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この項目では、当代について説明しています。初代については「林家染八」をご覧ください。 |
笑福亭 鶴瓶(しょうふくてい つるべ、1951年〈昭和26年〉12月23日[1] - )は、日本の落語家、タレント、司会者。出囃子は『トンコ節』または『新ラッパ』。本名は、駿河 学(するが まなぶ)。
大阪府中河内郡長吉村(現・大阪市平野区)出身で、兵庫県西宮市在住。所属事務所はデンナーシステムズ[注釈 1] で、長年所属していた松竹芸能にも籍を残している。前述の通り、西宮市に本宅があるが、活動の拠点が東京であるため、港区にも別宅を持っている。
愛称は「べーさん」「べー師匠」「鶴瓶ちゃん」「まーちゃん」「まなぶくん」など。落語家として上方落語協会相談役を務めている。2021年現在、松鶴の五番弟子である。
来歴
以下、本文では入門以前を含め、当人の呼称は「鶴瓶」で統一する。
生い立ち・学生時代
大阪府中河内郡長吉村長原(現・大阪市平野区長吉長原)出身[注釈 2]。12歳上の兄と姉3人の5人兄姉末子で、4間屋の自宅に祖母を含めた8人暮らしだった。
1961年頃に、登校途中に近所の男性に競馬場に誘われて、鶴瓶が適当に指名した馬券をその男性が購入した所、それが的中し万馬券に化ける。驚き感嘆した男性は、約40万円の払戻金を丸々、学少年に手渡した。夜中に家族が寝静まった頃を見計らい、貰ったお札を数えていた所、その現場を母親に発見され大事に発展した。夜中にもかかわらず、くだんの近所の男性をたたき起こし、事の顛末を聞き出したことにより、正式に駿河家のお金となった。後に、母親にお金の使途を執拗に問い質したところ、実家の増築資金になっていたことが判明。この話をテレビ朝日の『徹子の部屋』に出演時に話題にしてさらに母親から叱られたと語っている[3]。
中学生の頃、2代目桂伸治が演じる「堀の内」に魅せられ、学校の教室で手作りの高座を用意し我流の「堀の内」を演じる。
私立浪速高等学校に進学。高校ではボクシング部にも所属したが先輩からの打撃で目を痛め、退部。ボクシング部を退部後の2年生の終わり頃に、落語研究会を他の2人の生徒と立ち上げ、浪花亭無学の高座名を名乗った。
大学受験の年、頭のいい人間に対抗心を持っていたため、京都大学や、大阪大学の入試の合格発表に行き、落ちていそうな生徒の隣で「あった!」と合格したフリをして、胴上げされるという悪戯をする。この時、大阪大学でNHKの取材を受け、模様が夕方のニュース番組で流れたため、それを見ていた親戚から祝電が届くなど両親に恥をかかせてしまう[3]。
高校時代にすでに落語家になることを志望していたが、父からは反対を受ける。「うちの家から変わった人を出したい」という思いから、3年生の時には父から将来を問われて思いつきで「渥美清への弟子入り」を口にし、実際に上京して会いに行ったこともあるが渥美が不在で会えず、私大を受験。「過去を一旦捨てたい」という理由で友人たちが受けない当時新興大学だった私立の英知大学(後の聖トマス大学。現在廃校)、京都外国語大学、京都産業大学と歴史のある関西大学を受験、不合格の関西大学以外の中で、当時歴史の浅かった京都産業大学に進学する。京都産業大学を選んだのは、入学金が他の大学より破格に安かったことと、推薦入試を受ける友人に付き添って行ったときに出会った女性、のちに妻となる玲子と再会できるのではないかという理由だった。
京産大では中村行延と同様に7期生として入学。開設間もない落語研究会に所属し、童亭 無学(どうてい むがく)を名乗る。直後に玲子と再会し、共通の友人がいたことから、落語研究会にマネージャーとして勧誘、玲子には「レモン亭円(まどか)」という高座名も与えられた。親は入学金は出したが、それ以外の費用は自活するよう言われ、入学直後から六角通の旅館「三木半」でアルバイトをする[12]。この旅館で1期上のあのねのねの清水国明と知り合った。同期の同じくあのねのねの原田伸郎とは落語研究会に入った日に出会った。大学でも高校時代のようにクラスで皆を笑わせたいという欲求があったが、大教室は広すぎる上に出入りも自由で期待した効果がないため、最初の小教室の授業で、カセットテープに録音した出囃子を教授が教室に入る際に鳴らして笑いを取った[3]。
清水国明、原田伸郎、玲子とともに、あのねのねのメンバーとなる。玲子はボーカル、鶴瓶は踊るのみだった。この時玲子は『ひょっこりひょうたん島』のテーマを歌っている。清水とは下宿で共同生活を送った時期もあった。あのねのねがスターになり、鶴瓶の結婚式に二人が札束を持ってきたエピソードもよく語られる。鶴瓶の結婚式・披露宴の代金をあのねのねが全て負担し、それでも余った[3]。
この他、大学の同級生には後にシンガーソングライターとなり、ヤングタウンで鶴瓶と共演したこともあった中村行延らがいる。
いずれ大学をやめて落語家になると公言していた鶴瓶は、あるとき落語研究会の先輩2人から「いつになったら落語家になるんや」とからかわれたのに激怒し、2人を便所に連れ込んで「俺がどないしようと俺の勝手やないか!おまえらにガタガタいわれる筋合いはないわい!おまえらにいわれんでも、やめる時が来たらやめるんじゃ!」と殴打し、まもなく大学を中退した。
入門・弟子入り
