称号:上皇后
敬称
陛下 Her Majesty the Empress Emerita [ 1]
五衣・唐衣・裳姿の美智子
上皇后美智子 (じょうこうごうみちこ、1934年 〈昭和 9年〉10月20日 - )は、日本 の皇族 。第125代天皇 ・明仁 の皇后 。身位 は上皇后 。敬称 は陛下 [ 2] 。お印 は白樺 。勲等 は勲一等 。旧名は正田 美智子 (しょうだ みちこ)。
第126代・今上天皇(徳仁) の母。
明治時代 以降初めての民間出身[ 注釈 1] [ 注釈 2] の皇后ならびに皇族。現皇室典範 下で立后した初めての皇后でもある。2019年の夫・明仁の退位 に伴い、新設された身位である上皇后 となった。
2024年11月15日の崇仁親王妃百合子 の薨去以降、皇室 の女性構成員11名の中で最年長者である。
現在の住居は、東京都 港区 元赤坂 の赤坂御用地 にある仙洞御所 。
来歴
少女時代
1940年(昭和15年)頃の正田美智子
1934年 (昭和9年)10月20日 、日清製粉グループ 会長の正田英三郎 ・正田富美 (1981年 (昭和56年)に富美子と改名した)夫妻の長女 として東京府 東京市 本郷区 (現・東京都 文京区 東部)の東京帝国大学医学部附属病院 で誕生[ 3] 。
大和郷幼稚園 、雙葉小学校附属幼稚園 を経て、1941年 (昭和16年)に雙葉小学校 に入学 。1944年 (昭和19年)、疎開 のため、神奈川県 藤沢市 の乃木高等女学校附属小学校(現・湘南白百合学園小学校 )、群馬県 の館林南国民学校 (現・館林市立第二小学校 )、1945年 (昭和20年)5月には、長野県 の軽井沢第一国民学校(初等科5年に転入 、同年9月まで在籍)[ 4] と転校 を繰り返し、軽井沢 にて終戦を迎えた。雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の俵孝太郎 旧居に、一時在住したこともある。
小学生時代の性格は、担任の回想では「真面目な女子児童」、「活発で勝ち気だった」、「神経質な性格だった」とされていて、スポーツ が得意な女子だった[ 5] 。また、ピアノ ・絵画 ・料理 、香道 も習っていた[ 6] 。
1947年 (昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業 するが、当時は品川区 五反田 に在住しており通学に不便なことから聖心女子学院中等科 へ入学する。1953年 (昭和28年)3月、聖心女子学院高等科 を卒業。中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称は米国 の子役 であったシャーリー・テンプル のような天然パーマ だったことから「テンプルちゃん 」や[ 7] 「ミッチー 」「ミチ 」[ 6] と呼ばれていた。
1957年 (昭和32年)聖心女子大学 文学部外国語外国文学科(現・英語英文学科英語 英文学 専攻)を卒業。在学中に中学・高校の英語教員免許取得 [ 8] 。在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長[ 9] 、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた[ 10] 。卒業式 では総代 として答辞を読んだ[ 11] 。自身は大学院 進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。クラブ活動では合唱 部・英語劇クラブ・テニス部に所属していた[ 12] 。テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、関東 学生ランキングの第4位にランクインした[ 13] 。昭和29年度(1954年度)の成人の日 記念の読売新聞社 主催の感想文では2位に入選した。大学 の卒業論文 は、『ゴーズワージーのフォーサイト・クロニエル』(The Forsyte Chronicles by John Galsworthy )。大学卒業後にフランス語 の習得をしながら19世紀 の児童文学 の研究を続けていた[ 14] 。
同年8月、長野県 の軽井沢会テニスコート で開催されたテニス のトーナメント大会にて当時皇太子 だった明仁親王 と出会う。テニスコートの誓い にちなんだ「テニスコートの出会い」として知られ、その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。明仁親王は正田美智子(当時)の写真 を「女ともだち」と題して宮内庁 職員の文化祭 に出品したが、「皇太子妃 には旧皇族 ・華族 から選ばれるのが当然」と考えられていた時代であり、誰も彼女を「お妃候補」とは思わなかったようである。
1958年 (昭和33年)、ベルギー にて開催された「聖心世界同窓会第1回世界会議」の日本代表として出席し、欧米 各国に訪問旅行する。
1958年7月24日、日本新聞協会 加盟の新聞・通信・放送各社は、皇太子妃の選考について正式発表まで自発的報道管制を決定した。『週刊女性 』11月23日号は正田美智子内定を報道し、問題となった。
同年11月27日、皇太子明仁親王と正田美智子の結婚 が皇室会議 (議長:内閣総理大臣 ・岸信介 )において満場一致 で可決された。同日、両親の正田英三郎と富美子夫人との記者会見 にて、記者 から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と回答。これは当時の流行語にもなった[ 15] 。また第一印象について「ご清潔な方」とした。皇太子明仁親王と正田美智子の巨大な写真がデパートに飾られる・「美智子さまぬりえ」が発売されるなどのミッチー・ブーム が起こる。
結婚への反発
1955年ごろの呉竹寮。
「(将来の皇后 となる)皇太子妃 は「皇族 (臣籍降下 後の旧宮家 )か五摂家 (伯爵 以上)といった特定の旧華族 に属する女性から選ばれる」ということが習わしとされており、「平民 から妃を迎える」ということが考えられなかった時代で、1958年 (昭和33年)の正田美智子の結婚は、旧皇族・旧華族らに強く反対された[ 16] 。
旧皇族久邇宮家 出身で姑ともなる皇后良子 (当時)は夏に、静岡県 の御殿場 [ 注釈 3] に高松宮妃 、秩父宮妃 、松平信子 らを招き、「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん 」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えたとされる。しかし11月の皇室会議では、猛反対をした一人であった秩父宮妃勢津子も賛成し、全員一致で可決した。
旧皇族の梨本伊都子 [ 17] は、明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付の日記に、「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた 」と記している。ただ、この結婚に理解を示した義理の姪の配偶者(伊都子の夫梨本宮守正王の兄が久邇宮邦彦王であり香淳皇后の父)である昭和天皇 の意向もあり、伊都子は以後は表立って批判することはなくなった[ 18] [ 19] 。
皇太子妃時代
お印に選ばれた白樺
1959年(昭和34年)、朝見の儀に臨んだ昭和天皇 、香淳皇后 、皇太子明仁親王、同妃美智子
1960年(昭和35年)9月、国立西洋美術館 見学
1979年(昭和54年)10月、訪蘭 時にベアトリクス女王 夫妻と
1987年(昭和62年)10月、訪米 時にロナルド・レーガン 大統領 夫妻と
1959年 (昭和34年)4月10日 、皇太子明仁親王と結婚する。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まった[ 20] 。「燕尾服の胸元には大勲位菊花大綬章、シルクハットを右手に晴ればれとしたお顔の皇太子殿下。ダイヤをちりばめた宝冠ティアラー、白いローブデコルテの上には金糸を縫い取りましたショール、美しくも気高いプリンセス美智子妃殿下。白地に花模様のお馬車のシートにむつまじく寄り添われたこの一組の明日の日本の象徴は、奉祝の人波の嵐のような歓呼ににこやかに応えておられます」とはNHKによる実況放送の一部である。またパレードの際には暴漢が馬車を襲撃[ 注釈 4] して取り押さえられる事件が起こった。
お印は夫妻の出会いの場だった軽井沢 にちなんで白樺 とした[ 21] 。
