佐藤 陽子(さとう ようこ、1949年(昭和24年)10月14日[1] - 2022年(令和4年)7月19日)は、日本人ヴァイオリニスト、声楽家、エッセイストである。
来歴
1949年、福島県福島市に生まれる[2]。3歳よりヴァイオリンを始める[2]。1958年に来日中のレオニード・コーガンに公開レッスンで才能を認められ[3]、翌1959年よりソビエト連邦文化省の招きを受けてソビエト連邦へ渡った[4]。ソ連政府の給費留学生としてモスクワ音楽院附属音学校に進学、コーガンに師事した[4]。1962年4月にキリル・コンドラシンの指揮によりモスクワデビューを果たし、1966年6月にはチャイコフスキー国際コンクールに出場して第3位に入賞した[4]。同年9月からはモスクワ音楽院に進学し[4]、在学中の1969年にはパリのロン=ティボー国際コンクールで第3位に入賞した[1][4]。1971年にモスクワ音楽院を首席で卒業した後、フランスに留学して翌1972年より晩年期のヨゼフ・シゲティの門を叩く[1][4]。同年10月のパガニーニ国際コンクールで第2位に入賞した[4]。同年のヨーロッパ演奏旅行の際に、マリア・カラスに声楽の分野での資性も認められた[4]。カラスの唯一の弟子として声楽を学び[4]、1975年10月にはルーマニアのブカレスト国立歌劇場(ルーマニア語版)から「蝶々夫人」でオペラ歌手としてデビューし、喝采を受けた[1][4]。1977年にはソプラノ歌手としてジュゼッペ・ディ・ステファーノらと共演した[4]。
1976年に帰国し、アーティストとしての演奏活動のかたわら、エッセイの執筆やミュージカル歌手としてタレント活動も続けた。私生活ではパリで知り合った外務官僚・岡本行夫と大恋愛の末に24歳で結婚するも、池田満寿夫とローマで運命的な出会いをし1979年に岡本とは離婚している。同年池田と共同で個人事務所「M&Y事務所(有)」を設立した[4]。1980年に池田と結婚を「宣言」、同年1月には高橋三千綱、戸川昌子らの発起により結婚披露パーティーが開かれた[5]。池田の撮影モデルを務めるなどもし、しばしば芸能界でもおしどり夫婦として話題になったが、池田側の事情によって、両者が正式の夫婦になったことは一度もなかった[6]。池田が死去する前後の一時期は演奏活動が停滞したが、後には、レクチャー・コンサートや慈善演奏会、ワークショップにおける青少年の指導に力を注いだ。池田とパートナーとなった後の1982年に静岡県熱海市へ居を移し、1997年の池田死去後は自宅や池田が作陶の場とした「満陽工房」を熱海市に寄贈したが、以降も晩年まで熱海で過ごした[2][7]。その後、海光町の自宅は「池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家」として、下多賀の工房は「池田満寿夫記念館」として熱海市より公開された[7]。
2022年7月19日、肝臓がんのため、静岡県熱海市内の病院で死去した[5]。72歳没。訃報は同年8月1日に明らかになった。
著書
- 『17の変奏曲 佐藤陽子のG線対談』読売新聞社 1979
- 『音楽のある街角』講談社 1980
- 『スポット・ライト 音楽のきこえる話』角川文庫 1981
- 『Masuo my love』ケイエスエス 1998
共編著
- 『昼の眠りと夜の目醒め』池田満寿夫共著 講談社 1979
- 『食后のラブレター』池田満寿夫共著 主婦の友社 1984
- 『クライマックスはご一緒に いつまでも"男と女"でいるための愛し方』池田満寿夫共著 主婦と生活社 1986
- 『こういう女ならすべて失ってもいい』池田満寿夫共著 青春出版社 1988 のち文庫
- 『20世紀レコード・ジャケット傑作集』池田満寿夫共監修・選 毎日新聞社 1998
- 『池田満寿夫愛のありか』編 二玄社 2002
出演
バラエティ
ドラマ
CM
- 金印 金印わさび(1988年)※池田満寿夫と共演。
- ツクダオリジナル「オセロゲーム」(1990年)※池田と共演。
- ジョンソン「ガラスクルー・住まいクルーペーパータイプ」※池田と共演。
ドキュメンタリー
関連項目
- 小澤征爾 - 5歳の頃に演奏会でピアノ伴奏をしてもらったことがある。[8]
脚注
註釈
- ^ 1989年10月15日放送の「500回記念大会」には浅井慎平とペアで出演した。
- ^ 1994年、番組700回記念大会にもOBチームメンバーとして柳家小三治とペアで出演した。
出典
外部リンク