小林 可夢偉 (こばやし かむい、Kamui Kobayashi , 1986年 9月13日 - )は、日本 の兵庫県 尼崎市 出身のレーシングドライバー。スーパーフォーミュラ ではKCMG 、FIA 世界耐久選手権 (WEC)ではTOYOTA GAZOO Racing に所属する。WECではトヨタのチーム代表を兼任する。
フォーミュラ1 (F1) 時代には、2012年日本GP で日本人3人目となる3位表彰台を獲得。スポーツカーレース 転向後はWECドライバーズチャンピオンを2度(2019-20年 ・2021年 )獲得。ル・マン24時間 のコースレコードを樹立し、2019年及び2020年のデイトナ24時間 、2021年のル・マン24時間で総合優勝を果たした[ 1] 。
初期の経歴
デビュー - 2001年
9歳でカート を始める。少年の頃より憧れのドライバーはアイルトン・セナ であると発言している。1996年 にカートレースにデビュー、実績を積み重ね2000年 には全日本ジュニアカート選手権のシリーズチャンピオンとなる。
2001年 は全日本カート選手権にステップアップし、ICAクラスに参戦してシリーズチャンピオンを獲得し、「西の小林可夢偉、東の関口雄飛 」と呼ばれた。またフォーミュラトヨタレーシングスクール (FTRS)を受講しスカラシップを得た。
2002年 - 2003年
続いて4輪レースに出場することになるが、当時15歳であったためその前に日本自動車連盟 (JAF)が限定A級ライセンス[ 2] を発行するのをしばらく待たねばならなかった。限定A級ライセンス取得後の2002年 度、エッソ ・フォーミュラ・トヨタ 最終戦にて4輪レースデビューを飾る。2003年 は本格的に同シリーズに参戦しランキング2位。
2004年 - 2005年
2004年 にはトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム (TDP)の支援下、フォーミュラ・ルノー 2.0イタリアシリーズに参戦しランキング7位。
2005年 度はイタリアシリーズに加えユーロカップ・フォーミュラ・ルノー2.0も戦い、両シリーズともチャンピオンを獲得。なお小林はヨーロッパのフォーミュラ・ルノー選手権においてシリーズチャンピオンを獲得した最初の日本人であり、ヨーロッパのフォーミュラカー 選手権において日本人ドライバーがタイトルを獲得したのは2001年度に金石年弘 ・佐藤琢磨 ・福田良 がそれぞれドイツ ・イギリス ・フランス のF3 選手権でシリーズチャンピオンとなって以来のことであった。
2006年 - 2007年
2006年 はASM Formule 3(現在のARTグランプリ のF3部門[ 3] )からダラーラ・F305 (英語版 ) ・メルセデス でF3・ユーロシリーズ を戦い、ランキング8位ながらルーキーカップを獲得した。またF3マカオGP にも出場しポールポジションを獲得する健闘を見せるが決勝は19位で終えた。この時のチームメイトはセバスチャン・ベッテル 、このシーズンのチャンピオンを獲得したポール・ディ・レスタ 、そしてギド・ヴァン・デル・ガルデ であった。
2007年 も引き続き同チームのF3ユーロシリーズに参戦。同年6月30日、フランス のマニクール・サーキット で開催されたシリーズ第4戦の第1ラウンドでポールポジション を獲得しそのままF3初勝利を果たした。チームメイトはこの年のF3チャンピオンを獲得し、後にルノー からF1デビューしたロマン・グロージャン 、ウィリアムズ からデビューしたニコ・ヒュルケンベルグ がいる。シリーズ4位。同年11月よりフォーミュラ1 チームであるトヨタF1 からフランク・モンタニー に代わり、サードドライバーとして起用されることが発表された。
2008年 - 2009年
2009年GP2ドイツGP
2008年 はGP2 にアジアシリーズも含め参戦。3月23日、GP2アジアシリーズのマレーシアGPにて日本人として初優勝。4月27日、ヨーロッパに戻って行われたGP2本戦の第1戦スペイン・レース2でも日本人として初優勝した。
2008年 -2009年 シーズンとなったGP2 アジアシリーズに、トヨタからのサポートを受けて参戦。2008年 12月6日、ドバイ GPにて08/09シーズンで初優勝。さらに2009年 1月24日、バーレーン GPのレース1で優勝し、日本人初の連勝。2位に13ポイント差をつけランキング首位で挑んだ3月25日の最終戦、バーレーンの第1レースで4位入賞したことにより、第2レースを待たずしてアジアシリーズチャンピオンを獲得した。F1直下のカテゴリーで日本人が王座を獲得したのは初めてである。