晴れがましい成婚パレード ・民間での祝福ムードとは対照的に、貴賤結婚 であることや選に漏れた他の候補者に北白川肇子など元皇族の令嬢がいたことなどの理由から、一部の皇族 ・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからもさまざまな非難を受けたとされる[ 22] 。美智子妃は1969年に、昭和天皇の侍従入江相政 に対し「(香淳皇后は)平民 出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか」と尋ねたという[ 23] 。
一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたる東久邇成子 より自宅のホームパーティーに招待されるなど、好意的な旧皇族も存在した。
1960年 (昭和35年)2月23日 に坂元正一 男性産婦人科医師を担当主治医として第一子・第一男子徳仁親王 (浩宮)が誕生した。出産後、昭和天皇 、香淳皇后 より「ごくろうさまでした。しっかり、静養するように」と労いの言葉をかけられた。また、後の第126代天皇となる浩宮徳仁の命名は祖父・昭和天皇が行った。親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。美智子妃は当時、側近である黒木従達 東宮侍従に「どのようなときでも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。同年9月22日 - 10月7日 、幕末 より数えての日米修好 百周年を記念し、アメリカ合衆国連邦政府 より招待され訪米。ホワイトハウス にも招待され、ドワイト・アイゼンハワー 大統領夫妻と会談した。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法 」を与えて養育を委ねる。
1963年 (昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ[ 24] 。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日に小山いと子 が美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説『美智子さま』の連載と単行本発行中止を宮内庁が平凡出版 に申し入れ、連載は中止された[ 25] 。直後の3月22日に宮内庁病院 に緊急入院、胞状奇胎 と診断され翌23日の午後に流産 の処置手術が行われた[ 25] 。全国紙各紙は美智子妃の不調を週刊誌報道や小説問題と関連づけ、『平凡』ほか雑誌をバッシングしたが、胞状奇胎がストレスで起こることはなく、小説の内容は東宮御所筋から得ていたと小山は証言しており、対立する宮内庁側からの圧力とされる[ 25] 。このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった[ 26] 。7月8日から皇太子・皇孫浩宮とともに軽井沢で過ごしたあと、9月1日に帰京し、9月13日の第18回国民体育大会 (山口国体)から、段階的に公務に復帰した。
1961年 (昭和36年)夏頃、聖心女子大学でキリスト教女子教育 を受けた事情からキリスト教 に心酔していることに昭和天皇が激怒し、美智子妃が「絨毯の上にひれ伏して謝ったが、天皇のお怒りは容易に静まらなかった」と『文藝春秋』が報じた[ 27] 。
1964年 (昭和39年)皇太子明仁親王と共に 東京パラリンピック にて
1965年 (昭和40年)11月30日 、第二子・第二男子文仁親王 (礼宮)誕生。
1969年 (昭和44年)4月18日 、皇太子明仁親王との第三子・第一女子清子内親王 (紀宮)誕生。苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。1977年(昭和52年)から10年間は、毎年2人で陵墓・史跡訪問を含む小旅行を行なっていた。
これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母 制度、傅育官制度を廃止した[ 注釈 5] 。
1984年 (昭和59年)、銀婚式 となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点をつけるか」との問いに対し、皇太子が「点数をつけることはできないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。
1986年 (昭和61年)3月、子宮筋腫 の手術 を受ける。このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪韓 は中止になった。手術の際も夫・皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断は極限まで下されなかった。退院の際、宮内庁病院 玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。
晩年の昭和天皇一家の写真にて、嫁・美智子妃が腰を悪くしていた姑・香淳皇后の体を支えている写真が複数公表されている。秩父宮妃勢津子 とはともにマラソン を観戦した姿も目撃・報道された[ 28] 。また次男の文仁親王と長女の清子内親王は高松宮妃喜久子 と関係が深く、孫のようにかわいがられていたといわれる。
皇后時代
ローブデコルテの正装
2002年(平成14年)1月 、米国 ジョージ・W・ブッシュ 大統領 夫妻と会談
2009年(平成21年)7月10日、カナダ 訪問時(リッチモンド・オリンピックオーバル 、ブリティッシュコロンビア州 リッチモンド )
1989年 (昭和64年)1月7日 、義父の昭和天皇 が崩御 し夫の明仁親王即位に伴い、皇太后となった姑の香淳皇后 を引き継ぎ立后する。即位・立后後の記者会見においては、皇太子となり東宮仮御所にて独立する長男の徳仁親王について「時たまでよろしいから、ヴィオラ を聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメントを発している。
1993年 (平成5年)10月20日、満59歳の誕生日 に赤坂御所 にて倒れる。
同年の『宝島30 』1993年8月号には「皇室の危機-『菊のカーテン』の内側からの証言」として、「宮内庁職員・大内糺」を称する人物による記事が掲載されていた[ 29] [ 30] 。
島田雅彦 のまとめによれば、その中で大内を名乗る人物は、天皇夫妻を昭和天皇 や香淳皇后 に比して、「華美で西洋 風な生活を送り、神道 よりもキリスト教 に親和性が高く(元々、皇后が学習院 ではなくミッション系大学 の出でもあることから)、国民の望む皇室 の主としてふさわしくない」という批判をし、それを皮切りに『週刊文春』などにも平成の皇后に対するバッシング記事が相次いで掲載された[ 30] [ 31] 。宮中の最高権力者の一人となった皇后への、守旧派の「最後の反撃」と国民の「漠たる反感」が背景とされる[ 30] 。
このため皇后は精神的な苦痛から失声症 となった[ 30] [ 31] 。これに対し、宝島社 および文藝春秋 の関係者宅に何者かが銃弾を撃ち込む騒動が起き、このショックと皇后が宮中祭祀 を熱心に行ったことで事態は沈静化したが、前代とは違う形の菊タブー が明らかになったとされる[ 30] 。翌年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している[ 31] 。
1994年 (平成6年)10月20日、還暦 を迎える。
1995年 (平成7年)1月31日、天皇と共に夫妻で兵庫県南部地震 による阪神・淡路大震災 発生後の兵庫県 神戸市 を見舞い(行幸啓)、同市長田区 の菅原市場にその日皇居 から自ら切って持参した黄色と白の水仙 を供えた。この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ、同市布引ハーブ園 内で展示されている。被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者の労をねぎらう様子が大きな反響を呼ぶ。また、一人の病身の被災者のために自ら布団を敷いた[ 32] 。
