五代目 三遊亭 圓楽(さんゆうてい えんらく、1933年〈昭和8年〉1月3日 - 2009年〈平成21年〉10月29日[1])は、東京府東京市浅草区(現:東京都台東区)出身の落語家。
落語円楽党党首、『笑点』四代目司会者、円楽一門会総帥、円楽一門会最高顧問などを歴任した。没後に弟子の三遊亭楽太郎が六代目円楽を襲名してからは、先代圓楽、五代目圓楽、馬圓楽と呼ばれることが多く、6代目の黒円楽と区別されることが多い。
概要
演芸番組『笑点』の大喜利メンバー・司会者を長く務めていたことで知られる。現役時に所属した芸能事務所は星企画→若竹カンパニー。なお、若竹カンパニーは自身の長男が代表取締役を務める個人事務所であった。身長は177cmと長身である。
若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれた[2]。端整な顔立ちと博識ぶりにより、1960年代演芸ブームの際には脚光を浴びる。7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝休業後は8代目橘家圓蔵)とともに「東京落語四天王」と呼ばれた。出囃子は『元禄花見踊』。
生涯
入門まで
1933年1月3日、東京府東京市浅草区(現:東京都台東区)に吉河家の九人兄弟の一人寛海(ひろうみ)として生まれる。
実家は浄土宗の寺院・日照山不退寺易行院(通称:助六寺)。易行院はかつて浅草の清川町にあったが、後に足立区伊興町狭間(現在の住所は東伊興、最寄駅は東武伊勢崎線竹ノ塚駅)に移転している。
吉河家は羽柴秀吉による鳥取城の戦いにて自害した城主・吉川経家(きっかわ つねいえ)を祖とする。経家の三男・吉川家好(いえよし)は後に鳥取藩池田家の家臣となったと藩翰譜にある。1860年(安政7年)、寛海の曽祖父に当たる人物が切腹した。それに立ち会った寛海の祖父・寛雅は「侍というものは、かくも悲惨なものか、もう厭だ」と思いつめて武士をやめ、増上寺に入り、僧侶となったという[3]。
明治に至って、寛雅は苗字を「吉川」(きっかわ)から「吉河」(よしかわ)に改めた[4]。その息子も僧侶を継ぎ、易行院住職となる。
生家には修行僧や使用人など年上の男性が他にも住んでいたため、幼少時の寛海は自分の父親がそのうちのどの人かすら分からなかった。分かったのは5歳ぐらいで、食事時の無作法をたしなめた人がいて、その人との会話の中で初めてその人こそ父であることが判明した。
第二次世界大戦では東京大空襲に遭うも、吉河一家は命をとりとめた。しかし、この戦争は寛海の進路に影を落とす。終戦後、「これからは食糧難だから農業だ」という父親の薦めで農民になることを決意するが、当時の東京にはなかなか農業を学べるところがなかった。寛海は結局、隣県でしかも家から遠い埼玉県立杉戸農業学校(現:同杉戸農業高等学校)に入学、卒業する。
落語家として
上野鈴本演芸場で落語を見た時に「戦争ですべてを奪われ暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせることができる落語はすごい」と落語家になることを決意する。
1955年2月、6代目 三遊亭圓生に入門し、寛海は「三遊亭全生」(ぜんしょう)と名乗る。圓生には「一人前になるまで50年は食えませんよ」と言われたが、寛海は「30歳までに真打になれなかったら辞めます」と言って入門した。なお圓生に入門した理由は「当時は志ん生師匠や文楽師匠の方が師匠より格上だったが、高齢(寛海が噺家を志した時点で両名とも既に還暦を超えていた)で自分の面倒を最後まで見てくれるか分からなかったから」と述べている。
1958年3月に二つ目に昇進。1962年10月に真打に昇進して5代目「三遊亭圓楽」を襲名する。落語家を諦める期限としていた30歳を迎える約3か月前であった。