F1での経歴
2009年
トヨタF1在籍時代(2009年)
2009年日本GP
2009年 10月2日に開幕したF1 第15戦日本グランプリ で、トヨタF1チーム のレギュラードライバーであるティモ・グロック が体調不良により金曜フリー走行を急遽欠場したため、リザーブドライバーであった小林がその代役として出走した。翌日はグロックが復帰したものの、そのグロックは公式予選でクラッシュして脊椎を負傷したため、次戦以降を欠場することになった[ 4] 。これにより、小林は10月18日の第16戦ブラジルグランプリ でF1デビュー、日本人としては18人目のF1ドライバーとなった。
そのブラジルグランプリでは予選11位を記録。決勝ではポイント首位のジェンソン・バトン を18周に渡り抑えて、一時は3位までポジションを上げたが、入賞に一歩とどかず9位完走だった[ 5] 。
次戦のアブダビGPも参戦することとなり、前戦同様バトンをオーバーテイクして、一時3位を走行していた。予選12位から1ストップ作戦を成功させ、チームメイトのヤルノ・トゥルーリ を上回る6位入賞を果たした。1ストップ勢での上位浮上は小林ひとりであり、2007年 の佐藤琢磨 以来、2人目となる完全日本製パッケージ[ 6] でポイント獲得をした。
この2戦の活躍で、来シーズンのトヨタF1チームの正ドライバーの座を確かなものとした。しかし、そのアブダビGPからわずか3日後の11月4日、トヨタF1チームがF1から完全撤退することを発表し、2010年以降は他チームにシートを求めることとなった。
2010年
ザウバーF1在籍時代(2010年)
2010年マレーシアGP
2009年12月17日 、ザウバー とのレギュラードライバー契約を発表し、撤退したトヨタを離れ2010年シーズン から新天地でのフル参戦が実現した。チームメイトはベテランのペドロ・デ・ラ・ロサ 。第15戦シンガポールGP からデラ・ロサに替わりニック・ハイドフェルド がチームメイトになった。
序盤戦はスタート直後の接触事故やマシントラブルにより成果を残せなかったが、トルコGP では10位入賞し、チームのシーズン初ポイントを獲得した。中盤戦以降はマシンの改善もあり、コンスタントに入賞圏内を争うようになった。
ヨーロッパGP では予選18位からのスタートであったが、セーフティーカー 出動の混乱を巧みに乗り切り、レース終盤の53周目までタイヤを交換しないという策に出る。その53周までのレースの大半を3位で走行し、レギュレーション上のタイヤ交換義務でソフトタイヤに履き替え9位でレースに戻り、新しいタイヤのグリップ力を活かし残り2周でフェラーリ のフェルナンド・アロンソ を、ファイナルラップの最終コーナーでトロ・ロッソ のセバスチャン・ブエミ をオーバーテイク し7位入賞を果たして、その印象的な走りは評価された。終始4位に抑えこまれていたマクラーレン のジェンソン・バトン も、インタビューで小林の走りについて"Brilliant!"(素晴らしい!)と称賛した。
続くイギリスGP でも6位入賞。ハンガリーGP 予選ではピットレーンの赤信号無視でペナルティを受け23番手に降格。決勝ではスタートで順位を上げ、セーフティーカー出動も味方して9位入賞を果たした。
母国日本GP では予選14位から、他のドライバーがソフトタイヤでスタートする中、ハードタイヤで走り出した。ハイメ・アルグエルスアリ を14周目、エイドリアン・スーティル を18周目にヘアピン で抜き、全53周レースの38周目にピットイン。ソフトタイヤに履き替えると、アルグエルスアリをアウト側から45周目、ルーベンス・バリチェロ を48周目、ハイドフェルドを49周目に同じヘアピンで抜き、計5回のオーバーテイクをした[ 7] 。そして2度目のアルグエルスアリをオーバーテイクする際に接触したことでマシン左側のディフレクター、サイドポンツーンの損傷に加えてフロントウィングの一部まで欠損している状況にも拘わらず7位入賞を果たし、観客を熱狂させた。なお、小林自身は何回オーバーテイクを行ったか記憶していないと語っている[ 8] 。続く韓国GP では8位、ブラジルGP でも10位と3戦連続入賞を果たした。