中退前の鶴瓶は当初3代目笑福亭仁鶴への弟子入りを考えていたが、観覧した落語会での6代目笑福亭松鶴の口演、とりわけ、客先にいた僧侶を見てネタを忘れたという理由でオチだけを話して高座を降りたことに「おもろい」と強い印象を受け、松鶴への弟子入りを決める[注釈 3]。1971年1月の「京都市民寄席」の楽屋口で弟子入りを試みたが、「知らん人が見たらヤクザ」のような松鶴と弟子の姿におののいて声をかけられず、1年後に自宅を訪れることになった。
この訪問では居留守を使われ、粘って根負けして会った松鶴からは、入門は親の承諾が条件で、連れてくるように言われる。駿河は一計を案じて、「喧嘩で相手を負傷させ、謝らなくてはならない」という理由で父親を同行させ、松鶴から正式な入門の許しを得た。
1972年2月14日、11番弟子として入門する。入門から間もない頃、まだ高座名も与えられない時に島之内寄席[注釈 4] で来場者の下足番を任された際に、名前も社名も言わずに入場しようとした新聞記者に対し、それまでの横柄な態度を腹に据えかねて「顔パス」を咎めたところ、下足札を投げつけられて「お前誰や!」と問われる。松鶴の弟子と答えると、松鶴のいる楽屋に連れて行かれた。鶴瓶は松鶴から問われてこの経緯を話した。すると松鶴は、鶴瓶を「向こう行け」と遠ざけてから、将来取材する対象になるかもしれない相手ではないかと記者を罵倒した。この件で鶴瓶は、「このおやっさんに付いていこ」と心服する。
「鶴瓶」という高座名が付くまでの経緯については、鶴瓶自身は時期によって異なる説明をしている。1982年の著書では、
- 入門からしばらくは高座名がなく、問われたときはやむなく「笑福亭駿河」と名乗ったりしていた。まもなく松鶴から「どっかひとつ抜けたとこあるしな……そうや、昔井戸で"つるべ"て使うてたやろ。なんやお前は、井戸のつるべのタガが抜けたみたいなとこあるし」という理由で「鶴瓶」の名を与えられた。
としていた。これに対して2013年の聞き書きでは
- 入門翌月にラジオ大阪やABCラジオの番組に出演したときにはすでに「鶴瓶」の名前で出演していた。松鶴からは「鶴之(つるゆき)」と「鶴瓶」の二つの名前から選ぶよう言われ、「鶴瓶」を選んだ(兄弟子の笑福亭鶴光も弟子入り時に「鶴之」と「鶴光」を示されており、そのことを鶴光から教えられた)。すると松鶴は『落語系図』で先代鶴瓶について見るよう指示し、それを見て「おもろい名前つけてもろたなあと不思議な気持ち」になった。
としている。
同年9月26日に島之内寄席にて初舞台[26]。初舞台の演目について、新野新の著書(1975年)では「東の旅 発端」としているが[26]、鶴瓶自身は2013年の聞き書きで(同じ「東の旅」の一編である)「煮売屋」であったと述べ、人体の「逆さ言葉」を言う下りの「耳」のところで「ミンミン餃子、おいしいな」というくすぐりを入れて受けを取ったが松鶴から「よけいなこと入れやがって!」と叱られたとしている。
松鶴からはほとんど落語の稽古を付けられることはなかった。兄弟子である笑福亭松枝のエッセイのほか、鶴瓶自身の回想によれば、鶴瓶は「ある意味えらい怒られて稽古をつけてもらえなかった」存在であり、松鶴が機嫌のよいときに兄弟子の笑福亭松葉に「稽古を頼めよ!」とけしかけられて稽古を頼み込むと、鶴瓶の目の前に顔を突き出した挙句、「嫌や!」と突き放されたこともあった。ついには、「鶴瓶が聞いとるさかい風呂行って稽古しょう!」と他の弟子を引き連れて逃げ回られる事態に発展した。松鶴の盟友であった5代目桂文枝はこのことについて「稽古の必要はないと思ってるからや」と分析しており、また鶴瓶が松葉など年の近い兄弟子に可愛がられるための、松鶴による気配りであることを示唆している。また、鶴瓶と5代目文枝ともども、松鶴自身が5代目松鶴からあまりネタを教えてもらうことがなかったことが、稽古をつけなかったことの伏線とみなしている。鶴瓶自身は、松鶴が形にはめるよりも「あんまりいじくりまわさんほうがええ」と考えていたのではないかと述べている。松鶴の不在時に、松鶴の妻(「あーちゃん」と呼ばれていた)から三味線や落語の稽古を付けられることもあった。
ある落語コンクールでは、前記の『堀の内』に古典落語なのにオートバイに乗った人物を登場させるなど、「男子校向け」のアレンジを適当に加えて演じた。審査員からは「時代錯誤も甚だしい」と酷評され、やはり審査員である松鶴からは「こんなん、落語やおまへん。こいつには稽古つけてまへん」とまで言われる[33]。だが、松鶴は帰り道に鶴瓶の尻を叩いて「おまえのが一番おもろかった」と告げた。
そのほかにも、高座にラジカセを持ち込み、笑いが欲しいシーンでスイッチを入れて笑い声を出し、客の笑いをあおるなど、当時としては斬新なアイデアを披露したりしたが、これも松鶴に楽屋で叱られてしまった。ただしその松鶴も、若手時代には高座でバレリーナに扮して先代から怒られている。3代目桂米朝によれば、3代目桂米之助作の新作落語「白鳥の死」の口演のためだという。
入門当時には、小学6年生で12歳の兄弟子・笑福亭手遊(おもちゃ、入門は1971年10月)がおり、入門順が序列となる落語界のしきたりに従い、彼を「兄さん」と呼び、手遊からも「兄弟子」として振る舞われることがあった。ただし、小学生の手遊を大人の鶴瓶が「兄さん」と呼んで話す様が面白がられて二人でラジオ番組に何度も出演し、結果として番組に出る機会が増え、「鶴瓶いうやつ、おもろいねんな」と思われるようになったと、2013年の聞き書きでは述べている。一方、手遊の上の兄弟子である笑福亭松葉(没後に7代目笑福亭松鶴を追贈される)には面倒を見てもらい、仲のよい兄弟弟子となる。のちに松竹芸能の社長から7代目松鶴は誰がいいかと問われたときに、鶴瓶は「松葉と答えた」という。