1978年の落語協会分裂騒動では「師匠をおいて残れない」と圓生一門とともに[注釈 1]落語協会を脱退。当時、圓楽は圓生に「あたしが引退した後、お前が三遊派の総領として弟子を守っていくんでげすよ」と念を押されていた。圓生が引退している身であれば脱会はしなかったが(もともと、圓楽は騒動の原因となった真打昇進に関しては圓生と正反対の考え方を持っていた)、当時、圓生は78歳と高齢ながら現役を退いておらず、師匠に逆らい自分が弟弟子と行動を共にすることなぞできないと悟り、師匠とともに「落語三遊協会」を立ち上げた。
1979年に圓生が亡くなると、6代目三遊亭圓窓・三遊亭圓彌・三遊亭圓丈ら圓楽以外の圓生の直弟子たちは落語協会に復帰。圓楽は新たに「大日本落語すみれ会」を設立。すみれ会はその後、「落語円楽党」「落語ベアーズ」と改称し現在の「圓楽一門会」となる。
1985年3月、「噺家の純粋培養」を企て寄席に出られない圓楽一門の新たな活動の場として東京都江東区東陽町に自費で寄席「若竹」を設置[5]。しかしオフィス街かつターミナル駅から離れた立地条件の悪さに加え、弟子たちが圓楽の意に反して余興(上方でいう「営業」)等に精を出して「若竹」の出番を休んでいたりしたため、これに憤った圓楽は「若竹」の閉鎖を決意し、1989年11月25日に閉鎖した[注釈 2]。以降、圓楽一門は圓楽傘下の芸能社である星企画の取ってくる余興等にのみ活動の場を求めなければならなくなった。「若竹」閉鎖後は借金返済のために日本中で講演したため、高座から離れる機会が多くなり、圓楽はその時期のことについて「借金返済のため、噺家として大事な50代に全国を講演で回った。悔やんでも悔やみきれない」と語っている[6]。
現役引退・晩年
『笑点』降板後に出演した『徹子の部屋』(2006年6月5日放送)では落語家として引退はせず、後輩の指導にあたると発言した。また同年7月20日放送の『クイズ$ミリオネア』では、林家木久扇の応援としてVTR出演している。
2007年2月25日に落語会「国立名人会」で高座に復帰することとなり、自分の進退をかけ本番の半年前から稽古をして臨んだ。しかし、その出来に納得がいかずに引退を決意。口演後の記者会見で現役引退を表明した。弟弟子の6代目三遊亭圓窓が「まだやれるじゃないの。高座に上がらない圓楽兄さんなんて考えられない」などと説得をしたものの決意は固かった。引退記念の高座が予定されていなかったことから、この日演じた『芝浜』が最後の高座となった。
また同年4月1日放送の『いつみても波瀾万丈』の出演をもって、テレビ出演の引退も表明した(2008年3月9日放送『笑点』には弟子の真打昇進披露口上のため出演した)。なお、1967年(昭和42年)から担当していた日本香堂のCMは2009年まで出演を継続していた。生前の圓楽の言によれば「ギャラもらってるからね」という理由でCMのみの出演を続けていたとのことであるが、実際は日本香堂の会長と私的にも交流があったためであり、また引退後も自分の健在をアピールできる唯一の場であったためと圓楽没後に前述の会長がテレビで語っている。
同年11月に胃がんの手術を受け、翌2008年3月には肺がんの手術を受けた[7]。
2008年8月、愛弟子の楽太郎に自らの名跡である圓楽を6代目として襲名させることが明らかとなった(林家木久扇による、子息の2代目木久蔵襲名以来となる生前贈与となる予定であった)。このことは弟子の好楽や後任司会者の歌丸により『笑点』でもネタにされている。圓楽は「私はもう落語家を引退した身ですから」として楽太郎の6代目円楽襲名後は落語界から完全に引退し、隠居することを表明していた。名前については、木久扇の師匠である林家彦六(8代目林家正蔵、彦六は三遊亭圓楽を3代目として名乗っていたこともあった)のように隠居名を名乗らず、本名の「吉河寛海」に戻すことを明らかにしたが、「師匠が落語家でなくなってしまうのは嫌だ」という楽太郎の反対により「5代目圓楽」「6代目円楽」とを並立させる(楽太郎は〈圓〉ではなく〈円〉を通すと表明)予定であった。