1998年 (平成10年)、インド ・ニューデリー で開催された「国際児童図書評議会 (IBBY)」に際してビデオ による講演を行い、日本神話 に触れ、日本武尊 の妃弟橘比売 の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。2002年 (平成14年)、IBBYの本部があるスイス ・バーゼル で開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBY名誉総裁 として出席し祝辞を述べた。これが唯一の単独での海外公務となっている。
2002年 (平成14年)10月20日 、皇后の満68歳の誕生日に際し宮内記者会の質問に対する文書ご回答で、次のように北朝鮮による日本人拉致問題 についてコメントした。「小泉 総理 の北朝鮮 訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみとともに、無念さを覚えます。なぜ私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることができなかったかとの思いを消すことができません。今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います[ 33] 。」
2005年 (平成17年)10月20日 、清子内親王 降嫁前の記者会見では子供たちに対する思いを語り、徳仁親王 が優しく、よく励ましの言葉をかけてくれたこと、文仁親王 が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということ、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。婚礼の朝には、民間へ降嫁する愛娘を気遣い、抱きしめて励ましたという[ 34] 。
2007年 (平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。ストレス 性のものと診断された。通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。同年5月21日からは、天皇とともに欧州 訪問の途についている。8月8日には須崎御用邸 での静養を中止し、天皇とともに新潟県中越沖地震 の被災地を訪問。
2009年 (平成21年)7月15日 、米国ハワイ ・ホノルル の第二次世界大戦 太平洋戦線 戦没者慰霊碑に礼をして。
しかしながら、2008年 (平成20年)で皇后も74歳の高齢となり、健康上の理由から公務軽減が検討された[ 35] 。
2011年 (平成23年)3月30日、 天皇とともに夫妻で、同年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震 による東日本大震災 の被災者約290人が避難している東京武道館 (東京都 足立区 )を訪問し(行幸啓)、膝をつきながら、一人ひとりを親しく激励した。
2015年 (平成27年)7月29日、皇后は6月末ごろから胸の痛みを訴え、その頻度が週に数回程度から徐々に増えてきたため、同月24日に24時間の心電図検査を受けた。その結果、心臓の筋肉に血流が不足する心筋虚血を疑う所見がみられたという。宮内庁 は29日、心筋虚血の疑いがあるため、同年8月9日に、東京大学病院 で精密検査を受診すると発表した。同病院で冠動脈の状態をCT検査で確認し、治療を受け、以後体調は安定している[ 36] 。
上皇后時代
2021年1月に公開された、天皇一家、上皇夫妻、秋篠宮一家の集合写真
2016年 (平成28年)8月8日 に国民に向けたビデオメッセージとして全国放送された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば 」の録画収録の際には、その場にも同伴した。2017年 (平成29年)6月9日 に天皇の退位等に関する皇室典範特例法 が成立、202年ぶりとなる天皇譲位 [ 37] が実現することとなった。
これにより夫・明仁 が2019年(平成31年)4月30日で退位し同日の退位礼正殿の儀 にて皇后としての最後の公務に臨んだ。翌(令和 元年)5月1日に長男の皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位することに伴い、皇太子徳仁親王妃雅子 が立后した。
美智子の称号は「上皇后 (じょうこうごう)」となった。前皇后の称号については、夫帝の生死に関わらず歴史的に用いられてきた「皇太后 (こうたいごう)」、あるいはその略称である「太后 (たいこう)」の称号を用いるべきであるとする反対意見もあったが、「退位した上皇 が健在にもかかわらず、(皇室史上においても)崩御により夫と死別した未亡人というイメージが強い皇太后の称号を使用することは避けるべき」という見解が出たため、新称号を創設する運びとなった。
上皇后となって1か月が経過した後、2019年(令和元年)6月8日に宮内庁病院 で心臓の検査を受けた。この検査は白内障 の手術を受けるために行われた血液検査において、心不全の診断指標であるBNP値が上昇していたことから実施された。専門医による診断の結果、中等度の三尖弁逆流症、軽度の僧帽弁逆流症及び不整脈の所見が認められた。その後、上皇との同伴で京都府での「孝明天皇山陵及び明治天皇山陵に親謁の儀」を済ませた後の6月16日に右眼の白内障手術を、6月23日に左眼の白内障手術を受けた[ 38] 。以後は、目の保護のためサングラス をつける。
2020年 (令和2年)1月2日 、夫の上皇明仁、天皇徳仁と皇后雅子および他の皇族らと共に、皇居 での新年一般参賀に参加。夫の上皇とともに上皇后となって以降、初めて公の場で姿を見せた。同年3月31日、上皇と共に仮住居となる高輪皇族邸 (高輪仙洞仮御所)に引越した。それ以降、新型コロナウイルスの影響により、ほとんど外出を控えるようになり、国民の目に触れることも少なくなっていた。同年9月11日、定期健診のため宮内庁病院に赴いた[ 39] 。
2022年 (令和4年)4月26日 、夫の上皇明仁とともに静養先の葉山御用邸を出発し、赤坂の仙洞御所(旧赤坂御所)に引っ越した[ 40] 。
年譜
外国訪問
単独訪問
1987年 (昭和62年)上皇(当時:皇太子)と共に アメリカ・メリーランド州 、アンドルーズ空軍基地 にて
明仁との訪問
皇太子妃時代
皇后時代
皇子孫
皇子女
夫の上皇 明仁 との間に、2男1女の3子を出産しもうける。
皇孫
1男3女の孫がいる。
※順序は兄弟姉妹間長子を優先。
1969年(昭和44年)9月、当時の皇太子一家、乳児は清子内親王(黒田清子)、左から徳仁親王(今上天皇)、皇太子明仁親王、皇太子妃美智子、文仁親王(秋篠宮)。
生家・正田家
正田貞一郎の家族 前列右から貞一郎、二女・勅子、母・幸、三女・祐子、五男・篤五郎、妻・きぬ 、四男・順四郎、後列右から三男・英三郎 、長男 ・明一郎、義弟・卓治、二男・建次郎 [ 52]
系譜
『正田貞一郎小伝』9 - 21頁によると、
神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜 』(角川書店 、2002年 )385-386頁によると、
「そもそも正田家のルーツは群馬県 館林の在。“開かれた皇室”を実現すべく、皇太子妃を選ぶにあたって尽力した小泉信三 は、正田家を300年前までさかのぼって調べたという。
郷土史家によれば「正田家の祖先は源義家 の孫、新田義重 の重臣、生田隼人[ 注釈 7] までいきあたる」というが、入手した文献で確認できるのは、300年前の庄田六三郎(天和 2年没)からである。
この六三郎が館林における正田家の始祖である。四代を経て正田文右衛門という人物が登場し、庄田を正田にあらため以後代々、正田家の当主は文右衛門を襲名 するに至っている。江戸時代 は「米文」の屋号で代々米問屋 を営んでいたようで、江戸 深川や大阪 堂島の米相場 を動かす、近郊きっての豪商だったと伝えられる。大繁盛した米問屋 であったが、明治 6年、正田英三郎 の曾祖父にあたる三代目文右衛門は突然家業をやめ、「亀甲正」という商号で新しく醤油 醸造業 を始めたという。
正田家の系図
文右衛門 (3代目)(美智子の高祖父、美智子の祖父の祖父)
文右衛門 (4代目)(文右衛門(3代目)の子、美智子の高祖父、美智子の祖母の祖父)
作次郎(文右衛門(3代目)の子、美智子の曽祖父)
文右衛門 (5代目)(文右衛門(4代目)の子、美智子の曽祖父)
きぬ(文右衛門(5代目)の長女、美智子の祖母)
貞一郎(作次郎の子、美智子の祖父)
明一郎(貞一郎ときぬの子、美智子の伯父)
はる(貞一郎ときぬの子、美智子の伯母)
建次郎(貞一郎ときぬの子、美智子の伯父)
?