若手時代、鶴瓶はアフロヘアーにオーバーオールという落語家らしくないスタイルを続けていた。3代目桂春団治や師匠の松鶴からは髪を切れと何度も言われたが(春団治は「金をやるから切ってくれ」とも言い、実際に金銭を渡した)、鶴瓶は従うことはなく、また松鶴や春団治もそれを楽しんでいる風があって、松鶴は途中から何も言わなくなったという[注釈 5]。鶴瓶は、吉本興業所属の桂三枝や笑福亭仁鶴と比べ、自身の所属する松竹芸能の落語家が年齢が高いというイメージがあり、落語家の「古臭い感じ」に対する反発からそうしたファッションをしていた。
1970年代前半は、ユリ・ゲラーをはじめとする超能力・エスパーブームの時期だった。活動の場が早く欲しかった鶴瓶は、超能力(透視とスプーン曲げ)が使えることを松鶴に打ち明け、鶴瓶の超能力を目の当たりにした松鶴は驚愕し「ウチに超能力を使う弟子がおる」と松鶴自らがテレビ局に鶴瓶を売り込む。当然ながら超能力はテーブルマジックの類で、周囲に仕掛けを漏らしつつ頭から超能力を持つ弟子と信じ切っている松鶴という場面に持ち込み、必死になって売り込む松鶴に便乗して業界関係者に顔と名前を覚えてもらい、これを手がかりにテレビ、ラジオと進出する足場を作る。後に兄弟子の笑福亭仁鶴が鶴瓶のイカサマ超能力を暴き、松鶴は梯子を外された格好になった。[要出典]また、このスプーン曲げは上岡龍太郎の不興を買った。鶴瓶は正直に事情を話し、上岡も笑って誤解を解いた。鶴瓶と上岡はこれが縁で互いの楽屋を訪れるようになり、その鶴瓶の楽屋話が面白いということで『激突夜話』『パペポTV』へとつながっていった[41]。
1974年10月12日に結婚。結婚式は大阪市中央区の「高津神社」で執り行われた。鶴瓶と玲子は交際を始めた年に「10年後の1980年12月23日に結婚する」と約束していたが、玲子が妊娠したことから6年早い結婚となった。玲子の親の承諾を得ないままでの結婚だったため、玲子側の参加者がいない異例の式だった。仲人は師匠の松鶴が務めたが、弟子13人の中で鶴瓶が一番「アホ」というスピーチをした。
タレント活動
入門4日目で、兄弟子の笑福亭呂鶴の代役を求める近畿放送ラジオ(現・京都放送)から松鶴への電話に留守番で出たことで、「誰でもいいなら」と応じて出演した。
初のレギュラー番組は近畿放送の『丸物ワイワイカーニバル』で、以降、近畿・中京地区でラジオ・テレビを中心に活動。1970年代半ばには東京のテレビ局の制作番組にも出演したが、自身に対するスタッフの扱いに反発して局部露出事件(詳細は後述)を起こしたこともあり、その後約10年は東京での活動をおこなわなかった。
1978年に始まった『ぬかるみの世界』で人気が上昇し、1982年から4年間続いた毎日放送の『突然ガバチョ!』の司会で再び脚光を浴びる。この番組は関西以外の地方でもネットされた。1982年、テレビ大阪の開局記念番組で取材を受けた際「アフロヘアーをトレードマークにしている」という声を耳にして、「けったくそ悪い」という思いを抱き、取材を受けている最中に髪を切り落とした[注釈 6]。
鶴瓶は1982年の著書『哀しき紙芝居』で東京への(再)進出を「是非とも挑戦したいもの」と記し、同時に「そこをできるだけ自然に通り過ぎたい」と、自分のスタイルを変えずに行くことを望んでいた[注釈 7]。満を持して1986年に、ビートたけしが出演する『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『オレたちひょうきん族』の裏枠のMCとして起用されるも、いずれも短期間で打ち切られ、「東京進出失敗」と週刊誌に書かれる。この状況で、鶴瓶に着目していたフジテレビプロデューサーの横澤彪が抜擢する形で、1987年から『森田一義アワー 笑っていいとも!』のレギュラーとなった。『笑っていいとも!』および1988年から全国ネットとなった『鶴瓶上岡パペポTV』により、広く受け入れられるようになる。
1990年代以降は、本業の落語家やテレビタレントのみならず俳優や司会者としても活躍するようになり、顕著な活躍を見せている。その傍ら、関西圏のラジオ局では現時点でもまだレギュラー番組を持ったことがないラジオ関西を除き、必ずレギュラー番組を1番組は持っている。
2001年に日本コカ・コーラとのタイアップで、日本テレビと吉本興業が組んで制作されたドラマ『明日があるさ』にも、鶴瓶が松竹芸能からただ一人ゲスト出演した。
落語への回帰
道頓堀角座が健在のころは「『大安売り』と『いらちの愛宕詣り』ばっかりやってました」。しかし、当時の角座の昼席は落語にさして興味のない団体客を入れていたため、「落語を聞きに来るお客」がメインであった夜席を好んでいた。
1986年の6代目松鶴の死後、笑福亭梅香を襲名させる計画があった。初代桂文枝(正確には桂梅香)、2代目曽呂利新左衛門の前座名という由緒名であるが、一門での慣例から「梅香」の読みは「ばいか」「ばいこ」「うめこ」のいずれではないかと(本人は)推察。遺書に読み仮名が無かったため正確な読みは不明のままに加え、名前が自分に似合っていないということから辞退している[50]。