2009年5月、肺がんが再発。同時期に脳梗塞も再発し、半身不随となった。9月に慶應義塾大学病院に入院し[注釈 3]、本人の意向により10月23日に退院。自宅(および近所に住む長男宅での)療養に入った。10月29日午前8時15分、転移性肺がんのため、長男宅で死去。76歳。訃報は翌日の10月30日に公表された。圓楽の死去を受け、愛弟子の楽太郎を始め、桂歌丸、立川談志、林家こん平、8代目橘家圓蔵、鈴々舎馬風など多くの落語家が哀悼のコメントを発表した。また、かつては『笑点』の裏番組(『ヤングおー!おー!』)の司会を長年担当し、東西の噺家タレントとしてライバルであり戦友でもあった桂三枝(現:6代桂文枝)が自らのブログで圓楽へ向けた哀悼のメッセージを綴った[8]。
圓楽は2010年2月に行われることになっていた楽太郎の6代目円楽襲名を楽しみにしており、襲名に際し2代の圓楽揃い踏みが行われるはずであったが、目前にして叶わぬ夢となってしまった。
死去の一報を受けた日本香堂は自社のホームページで哀悼の意を表した[9]。その後、日本香堂・毎日香のCFナレーションは、2010年2月28日より、同日の『笑点』をもって名跡を襲名した直弟子・6代目円楽が継承している。また、死去翌日の『NNN Newsリアルタイム』(日本テレビ)ではその死がトップニュースで報じられた。
戒名は、「光岳院情誉圓楽寛海居士」(こうがくいんじょうよえんらくかんかいこじ)。遺影も圓楽が生前に選んでおり、国立演芸場での高座で『芝浜』を演じている際の写真が使われた。死去直後の週の11月1日の笑点は歌丸が喪服で追悼する特番が大喜利の前に組まれ、生前の若いころの落語を演芸コーナーで放送し、死去前に収録した大喜利が放送された。死の翌週、2009年11月8日の『笑点』では追悼特別企画として生前を振り返り、後半では「ありがとう円楽さん、追悼大喜利」を放送し、5代目を偲んだ。副音声での解説放送は休止された。
一門・親族による、通夜・密葬は2009年11月4日・5日の両日に代々幡斎場で非公表で執り行われ、同年11月21日に一門主催による「お別れの会」が東京會舘で行われた。この「お別れの会」の席の中で、これまでの「圓楽一門会」をそのまま「五代目円楽一門会」(会長:三遊亭鳳楽)へ改称・改組する方向であることが明らかになった。
笑点メンバー
1965年3月12日、『笑点』の前身となる『金曜夜席』の放送が開始され、圓楽は桂歌丸や林家こん平とともに出演。当初は大喜利コーナーの司会を担当したが、後の『笑点』での司会ぶりとは違い、かなりぎこちない司会ぶりであったため、早々と演芸・対談コーナーの司会で企画立案者でもある立川談志に譲って辞任し、第4回から回答者となった。
1966年に放送が始まった『笑点』では初回から大喜利回答者として出演した。1968年に立川談志と当時のメンバーの対立により降板したが、1970年に復帰。以降は紫色の紋付を着用するようになったため、挨拶では「ラベンダーマン」と名乗ることが恒例となった。しかし、圓生から「おまえはこんな安っぽい芸人で終わるのか」とたしなめられたことから、落語に専念するため1977年3月27日をもって番組を再び降板した[2]。降板後、司会として復帰するまでの間にも、1978年正月の鶴亀大喜利に師匠の圓生とともに出演したり、弟子であり後継メンバーとなった三遊亭楽太郎の師匠として師弟大喜利にゲスト出演したりするなど、番組との関わりは続いていた。
1982年12月8日に当時の司会であった三波伸介の急死に伴い、1983年1月9日から司会者として『笑点』に復帰した。しかし当人は、2回限りの臨時司会のつもりで引き受けたと語っていた。司会就任後しばらくはさまざまな色の紋付を着ていたが、同年9月4日放送分より、紺の色紋付に定着した。
