『あごはずしショー』終了後は『山口良一のそれゆけ!土曜日行進曲』のレポーターや『寺内たけしのオールナイトニッポン』の笑い役などを経て、1988年(昭和63年)10月より冠番組『伊集院光のオールナイトニッポン』を開始。伊集院は後年「当時の2部に出ているアーティストの方が、だんだん有名になってきて、得体の知れない人がいないと。余裕の産物で、ジョーカーを入れようってなった」と述べている[8]。『あごはずしショー』で共演した岩井富士夫が制作スタッフであった『CREATIVE COMPANY 冨田和音株式会社』(CBCラジオ)にも1989年(平成元年)10月より週1レギュラーで出演を始め、以来、名古屋でも断続的にレギュラー番組を持つようになる。『オールナイトニッポン』では番組内から生まれた架空のアイドル・芳賀ゆいが話題になるなど、次第にコアな人気を集めてゆく。
2024年12月31日の年明け放送分の『あちこちオードリー』で、昨今の純粋な面白さをおざなりにして「技術を競うだけの競技」と化した『M-1グランプリ』を指して「滅びるよ」と危機感を露にした。また、初期の『M-1』の審査員の人選にお笑い業界に拘らない多様性があったのに対し、昨今は『M-1』経験者のみが審査員となっている点を指摘。伊集院は『女芸人No.1決定戦 THE W 2024』でファーストステージ敗退したキンタロー。について「絶体絶命なのに、なおぶっ壊れ続けるあの感じ。俺は、面白い女性芸人の “芸事” よりも、あれが見たいの」と自身がイメージする芸人のあるべき姿についても語っている[36]。