2002年9月、江戸落語の春風亭小朝との二人会で『子別れ(子は鎹)』(落語を本格的に始めるにあたって4代目桂文紅にじきじき『子別れ』を稽古を付けてもらった)を演じたことを機に、落語への回帰を強めている。2003年3月、小朝、林家こぶ平(現:9代目林家正蔵)らと落語家会「六人の会」を結成[51]。また同年5月に上方落語協会理事に就任している。その後広報委員長を経て、2008年6月に副会長に就任した(2018年に退任、相談役に)。
多忙なタレント活動の合間を縫って「鶴瓶噺」「笑福亭鶴瓶落語会」などの独演会を展開する一方、六人の会が主催する「東西落語研鑚会」にも参加。大阪・帝塚山の6代目松鶴旧宅で行われる演芸イベント「帝塚山・無学の会」を主宰するなど、精力的に落語に取り組んでいる。古典落語にも「東西落語研鑚会」で『鴻池の犬』『らくだ』などに挑戦している。特に2004年の東西落語研鑚会で口演した『らくだ』は松鶴の十八番(おはこ)であり、松鶴門下では直々に稽古を付けられていた6代目笑福亭松喬しか、舞台での披露を許されていなかった題目である。『らくだ』には2003年頃から取り組み始め、そのために円形脱毛症を発している。
鶴瓶の落語への取り組みは、弟子に対する影響が少なくない。総領弟子の笑瓶を筆頭に、殆どの弟子が落語をしていない「テレビタレント」としての鶴瓶に弟子入りをしており、落語家に弟子入りしたという感覚が無い為である。鶴瓶が落語を始めた為、弟子も落語に取り組まざる得なくなり、笑瓶は新作や古典の改作に取り組み、純瓶は怪談噺に力を入れ、銀瓶は朝鮮語による落語を打ち立てている。2007年3月には、銀瓶以降の6人の弟子が「シックスセンス☆六瓶の会」と題した落語会を大阪で開いている。
2004年から年に1回、桂南光と桂文珍との落語会「夢の三競演 三枚看板 大看板 金看板」を開催。落語会としては異例の6,000円を超える料金も話題となる。チケットは、過去3回共完売。その他この3人は、2005年から「文珍南光鶴瓶+1 しごきの会」と題して、年に数回、baseよしもと(現在は天満天神繁昌亭)で若手落語家育成の為の会を開いている。
2023年2月22日、惣領弟子であった笑瓶が66歳で急死。鶴瓶は同日、事務所公式サイトで「師弟関係というよりも、信頼のおける親友のようでした。一番僕のそばにいて、全ての事に気のつく男ですごく彼がいて助かりました」と追悼コメントを出している[54]。
家族・親族
妻、長男、長女(2歳上の姉)がいる[55]。妻の玲子は先述の通り、あのねのねの元メンバーで愛媛県松山市出身[56]。ある時期より鶴瓶の番組の企画書作りなどを手伝うようになり、『鶴瓶上岡パペポTV』の企画書は彼女がまとめたとされる。長男は俳優兼音楽ユニット「Human Note」のボーカル・駿河太郎。2008年7月26日、太郎の妻の故郷である静岡県浜松市近郊の病院で孫(長男の第一子)が生まれたことを『FNS27時間テレビ!!みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』で発表した。ちょうどこの時は鶴瓶と従兄弟弟子の明石家さんま・大竹しのぶ元夫妻との生のトークコーナーが放送されており、「早う、孫に会いに行きたいわ」とボヤいていた[58]。2021年8月時点では計4人の孫がいる[59][60][61]。
鶴瓶の実父は絵を趣味としながら梱包材を扱う店を営んでいた。死去した際、師匠の松鶴は「普通は弟子のお父さんの葬式なんかに行かない」ところを葬儀に出席したが泥酔の挙句大暴れし、鶴瓶の実姉に「松鶴かなんか知らんけど、人の親が死んでンねがな」と説教され、「あー、恐……」と言って鶴瓶になきついていたというエピソードがある。
北村一輝とは北村の母と鶴瓶の姉が、北村の父と鶴瓶の兄が、それぞれ友人関係にある[63]。
人物
趣味・嗜好
18代目中村勘三郎は親友[59]。好きなアーティストはaiko・2PMで、洋楽のファンでもある。また、デューク・エイセス・さだまさし・吉田拓郎・小田和正・やしきたかじんとも古くから親交がある。原田伸郎・中村行延とは大学在学時の同級生であった。
若者文化に対する造詣も深い。ももいろクローバーZと親交が深く、2015年には地上波のトークバラエティ番組として『桃色つるべ〜お次の方どうぞ〜』がスタート。2017年からは、ももいろクローバーZが大晦日の夜に開催する『ももいろ歌合戦』(BS日テレ・フジテレビNEXT・ニッポン放送など)に出演するのが恒例になっている。さらに関ジャニ∞とも親しく、自身が司会をつとめる『きらきらアフロTIM』や『a-studio』などでも共演しており、メンバーの丸山隆平主演のドラマ版『地獄先生ぬ〜べ〜』の最終回にゲスト出演もした。
鯖アレルギーのため、鯖料理が苦手[64]。2000年4月27日に放送した『とんねるずのみなさんのおかげでした』のコーナー、「新・食わず嫌い王決定戦」に出演した時に鯖寿司を食べた時は目に涙を浮かべるなど、アレルギー反応に苦しんだ[65]。鶴瓶と同席した木梨憲武は「これが芝居であってほしい」と話している[注釈 8]。なお、このシーンの映像は2003年9月25日に放送した『とんねるずのみなさんのおかげでした15年突破大反響スペシャル』で再び放送され、ランキング企画の第6位に入った[注釈 9]。その後、鶴瓶は2005年の『FNS25時間テレビ』で総合司会を担当したが、同番組の企画で鯖寿司を食べることを拒否して逃走する様子が放送された[注釈 10]。