就任してからしばらくは、答えの合間にその博識を生かした都々逸をしばしば披露したり、40分時代の初期には落語に専念していた時代に学んだ知識を生かして「よろずガイダンス」というコーナーで落語にまつわる話を披露するなどしていた。しばしば台本は無視、林家こん平の回答に対して着物を脱がせたこともあり、「司会者が笑い過ぎ」といった理由で、当初は批判も少なくなかった[2]。だがそれは従来と雰囲気を変えるために意図的に行ったことであり[2]、徐々に出題、指名、座布団の差配、メンバーへの助言など最小限の仕事に絞られていく。これは放送時間の短縮に加え、三波が司会をしていたころの司会者の強烈なキャラクターを柱とした番組から[注釈 4]、スピーディーにやり取りする中でメンバーのキャラクターにクローズアップし、司会者だけでなくメンバー全員を主役とするという新しいスタイルに移行した結果である。司会就任後しばらくは視聴率面で苦戦を続けたものの、こうした番組作りの変化が功を奏し、次第にかつてのような人気番組の地位を取り戻していった。
面長な容姿から「馬」呼ばわりされたり、「若竹の借金」「小言が長い」「本番中に居眠り」などとネタにされたり、回答者の家族の悪口(歌丸の妻・冨士子夫人など)や下ネタを織り交ぜた回答をすると、爆笑しつつも容赦なく座布団を没収していた。
後任の桂歌丸や春風亭昇太に比べ、失礼な回答をされてもキレるどころか爆笑することが多かった。ただし大笑いしながらも座布団はしっかり取り上げる。
お決まりの罵倒ネタとしては「馬面」「若竹(借金)」「長い小言」などがあげられる。特に笑点で「馬面」と言えば五代目圓楽という印象は強いだろう。また、よいしょネタにはかなり弱いようで山田隆夫が自身を褒め称えるネタやスポンサーの毎日香に関するネタを披露された際に座布団を与えなかったり、逆に没収しようとした場合は叱る場合があった。司会者末期は何も言わなくても山田が座布団を与えるようになったのを見て「山田くんも勘がよくなったね。」と褒める場面もあった。)
現在まで笑点で多用される「次期司会ネタ」は、笑点史上初の回答者上がりの司会者である圓楽が司会に就任して間もなく開始したもの。
こうしたエピソードや笑点で見せていた豪快に大笑いする姿から笑点視聴者など大衆からは「大らかで懐の深い人」と思われがちだが、芸事に関しては6代目円楽が「怖いんじゃなくて厳しい」と語る程、非常に厳格であった。事実、弟子である6代目と三遊亭好楽はその厳しさゆえに笑点降板を考えたこともあり、6代目円楽が楽太郎だった頃は収録後に散々叱られていたようである。とは言え厳しながらも愛情を持って接していたようであり、2010年に6代目円楽を楽太郎が襲名した際は死去により叶わぬ夢になってしまったが、披露口上に立ち会うことを誰よりも楽しみにしていたと披露口上で三遊亭小遊三が述べている。1983年に彦六門下から移籍してきた三遊亭好楽も彦六門下時代は笑点に推薦したりと非常に気にかけていたようである。
桂才賀が解答者にいた頃、前任の三波伸介とは仲が良かったようだが、圓楽は全くソリが合わなかったらしく、答えさせなかったり、答えを丸々カットするなどかなり冷遇していたようで存命のまま降板に追い込んだ。[注釈 5]。一方、林家木久扇のことを気に入っており、司会だった頃は当時木久蔵だった木久扇の解答でゲラゲラ大笑いすることがあったが、本当にツボに入っていたらしい。
圓楽の司会就任から1年後、それまでの松崎真に代わる新しい座布団運びとして山田隆夫が就任。これ以降、回答者だけでなく座布団運びも番組の流れに積極的に絡むようになり、悪ふざけが過ぎたり自らを罵倒する回答をしたメンバー(主にこん平及び弟子のたい平、春風亭昇太の司会就任後は桂宮治)に怒った山田が座布団から突き飛ばして独断で座布団を没収することがあるが、これも圓楽の助言がきっかけで始められた[12]。山田罵倒ネタの際には、山田の判断に一任したり、彼を擁護する発言をすることが多かった。