この年は決して競争力の高いマシンではなかったものの、ルーキードライバーとしては最も高いポイントである32ポイントを獲得しランキング12位。又、チームメイトと比較してもデ・ラ・ロサ に7勝2敗5分、ハイドフェルドに3勝1敗1分している事になりベテランドライバー相手にも遜色ない結果を残した。
2011年
2011年イタリアGP
2010年9月7日、ザウバーは小林をエースドライバーとして残留させることを発表し、2011年 も引き続きザウバーから出走する[ 9] 。チームメイトには、新人のメキシコ人ドライバーセルジオ・ペレス が起用されている[ 10] 。
開幕戦オーストラリアGP では入賞圏内である8位でゴールしたが、レース後の検査でリアウイングに違反があったとして失格処分となった。第2戦マレーシアGP では、マーク・ウェバー やミハエル・シューマッハ らとの接戦を繰り広げ7位入賞。前戦の雪辱を果たし、第3戦中国GP 、第4戦トルコGP 、第5戦スペインGP まで3戦連続で10位入賞を記録し、日本人F1ドライバーの中で最もポイント獲得している佐藤琢磨 の記録「44ポイント」と並んだ。又、同じく佐藤が記録した日本人による連続入賞記録(2004年イタリアグランプリ から2004年ブラジルグランプリ まで)である「4戦」も並んだ。翌第6戦モナコGP では同僚のセルジオ・ペレス がシケインでクラッシュし、同グランプリの決勝レースを欠場。小林は単独で決勝レースに臨むこととなったが結果は自己最高位となる5位入賞を果たし、中嶋一貴 以来日本人ドライバー2人目のモナコグランプリでのポイント獲得、モナコグランプリにおける日本人歴代最高位を更新した。同時に日本人獲得ポイント記録と、日本人連続入賞記録を更新した。
続くカナダGP では荒れた天候のレースで一時2位を走るも、7位でフィニッシュ。一部の日本のマスコミ(特にフジテレビ)はこの活躍と有力チームのシート事情を絡め、2012年シーズン に有力チームに移籍する可能性を盛んに報じた。小林自身も移籍の可能性とペーター・ザウバー への恩義の間で揺れる心境を示唆していた[ 11] 。しかし7月28日にザウバーが小林とペレスの2012年残留を発表している[ 12] 。
2012年
2012年日本GP
開幕戦オーストラリアGP では、スタート時の接触によりリアウィングの翼端板が破損、DRSの使用に不安が生じた。そんな中で上位陣のクラッシュもあり6位入賞を果たした。第3戦中国GP ではフリー走行から安定した走りを見せ、最終的に自己最高となる予選4位を記録する。予選2位のルイス・ハミルトン のペナルティにより決勝は3番手からのスタートとなったが、スタート時にトラブルが発生し順位を落とす。しかし10位でフィニッシュし、日本人としては1989年最終戦オーストラリアGP に中嶋悟 が達成して以来23年ぶり、ザウバーチーム(BMW時代を除く)としては初めてのファステストラップ を記録した。
第5戦スペインGP でも予選Q3進出したものの、ハイドロ系トラブルによって10位(ハミルトンが予選失格したため、9番手からのスタート)だったが、決勝ではジェンソン・バトンやニコ・ロズベルグ をオーバーテイクし、自己最高タイの5位入賞を果たした[ 13] 。
第6戦モナコGP 予選ではQ2で敗退となり12番手となったが9番手スタートのパストール・マルドナード がフリー走行中にペレスと接触して10グリッド降格のペナルティを受け11番手スタートとなった。
決勝では、スタート直後に第1コーナーでグロージャンがシューマッハとの接触をきっかけにスピンし、後続を巻き込む多重クラッシュとなり、そのクラッシュに巻き込まれリタイアを
喫した。
第7戦カナダGP 予選はQ2敗退となり11番手となった。決勝ではシューマッハのリタイアなどもあり予選グリッドから2つポジションを上げ9番手で入賞を果たした。
第8戦ヨーロッパGP 予選はQ3進出を果たし、7番手スタートを手にした。決勝では7番手からスタートし、2周目には4番手までポジションを上げたが、ピットストップに時間がかかり順位を落とす。その後ブルーノ・セナ と接触。この接触ではセナにペナルティが科される。その後フェリペ・マッサ と接触してリタイア。マッサとの接触には可夢偉に非があるとして次戦のイギリスグランプリで5グリッド降格のペナルティが科された。