『鶴瓶の家族に乾杯』(2008年3月10日(福井県美浜町:前編)・同年3月17日放送(後編)。川合俊一(ゲスト出演)と共演[66])には、へしこを悶絶しながら食べるシーンがある。
阪神タイガースのファンであることを2019年に明かし[67]、阪神の成績が良くないときは自身のラジオ番組などでぼやくこともあった[68]。阪神が2023年のペナントレースでリーグ制覇を制した時は上岡龍太郎[注釈 11][71]を引き合いに、リーグ優勝を祝うコメントを自身が出演するラジオ番組(『笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ』(ニッポン放送)[72])とインスタグラムでコメントした。阪神は同年のクライマックスシリーズを制し、日本シリーズに出場した。同シリーズは第7戦までもつれたが、阪神が4勝3敗でオリックス・バファローズを下し、38年ぶりに日本一となった。鶴瓶は「勝ち方とかいうよりもあそこ(第7戦)までいったのが嬉しい、バンザイですよ」とコメントした後、「今日で阪神の話はやめて、来年からまた応援したいと思います」と話して気持ちを切り替えた[73]。ちなみに、鶴瓶は1985年9月6日に発売したリリアンの楽曲、『阪神タイガースの優勝を知らない子供たち』に友情出演している[注釈 12]。
タレント活動時
あのねのねの当初のメンバーだったことや、ラジオのパーソナリティを長くやっていたことから、フォークソングに対する造詣も深く、『鶴瓶噺』や『朝まで生つるべ』、『朝まで歌つるべ』(テレビ朝日)などで、フォークソングを絡めている。
『鶴瓶・新野のぬかるみの世界』(ラジオ・OBC)での、ファンであるリスナーに会った際の口癖「覚えてるよー」は、当時関西で鶴瓶のモノマネ定番セリフになった。リスナーにイベントで、前向きに行動するよう「がんばりやー」もよく口にしていた[74]。
テレビ東京とのエピソード
東京でまだ無名だった頃に、東京12チャンネル(現・テレビ東京)にて生放送の最中に2度に亘って露出にまつわる悪ふざけ(2度目は加えて器物破損)を行ったことにより、長年同局から出禁を言い渡されていたことがある。事の発端は1975年に同局で放送された深夜番組『独占!男の時間』に出演した際に、リハーサルで披露したギャグを担当のプロデューサーに傲慢な態度で批判されたことである[75][41]。これに怒った鶴瓶は、腹いせに本番でテレビカメラが鶴瓶をアップで写すタイミングを狙ってカメラの前で股間を露出し、カメラに股間を押し付けた末に、スタジオから強制的に退場させられた。その後1977年3月26日の番組最終回に、司会の山城新伍の計らいで特別に出演。最終回の番組中に山城から「鶴瓶、今日でこの番組も終わりやしな。なにをやってもかめへんで。おまえの好きなようにやり。」と促されると、鶴瓶は突然テレビカメラの前で肛門を見せてスタジオから逃走し、その勢いで東京12チャンネルの敷地内にあった池に飛び込むと、当時の社長である中川順が大切に育てていた時価数百万円の錦鯉を踏み殺した[78]。最終回での暴挙を重く見た東京12チャンネルは、鶴瓶を無期限の出入禁止に処した。そして、テレビ東京へ改称した後の2003年、『きらきらアフロ』の東京収録にて26年ぶりに同局に立ち入ったことで、ようやく解禁となった[75][79]。
著書で「僕は世にいう露出狂などでは、断じてない。…(中略)…僕の場合は、決して快感のためにやっているわけではないからだ」と述べて否定する一方、「ただ、快感を得るためにではないにしろ、例の部分を露出することに、さして抵抗を感じていないことだけは、事実かも知れない」とも語っている[41]。なお、2007年8月の『週刊文春』の対談記事で、家庭では全裸で過ごしていることを明かした[80]。
その一方で、「鼻毛は絶対に人には見せん」というポリシーを持っていると述べている。
その他
下積み時代、余興を企画したイベント会社社長の、若手芸人をバカにするぞんざいな態度が気に入らず、出演せずに劇場を後にしたことがある。一年半後、売れっ子となった鶴瓶に同じ企画会社から仕事が入ったが、「売れていない弱い立場の芸人には平気で高飛車に命令をしておいて、少し売れてくるとたちまち態度を変える。僕はそんな方と一緒に仕事したくないんです」と直接言って仕事を断っている[82]。
「フォークとロックの会」というライブイベントの司会をしたとき、ロックバンドのベーシストから「俺は、お前が嫌いや。嫌いやねん」と言われたことに激昂し「なんやその言い方は!!勝手に自分たちで司会をしとけ!!」と言いながらベーシストを鼻血が出るまでマイクで殴り続けたことがある。これは、その侮辱的な発言はもちろん、同バンドのギタリストのチューニングが遅れたため急遽繋ぎのトークを行ったのにも拘らず、謝るどころか鶴瓶の質問を無視し続けたその態度が気に入らなかったためである。なお、後日談としてこのベーシストと偶然再会して話す機会があり「心のなかの汚点が、スッと洗い流されるような、さわやかな気持ちに、しばしひたったものだった」と述べている[82]。
