髙橋 大輔(たかはし だいすけ、ラテン文字:Daisuke Takahashi, 1986年3月16日 - )は、日本のフィギュアスケート選手(アイスダンス、男子シングル)。シングルの選手として2014年ソチ五輪まで第一線で活躍。五輪後に引退するが、2018年に現役復帰。2020年にアイスダンスへ転向し、2023年に引退。愛称は「大ちゃん」。関西大学カイザーズフィギュアスケートクラブ(関西大学KFSC)所属。マネジメントはユニバーサルスポーツマーケティング「USM」[2]。
主な戦績として、2010年バンクーバーオリンピック銅メダリスト、2006年トリノオリンピック8位入賞、2014年ソチオリンピック6位入賞。2010年世界選手権優勝、2012年グランプリファイナル優勝、2008年・2011年四大陸選手権優勝、全日本選手権通算5回優勝(2005年-2007年、2009年、2011年)、2012年世界国別対抗戦団体優勝など。
2008-2009シーズンで右膝前十字靭帯断裂という大怪我により1年間の休養、選手生命の危機に陥った時期がある。
2014年のソチオリンピックシーズンを最後に、28歳で現役引退(2014年の世界選手権は怪我により棄権。同年10月までは休養という形をとっていた)。
2018年の7月、32歳で現役復帰。日本人男子スケーターでは過去最年長記録。
2019年9月、村元哉中とアイスダンスのカップル結成を発表。2022年10月、デニステンメモリアルチャレンジにて優勝。
岡山県倉敷市出身。4人兄弟の末っ子。母親の務めていた理髪店の娘が名付け親で「大輔」は嶋大輔からとった[3]。関西大学文学部総合人文学科身体運動文化専修卒業[4]。2008年4月より関西大学大学院文学研究科総合人文学専攻身体文化専修博士前期課程に進学。2015年、修士論文の未提出のため同大学院を中退。JOCシンボルアスリート適用選手。日本人男子初のオリンピックメダリストであり、日本人男子として初めて世界選手権、世界ジュニア選手権、グランプリファイナルを制した選手である。オリコンによる「好きなスポーツ選手ランキング」の男性部門において、2010年より5年連続でトップ10入りを果たしている[5][6][7][8][9]。 サッカー日本代表MFの青山敏弘は、保育園、小・中学校の同級生で幼馴染である[10]。
男子シングル現役中から、今、現在も変わらずマネジメントは、荒川静香と同じユニバーサルスポーツマーケティングが行っている[11]。
高いスケーティング技術を生かした世界一と呼ばれるステップと、海外の解説者らからダンサーのようと賞讃された柔軟で切れのある情感豊かな表現力(ヒップホップからマンボ、ブルースまで巧みに表現できる音楽的感性)を持ち味としていた[12][13][14][15][16][15][注 1]。荒川静香は髙橋について「感性の高さで群を抜いており、どんなプログラムでも自分の世界で表現できる」「一緒に滑っていて、自分が哀しくなってくるほど才能がある」と評していた[18]。
ジャンプではトリプルアクセル[19][13]、3回転フリップ[20][13]、3回転ルッツ[13][注 2]を得意としていた。 また2005年頃からトウループジャンプ等の4回転ジャンプに取り組んだ。2011年のNHK杯公式練習では4回転フリップを試みたが、試合での認定には至っていない。2010年バンクーバーオリンピックでは、共に4回転ジャンプに挑んだ志の高さからエフゲニー・プルシェンコに「You are my hero.」と讃えられ固い握手を交わされた。
幼少時は性格的に弱く、心配した両親に少林寺拳法、野球、アイスホッケーなどさまざまなスポーツをやらされたが、痛いことや怖いことが嫌いでどれも長続きしなかった[21][22]。体操は気に入ったが、岡山市内の体操教室に通うことが難しく断念[23]。9歳のとき、家のすぐ近くにあるウェルサンピア倉敷(厚生年金健康福祉センター)のスケートリンクでフィギュアスケートを始めた[24]。