勅子(貞一郎ときぬの子、美智子の伯母)
英三郎(貞一郎ときぬの子、美智子の父)
冨美子(美智子の母)
祐子(貞一郎ときぬの子、美智子の叔母)
順四郎(貞一郎ときぬの子、美智子の叔父)
篤五郎(貞一郎ときぬの子、美智子の叔父)
和子(貞一郎ときぬの子、美智子の叔母)
彬(建次郎の子)
巌(英三郎と冨美子の子、美智子の兄)
美智子
恵美子(英三郎と冨美子の子、美智子の妹)
修(英三郎と冨美子の子、美智子の弟)
正田邸
1959年 (昭和34年)4月10日の正田家一族と正田邸(東京都 品川区 東五反田 )
旧正田邸跡地の公園ねむの木の庭 。(2007年)
美智子が家族とともに、出生から結婚までの大半を過ごした正田英三郎邸は、清水組 によって設計・建設され1933年 (昭和8年)10月に竣工した木造2階建て和洋折衷洋館。戦後の複合的な増築により屋根などの装飾が複雑に重なり、天窓などのモダニズム建築 の要素も加えられた。近世イギリスのテューダー朝形式 の英国風の屋根や、当時流行した木組みを表面に見せるハーフティンバー様式 も取り入れたデザインは上流邸宅の典型。邸内は1階客室兼書斎の中央にマントルピース を備え、居間にはシャンデリア も下がり、和室も複数存在した[ 54] 。美智子の成婚後は、里帰り時の自動車が玄関に直接横付けできるよう、門、車庫周りを大きく改造した。
2001年6月、前年の英三郎死去に伴う相続税支払いのため、土地建物ともに国に物納され国有財産となる。昭和史の舞台であり稀少な戦前の邸宅が失われることを憂いた地域住民「旧正田邸を守る会」組織や西村眞悟 衆議院議員らによって保存運動が展開され、ナショナル・トラスト (国民環境基金)方式によって、保存活用を図りたいと望む動きは全国に広がり、軽井沢町 が移築・復元・保存を財務省 に申し出るが、「皇后さまご自身は保存を望まれないご意向」が宮内庁長官 から伝えられ、築70年目の2003年 (平成15年)3月、解体された。跡地には2004年 (平成16年)8月26日、品川区立公園であるねむの木の庭 が開園した。園名は、美智子が聖心女子学院高等科時代に作った詩「ねむの木の子守歌」にちなんで命名された。竣工時の旧正田邸の門を模した正門、正田邸にあった庭石などがあり、暖炉の煙突をモチーフにしたガス灯などが配されている。園内には、皇后が歌会始 で詠んだやまぼうし 、ねむの木 、ライラック や、美智子のお印 である白樺 などが植えられている。また、皇太子妃時代に、イギリスから贈られた薔薇プリンセス・ミチコ も、初夏と秋に咲いている。
栄典
日本
外国
カルロス3世勲章員としての紋章
名誉役職
著作
和歌・発言集
児童関連楽曲・書籍
作詞
逸話
少女時代
非常に優れた運動神経 の持ち主で、学生時代にはリレー の選手などに選ばれることが多かった。この当時は勝気な性格であったと伝えられる。
学生時代に学校において出会ったアイルランド 人のカトリック教会 修道女 たちに深い思いを寄せており、一人ひとりの顔と名前を今なお鮮明に思い出すことができるという。
10代の頃、終戦後に発刊された少女雑誌『ひまわり 』の読者欄に自作の詩を投稿し続けていた時期があり、同じ常連の投稿者には同い年の中村メイコ がいて、お互いに顔や人物を見知らぬままに一席 二席を競う好敵手の間柄であった。正田美智子(当時)の作品の印象は、中村には「とっても綺麗なしっとりとした良い詩」であった。後々になって中村は、投稿時に詩の選者をしていた竹内てるよ から告げられて、かつて同誌上で一席二席に名前を並べていた少女が皇太子妃殿下(当時)と同一人物であることを知ったという[ 94] 。
天皇に関するもの
2009年 (平成21年)11月6日 に皇居の宮殿石橋の間で行われた「天皇陛下御即位二十年に際しての天皇皇后両陛下の記者会見」での自身の発言より。
「戦後新憲法 (日本国憲法第1章 )により、天皇のご存在が『象徴』という、私にとっては不思議な言葉で示された1947年 (昭和22年)、私はまだ中学に入ったばかりで、これを理解することは難しく、何となく意味の深そうなその言葉を、ただそのままに受け止めておりました。御所 に上がって50年がたちますが、『象徴』の意味は、今も言葉には表し難く、ただ、陛下(=自身の夫)が『国の象徴』また『国民統合の象徴』としての在り方を絶えず模索され、そのことをお考えになりつつ、それにふさわしくあろうと努めておられたお姿の中に、常にそれを感じてきたとのみ、答えさせていただきます。」[ 95] 。
皇后に関するもの
2002年 (平成14年)10月20日 、自身の68歳の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書での回答[ 33] より。
「皇后の役割の変化ということが折々に言われますが、私はその都度、明治 の開国期に、激しい時代の変化の中で、皇后としての役割をお果たしになった昭憲皇太后 のお上を思わずにはいられません。」
「御服装も、それまでの五衣や袿袴に、皇室史上初めて西欧の正装が加えられ、宝冠を着け、お靴を召されました。そのどちらの御服装の時にも、毅然としてお美しいことに胸を打たれます。外国人との交際も、それまでの皇室に前例のないことでした。新しい時代の女子教育 にもたずさわられ、日本初期の留学生、津田梅子 、大山捨松 、石井筆子 始め一人一人の上に、当時の皇后様のお気持ちが寄せられていたと思われます。皇室における赤十字 との関係も明治の時代に作られました。」
「欧化思想とそれに抗する思想との渦巻く中で、日本の伝統を守りつつ、広く世界に御目を向けられた昭憲皇太后の御時代に、近代の皇后のあり方の基本が定まり、その後、貞明皇后 、香淳皇后 がそれぞれの時代の要請にこたえ、さらに沢山の新しい役割をお果たしになりました。どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり、近年では、香淳皇后の、皇后のお立場での外国御訪問が、皇室史上例のない画期的なことでございました。先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。」
女性皇族に関するもの
2002年(平成14年)10月20日、自身の68歳の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書での回答[ 33] より。
「これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います。それぞれの方らしく、御自分の求める女性像を、時と思いをかけて完成していっていただくことが望ましいのではないでしょうか。そして皇室の長い間のしきたりであり、また、日本人のしきたりでもある御先祖のお祀りを皆して大切にし、これまでどおり、それぞれのなさり方で陛下をお支えになって下されば、私は大層心強く思います。」
成婚に関するもの
1955年 (昭和30年)- 1956年 (昭和31年)ごろ、東京 ・銀座 の小料理店「井上」2階にて、独身時代の三島由紀夫 と見合い風の対面をしている(同店女将・井上つる江談。[ 96] [ 97] [ 98] )
