陸軍習志野学校(りくぐんならしのがっこう)は、1933年(昭和8年)から1945年(昭和20年)まで、現千葉県習志野市泉町にあった帝国陸軍の化学戦(毒ガス戦)に関する研究・教育を行った軍学校である。
陸軍の毒ガス研究および生産の編成を記載する。
一般的な説明として、習志野で運用訓練し、大久野島で化学物質が作られ、曽根まで輸送しそこで兵器として詰め替えられ、大陸(日中戦争)で用いた、としている。
1945年(昭和20年)の終戦時には、学校施設は空襲も受けず、ほとんど無傷のままだったが、降伏と同時に校内では文書や設備の破壊・焼却が行われた。米軍が学校施設に入った日付は判明していないが、兵器・資材・施設の引き渡しは整然と行われた。この直後に学校幹部は米軍から学校史の作成を命じられ、翌年残った資料とともに米軍に接収された。後に習志野学校関係者の手で『陸軍習志野学校』が編纂されたが、これは関係者の記憶を基に編纂されたものである。
当時の関係者の証言によると、学校に残っていた毒ガス兵器については、太平洋への海洋投棄と米軍の接収によってほとんどが処分されたということである。ただ、一部を学校周辺で処分したという話もある。また、当時、日本が研究していた生物兵器や化学兵器等の研究成果は米軍に引き継がれ、朝鮮戦争などで、活用された。
戦後、銚子沖で漁網にかかった毒ガス兵器により漁民が被害を受けるという事件が発生したが、この毒ガス兵器が習志野学校が海洋投棄したものではないかといわれている。
1945年8月27日閉校
平林巌は、盛岡高等農林学校(現岩手大学)を出て、終戦時に予備士官として習志野学校にいた。平林の兄は八ヶ岳山麓を開墾し野辺山農場を経営しており、このことが平林を習志野開拓に駆りたてたと言われている。
終戦直後の昭和20年(1945年) 8月17日、横山教導連隊長から習志野学校の職員・生徒に対して、習志野原を開拓し新農村を建設し新生日本の復興に寄与するようにとの話があり、この話に感銘を受けた平林巌は、21日単身新宿三越にあった農地開発営団に乗り込み、習志野原開拓に関する全権を得ることに成功する。
9月11日には鍬入式が行われ、ここに習志野原開拓の歴史の幕が開いた。全国から入植者を募った結果、軍関係者や外地からの引揚者が多く応募した。当初、開拓団の中心は平林巌を中心とした習志野学校関係者で、集団農場方式の開拓を目指したが、やがて米軍による開拓地の接収や農地開発営団の解散などもあり、習志野学校関係者の影響力は失われ、農地は分割して個人所有となった。
開拓団は後に帰農組合となり、これが後に分裂し南北の習志野開拓農業組合となり、1970年(昭和45年)に南の組合が、1972年(昭和47年)には北の組合がそれぞれ解散し、ここに習志野開拓は歴史の幕を閉じた。
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