決して裕福とは言い難い家柄ながらも家族一丸となって支え、また地元の商店街の人々が有志の募金箱(大輔ボトルと呼ばれた)を設置しカンパを受けるなど、非常に愛されて育ってきた背景がある。また、自身のお年玉は全てスケート代に充てていた。
全国有望新人発掘合宿(野辺山合宿)で素質を見出された髙橋は、1999年(倉敷市立連島中学校2年)から、長久保裕・佐野稔両コーチがいる宮城県仙台市のスケートリンク(現・アイスリンク仙台)に出向いて指導を受けていたが、佐野が仙台を離れることになったため、プログラム作成を依頼された長光歌子と仙台で初対面した[25]。同年に初の国際大会となるトリグラフトロフィーで優勝。2001年に全国中学校大会で2連覇を達成し、全日本ジュニア選手権を制す。2002年には世界ジュニア選手権で日本男子として初めての優勝を飾った[26]。
2002-2003シーズンから本格的にシニアに参戦するが、国際大会での成績は伸び悩み気味だった。1年間に渡り長光とともにアメリカ、カナダ、ロシアを訪ねて有名コーチの指導を仰いだが、成果は得られなかった。
2004-2005シーズンには、大学入学に伴う環境の変化やプレッシャーや、シーズン前半のアジア選手権で右足首の神経の炎症を起こしたことによりモチベーションが低下し、スケートをやめたいとさえ思っていた[27]。しかし、全日本選手権で6位に沈んだことで気持ちがふっきれ[28]、年明けのユニバーシアードで優勝、四大陸選手権では3位となった。世界選手権では、ともに出場した本田武史が予選演技中の怪我で途中棄権したため、翌年の2006年トリノオリンピックの日本男子出場枠が髙橋1人の順位にかかる大きなプレッシャーの中で演技することになった。ショートプログラム(以下、SPと略)までは7位と健闘したものの、フリースケーティング(以下、フリーと略)では冒頭の4回転ジャンプ転倒を皮切りにことごとく失敗を連発してしまい、総合15位に終わる。この結果、トリノオリンピックの日本男子出場枠は最小の1枠となる(総合10位以内なら2枠だった)。シーズン終了後、コーチ・振付師をニコライ・モロゾフに変えるとともに、トレーナーのカルロス・アビラ・デ・ボルバにつき、フィジカル面とステップの強化に力を注ぎ始めた[29]。
2005-2006シーズン、スケートアメリカでISUグランプリシリーズ初優勝を果たし、本田に続く日本人男子2人目のGPシリーズ優勝者となった。続くNHK杯では3位に終わったが、SPではシングルの選手として世界で初めてステップでレベル4(最高難度)を獲得した[30]。初めて進出したGPファイナルでは銅メダルを獲得して日本人男子として初の表彰台に立ち、全日本選手権はSP2位から逆転して初優勝、僅か1枠のトリノオリンピック・男子シングル日本代表の座を掴み取った。トリノオリンピックではSPで5位につけたが、フリーは冒頭の4回転ジャンプでの失敗やザヤックルール違反などで得点が伸びず9位、総合8位入賞に留まった。
2006-2007シーズン、NHK杯で優勝、フリーでは1年8ヶ月ぶりに4回転ジャンプも成功させた。2季連続で進出したGPファイナルは、競技直前からの体調不良による腹痛や吐き気に耐えながら最後まで滑り切り、日本人男子として過去最高の2位となった。全日本選手権では2位以下に大差をつけて2連覇を達成。2007年冬季ユニバーシアードでも2連覇を果たした。日本・東京で開催の世界選手権では、ショートプログラム3位、フリースケーティング1位で、日本男子史上最高位となる銀メダルを獲得した[注 3]。また、織田信成が7位に入ったため、翌2008年世界選手権の日本男子代表枠は最大の3枠となった。
2007-2008シーズン、GPシリーズ初戦のスケートアメリカで優勝。2戦目のNHK杯では日本人男子として五十嵐文男以来26年ぶりのNHK杯連覇を達成し、3季連続のGPファイナル進出を出場ポイント1位通過で決めた。ファイナルではステファン・ランビエールに僅か0.26点及ばず2位となるも、12月の全日本選手権ではフリーで4回転ジャンプを2度成功させ、再び2位以下に大差をつけて3連覇を達成。四大陸選手権でもフリーで2度の4回転ジャンプを成功させ、フリーと総合得点でISU歴代最高記録を更新して初優勝。優勝候補の筆頭にあげられて臨んだ世界選手権であったが[31]、フリーではジャンプミスやザヤックルール違反により総合4位に終わった。5月、コーチのニコライ・モロゾフが織田信成のコーチに就任したため、モロゾフとの契約を解除した[注 4]。