三島は「こんなに素晴らしい女性はいない」と前向きであったが、破談となり大いに傷ついたという。後に成婚パレードで馬車に向かって投石した少年について、三島は「僕には気持ちがわかる」としたためている[ 99] 。
皇室 に嫁ぐ際、お印が白樺に決まると、実家の庭に軽井沢 から取り寄せたその苗木を自ら植えた[ 21] 。
成婚に際しては作曲家 の團伊玖磨 が「祝典行進曲 」を作曲した。この曲はのちに長女の紀宮清子内親王 が民間家庭へ降嫁 する際、皇居 から帝国ホテル へ出発する内親王 を送迎するためにも演奏された。
国民から盛大な歓迎と祝福を受けたが、このことに関し2004年 (平成 16年)の誕生日に次のように発表した[ 100] 。
「私は今でも、昭和34年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります。東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思います」。
結婚の儀当日天皇 から授けられた守り刀は、1955年 (昭和30年)に、刀剣では最初の重要無形文化財 保持者(人間国宝 )に認定された刀工高橋貞次 の作。浩宮徳仁親王 ・礼宮文仁親王 の守り刀も彼の作である。
家庭・育児に関するもの
成婚時に「殿下にお料理を作って差し上げたい」と希望し、新造の東宮御所 奥公室に小さな厨房 を設置。のちに幼少期の浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王らの離乳食や弁当 もこの厨房で自ら作ったこともある。
皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止。3人の子をすべて自らの手で育てた。とりわけ浩宮徳仁親王は誕生に際し、母子手帳 が発給されたことでも知られ、「乳が足りない際には(乳母を立てず)人工栄養で育てるよう」指示がなされた。なお、のちの礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の誕生の際には(母親学級に参加する際の警備上の問題などもあって)、母子手帳の発給を受けることはなかった。
いわゆる「ナルちゃん憲法」に関して、皇后自身は「書き溜めたメモの溜まったものに過ぎない」としている[ 100] 。
祭祀・公務などに関するもの
2005年 (平成17年)12月、天皇誕生日 の一般参賀にて天皇と共に
天皇行幸 の際には、ほぼ常に妻として同行している(行幸啓[ 101] )。そのときの服装は、訪問地に縁のある花をあしらった帽子や、同様の意味合いを持つ色の服を着るなどの配慮をしている。例えば2007年 (平成19年)の訪欧時には、各国の国旗の色をあしらった服や、コサージュを着用した。
明治 の昭憲皇太后 、大正 の貞明皇后 、昭和 の香淳皇后 が行ってきた養蚕 (皇后御親蚕)を継承している[ 102] 。紅葉山御養蚕所 において奈良時代 から飼育され続けてきた蚕 の品種「小石丸 」の飼育中止が検討されたとき、これを残すことを主張して同種を救った。小石丸は今日では全国で飼育されるに至り、各種美術品の修復にも用いられている。養蚕によって作られた絹糸で、皇后のドレスを仕立てたこともある。近年では、眞子内親王・佳子内親王が養蚕を手伝っており、内親王 たちの着物に仕立てられたという。
特徴ある活動としては、児童への図書普及への取り組みが挙げられる。1998年 (平成10年)、インド で開催された「国際児童図書評議会 (IBBY) 」におけるビデオによる基調講演「子供時代の読書の思い出」[ 注釈 8] では、日本武尊 の妃・弟橘比売 の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来のその胸中を語り世界中に大反響を呼んだ。またこの講演では、幼少のころに家族から聞かされた童話として新美南吉 の『デンデンムシノカナシミ 』を取り上げ、大人になってからもよく思い出される作品であると紹介した。講演内容は『橋をかける』という題名で、各国にて出版された。2002年 には、スイス で開催されたIBBY50周年記念大会に、名誉総裁として出席し祝辞を述べた。なお、その時の祝辞は、『バーゼル より-子どもと本を結ぶ人たちへ』という題名で出版されている。皇后が単身日本国外に行啓した史上最初の例である。
戦没者慰霊の地に赴き、和歌 を詠んでいる。
他の妃・皇孫に対するもの
自身の嫁にあたる皇后雅子 は同じく旧皇族 ・旧華族 以外の出身であり、彼女に対してそれまでの自分の経験を話し、助言をしていると言われている。彼女の皇太子徳仁親王 (当時)との婚約が内定した際には、「またひとつ宝物が増えました」との感想を発表している。
皇太子徳仁親王(当時)の結婚 の際には、皇太子妃雅子(当時)にルビー の指輪を贈った。この指輪は自身の結婚の際、姑の香淳皇后 から贈られたものであった。また、秋篠宮文仁親王 の結婚の際には、同妃紀子 に真珠 の指輪を贈った。
2006年 (平成18年)2月、秋篠宮妃紀子の第三子懐妊時には、友人に秋篠宮および同妃が、一人で悩んでいる天皇の胸中を思って懐妊を決断したのだろうという、天皇への思いを語ったとされる。また、紀子妃が前置胎盤 で帝王切開 が必要なことが分かると、それを心配する言葉を寄せた。
無事に自身の4人目の孫にあたる悠仁親王 が誕生すると、祖母の皇后は白いベビーシューズを携えて見舞いに訪れた。このベビーシューズは秋篠宮家 で大切に保管されていたとみられ、悠仁親王の1歳の誕生日写真においてソファ脇の机に飾られていた[ 103] 。
また、同年の誕生日においては、敬宮愛子内親王 との面会や彼女の「着袴の儀」を楽しみにしている旨を発表[ 104] 。なお、この年を境に、コメント・会見の際に「敬宮(読み:としのみや)」と呼ばずに「愛子(読み:あいこ)」と呼んでいる。
その他
プリンセス・ミチコ(1966年 )
1987年(昭和62年)、レーガン大統領夫人 と皇太子妃美智子(当時)
王室 間の交流を持つイギリス のディクソン社からプリンセス・ミチコ というバラを献呈されており、皇居の庭にも植えられている。ほかにエンプレス・ミチコ というバラが皇后冊立後4周年記念に献呈されたが、「プリンセス・ミチコ」の方がフロリバンダの品種として優れており「美智子さまの薔薇」と言えばこちらを指すのが一般的である。
皇太子妃時代、庶民からの羨望の気持ちを込めて「同じ服は二度と着ない」などともいわれて [誰? ] いたが、実際には丁寧に管理され、時には仕立て直しなどリフォーム をして繰り返し着用しているという[ 105] 。
公務の際は、洋装に日本独自のもの(佐賀錦など)をあしらったり、国内では訪問先の国花 ・都道府県 花などを身につけたり、国旗 を意識した配色の衣服を着用するなどの気配りを見せている。そのファッションセンスは、日本のみならず世界的にも高く評価されており、皇太子妃時代の1985年 (昭和60年)・1988年 (昭和63年)、皇后時代の1990年 (平成2年)の三度、国際ベストドレッサー賞を受賞している。植田いつ子 らがデザイナーとして知られる。