第9戦イギリスGP 予選では雨のコンディションの中行われ大波乱の予選となり1時間30分の赤旗中断となった。その中、マクラーレンのジェンソン・バトンがQ1敗退を喫し、ロータスのグロージャンもQ3進出を果たすがスピンしQ3を走ることができなかった。その中で可夢偉はQ2で敗退となり12番手となるが前戦のヨーロッパグランプリによる5グリッド降格のペナルティを受け17番手スタートとなる。決勝では1周目に大きく順位を上げその後も順調に順位を上げていくが37周目にピットストップをするときにタイヤがロックし指定の位置に止まることができずメカニック3人と接触。この事故によりピットストップに時間がかかりコースに戻ると12番手、そこからポジションを1つ上げ11番手でフィニッシュしポイントを手にすることはできなかった。レース後メカニックとの接触について審議され2万5000ユーロ(約240万円)の罰金処分を科された。
第10戦ドイツGP 予選は雨の降る中行われ、Q2では雨量が激しくなり各車がウェットタイヤに続々と変える中はインターミディエイトタイヤで走る戦略が失敗し予選13番手となるが[ 14] 、決勝では天候に恵まれ戦略面でも巧く事が進み、5位でフィニッシュした。その後、2位のセバスチャン・ベッテル のコース外を使ったオーバーテイクが審議対象となり、その結果決勝タイムから20秒加算ペナルティとなったため、最終的には自己最高の4位入賞を果たした。
第11戦ハンガリーGP はフリー走行からマシンバランスに悩み、予選Q1は通過するもQ2で敗退(15位)。決勝では早めにミディアムタイヤに履き替え変則2ピットストップ作戦を決行し、油圧系のトラブルでリタイアしたが、18位完走扱いでレースを終えた。
第12戦ベルギーGP はウェットコンディションとなった金曜日フリー走行1回目でトップタイム、2回目では7番手を記録。ドライとなった翌日3回目でも4番手タイムを出し、午後の予選ではポールポジションのバトン(マクラーレン)に次ぐ2番手タイムで自己ベストをマークした。また2004年第7戦ヨーロッパGP の佐藤琢磨以来、8年ぶりの日本人予選フロントローも獲得した[ 15] [ 16] 。ザウバーチーム(BMW時代を除く)としても1999年第7戦フランスグランプリ 以来のフロントローを獲得した。だが決勝ではスタートで失敗し、直後にロマン・グロージャン によって引き起こされた多重クラッシュに巻き込まれてマシンにダメージを負い、完走はしたものの13位に終わった。
第13戦イタリアGPではチームメイトが2位を獲得したのに対して9位に終わり、第14戦シンガポールGPでも13位でポイント圏外で不振が続いた。
2012年日本GPパレード
第15戦日本GP において、予選4位となり、3位だったジェンソン・バトンがシンガポールGP後のギアボックス交換によりグリッド降格処分となったため3番グリッドからのスタートとなった。スタート直後にマーク・ウェバーをかわし2位に浮上するも、14周終了後の1度目のピットインの後、ダニエル・リカルド をオーバーテイクするのに17周目まで手間取ったこともあり、17周目にピットインしたフェリペ・マッサがピットイン後小林の前に入り再度3位となる。その後は終始ジェンソン・バトンに猛追されるもそのまま3位でゴール、日本人としては2004年アメリカGPでの佐藤琢磨 以来8年ぶり、鈴鹿では1990年鈴木亜久里 以来22年ぶりとなる、日本人3人目のF1GP表彰台登壇者となった。表彰式のインタビューで「初めての表彰台に日本で上がれたことが本当に素晴らしくて信じられない」と語り、観客たちが可夢偉コールで盛り上がった[ 17] 。
2012年はチームメイトを6ポイント下回ったものの昨年の倍の60ポイントを獲得しランキング12位となった。これはランキングでミハエル・シューマッハ を上回る結果となった。日本GPの表彰台を含む9回の入賞(チームメイトは7回)や、自身初のファステストラップとフロントローなどを記録した。しかし、チームとの契約延長には至らず、最終戦ブラジルGP前に2013年のザウバー離脱が発表された。
なお、この年は前述の通り9回の入賞を達成したものの、連続入賞は1度もなかった。
2014年
2014年シンガポールGP
2014年1月21日 、ケータハム との契約を発表した。チームメイトは新人のマーカス・エリクソン [ 18] 。この年から導入されたドライバーの固定ナンバーは「10」を選択した。
開幕戦オーストラリアGP では予選Q2に進出し、15位(スターティンググリッドでは14位)を獲得するが、決勝ではスタート直後にブレーキトラブルでマッサに追突しリタイアに終わる。
