] 。その理由としては、コルベ神父が発行していた『無原罪の聖母の騎士』や日刊紙がナチスに対して批判的なものであったからとも、当時のナチスはユダヤ人のみではなく、ポーランドにおける有力な人物をも逮捕の対象にしていたからともされる。
コルベの逮捕では、退会したニエポカラノフの元修道士が署名した告訴状が証拠とされたが、ドイツ語の読めなかった元修道士はドイツ語で書かれた文書をいわれるままにサインしただけであり、しかもその文書はゲシュタポによる偽造であった[ 42] 。この後、20人の修道士が彼の身代わりになることを申し出ているが、この申し出は却下されている[ 43] 。
コルベはパヴィアックの収容所に収容された後に、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 に送られた。囚人番号は16670 であった[ 44] 。
身代わりの死
1941年 7月末、収容所から脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツェク・ガイオニチェク というポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た[ 45] 。収容所所長のルドルフ・フェルディナント・ヘス はこの申し出を許可し、コルベと9人の囚人は地下牢の餓死室に押し込められた。
通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベは全く毅然としており、他の囚人を励ましていた[ 46] 。時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツ(Bruno Borgowiec )は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している[ 46] 。2週間後、当局はコルベを含む4人はまだ息があったため、病院付の元犯罪者であるボスを呼び寄せてフェノール を注射して殺害した[ 47] 。
ボルゴヴィツはこのときのことを以下のように証言している。
マキシミリアノ神父は祈りながら、自分で腕を差し伸べました。私は見るに見かねて、用事があると口実を設けて外へ飛び出しました。監視兵とボフが出て行くと、もう一度地下に降りました。マキシミリアノ神父は壁にもたれてすわり、目を開け、頭を左へ傾けていました。その顔は穏やかで、美しく輝いていました。
[ 48]
亡骸は木の棺桶に入れられ、翌日のカトリック教会では大祝日にあたる聖母被昇天 の日である8月15日に火葬場で焼かれた。コルベ神父は生前、聖母の祝日に死にたいと語っていたといわれている[ 49] 。
列聖
ウェストミンスター教会 に掲げられている聖コルベ像(左端)
1971年 10月17日にパウロ6世 によって列福 され、1982年 10月10日に同国出身の教皇ヨハネ・パウロ2世 によって列聖 された[ 50] 。列福式および列聖式の場には、コルベに命を助けられたガイオニチェクの姿もあった。ガイオニチェクは奇跡的に終戦まで生き延びて解放され、93歳の天寿を全うするまで、コルベに関する講演を世界各地で続けていた。1998年 にはロンドン のウェストミンスター教会 の扉に「20世紀の殉教者」の一人としてコルベの像が飾られた。1982年 、ポーランド では“鉄条網を背後に収容者服姿”の図案の記念切手が発行された[ 51] 。ジャーナリスト 、政治犯 、アマチュア無線 、薬物中毒 者、家族、そしてプロライフ 運動の守護聖人 である。
脚注
注釈
^ マクシミリアン・コルベ と表記されることもある。
^ 当時建っていた仮修道院(田中雨森病院跡の木造洋館)は火事で焼失したが、赤レンガの暖炉が残った。1982年3月、小説家の遠藤周作 は長崎を取材で訪れた折、暖炉の保存を訴えた。1996年、多くの人々の尽力で仮修道院の暖炉を囲む「コルベ記念館」が完成。暖炉は、長崎市の南山手伝統的建造群に指定されている。
^ コルベは6年間長崎で生活したが、遺品らしきものはほとんど残していない。しかし、粗末な机と椅子、ポーランド語で書かれた『長崎日記』が保存されている。(小崎 2010 , p. 61)
^ 長崎市におけるコルベ神父の諸活動については小崎登明 の著書『長崎のコルベ神父』(2010年)に詳しくまとめられている。長崎純心大学 の荒木慎一郎教授 [ 34] は生前の小崎登明と連絡をとりながらこの著書を英訳[ 35] [ 36] 。アメリカにあるジョージタウン大学 のケビン・ドーク (Kevin M. Doak)教授が校正に協力し、米カトリック系出版社から『Father Kolbe in Nagasaki』として 2021年8月に出版した。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
動画
(ニエポカラノフでコルベ神父と3年間暮らしたルシエン・クロリコフスキー神父へのインタビュー)
(コルベ神父が死去した地下牢の餓死室)
フランシスコ会士 修道院 教会・伝道施設 関連項目 派出・系列修道会