ラジオ番組『ミッドナイト東海』で漫画家・鳥山明と対談した事がある[83]。鳥山明は漫画家デビュー前から『ミッドナイト東海』のリスナーで、葉書に鶴瓶の似顔絵を描いてラジオに送った事もあった。その絵は許可を貰って鶴瓶の手ぬぐいのイラストに使われている。鳥山明が『Dr.スランプ』に遊び心で鶴瓶を描いた[84] ところ、『ミッドナイト東海』に同番組リスナーから、その絵の切り抜きが送られてきた[83]。その絵を見た鶴瓶が番組内で鳥山明に呼びかけると、鳥山明からラジオ宛に「ぜひお電話ください」と手紙で返事があり、対談に至った[83]。また、その後『週刊セブンティーン1981年4・5合併号』では鶴瓶と鳥山明の対談記事「新春あこがれ対談 Dr.スランプVS鶴瓶」が掲載された。
平和安全法制に反対を表明している。なお、本業がお笑いであることから、本流ではない政治に関する発言は極力避けている[85]。
落語
自身の身の回りで起こった日常の話題を面白おかしく話すスタイルは「鶴瓶噺」(つるべばなし)と呼ばれ、独自のジャンルを構築している。
落語については「今が大事」という考えからDVDなどは出さないようにしている[86]。高座の撮影を続けているディレクターはおり、彼に対しては「撮るのはええけど、俺が死ぬまで、外に出したらあかんで」と言い含めていた。しかしそれがドキュメント映画「バケモン」(2021年7月公開)へとつながった。
主な演目
- 古典落語
- 私落語
- 「長屋の傘」
- 「青木先生」
- 「ALWAYS お母ちゃんの笑顔」
- 「青春グラフィティ松岡」
- 「回覧板」
- 「Chinge」→「珍念杉本(改題)」(脚本・くまざわあかね)
- 「琵琶を弾く観音像」
- 創作落語(桂三枝(現:6代目桂文枝)からネタを譲り受けたもの)
- タモリからネタを譲り受けたもの
- その他
公演
- 鶴瓶噺 → TSURUBE BANASHI
- トークライブ
- 最初は東京渋谷の渋谷ジァン・ジァン、ジァン・ジァンの閉鎖後2000年から2007年まで青山円形劇場、2008年からは会場が世田谷パブリックシアターで開催している。2016年からは「TSURUBE BANASHI」に公演名を変更。毎年4月に5日間に渡って公演。ゴールデンウィーク5日間に開催していたこともあった。放送では話すことの出来ない「噺」の数々を聞くことができる。
- 全国ツアー
- 2007年から全国ツアーを開催。2009年には「Japan Tour『White』」と称してファースト、セカンドツアーに分けて全国ツアーを開催。鶴瓶に縁のある落語家や、開催都市出身の落語家が出演。現在は、毎年10月から『笑福亭鶴瓶落語会』として、オープニングの鶴瓶噺、二席の高座、カーテンコールの「送り三味線」という構成で、東京や大阪など全国を回っている。
- 帝塚山・無学
- 「帝塚山・無学」は、師匠6代目松鶴の旧自邸を鶴瓶が改築した純和風ホール。月1回「無学の会」を開催し一般にも公開している。初回は1999年6月26日。毎回ゲストを招いているが前もって名前が発表されることはなくシークレットになっている。
- これまでのゲストにタモリ、明石家さんま、木梨憲武、イッセー尾形、3代目桂米朝、3代目桂春団治、ももいろクローバーZらを迎えている。また、松嶋尚美を迎えた際の模様は、「無学版きらきらアフロ」として『きらきらアフロ 2008 DVD』に収録されている。
- つるべ、らくごのお稽古
- 帝塚山・無学と下北沢Live bar 440にて、「つるべ、らくごのお稽古」と題して定期的に稽古会を行なっている。
弟子
括弧内は入門当時の入門順を表している。
- 独立
- 笑福亭瓶太(六番弟子) - 上方落語協会および松竹芸能を脱退
- 廃業
- 笑福亭のり瓶(十一番弟子)
- 笑福亭茶瓶(十三番弟子)
- 笑福亭天瓶(十六番弟子)
- 笑福亭乾瓶(十七番弟子)
出演番組
テレビ番組
レギュラー番組
- 現在のレギュラー番組
- 過去のレギュラー番組
特別番組
- 現在の特別番組
- ヤブツル〜鶴瓶・小籔の大阪夜話〜(2015年8月22日 - 、NHK大阪)
- スジナシシアター(2015年9月 - 、TBS)- 進行
- ザ・ベストワン(SP)(2020年3月15日 - 、TBS)- MC
- 鶴瓶×サンドシリーズ(関西テレビ、フジテレビ系)- MC
- ハロー!鶴瓶×サンド〜ニッポンの外国人がやってきた〜(2020年3月22日)
- 鶴瓶×サンド グラフde人生〜身内から見たホントのあなた〜(2020年8月30日)
- 鶴瓶×サンドのとっておき街人(2021年8月29日)
- 鶴瓶×サンド 夏の終わりのハッピーニュース(2022年8月21日)
- 鶴瓶サンドの夏旅(2023年8月20日)
- 鶴瓶&ナイナイの体当たりカレンダー2022 スペシャルダイジェスト版(2022年1月3日(2日深夜)、テレビ朝日)
- 鶴瓶&ナイナイのちょっとあぶないお正月 ダイジェスト版(2023年1月4日(3日深夜)・2024年1月3日(2日深夜)、テレビ朝日)
- 過去の特別番組
- 鶴瓶上岡・激突夜話(1987年3月30日 - 4月2日(4日間)、読売テレビ)
- FNSの日(1987年 - 2006年・2008年・2011年 - 2015年(毎年夏)、フジテレビ)※1988・2005年は総合司会。他は「笑っていいとも!増刊号スペシャル」やコーナー司会などのゲスト出演。
- 笑っていいとも!特大号(1988年 - 1998年・2012年 - 2013年、フジテレビ)[88] - 1998年は中継のみの出演、2012年は番組前半は中継での出演、番組後半の「ものまね歌合戦」からスタジオに登場しエンディングまで出演、2013年の「ラストクリスマス特大号」では1997年以来16年ぶりに番組全編にわたって出演