第6戦モナコGP では荒れた展開だったが、ショートカットをしてしまったため、後方のキミ・ライコネン に順位を譲った際にライバルであるマルシャ のジュール・ビアンキ に強引にスペースに入り込まれ、順位を奪われた挙句、接触でダメージを負った。その影響でチームメイトのエリクソンにもオーバーテイクされ、ビアンキが9位、エリクソンが11位に対して13位に終わる。
第11戦を終えた時点で予選ではエリクソンに対して9勝2敗と大きく勝ち越し、決勝でも両者が完走したレースでは4勝1敗。しかしシーズン半ばにチームが身売りされた影響などから、第12戦ベルギーGP直前に突如アンドレ・ロッテラー との交代が発表された。同時に小林自身はベルギーGP以降もチームに留まることも発表された。
第13戦イタリアGPではレースドライバーとして復帰。予選では中国GP以来となるマルシャのビアンキを上回り、予選19位。決勝では直近のライバルであるビアンキを上回る好ペースで周回を続け17位完走。
第16戦ロシアGP、ケータハムはパーツ不足によりフリー走行から2台共にマイレージ制限を実施。マイレージ制限により、初めて走るサーキットにもかかわらず満足な走行は出来なかった。決勝では21周目に突如ピットインを命じられ、その場でリタイヤした。チーム発表によればリタイヤさせた理由はブレーキのオーバーヒートである。小林本人はリタイヤ直後、メディアに対して車に何も問題は無かったと語っている。
第17戦アメリカGPではチームは今年7月にエンガヴェストSAによって買収されたが、その後、元オーナーのトニー・フェルナンデス との間に論争が生まれ、両者は10月24日、管財人であるスミス&ウィリアムソンにチームの管理を委ねた。チームはオースティンでのレース参戦を目指していたが、管財人はアメリカGPとブラジルGPの2戦を欠場する許可をもらったことを明らかにし、小林は欠場を余儀なくされる。
最終戦アブダビGPではチームはクラウドファンディングなどによる資金調達により、参戦することが可能となり、小林の参戦も決定した。エリクソンが離脱を発表したため、チームメイトはウィル・スティーブンス となった。また、小林はこのグランプリがF1でのラストランになる可能性が高いことを認めた。予選は19位で、マシンの様々な状況がスティーブンスよりも劣る状態にもかかわらずスティーブンスに勝利した。しかし決勝では残り約10周というところでマシントラブルでリタイアとなり、小林は最後のレースを終えた。その後マノー・マルシャと交渉したり、ハースF1 の候補に上がるなどその後もF1復帰を目指していたが、現在2014年最終戦アブダビグランプリが小林最後のF1となっている。またカーナンバー「10」の使用権も失っており、2022年現在ではピエール・ガスリー が「10」を使用している。
フェラーリGT
小林は2014年にトップチームへ移籍するため、2013年は「しっかりと戦えるチーム」のシート獲得を目指して交渉を行った[ 19] 。候補はロータス かフォース・インディア と考えられた[ 19] 。11月23日にはファンからの「資金協力をしたい」という声に応える形で、支援金を募る「KAMUI SUPPORT」を公式サイトに開設。12月18日までに1億8400万相当が集まり、日本企業のスポンサーを含めて800万ユーロ (約8.8億円)強の資金を確保した[ 20] 。
しかし、12月18日にロータスがグロージャン残留を発表すると、小林は「戦えるチームへの移籍が不可能になった」として、支援金の受付終了を発表した[ 20] 。2013年についてはF1以外のカテゴリは考えていないと述べ、支援金は2014年のシート獲得活動に充てるとした[ 20] 。
ル・マンでドライブしたフェラーリ458GTC 71号車
最終的に2013年はF1から離れて、アジア人として初めてスクーデリア・フェラーリ とドライバー契約(3月11日契約発表)を結び、GT レースにおいてフェラーリ のセミワークス 的存在であるイタリアのAFコルセ チームより、FIA 世界耐久選手権 (WEC) に参戦することになった[ 21] 。チームメイトは、ジャンカルロ・フィジケラ 、ジャンマリア・ブルーニ 、トニ・バイランダー 。
WECではバイランダー(最終戦はフィジケラ)とコンビを組み、フェラーリ・458イタリアGTC の71号車でLMGTE-Proクラスに参戦。開幕戦シルバーストン2位と好調に滑り出したが、マシンの性能調整 (BoP) に苦戦する。初挑戦のル・マン24時間レース では総合21位(クラス5位)。地元富士は悪天候により打ち切り(クラス5位)。最終的にドライバーズランキングはクラス7位だったが、フェラーリのGTマニュファクチャラーズタイトル連覇に貢献した。
