チャイコフスキー国際コンクール(チャイコフスキーこくさいコンクール、英 International Tchaikovsky Competition)は、ロシア連邦政府とロシア連邦文化省の主催により、4年ごとに首都モスクワとサンクトペテルブルクで開催されるクラシック音楽のコンクール。コンクールの名は、ロシア帝国の作曲家ピョートル・チャイコフスキーにちなんでおり、ソビエト連邦時代の1958年に始まった[1]。
エリザベート王妃国際音楽コンクール(ベルギー)、ショパン国際ピアノコンクール(ポーランド)とともに世界三大音楽コンクールの一つとされる[1]。
2022年4月、国際音楽コンクール世界連盟はロシアのウクライナ侵攻を受けて、チャイコフスキー国際コンクールの排除を決定した[2]。
1958年より4年おき(第13回コンクールを除く)にモスクワとサンクトペテルブルクで開催される。当初はピアノとヴァイオリンのみが審査対象であったが、第2回からチェロが加わり、第3回から声楽部門が、2019年より木管楽器部門と金管楽器部門が加わった。また1990年からはヴァイオリン属の楽器と弓の製作技術を競う、ヴァイオリン製作者部門が設けられている。対象年齢は、16歳から32歳(声楽のみ19歳から32歳)である。
コンクールは6月に開催され、予備審査を含めて3次の予選が行われる。各楽器部門に6賞と男女声楽部門にそれぞれ4賞の、合計26の賞が授与される。
コンクールは著名なロシア人音楽家からなる委員会によって組織され、Russian State Concert Company(Sodruzhestvo)が運営している。
2006年はモスクワ音楽院大ホールの修理や、FIFAワールドカップが重なること、スポンサーの未決定などの理由から開催が一年見送られ、第13回コンクールは、前回から5年おいた2007年6月に開催された。
冷戦の最中に、ソ連の文化的優位を誇示することを目的の一つとして始まる。第1回コンクールのピアノ部門でロシア人でなくアメリカ人のヴァン・クライバーンが優勝したこともあって、世界的なコンクールとなっていった[1]。第2回はソ連出身のウラジミール・アシュケナージと、ジョン・オグドンが同着優勝。しかしアシュケナージは翌年、イギリスへ亡命したため、ソ連はその優勝記録を抹消した。旧ソ連時代は賞金の国外持ち出し額にも厳しい制限があったと言われる。
1970年代までは誰でも応募でき、なおかつ演奏も可能な状態で、観光の目的のコンテスタントまでいた。また、初期は、点数順に8位まで表彰され、1位を含め、いずれの賞にも該当者無しの場合もあれば、複数の演奏家が選出された例もあった。
2011年度から規約が一新し、コンチェルトを三曲演奏する部門が新たに登場。また、国内予選で精鋭を選出する方式から、DVD審査と書類選考により一律に選考する方式に改められた。最高責任者として、指揮者のヴァレリー・ゲルギエフが任命された。
2022年4月13日、国際音楽コンクール世界連盟はロシアによるウクライナ侵攻を受けて臨時総会を開き、投票により賛成多数でチャイコフスキー国際コンクールを同連盟から即時除名することを決定した[2]。連盟は「ロシア政府の資金提供を受け、宣伝道具であるコンクールを支援したり、メンバーにしたりすることはできない」と強調した一方で「全てのロシア人への全面制裁や、国籍を理由にしたアーティストへの差別に反対」する姿勢も示した[3]。コンクールの組織委員長であるゲルギエフは、ウラジミール・プーチン大統領と親密で、マリインスキー劇場の総裁と芸術監督も務めている[4]。除名を受け、チャイコフスキー国際コンクールの公式サイトには、プーチン大統領とゲルギエフのコメントが寄せられた[5]。
2023年6月19日からのコンクールには23カ国から236人が参加し、欧米からの参加者が約8割減ったのに対して、中華人民共和国は48人と6倍に増えた[4]。タチアナ・ゴリコワ副首相が開幕式で「ロシア文化がボイコットされているが、芸術に政治はなく、音楽に国境はない」と語ったほか、プーチン大統領が「この伝説的なコンクールはかつてのように音楽界の主要なイベントと考えられている」と電報を送るなど、ウクライナ侵攻で低下したロシアの威信を回復させる意図があると報じられた[4]。
ピアノ部門では、優勝確実と見られていたニコライ・ペトロフが手の故障のため本選会を棄権し、グリゴリー・ソコロフが史上最年少で優勝した。
予定されていたオーケストラがストライキに入り、代わりにアマチュアのロストフシンフォニーが伴奏を引き受けた。
審査員に予定されていた中村紘子が、直前になってキャンセルした。