- 1億2000万人の流行語大賞(1990年11月6日・1991年12月13日・1992年12月18日、TBS) - 司会
- オールスター㊙︎公開 芸能クイズ大作戦(1991年2月15日 - 1992年7月24日、TBS) - 司会
- 金曜テレビの星! 列島生放送!!純次・鶴瓶のお茶の間甲子園(1991年8月23日、TBS)
- 水曜特バン! 特別企画!夢の音楽祭 今夜歌手267名生出演 史上最大の感謝祭(1991年11月6日、テレビ朝日) - 司会
- 初詣!爆笑ヒットパレード(1993年 - 2008年(毎年1月1日)、フジテレビ) - 総合司会・コーナー司会
- 邦ちゃん・鶴瓶の'93新春美人アナ新年会(1993年1月2日、フジテレビ)
- 鶴瓶・SMAPの美人女子アナ大新年会(1997年1月5日、フジテレビ)
- 金曜メガTV 素朴な疑問大追跡!さんま・鶴瓶のめざまし調査隊大爆笑スペシャル!(1996年11月15日、フジテレビ)
- 鶴瓶・ウンナン 大阪アメージングツアー(1996年12月29日、読売テレビ)
- 志村&鶴瓶のあぶない交遊録(1998年 - 2019年(毎年1月2日)、テレビ朝日)
- アベマの時間 鶴瓶・ナイナイ 元祖英語禁止ボウリングダイジェスト(2021年1月3日(2日深夜)、テレビ朝日)
- つるべ・中居くんのナニワ漫遊道(1998年1月11日、関西テレビ)
- つるべのナニワ漫遊道2001(2001年1月2日)
- 鶴瓶・内村のお笑いビーチボーイズ(1999年7月4日、関西テレビ)
- 蝶々・鶴瓶の負けられまへん(1999年12月29日、毎日放送)
- 鶴瓶と三宅、ふたりはうさぎ年(1999年1月3日、フジテレビ)
- 新春かくし芸大会(2000年 - 2002年(毎年1月1日か2日)、フジテレビ) - 司会
- つるべのスポーツ爆笑新年会(2000年1月4日・2001年1月4日、フジテレビ)
- 朝まで生つるべ(2000年 - 2011年(毎年12月31日(12月30日深夜))、テレビ朝日)[88]
- 賀正!鶴x鶴スペシャル オヤジの世紀なのダ(2001年1月3日、テレビ朝日)
- 笑福亭鶴瓶のぬかるみなヤツ 大爆笑!作家・新野新とは(2001年10月13日、テレビ朝日)
- 鶴瓶・ピーコのいつものあそこで!?(2002年1月4日、フジテレビ)
- 鶴瓶・ピーコ・晴彦のいつものあそこで…(2003年1月4日、フジテレビ)
- 鶴瓶&慎吾の夢学校発表!!みんなの自由研究(2002年9月23日、フジテレビ)
- ウンナン・鶴瓶の超豪華版ムービーマジックスペシャル 〜映画の裏側&ハリウッドスター(秘)お宝映像(2003年12月26日、日本テレビ)
- テレビ最強名場面 初解禁(秘)1000連発SP(2003年12月31日、テレビ朝日) - 司会
- お笑い!!ゆく年くる年(2004年 - 2006年(毎年12月31日)、テレビ朝日) - 司会
- くりぃむ・鶴瓶・ロンブーのゆく年くる年への道SP (2005年6月11日、テレビ朝日)
- 雨上がり・鶴瓶・ロンブーのゆく年くる年への道SP (2005年9月18日)
- 鶴瓶&ロンブーのお笑いゆく年くる年まで2週間! (2005年12月17日)
- ゆく年へのみち ゆく年くる年への道 第一部(2006年12月9日)
- 鶴瓶の国会へ行こう(2005年12月29日、テレビ朝日)
- 新春 鶴瓶大新年会(2006年 - 2011年・2017年・2018年(毎年1月1日)、フジテレビ)
- 鶴瓶のニッポン武勇伝 言わずに死ねるかっ!!我が家のスゴイ人GP(2006年9月21日 - 2007年9月18日、テレビ朝日) - 司会
- カンテレ新年会特番(関西テレビ)
- 笑福亭鶴瓶のメインキャスト!(2007年4月4日 - 2008年10月13日、TBS)
- 世界弾丸トラベル大賞!今週末は0泊3日で海外へ!あなたも行ける絶景・楽園・文化遺産SP(2007年10月5日、TBS)
- 笑福亭鶴瓶×めざましはぴじゃぱ モーレツ社長笑いまショーSP 完結編(2007年12月27日(26日深夜)、フジテレビ) - めざましどようびで何度かやったコーナーの完結編
- 第58回NHK紅白歌合戦(2007年12月31日、NHK総合・ラジオ第1) - 白組司会
- 頭脳警察 わかるテレビ(2008年 - 2010年、フジテレビ)
- 鶴瓶カレンダー2009 授乳だ!逮捕だ!爆発だ!(2008年12月26日、テレビ大阪)
- たけしが鶴瓶に今年中に話しておきたい5〜6個のこと(2010年12月30日 - 2012年12月30日、TBS)
- 鶴瓶の超ゆる〜い会議(2011年2月23日、日本テレビ)
- 新春!鶴瓶生誕60周年 酒だ笑いだもって来い 大新年会SP(2012年1月2日、TBS)
- 鶴瓶の型破り偉人伝(2014年12月26日、TBS)
- いろもん極(2014年12月30日 - 2017年1月10日、日本テレビ) - 司会
- 鶴瓶のうるさすぎる新年会(2015年1月1日、フジテレビ)
- タモリと鶴瓶(2015年5月9日 - 2016年1月2日、NHK総合)
- スパニチ!! 鶴瓶×マツコおじゃまします(2016年3月27日、TBS)
- 鶴瓶&松本の怪人図鑑(2016年6月9日、TBS)
- 桂文枝 芸能五十周年記念特番 桂文枝の鶴瓶もさんまもいらっしゃい!(2017年3月4日、朝日放送)