圓楽は大喜利メンバー全員で一つのファミリーを形成しているとの考えを持ち、番組の空気やリズムになじむのに時間がかかるということでメンバーの入れ替えはほとんど行わなかった[注釈 6]。また、メンバー全員が出演するロケ企画(ボウリング大会・山田隆夫の新居訪問・木久蔵ラーメン店訪問バスツアーなど)が頻繁に行われたのもこの時期である。23年間司会を務めながら、その間に新加入した大喜利メンバーは三遊亭小遊三と林家たい平[注釈 7]の2人だけ。1988年に弟子の三遊亭好楽が復帰してからは、たい平が加入するまでの16年間を同じメンバーで通した。こん平が長期の休演を余儀なくされた際も、圓楽は「代わりに変な芸人は入れるな。入れるなら、山田くんを大喜利に入れればいい」と語ったという[12]。
2001年2月11日の放送では、本来3問行われる大喜利を2問で終わらせようとしてしまった[注釈 8][注釈 9]。圓楽本人によると、このミスは脳梗塞の兆候の現れで、このことがきっかけで降板を考えるようになったとのこと[13][注釈 10]。また、この他にも2005年6月12日の放送でたい平の名前を思い出せず、たい平が挙手をした際に「誰だっけ?」と発言してしまったり[注釈 11][注釈 12]他のメンバーに対しても指名してから名前が出るまでに間が空くことがあった。
その後2005年10月13日に脳梗塞の症状が現われ入院し、10月16日分の放送を最後に番組を休養することとなった。2006年1月1日放送の新春14時間特番『大笑点』の終盤で久々のテレビ出演こそ果たしたものの、万全の体調ではなく、無理を押しての出演であった。同年3月26日から笑点の収録に復帰したもののやはり体調が万全でなく、冒頭の案内部分のみで大喜利司会には復帰できなかった。5月14日放送分(4月22日収録)の放送開始40周年特番を最後に勇退し、歌丸に司会の座を正式に譲った[注釈 13]。23年間の司会期間は、2022年現在『笑点』で最長記録となっている。
司会当時のエンディングでの締め文句はもっぱら「といったところで笑点お開き!また来週のお楽しみ、ありがとうございました。」で定着していた(地方収録など回によっては、若干異なる場合もあった)[注釈 14]。
2007年1月1日に放送の『大笑点』では、降板後では初めてゲスト出演。翌2008年3月9日には高座・テレビ引退後久々に弟子の真打昇進披露口上のため『笑点』出演となったが、体調を考慮して三本締めの音頭は惣領弟子・三遊亭鳳楽が行った。
笑点の大喜利には、「実は台本があり、誰がどのような答えを言うかはあらかじめ決まっている」という都市伝説があったが、笑点の司会者時代の回想で、大喜利の際には「あの答えは誰に答えさせようか、視聴率を気にしながらよく悩んだ」と、それを否定する趣旨の発言をしている。
歌丸には「圓楽さんに逆らえる人間は落語界にはいない」[注釈 15]とまで言われ、好楽・楽太郎ら弟子からはもちろん、他の落語家からも尊敬されていたが、「司会がうまい(落語は大したことない、という意趣返し)」などと揶揄(やゆ)されることもあった。追悼特別企画ではその「緻密な司会ぶり(ミスの多さ)」がネタにされた。
また歌丸は著書の中で「圓楽さんは三波さんに比べるといい加減な人でしょう。でもそのおかげで我々回答者が『ちゃんとしてください!』と突っ込み返すことができる余地が生まれた。そこがまた良かったんです。」と評しており、追悼特別企画では「圓楽さんは我々と同じ噺家の『間』を持っていたため、歴代司会者の中で一番やりやすい存在でした」と述べている。
追悼特番では笑点だけでなく落語の寄席での失敗、弟子一同を集めて小言を垂れる際に羊羹をバナナのごとく丸ごと一棹頬張りながらという(おかげでまともに小言を聞いていた弟子は一人もいなかった)ほどの甘い物好きぶりや、寒がりで紋付からはみ出るぐらいの厚着をして高座に上がったことなどが語られ、湿っぽさを感じさせない和やかで明るい雰囲気で進められた。
そして司会引退および逝去以降も、座布団10枚の賞品のネタ[注釈 16]にされたり、主に楽太郎(六代目円楽)から歌丸・昇太罵倒ネタの際に(物真似されるなどして)引き合いに出されるなど、今なお「笑点といえば5代目圓楽」のイメージは生き続けている。
没後10年の節目となる2019年には、落語家入門から笑点の司会就任までを描いたテレビドラマ『BS笑点ドラマスペシャル 5代目三遊亭圓楽』(主演:谷原章介)が放送された。
