教育総監(きょういくそうかん、旧字体:敎育總監)は、日本陸軍の教育を掌る役職で、その事務は教育総監部が行った。
教育総監及び総監部は、明治20年5月31日に監軍部条例(明治20年勅令第18号)によって設置された監軍(事務は監軍部)が前身で、1898年(明治31年)1月20日に教育総監部条例(明治31年勅令第7号)により設置された、陸軍における教育統轄機関であり、所轄学校や陸軍将校の試験、全部隊の教育を掌った。ただし、航空に関しては航空総監部が教育の大半を行い、参謀の養成は参謀本部が管掌した。同年1月22日、東京市麹町区隼町1番地の元監軍部跡に開庁した[1]。1901年4月28日、麹町区代官町に移転[2]。1941年12月8日から15日にかけて、陸軍省、参謀本部、陸軍航空総監部共々、三宅坂一帯から市ヶ谷台の陸軍士官学校跡地に移転した。
総監は陸軍中将以上をもって補職され、陸軍大臣・参謀総長と総称して陸軍三長官と呼ばれた。
教育総監の発言は、その身分が陸軍最高官の一つであること、またその職権が将兵に対する教育カリキュラムに大きく影響することなどから重視された。
二・二六事件において、当職にあった渡辺錠太郎大将は天皇機関説に理解を示す発言をしたこと、また皇道派将校の首班であった真崎甚三郎大将の後任として当職に就任したことから皇道派の怒りを買い、高橋太郎少尉らの指揮する歩兵第3連隊の反乱軍によって自宅を襲撃され殺害される惨事となった。
設置当初の組織は、監軍部と同様に本部のほか騎兵監部・野戦砲兵監部・要塞砲兵監部・工兵監部・輜重兵監部を置いた。1900年(明治33年)3月から本部部長を参謀長と改称。1907年(明治40年)10月9日要塞砲兵監部を重砲兵監部と改称する。1908年(明治41年)12月参謀長を本部長と改称。本部に庶務・第1・第2の3課を置く。1919年(大正8年)4月から野砲兵監部と重砲兵監部は統合され砲兵監部となる。1938年(昭和13年)7月、本部に部制を採用し、第1部・第2部を置く。1941年(昭和16年)4月から化兵監部と通信兵監部が新設。騎兵監部を改組し機甲本部とし、陸軍省の外局となる。第1部は総務部と改称し、第2部は廃止された。1945年(昭和20年)3月から高射兵監部が新設される。
※重砲兵監と統合し砲兵監となる。
※重砲兵監と改称。
※野戦砲兵監と統合し砲兵監となる。
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