1992年 (平成4年)に、山形県 において開催された秋の国体 (第47回国民体育大会 、通称:べにばな国体)の開会式臨席の際、暴漢が発煙筒を投じたところ、とっさに片手を挙げ身を挺して隣にいた天皇をかばうなど[ 注釈 9] 、常に天皇を気遣っている。
宮内庁 職員組合文化祭には白木華子 (=白樺子→シラカバ)の名前でひそかに手芸作品を出品したことがある。その時、紀宮清子内親王 も「川瀬美子(かわせ・みこ→カワセミ )」の名前で出品した。
音楽に造詣が深く、学生時代からピアノ が得意とされる。高折宮次 (日本ショパン協会初代会長、1893-1963)よりレッスンを受けている。バチカン 訪問の際の音楽会では、即興でグノー の『アヴェ・マリア 』の伴奏を弾いた。自宅でじかに演奏に接したピアニスト の中村紘子 は、あれだけ想いの深い演奏をするピアニスト は日本にはいない、もしピアニストになっていたら自分には出番がなかっただろう、と最大級の讃辞を送っている[ 106] 。またピアニスト・田中希代子 の演奏を愛し、1996年 (平成8年)に田中が急逝したときには深い悲しみを表している。このほかハープ も得意としており、ハープを演奏する写真も撮影されている。2009年(平成21年)のカナダ 訪問時に訪れたトロント の小児病院では、子どもたちを前に、子育てのとき子どもたちに歌って聞かせた「揺籃のうた 」(北原白秋 作詞、草川信 作曲)を歌唱した。
1958年 (昭和33年)、ピアノを演奏する皇后美智子(正田美智子)
1999年 (平成11年)、父・正田英三郎 の死去に伴い、東京都 品川区 東五反田 五丁目(通称「池田山」)の生家正田邸が相続 の対象になった際は、相続権 を放棄。正田邸跡地は小公園「品川区立ねむの木の庭 」になっている。
元・宮内庁担当記者の板垣恭介 は、皇太子妃時代の記者会見で彼女がクッキーを手作りすることを疑う質問をすると、次の機会で記者らに手作りクッキーを出して笑顔で勧めたり、明仁皇太子の語学に関する話題で不用意な発言をし気まずくなった板垣をかばい、彼のタバコに火をつけながらフォローする言葉をかけてくれて、母校の聖心で「あっ、やばい!」などと下世話なかけ声をかけながらテニス をするという皇后の人柄を、聡明でユーモアがあると好意的に評した[ 22] 。板垣は夫妻のメキシコ 訪問時に、明仁皇太子に美智子妃の報道に関する相談を受けたこともある[ 26] 。
発言
成婚前・皇太子妃時代(昭和)
「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」 - 1958年 (昭和33年)11月27日、婚約決定記者会見での明仁親王評。
「難しいこともたくさんありましたし、辛いこともあります。いつになったら慣れるのか見当がつきません。(中略)時には八方ふさがりのような気持ちになることもあります」 - 1960年 (昭和35年)4月11日、結婚一周年の記者会見で。
「わたくしも差し上げるのならお点ではなく、感謝状を」 - 1984年 (昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて。明仁親王の「点数をつけることはできないが努力賞ということで」をふまえ。
皇后時代(平成)
「平成初めての大会にあたり、1947年 (昭和22年)以来、42年の長い年月にわたって名誉総裁の責務をお果たしになった皇太后陛下 に、わたくしどもの深い感謝をお奉げしたいと思います」 - 1989年 (平成元年)5月31日、平成元年全国赤十字大会にて。
「皇室も時代と共に存在し、各時代、伝統を継承しつつも変化しつつ、今日に至っていると思います。この変化の尺度を量れるのは、皇位の継承 に連なる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています。伝統がそれぞれの時代に息づいて存在し続けるよう、各時代の天皇が願われ、御心をくだいていらしたのではないでしょうか。きっと、どの時代にも新しい風があり、またどの時代の新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています」「(皇室観について)私の目指す皇室観というものはありません。ただ、陛下のお側にあって、全てを善かれと祈り続ける者でありたいと願っています」 - 以上、1994年 (平成6年)10月20日、還暦文書回答にて、「皇后美智子が天皇とともに皇室に新風を吹き込んだ」という指摘に対して。
「国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈り続けていることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます」 - 1995年 (平成7年)10月20日、誕生日の文書回答にて
「常に国民の関心の対象となっているというよりも、国の大切な折々に、この国に皇室があってよかったと、国民が心から安堵し喜ぶことのできる皇室でありたいと思っています」 - 1996年 (平成8年)10月20日、誕生日の文書回答にて。
「不思議な波が、私たちの少し前で何回かとまり、左手の子供たちが、心配そうにこちらを見ておりましたので、どうかしてこれをつなげなければと思い、陛下のお許しをいただいて加わりました」 - 1998年 (平成10年)10月20日、誕生日の文書回答にて、長野パラリンピックでのウェーブ参加に関して[ 107] 。
「どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり(中略)先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います」 - 2002年 (平成14年)10月20日、誕生日の文書回答にて[ 33] 。
「清子 は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしているときに、まずそばに来てドンマーインと、のどかに言ってくれる子どもでした」 - 2005年 (平成17年)10月20日、誕生日文書回答にて、数日後に控えた清子内親王の降嫁を前に[ 108] 。
「東宮妃 の公務復帰については、専門医の診断を仰ぎながら、妃自身が一番安心できる時を待って行われることが大切だと思います。あせることなく、しかし、その日が必ず来ることに希望をもって、東宮妃も、また東宮 も、それまでの日々、自分を大切にして過ごしてほしいと祈っています」 - 2006年 (平成18年)10月20日、誕生日の文書回答にて[ 109]
「(かくれみのを用いて)混雑する駅の構内をスイスイと歩く練習をし、その後、学生のころよく通った神田や神保町 の古本屋さんに行き、もう一度長い時間をかけて本の立ち読みをしてみたいと思います」 - 2007年 (平成19年)5月14日、欧州諸国歴訪前の記者会見にて、「身分を隠し好きなところで一日を過ごすとしたら」という問いに対し[ 110] 。