略歴
他の落語家との関係
- 6代目 三遊亭圓生に入門する2年前、入門するつもりは無かったが人柄が良さそうだったからという理由で2代目 三遊亭円歌に落語家になることについて相談をしに行った。
- 立川談志のことは「嫌い」と公言しているが、圓楽が本当に嫌っていたのは談志の師匠・5代目柳家小さんであったとされる(上述の分裂騒動時の落語協会会長であったため)。ただし分裂騒動時の小さんの行動について圓楽は一定の理解も示している上、小さんが会長に就任した直後に圓楽が「10年以上二つ目にとどまっている噺家達を真打に昇進させるべきだ」と小さんに進言もしている。
- 自身の証言によれば、3代目圓楽でありその名跡を持つ8代目 林家正蔵は師匠・圓生と最後までそりが合わなかったとされるが、一方で圓楽は気に入られていたため、5代目を襲名させたとされる。なお正蔵の自伝では「圓生が名前をくれというので襲名させた。『くれ』と言われりゃやらない訳にもいかない」といった表現になっている。圓楽自身は、正蔵に気に入られるきっかけとなったいきさつを以下のように語っている。
- 圓楽がまだ全生と名乗っていた二つ目の時分、懇意にしていた柳家小半治が亡くなった。寺院出身の全生は小半治のために経を唱えてやりたいと思い、先輩の7代目 橘家圓太郎(当時正蔵門下だった)と2代目 古今亭甚語楼に葬式の場所をきいたが二人に嘘をつかれ、結局葬儀に立ち会えなかった。後日楽屋で二人を見つけて怒った全生は口論となるが、そこへ正蔵が現れた。「後輩の癖に生意気な口を利くな、俺が相手になってやるから表へ出ろ」と正蔵に叱責され、激昂した全生は「上等だ相手になってやる」と大先輩に向かって返す。外へ出ると、正蔵は一変して笑顔になり、「あの場では圓太郎等の手前、ああ言わざるを得なかった。おまえは気が短いようだが、自分も短気では随分と損をしてきたから、気は長く持たなければならないよ」と優しく諭されたという。それが縁で稽古をたくさん付けてもらうようになり、ゆくゆくは圓楽の名をあげると言われるようになったのだという。
- 幼い頃は病弱で腎炎、結核との闘病を経験する。腎臓の病はその後も水面下で進行し、1998年、66歳の時に腎不全を発症。以後は週3回の人工透析を受けるようになる。
- 血圧もかなり低く、普段でも最高血圧が80mmHgしかなかったという。
- 落語家になって数年経っても「噺は上手いが圓生の真似だ」と言われ圓楽自身も悩み、ストレスで一時は体重が48kgになったり自殺未遂をしかけるほどだった。しかし母親から「お前は名人だよ」と言葉をかけられ、自分にはこんなに気遣ってくれる人がいるのだという思いで、なんとかスランプを脱出。後にそれをネタにして若き日の自己のキャッチフレーズを「名人圓楽」とするが、師匠などから「若手の分際で名人とは生意気だ」と怒られキャッチフレーズを「星の王子さま」に変更した。
- 一時期は事実上テレビ専業の「落語家タレント」であった一方でレギュラーは多くバラエティ、ドラマと何でもこなした。圓楽は「落語界・寄席でタブーとされることを全部やってやる」「寄席の価値観の逆をやる」という戦略をとり、瞬く間にスターとなった。例えば「キザ」という価値観は寄席では排除されるものだが、圓楽はあえてキザであり続けた。
- 麻雀の腕前はプロ級だった。行きつけの雀荘は旧日本テレビ本社ビル近く・二番町にあった「サラブレッド」。
- プロレス団体のFMWのコミッショナーも務めていたことがある。
- 甘党であることで知られ、それに関わるエピソードもある。
- 弟子を全員集めて小言を並べ始めた際に、圓楽の目の前に大型の羊羹[24]が2棹あり、ぶつぶつ小言を漏らしながらも鋏を使い、まるでバナナの皮のように包材を剥がし、しゃべりながら2棹とも平らげてしまったことがある[2]。
