野津 道貫(のづ みちつら / どうがん、1841年12月31日(天保12年11月30日)[1][注釈 1] - 1908年(明治41年)10月18日)は、日本の陸軍軍人[3]。東部都督、教育総監、第4軍司令官を歴任した。最終階級は元帥陸軍大将。正二位大勲位功一級侯爵。兄に陸軍中将・野津鎮雄がいる。
鹿児島城下高麗町の下級藩士・野津鎮圭の三男として生まれる。通称は七次。諱は道貫。幼くして両親を亡くした。薬丸兼義に薬丸自顕流を学ぶ。戊辰戦争に6番小隊長として参加。その活躍がめざましく、鳥羽・伏見の戦いから会津戦争、二本松の戦い、次いで箱館戦争に参戦。
明治4年(1871年)3月、藩兵3番大隊付教頭として上京し御親兵となる。同年7月、陸軍少佐に任じられ2番大隊付となる。明治5年(1872年)8月、陸軍中佐に昇進し近衛局分課に勤務。陸軍省第2局副長を経て、1874年(明治7年)1月、陸軍大佐に進級し近衛参謀長心得に就任。1876年(明治9年)7月から10月までフィラデルフィア万国博覧会に出張。1877年(明治10年)2月、西南戦争に政府軍第2旅団参謀長として出征。同年5月から8月まで豊後国指揮官を務めた。その後、日本陸軍上層部の一人となる。
1878年(明治11年)11月、陸軍少将に昇進し陸軍省第2局長に就任。その後、東京鎮台司令長官、同鎮台司令官を歴任。1884年(明治17年)2月から翌年1月まで陸軍卿・大山巌の欧州出張に随行。同年7月、子爵を叙爵し華族となる。1885年(明治18年)2月から4月まで清国に出張。同年5月、陸軍中将に進み広島鎮台司令官に就任。
1888年(明治21年)5月、第5師団長に親補され、1894年(明治27年)8月、日清戦争に出征。さらに第1軍司令官に転じた。1895年(明治28年)3月、陸軍大将となり、同年8月、伯爵を叙爵。11月、近衛師団長に親補され、東京防禦総督、東部都督、教育総監、軍事参議官を歴任。
1904年(明治37年)6月、第4軍司令官に就任し、日露戦争に参戦。1906年(明治39年)1月、元帥の称号を戴くまでに至る。
1907年(明治40年)9月21日、侯爵に陞爵して貴族院侯爵議員に就任し[4]、死去するまで在任した[5]。1908年(明治41年)10月6日、大勲位菊花大綬章を受ける。同年10月18日、幽門閉塞により薨去[6]。兄鎮雄と同じ青山霊園の墓所に葬られた。
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