2008-2009シーズン、2008年10月末の練習中に3回転アクセルで転倒し、右膝を負傷したため、出場を予定していたグランプリシリーズ中国杯を欠場[34][35]。その後の精密検査により右足膝の前十字靭帯と半月板を損傷していることが分かり、シーズンの全大会の出場を断念して11月に手術をした[36][37][38][35]。リハビリを経て2009年4月より氷上での練習を再開[39][40]、6月からはジャンプも跳び始めた[40]。リハビリで体の可動域が広がったため、跳び方を調整する必要があった[40]。また、ジャンプ専門のコーチとして本田武史を迎え、ジャンプの指導を受け始めた[41]。
2009-2010シーズン、10月のフィンランディア杯優勝で自らの国際競技会復帰を飾った。スケートカナダでは表彰台に上り、2季ぶりにGPファイナルにも出場。全日本選手権で4度目の優勝を成し遂げ、バンクーバーオリンピックの男子シングル日本代表に内定、ニ大会連続2回目の冬季五輪代表入りを果たした。
2010年のバンクーバーオリンピックではSPで90点台をマーク、SP1位のエフゲニー・プルシェンコと0.6点の僅差で3位につけた。フリーでは冒頭の4回転トウループで転倒し、他細かなジャンプミスも有ったが、得意のステップと演技構成点は出場選手中最も高い評価を受ける[42]。結果フリーのみでは5位だったものの、総合得点では4位のステファン・ランビエールを0.51点の僅差で上回り3位入賞を果たし、日本及びアジア人の男子シングルの選手としては史上初の冬季オリンピックのメダルとなる銅メダルを獲得した[43]。
バンクーバー五輪から約1か月後の世界選手権では、SP、フリーともに1位の完全優勝を果たし、男子シングルでは日本・アジアで史上初の世界チャンピオンとなった。フリーの演技冒頭で挑んだ4回転フリップは回転不足、両足着氷の失敗に終わったが、世界初の試みであった。なお、フリーではシングルの選手として初めて、全てのスピン・ステップで最高評価のレベル4を獲得した[44][45]。
2010-2011シーズン、GPシリーズ初戦NHK杯ではFSで3シーズンぶりに4回転トウループを成功させ優勝。続くスケートアメリカでも優勝、日本人男子として最多となるGPシリーズ6勝目を挙げた。GPファイナルでは練習中に小塚崇彦と衝突して首がむち打ちのような状態になり、本番では4位に終わった[46]。首の状態がさらに悪化した状態[47]で臨んだ全日本選手権では3位に入った。四大陸選手権では3年ぶり2度目の優勝を達成。当初東京で開催予定ながら東日本大震災の影響で1か月延期、モスクワで代替開催の世界選手権では、FS冒頭の4回転トウループが1回転に抜ける着氷失敗時、スケート靴のビスが外れるアクシデントに見舞われる。ビスを留める為約2分中断後に演技を再開したが、3回転サルコウの転倒などが響き総合5位に終わった。
五輪でのメダル獲得や世界王者となったことでモチベーションが低下し、現役続行を迷いながらも迎えたシーズンであったが、5位に沈んだことで気持ちが吹っ切れ、現役続行を決意した[48]。シーズン終了後、5月に右膝ボルト除去手術を受けた。リハビリを経たのち、8月にフランスのリヨンに渡り、アイスダンスコーチのミュリエル・ザズーイの下でスケーティングを基礎から見直した[49]。また、柔軟性を高めるために、バレエのレッスンも受け始めた[50]。
2011-2012シーズン、NHK杯では大会最多となる4度目の優勝を果たした。全日本選手権ではSPで7シーズンぶりに4回転トウループ-3回転トウループのコンビネーションジャンプを成功させ(ISU非公認)、2年ぶり5度目の優勝を果たした。GPファイナル、四大陸選手権、世界選手権はいずれも世界王者パトリック・チャンに次ぐ2位だったが、シーズン最後の国別対抗戦ではチャンを抑えて1位、SPでは歴代最高得点をマークした。6月、再びニコライ・モロゾフをコーチの一員として迎えた[51]。