「皇太子妃の健康についての質問ですが(中略)妃は皇太子にとり、また、私ども家族にとり、大切な人であり、『妃の快復を祈り、見守り、支えていきたい』という、私の以前の言葉に変わりはありません」
「このごろ愛子 と一緒にいて、もしかしたら愛子と私は物事や事柄のおかしさの感じ方が割合と似ているのかもしれないと思うことがあります。周囲の人のちょっとした言葉の表現や、話している語の響きなど、『これは面白がっているな』と思ってそっと見ると、あちらも笑いを含んだ目をこちらに向けていて、そのようなとき、とても幸せな気持ちになります。思い出してみると、眞子や佳子が小さかったころにも、同じようなことが、たびたびありました」 - 2008年 (平成20年)10月20日、誕生日の文書回答にて[ 111] 。
「このたびも私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちがいたしますが、心を込めて感謝状をお贈り申し上げます」 - 2009年 (平成21年)4月8日、結婚50周年記者会見にて。先の25周年記者会見での発言をふまえ[ 112]
「東宮も秋篠宮 も孫として昭和天皇 のおそばで過ごす機会をたびたびにいただき、また成人となってからは、陛下をお助けするなかでそのお考えに触れ、日々のお過ごしようをつぶさに拝見し、それぞれの立場への自覚を深めてきたことと思います。これからも二人がお互いを尊重しつつ、補い合って道を歩み、家族も心を合わせてそれを支えていってくれることを信じ、皇室の将来を、これからの世代の人々の手にゆだねたいと思います」 - 2009年(平成21年)11月11日、天皇即位20年に際する記者会見にて[ 113]
「80年前、私に生を与えてくれた両親はすでに世を去り、私は母の生きた齢(とし)を越えました。嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出とともに、同じ朝『陛下と殿下の御心に添って生きるように』と諭してくれた父の言葉は、私にとり常に励ましであり指針でした。これからもそうあり続けることと思います」 - 2014年 (平成26年)10月20日 、皇后誕生日に際し、80年の傘寿 を迎えて[ 114]
譲位(上皇明仁の退位)に関して
「8月に陛下の御放送 があり、現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。私は以前より、皇室の重大な決断が行われる場合、これに関わられるのは皇位の継承 に連なる方々であり、その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので、皇太子 や秋篠宮 ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も、謹んでこれを承りました。ただ、新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。私の感じ過ぎであったかもしれません。」- 2016年 (平成28年)10月20日 、82歳の皇后誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答[ 115] より。
「陛下 の御譲位については、多くの人々の議論を経て、この6月9日、国会で特例法 が成立しました。長い年月、ひたすら象徴のあるべき姿を求めてここまで歩まれた陛下が、御高齢となられた今、しばらくの安息の日々をお持ちになれるということに計りしれぬ大きな安らぎを覚え、これを可能にして下さった多くの方々に深く感謝しております。」 - 2017年 (平成29年)10月20日 、83歳の皇后誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答[ 116] より。
「約30年にわたる、陛下の『天皇』としてのお仕事への献身も、あと半年程で一つの区切りの時を迎えます。これまで『全身』と『全霊』双方をもって務めに当たっていらっしゃいましたが、加齢と共に徐々に『全身』をもって、という部分が果たせなくなることをお感じになり、政府と国民にそのお気持ちをお伝えになりました。5月からは皇太子 が、陛下のこれまでと変わらず、心を込めてお役を果たしていくことを確信しています。」
「陛下は御譲位と共に、これまでなさって来た全ての公務から御身を引かれますが、以後もきっと、それまでと変わらず、国と人々のために祈り続けていらっしゃるのではないでしょうか。私も陛下のおそばで、これまで通り国と人々の上によき事を祈りつつ、これから皇太子 と皇太子妃 が築いてゆく新しい御代 の安泰を祈り続けていきたいと思います。」
「24歳の時、想像すら出来なかったこの道に招かれ、大きな不安の中で、ただ陛下の御自身のお立場に対するゆるぎない御覚悟に深く心を打たれ、おそばに上がりました。そして振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの60年に近い年月を過ごしていらっしゃいました。義務を一つ一つ果たしつつ、次第に国と国民への信頼と敬愛を深めていかれる御様子をお近くで感じとると共に、新憲法で定められた『象徴』 (皇太子時代は将来の『象徴』)のお立場をいかに生きるかを模索し続ける御姿を見上げつつ過ごした日々を、今深い感慨と共に思い起こしています。」
「皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした。与えられた義務を果たしつつ、その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく - そうした日々を重ねて、60年という歳月が流れたように思います。学生時代よく学長が『経験するだけでは足りない。経験したことに思いをめぐらすように』と云われたことを、幾度となく自分に云い聞かせてまいりました。その間、昭和天皇 と香淳皇后 の御姿からは計り知れぬお教えを賜り、陛下には時に厳しく、しかし限りなく優しく寛容にお導き頂きました。3人の子ども達は、誰も本当に可愛く、育児は眠さとの戦いでしたが、大きな喜びでした。これまで私の成長を助けて下さった全ての方々に深く感謝しております。」
「陛下の御譲位後は、陛下の御健康をお見守りしつつ、御一緒に穏やかな日々を過ごしていかれればと願っています。そうした中で、これまでと同じく日本や世界の出来事に目を向け、心を寄せ続けていければと思っています。例えば、陛下や私の若い日と重なって始まる拉致被害者の問題 などは、平成の時代の終焉と共に急に私どもの脳裏から離れてしまうというものではありません。これからも家族の方たちの気持ちに陰ながら寄り添っていきたいと思います。」
「先々には、仙洞御所となる今の東宮御所に移ることになりますが、かつて30年程住まったあちらの御所には、入り陽の見える窓を持つ一室があり、若い頃、よくその窓から夕焼けを見ていました。3人の子ども達も皆この御所で育ち、戻りましたらどんなに懐かしく当時を思い起こす事と思います。」