- 鶴瓶&松本&ウエンツの電話帳から消せない人(2017年3月31日、TBS)
- 池上彰の鶴瓶に伝えたい!!〜2021年こそ良い年になるための偉人伝〜(2021年1月3日、テレビ東京)
- 赤坂大歌舞伎がやってくる! 鶴瓶から勘九郎・七之助へ 新たな名作の魅力を語りつくす!(2021年10月24日、BS-TBS)
ラジオ番組
- 現在の出演番組
- 過去の出演番組
ネット番組
テレビドラマ
映画
テレビアニメ
- 夢をかなえるゾウ → 人生成功開運アニメ 夢をかなえるゾウ(2009年) - ガネーシャ
劇場アニメ
吹き替え
CM
その他
作品
レコード・CD
- 酔い語り / 友よ語りき(1977年11月) - 駿河学 名義、作詞作曲:河島英五
- はやく人間になりたいッ!/ 初恋バンザイ(1978年)
- うろこ雲の絵/それからね (1982年5月) - TSU・RU・BE 名義
- 参加作品
書籍
- 『はやく人間になりたいッ!つるべのドガチャガ青春譜』徳間ブックス、1976年
- 『哀しき紙芝居』新興楽譜出版社、1982年
- 『哀しき紙芝居』シンコー・ミュージック、1986年12月8日。
- 共編著
演じた俳優
脚注
注釈
- ^ 元松竹芸能社員で鶴瓶のチーフマネージャーを担当していた千佐隆智が代表取締役を務める芸能プロダクション。マネージャーもデンナーシステムズの社員が就いている。
- ^ 兄弟子の笑福亭鶴光も同じ長吉村で幼少期を過ごしている。
- ^ 松鶴と出会った経緯について、戸田(2014)や戸部田(2017)では、「京都市民寄席」(1970年9月17日)で惹かれ、続いて安井金比羅宮での3代目桂米朝主催の落語会で「オチだけで高座を降りる」のを見たとしているが、2013年の小佐田定雄による聞き書きでは、どこかの落語会(調べた結果、安井金刀比羅宮での落語会にはなかったという)で「オチだけで高座を降りる」のを目撃した後、「京都市民寄席」を見たと述べている。
- ^ 島之内寄席は同年2月21日に第1回が始まったばかりだった。
- ^ 3代目春団治は2004年の鶴瓶との対談では、新人時代島之内寄席でアフロヘアーの自分によく「お茶子」(高座周りの下働き)をさせてくれたと思うと述べた鶴瓶に「目立って、エエやン(笑)」と返答している。
- ^ 戸部田の原典では時期を「1981年」としているが、テレビ大阪の開局は1982年のため修正。
- ^ 「」内は『哀しき紙芝居』からの引用。
- ^ (備考:「相手の苦手な料理(又は食材)を当てる企画」のため、(嘘をつくために)芝居を行う出演者が居る)
- ^ (前述のスペシャル番組で放送した時は「6位 鶴瓶サバに悶絶」という題で放送)
- ^ (備考:当初は鶴瓶が逃げ回る通しコーナー「鶴瓶逃走劇」として放送する予定であったが、鶴瓶が逃げ回る前のコーナーとして「大嫌いをやっつけろ!」が入り、同コーナーで鯖寿司を食べることを拒否して逃走する演出が追加された)
- ^ 上岡は広澤克実(阪神入団前は読売ジャイアンツに在籍)が背番号31(元ミスタータイガース掛布雅之の付けていた番号)を与えたことに激怒し、阪神ファンを辞めた[69]。阪神ファンを辞めた上岡はその後、大阪近鉄バファローズを応援していた[70]。
- ^ リリアンを除く他の共演者(すべて友情出演)は板東英二、やしきたかじん、桂雀々、桝竹真也であった。
- ^ 当番組のラジオ パーソナリティとして、第29回ギャラクシー賞・ラジオ部門個人賞を受賞[92]。
出典
参考文献
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
笑福亭鶴瓶に関連するカテゴリがあります。
- 松鶴一門
- 八幡カオル - 駿河太郎の妻が、八幡カオルのいとこ
- 天むす - 名古屋でも活動していた鶴瓶が、東京へ戻る際に手土産として持ち帰るようになり、メディア関係者の間で好評となったことで、天むすが全国的に知られるようになったとする説がある。
- 桂二葉 - 落語家になる前から鶴瓶の追っかけをしていた。好きすぎて大学時代に鶴瓶に告白しに行った事がある。鶴瓶好きだったが、鶴瓶の弟子にはならなかった。
外部リンク
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1 ▼は週替り出演。 2 ●は月1回出演。 3 ★はフジテレビアナウンサー(当時)。 4 LFはニッポン放送のラジオ番組。 5 TXは東京12チャンネル(現・テレビ東京)で放送された番組。 |
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注1:6月放送、注2:8月放送、注3:9月放送、注4:11月放送、注5:放送中止
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※2021年以降はアナウンサー以外の男性司会者(2021年以降は白組だけでなく全体の司会を担当) |
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- 若山弦蔵(1965年度ラジオ個人部門)
- 阿部牧郎(1989年度ラジオ部門個人賞)
- 笑福亭鶴瓶(1991年度ラジオ部門個人賞)
- 小室等(1992年度ラジオ部門個人賞)
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