- 好々爺然とした晩年の司会ぶりとは対照的に、時事問題などでは右派的な持説があり、読売改憲試案などの憲法改正支持があった。またサマータイム導入なども訴えていた。教育問題に関しても、著書やインタビューで父権復活を訴えていた。いじめ自殺が社会問題化した際には「いじめをやるような子供は、島に隔離して怖い先生に鍛え直してもらえばいいんだ」と発言し物議を醸したことがある。
- 自由民主党の大物政治家で衆議院議長・文部大臣を務めた灘尾弘吉と親戚関係だった(灘尾弘吉の父方のいとこの妻が、圓楽の母の姉にあたる)[25]。この件はテレビや雑誌でも本人が語っていた。また内閣総理大臣を務めた三木武夫、福田赳夫といった大物政治家とも交友関係にあったため、1986年(昭和61年)の参議院選挙の際には出馬を打診されているが、実現はしなかった[26]。彼自身も上記のように右派的な思想の持ち主だった。
- 1972年(昭和47年)6月14日に発生した日本航空ニューデリー墜落事故で、客室乗務員だった実妹(当時23歳)を亡くしている。その事故の直前、圓楽が実家の本堂で睡眠していると、誰も叩いてないはずの木魚の音に目を覚まさせられ、その直後に実妹の訃報が届いたという。
- 1988年(昭和63年)には、実家の寺院に自身の墓を生前建立していた(いわゆる「寿陵」)。自他共に認めるせっかちな性格もあり、他人の作った墓に入るよりは自身で早く作ってしまおうと考えたため自分の墓を建立した。寺の生まれであるため、その墓石の素材等にもこだわりを持っていたと、6代目円楽襲名決定記者会見の中で明らかにしている。墓石には「円楽之墓」と刻まれている。
- また、自らの墓の隣には航空機事故で早世した実妹(先述)の供養観音を建立している[28]。
弟子
香盤順、現在門下のみ。孫弟子は五代目円楽一門会を参照。
移籍
廃業
主な出演作
テレビ番組
ラジオ番組
テレビドラマ
映画
CM
著書
- 『円楽の艶笑江戸川柳』編 土屋書店 1973
- 『円楽の艶笑落語』編 新風出版社 1973
- 『円楽、親父を叱る : 自信を取り戻す父親のゲンコツ教育』芳文社、1981年11月1日。
- 『笑点円楽のよろずガイダンス 笑っちゃうくらいタメになる』日本テレビ放送網 1985
- 『圓楽芸談しゃれ噺』白夜書房 2006
脚注
- ^ 弟弟子の三遊亭さん生・三遊亭好生は協会に残留。
- ^ なお、圓楽一門会が出演する寄席は「若竹」閉鎖翌年の1990年、両国に「お江戸両国亭」が開業しており(運営は永谷商事)、現在も営業を続けている。
- ^ この際、真っ先に見舞いに駆けつけた歌丸に向かって言った最初の言葉が「歌さんタバコ持ってない?」とのことで、歌丸を呆れさせた。なお歌丸自身は2009年に肺気腫で入院して以降、禁煙している。ただし、歌丸が2001年に急性腹膜炎で手術をして麻酔が切れた際、冨士子夫人と長女に発した第一声が「たばこ」であり、当然ながら冨士子夫人と歌丸の長女を唖然とさせている。
- ^ 三遊亭好楽(当時の芸名は林家九蔵)は「三波さんは演劇出身だったせいか、落語家相手に負けたくないという意識が強かったと思います」と述べており[10]、林家木久扇は「三波さんは自分がウケようとしましたね。こちらが面白い答えをいうと『何〜!』って場面を取っちゃうのが上手かったんですね」と回想している[11]。
- ^ 笑点メンバーでは数少ない、健康問題とは無関係で降板した落語家の一人であり、才賀以降では2021年に降板した2代目林家三平まで現れなかった。
- ^ それまで頻繁に行われていた大喜利の席替えも1992年の好楽・小遊三の入れ替えから2022年まで30年間行われず、その間の新メンバーは前のメンバーが座っていた場所にそのまま入るケースが続いた。
- ^ ただし、あくまで圓楽司会当時は休演した師匠・林家こん平の代演扱いだった。たい平がレギュラーメンバーに昇格したのは圓楽の勇退に伴い司会が歌丸に交代してからである。
- ^ この時には、2問目の後、3問目の前に後述の「といったところで笑点お開き!また来週のお楽しみ、ありがとうございました。」を言っていて、ほかのメンバーから、『今のは2問目だ』『まだ2問しかやっていない』『(まだ)3問目をやっていない』等のことを口々に言われ、(お開きとは言ったもののという意味で)『とは言ったものの3問目』の様に続けていた。