2012-2013シーズン、自身7度目の挑戦となったGPファイナルにおいて、日本男子初のチャンピオンとなった。しかし四大陸選手権は7位に終わり、翌2014年2月開催のソチオリンピック出場枠の掛かる世界選手権も6位と表彰台を逃したが、羽生結弦の4位との成績で、ソチ五輪男子シングル種目は2大会連続で最大の3枠を確保する。国別対抗戦では1位となった。
2013-2014シーズン、スケートアメリカでは4位。NHK杯ではSPで自己ベストを更新。FSも1位で優勝した。GPファイナルへの進出を決めたが、11月26日に氷上トレーニング中に負傷。右脛骨骨挫傷と診断され、欠場を発表した(代替選手は織田信成で3位)[52]。怪我をおして臨んだ全日本選手権ではSP、FSともに4回転に挑戦し失敗。FSでは4回転転倒後に右指を切り、流血しながらプログラムを最後まで演じきったものの、最終順位は5位に終わった。演技直後のインタビューでは「自分の中では五輪はないんだろうなと思っている」と涙ながらに答えていた[53]。しかし過去の実績、シーズン成績などを考慮し、最後の3枠目で2014年ソチオリンピック代表に選出された。尚フィギュアスケートの日本選手で三大会連続3回目の五輪代表選出は、髙橋が初めてである[54][55]。 2014年2月5日、現代のベートーヴェンとして絶賛されていた作曲者佐村河内守が、自作の作曲としていた曲を別人の新垣隆などに依頼していたことを公表[56](ゴーストライター問題を参照)、オリンピック本番のショートプログラムで使用する予定だった曲『ヴァイオリンのためのソナチネ』も佐村河内ではなく実際は新垣隆による作曲であると判明した。
同日、関西大学の公式サイトで、『ヴァイオリンのためのソナチネ』のまま曲を変更しないことを表明、国際スケート連盟には楽曲作曲者を不明(Unknown)とする手続きをした[57]。この曲は義手でヴァイオリンを弾いているというある女性に贈られた曲であり、本当の作曲者である新垣は幼稚園の頃からこの女性の伴奏などをしていた。そういう事情から、真実を知った後もこの曲への愛着は失われておらず、髙橋がこの曲を使用することを「とても楽しみ」とコメントしている[58]。髙橋は9日にソチ入りした際にインタビューに応じ「正直ビックリしました。このタイミングでって。勘弁してよっていうのはありました」と笑いつつ、SPでの使用に変更がないことを明らかにした[59]。
そのソチオリンピック本番は団体戦には出場せず、個人戦のみ出場。SPでは4位発進だったが、フリーではジャンプミスが響いて総合6位入賞に留まり、五輪二大会連続メダル獲得はならなかった。しかしフィギュアスケート日本代表選手で、冬季オリンピック三大会連続入賞(8位・3位・6位)は髙橋が史上初である[60]。帰国後メディカルチェックを受けた際「右脛骨関節軟骨損傷及び慢性膝関節炎により、5~6週間の安静加療が必要」と診断。2014年3月4日、さいたま市で開催される世界選手権の欠場を表明(補欠の小塚崇彦が繰上げ出場し6位)。今後の去就については「まだはっきりと決めていない。ゆっくり時間を持った時に考えていきたい」と語っていたが[61]、同年4月21日に2014-2015シーズンの全試合出場を見送り、1年間競技生活の休養を発表した[62]。
2014年10月14日、岡山市内で現役引退を表明した[63]。2015年4月から12月にかけて語学、ダンス留学のためニューヨークに滞在。帰国後は従来のアイスショーに加え、ダンスショー「LOVE ON THE FLOOR」、歌舞伎とのコラボレーション「氷艶」など様々な舞台に出演した。またニュースキャスター、情報番組の司会、オリンピックキャスターなども務めた。