「赤坂に移る前に、ひとまず高輪の旧高松宮 邸であったところに移居いたします。昨年、何年ぶりかに宮邸を見に参りましたが、両殿下の薨去よりかなりの年月が経ちますのに、お住居の隅々まできれいで、管理を任されていた旧奉仕者が、夫妻2人して懸命にお守りして来たことを知り、深く心を打たれました。出来るだけ手を入れず、宮邸であった当時の姿を保ったままで住みたいと、陛下とお話しし合っております。」
「公務を離れたら何かすることを考えているかとこの頃よく尋ねられるのですが、これまでにいつか読みたいと思って求めたまま、手つかずになっていた本を、これからは1冊ずつ時間をかけ読めるのではないかと楽しみにしています。読み出すとつい夢中になるため、これまで出来るだけ遠ざけていた探偵小説も、もう安心して手許に置けます。ジーヴス[ 117] も2、3冊待機しています。」
「また赤坂の広い庭のどこかによい土地を見つけ、マクワウリ を作ってみたいと思っています。こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田の近くに1畳にも満たない広さの畠があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。頂いてもよろしいか陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げる物だからと仰せで、6月の大祓の日に用いられることを教えて下さいました。大変な瓜田に踏み入るところでした[ 118] 。それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました。」
「皇太子、天皇としての長いお務めを全うされ、やがて85歳におなりの陛下が、これまでのお疲れをいやされるためにも、これからの日々を赤坂の恵まれた自然の中でお過ごしになれることに、心の安らぎを覚えています。」
「しばらく離れていた懐かしい御用地が、今どのようになっているか。日本タンポポはどのくらい残っているか、その増減がいつも気になっている日本蜜蜂は無事に生息し続けているか等を見廻り、陛下が関心をお持ちの狸の好きなイヌビワ の木なども御一緒に植えながら、残された日々を、静かに心豊かに過ごしていけるよう願っています。」 - 2018年 (平成30年)10月20日 、84歳の皇后として最後の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答[ 119] より。
出典・注釈
注釈
^ ただし、それ以前にも民間出身の皇后は多数存在する。皇族以外で初めて立后したのは、奈良時代の聖武天皇の后の光明皇后(藤原光明子) である。光明皇后は父親が藤原不比等 、母親が県犬養橘三千代の、いずれも民間人の子である。それ以降、公家から皇后・中宮を出す慣例ができた。しかし、民間人の前例があるとはいえども、「庶民」から立后したのは上皇后美智子が初めてだと思われる。
^ 非皇族 かつ非華族 、旧士族 以下の意。ただし、実家の正田家は源義家 の孫新田義重 の重臣生田重幸 の子孫と伝わっており、南北朝時代 まで遡ると家格は決して低くない[要出典 ] 。
^ 通常は避暑地として使用された秩父宮家の別邸。
^ 午後2時半過ぎ、祝田橋付近で発生。犯人は長野県上伊那郡 長谷村(現伊那市 )出身で県立伊那北高校 卒業の19歳の浪人生。走って馬車に接近、一発投石した。石は外れたもののさらに馬車の幌部分に飛び乗り、護衛官に押さえつけられ引きずりおろされて警視庁丸の内警察署 に逮捕された。この模様はそのままテレビで生中継された。犯人は東京都 練馬区 の東京少年鑑別所 に50日間拘留され、精神鑑定の結果、精神分裂症と診断され、未成年者 であったこともあり保護観察処分となり釈放された。
^ 大正天皇 ・貞明皇后 の時代より改革が行われ、続く昭和天皇 ・香淳皇后 も女官 制度廃止(それまでの未婚で住み込みとりやめ、既婚女性に自宅からの通勤制で従事させるなど)・乳母は置いたがほぼ母乳 で育てる・内親王を学齢まで手元で育てる等を行った。皇太子明仁親王夫妻の改革もこれに続くものである(1977年(昭和52年):昭和天皇・香淳皇后への那須御用邸での記者会見より)。
^ 帰国後、旧制雙葉高等女学校 に入学するも1929年 (昭和4年)に英三郎に嫁す(仲人は大蔵省 顧問 ・児玉謙次 )。
^ a b 重幸。生田隼人は当主の代々名。
^ このビデオ講演は、NHK教育テレビ ETV特集 (現)で、国民一般にも放送され、大きな反響を呼んだ。出雲大社 社務所 では、皇后の講演全文を小冊子にして、社頭にて一般に頒布(はんぷ)している。
^ この時の様子は津川雅彦 や小林よしのり も証言している[1] [2] 。
出典
^ 宮内庁公式サイト 英語版
^ 天皇の退位等に関する皇室典範特例法 第四条第二項「上皇后に関しては、皇室典範 に定める事項については、皇太后 の例による。」
^ 歴代皇后125代総覧423頁
^ “軽井沢観光協会公式ホームページ 軽井沢を知る 軽井沢と皇室 ”. 2016年4月11日 閲覧。
^ 歴代皇后125代総覧424頁8行目
^ a b 『週刊朝日 』1959年4月12日号
^ 歴代皇后125代総覧424頁5行目
^ 歴代皇后125代総覧424頁11行目
^ 歴代皇后125代総覧424頁12行目
^ 歴代皇后125代総覧424頁13行目
^ 歴代皇后125代総覧424頁14行目
^ 歴代皇后125代総覧424頁15行目
^ 歴代皇后125代総覧425頁1行目
^ 歴代皇后125代総覧425頁5行目
^ (板垣 2006 , p. 22)
^ “JAPAN: The Girl from Outside” . TIME . (1959年3月23日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,892335-1,00.html 2016年10月21日 閲覧。
^ 旧梨本宮 、皇籍離脱以前:守正王 妃伊都子、朝鮮王朝 最後の皇太子妃で戦後は大韓民国 国籍となった李方子 の実母。
^ 講談社 『美智子さまと皇族たち』(河原敏明 ・1994年)44-46頁
^ あくまで猛反対した理由は「平民に対する差別的な意図」ではなく、「民間の女性が皇室という特殊な世界に嫁ぎ、務めを果たしていくことを危惧してのもの」であったとされる
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参考文献
上皇后美智子を取り上げた主な作品
以下、主に「平成」から「令和」への改元(代替わり)に際して放送されたテレビ特番。
NHKドキュメンタリー
テレビドラマ
『プリンセス美智子さま物語 知られざる愛と苦悩の軌跡』
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
上皇后美智子 に関連するメディアがあります。