- ^ ちなみにこの7年後に後任司会者の歌丸も同様の失敗をやってしまい、2008年2月10日放送の時は三遊亭楽太郎に「あれをね、うちの師匠がやった後、ああなったんですよ」とネタにされた。また、現司会者の春風亭昇太も2017年6月25日放送分で同様のミスを犯している。
- ^ なお、この「大喜利2問で終了」はこの時が最初と思われがちだが(エピソードが語られる際に用いられる映像がもっぱら2001年放送のものであることが多いため)、それ以前にも1999年11月7日の放送で行ってしまっている。
- ^ たい平は、歌丸司会時代では歌丸から「こん平さん」と間違えて呼ばれたこともある。
- ^ ただ、これは脳梗塞の前兆も出ており、覚えることができなかったというのが正しいかもしれない。
- ^ この時は最後ということもあり大喜利司会に復帰したものの体調の問題から歌丸との2人体制となり、メインの進行は歌丸に任せて自身は問題のフリや返しのセリフのみを担当した。
- ^ この締め文句は歴代司会者全て異なっていて、桂歌丸は「どうやらお時間が来たようです、また来週お目に掛かりましょう、ありがとうございました。」、春風亭昇太は「といったところで、笑点これまで、また来週!」と言ってカメラに向かって手を振るというのが基本的な締め文句になっている。
- ^ とは言いながら、大喜利においてその圓楽を頻繁に罵倒し、座布団没収の枚数が最も多かったのは当の歌丸本人であった。もちろんこれは洒落であり、半世紀以上の付き合いがあり「金曜夜席」以来の長い出演経験もある同士だからこその仲がなせる業ともいえる。
- ^ 「耳をすませば」のキーワードで、五代目圓楽の豪快な笑い声が収められた笑い袋が賞品にされた(獲得したのは春風亭昇太)。
- ^ その事故便はイベントに同行する予定の数名の広告代理店社員が搭乗した。
- ^ 当時は瀬戸大橋・明石海峡大橋・神戸空港は未開業。
出典
関連項目
外部リンク
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笑点メンバー |
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現出演者 | |
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元出演者 |
金曜夜席時代 | |
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談志司会時代 | |
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前田司会時代 | |
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三波司会時代 | |
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5代目圓楽司会時代 | |
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歌丸司会時代 | |
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昇太司会時代 | |
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★司会者 ◆座布団運び ▲コーナーレギュラー ■金曜夜席から継続出演 ◎本家&BS笑点・笑点Jr.両方出演 ☆BS笑点・笑点Jr.司会者 ◇BS笑点・笑点Jr.座布団運び △BS笑点・笑点Jr.コーナーレギュラー □BS笑点から継続出演 数字は世代(x代目)を表す。芸名(氏名)は現在当人が名乗っている表記。 カテゴリ |