2018年7月1日、所属事務所を通じて現役復帰を発表した[64]。同年8月1日、所属するユニバーサルスポーツマーケティングを通して、2018-2019シーズン使用曲と振付師を発表した[65]。 ショートプログラムには坂本龍一の『The Sheltering Sky』、フリープログラムにはジョン・グラント作曲『Pale Green Ghosts (with the BBC Philharmonic Orchestra)』を使用し、振付師については、ショートプログラムを2011-2012シーズンで髙橋の振付を担当したデヴィッド・ウィルソン、フリープログラムをブノワ・リショーが担当することを報告した[65]。今季の所属先は関西大学KFSC。 2018-2019において、「全日本最終グループに入ること」を目標にし、全日本予選となる近畿選手権で3位、西日本選手権で優勝と順調に進み、全日本選手権では目標の最終グループに入り、2位を獲得。スケート連盟から世界選手権の代表入りを打診されたが「若い選手が経験する必要性の方が大きい」と出場を辞退した[66]。
2019-2020年シーズンは、ショートプログラムをフォール・アウト・ボーイの「The Phoenix」(振り付けは、ビヨンセなどの振り付けも行ってきたシェリル・ムラカミ、ユウコ・カイ、ミーシャ・ジー)、フリープログラムを昨年度と同じ「Pale Green Ghosts (with the BBC Philharmonic Orchestra)」を引き続き使用すると発表。
2019年9月、2019年12月の全日本選手権を男子シングルとしての競技会出場を最後にすること、アイスダンスに転向し村元哉中とペアを組んで、2020年1月からアメリカを拠点に移すことを公式サイトで発表した[67][68]。
全日本選手権2位で、四大陸選手権、世界選手権代表に選出。四大陸選手権では結成2シーズン目ながら2位となり、アイスダンスの日本勢史上最高順位の銀メダルを獲得した。
競技続行を表明し、村元哉中とのカップル結成3季目。グランプリシリーズは、スケートメリカ,NHK杯の2戦にアサイン。
シリーズ初戦となるスケートアメリカでは6位。翌週のチャレンジャーシリーズデニステンメモリアルチャレンジでは、リズムダンスの最高得点を更新する好成績でRD1位、FD1位、合計1位で、ISU公認大会初制覇となった。
Ocean Waves作曲:ジョージ・ウィンストン振付:パスカーレ・カメレンゴ
剣の舞作曲:アラム・ハチャトゥリアン振付:タチアナ・タラソワ
※ 開催年は年度 1929-65年度は翌年1-4月、1966-81年度は同年11-12月、1982-96年度は翌年1月、1997年度以降は同年12月に開催された。
1979: スコット・ハミルトン • 1980: (非開催) • 1981-1982: スコット・ハミルトン • 1983: ブライアン・ボイタノ • 1984: (非開催) • 1985: ヨゼフ・サボフチク • 1986: ブライアン・ボイタノ • 1987: (非開催) • 1988-1989: クリストファー・ボウマン • 1990: ヴィクトール・ペトレンコ • 1991: クリストファー・ボウマン • 1992: トッド・エルドリッジ • 1993: ヴィクトール・ペトレンコ • 1994-1997: トッド・エルドリッジ • 1998-1999: アレクセイ・ヤグディン • 2000-2001: ティモシー・ゲーブル • 2002: ブライアン・ジュベール • 2003: マイケル・ワイス • 2004: ブライアン・ジュベール • 2005: 髙橋大輔 • 2006: 織田信成 • 2007: 髙橋大輔 • 2008: 小塚崇彦 • 2009: エヴァン・ライサチェク • 2010: 髙橋大輔 • 2011: ミハル・ブジェジナ • 2012: 小塚崇彦 • 2013-2014: 町田樹 • 2015: マックス・アーロン • 2016: 宇野昌磨 • 2017-2020: ネイサン・チェン • 2021: ヴィンセント・ジョウ • 2022-2023: イリア・マリニン
開催年は年度
Lokasi Pengunjung: 3.133.141.35