田中 千禾夫(たなか ちかお、1905年(明治38年)10月10日 - 1995年(平成7年)11月29日)は、日本の劇作家、演出家、フランス文学者。日本芸術院会員。
経歴
長崎県長崎市生れ。旧制長崎県立長崎中学校を経て、1930年、慶應義塾大学文学部フランス文学科卒業。
在学中から獅子文六・岸田國士の「新劇研究所」に入る。卒論はフランスの劇作家、ポール・ジェラルディ[1]。
1932年、岸田主宰の第1次『劇作』創刊に参加、実質的な編集長の任を務めた。1933年、処女戯曲『おふくろ』発表、築地座で上演されて注目される[1]。1934年、やはり劇作家の田中澄江と結婚、神奈川県藤沢町鵠沼に新居を構える。同1934年から演出も始める[1]。平成に入った晩年に師の『岸田國士全集』(岩波書店[2]、全28巻)編集委員となった。
1937年、文学座創設に参加するが、1944年に退団[1]して、広島県に疎開、戦時中は筆を絶つ。
戦後活動再開、1947年実存的戯曲『雲の涯(はたて)』を執筆し、翌1948年8月1日、文学座による初演[3]。
1951年に千田是也に請われて劇団俳優座演出部員となる[1]。実存主義的作風の『教育』(初演1954年12月3日 - 16日、俳優座、岸輝子・東野英治郎ら)などで1954年度読売文学賞を受賞。劇作家でもある三島由紀夫は、1955年4月に『教育・笛』の書評で田中を、「岸田国士氏の仕事の、本当の意味での継承者」と述べた[4]。後に桐朋学園短期大学演劇科の教授を務めた。
長崎市への原子爆弾投下を扱った『マリアの首』(1959年)で岸田演劇賞および芸術選奨文部大臣賞受賞。1960年より白水社で『田中千禾夫戯曲全集』が刊行された。演劇評論では、1978年、『劇的文体論序説』で毎日出版文化賞受賞。
1980年(昭和55年)に日本芸術院賞・恩賜賞を受賞し、1981年(昭和56年)に日本芸術院会員。
妻とともにカトリック信徒で著名。新劇界の重鎮として、長く岸田国士戯曲賞の選考委員を務めたが、サルトル、カミュなどの名をギャグのタネにした鴻上尚史を忌み嫌い、その受賞を阻止し続け、田中が(没する直前に)辞任した事で、ようやく鴻上は(没年の)1995年に受賞した。
墓所はカトリック府中墓地。没後に、故郷長崎の浦上天主堂前に、澄江夫人筆の碑文が建立された。
趣味は「ぞうきん縫い」[1]。
受賞歴
著書
- 『新撰劇作叢書 第3 おふくろ 他三篇』(白水社 1935)
- 『雲の涯 他四篇 田中千禾夫戯曲集』(世界文學社〈劇作選書〉 1949)
- 『物言う術 俳優術第一歩』(世界文學社 1949、未來社 1954)、新訂版(白水社 1969、新版1978ほか)
- 『教育・笛』(河出書房〈河出新書〉 1955)
- 『田中千禾夫一幕劇集』(未來社 1955)
- 『海の星=ひとで』(宝文館ラジオ・ドラマ新書 1955)
- 『新劇辞典』(弘文堂〈アテネ文庫〉 1955)
- 『田中千禾夫戯曲全集』(全7巻、白水社 1960-1967)
- 『新劇鑑賞入門』(創元社・創元手帖文庫 1963)
- 『藤堂作右衛門の冒険』(講談社 1971)
- 『無駄と真実 随想集』(講談社 1972)
- 『八百屋お七牢日記』(新潮社 1972) 書下ろし新潮劇場
- 『鍵の下』(新潮社 1974) 書下ろし新潮劇場
- 『劇的文体論序説』(上下、白水社 1977-78)
- 『右往左往』(河出書房新社 1979)
共編著
- 『新劇手帖』(内村直也共編 創元社 1952)
- 『現代日本キリスト教文学全集10 母性と聖性』(教文館 1973)
- 『現代日本キリスト教文学全集15 自然と生活』(教文館 1973)
- 『現代キリスト教劇集』(聖文舎 1977)編著
- 『旅は道連れ』(澄江との共著 朝日新聞社 1982)
- 『貴族の階段』(原作武田泰淳 白水社 1984)
- 『夫婦で六十二年』(澄江との共著 講談社 1997)
伝記など
- 石澤秀二『祈りの懸け橋 評伝田中千禾夫』(白水社 2004)
- 田中澄江『夫の始末』(講談社 1995/講談社文庫 1998)。妻・澄江の自伝的連作集で女流文学賞・紫式部文学賞を受賞した
脚注
参考文献
外部リンク
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太字は恩賜賞受賞者。名跡は受賞時のもの。表記揺れによる混乱を避けるため漢字は便宜上すべて新字体に統一した。 |