SUPER GT/スーパーフォーミュラ
F1の2014年シーズンが終了後、所属していたケータハムは翌年の参戦が不透明に。そんな中キャリア初期を支えたトヨタからスーパーフォーミュラ 岡山テストへの参加オファーを受ける[ 22] 。テストにはチームルマン から参加。そして迎えた2015年、トヨタのモータースポーツ体制発表会にてスーパーフォーミュラへのフル参戦が決まった。実に12年振りの日本国内でのレースとなる[ 23] 。2戦目にして優勝争いに加わり多くの表彰台を獲得する善戦を見せるものの、先んじて参戦していた石浦宏明 や中嶋一貴 に阻まれPP・優勝は一度も獲得できなかった。
2016年も同チームから参戦するが、モノコックに微細なダメージが入っていたこともあり、入賞わずか1回に終わった。
2017年はチームルマンからKCMG に移籍した。また8月に開催された鈴鹿1000キロでは、TEAM WedsSport BANDOH から初めてSUPER GT に参戦した。KCMGのチーム力と裏腹に優勝に絡む活躍を見せたが、結局PP・優勝ともにならなかった。特にもてぎではトップを快走しながら、ピットの右前タイヤ交換作業で20秒近くを失うミスにより勝利を逃すという、象徴的なレースとなった[ 24] 。
2018年はスーパーフォーミュラに加えてTEAM SARD よりSUPER GT のGT500クラスにもフル参戦。チームメイトは元F1 ドライバーのヘイキ・コバライネン 。第4戦チャン・インターナショナルサーキットで優勝。これが国内メジャーレースにおける初の(そして現状唯一の)優勝となった。
2019年〜2020年はスーパーフォーミュラに参戦。何度か2位表彰台に上るも、こちらの初優勝はお預けとなった。またSUPER GT×DTM の特別交流戦富士スピードウェイ戦では、GT500のメーカーに所属する日本人ながら、唯一DTM陣営としてBMW から参戦するという離れ業をやってのけている[ 25] 。レース1では決勝14位、レース2では5位であった。
2021年はCOVID-19 の影響もあり、スーパーフォーミュラに1戦のみの参戦となった。
プロトタイプスポーツカー
WEC/ル・マン
WECトヨタチーム - (右)小林(2016年3月)
WECチーム代表として表彰台に立つ(左端)小林(2023年ル・マン24時間)
2015年に国内レースでのトヨタ復帰とともに、FIA 世界耐久選手権 (WEC)のトヨタのワークスチームのリザーブドライバーに就任した。
そして2016年はスーパーフォーミュラに加え、TOYOTA GAZOO Racing に改称したWECチームへのレギュラー参戦が発表され、トヨタ・TS050 HYBRID の6号車を駆ることとなった[ 26] 。チームメイトはマイク・コンウェイ とステファン・サラザン 。ル・マン24時間 の決勝では2台のTS050がペースを掴み、小林は終盤に3位を走行しポルシェ2号車を脅かしていたが、スピンを喫して勝負権を失った。このスピンがなければ、「残り3分の悲劇」にもかかわらずトヨタが総合優勝を掴んでいた可能性があった。一方でWEC富士ではアウディとのデッドヒートを制して、同シーズントヨタ唯一の優勝に貢献した。シーズンを通しては結果的には善戦し、アウディを上回る総合2位の成績を収めた。
2017年は7号車に搭乗。ル・マンの予選ではコースレコードを更新した。しかし決勝ではピット出口に応援に来たアマチュアドライバーをマーシャルと勘違いして発進し結果的にクラッチを壊し、「偽マーシャル事件」の被害者になり、リタイアした[ 27] 。WECのシーズンはサラザンに代わる新チームメイトでルーキーのホセ・マリア・ロペス のミスも重なって成績は芳しくなく、総合成績では8号車に譲った。
2018年も7号車から参戦。ル・マンでは1度は2分の差をつけた8号車に逆転を許し、自身も黄旗の速度違反やピットインを忘れてガス欠の危機に陥るというミスを犯したものの、完走して日本車×日本人初のル・マン1-2フィニッシュに貢献した。
2019年ル・マンはトップを快走するが、残り1時間というところで、内圧センサーがパンクを示したタイヤとは別のタイヤの異常を示すというトラブルに見舞われ、大逆転で8号車に優勝を譲ってしまった[ 28] 。またWECのタイトルも同時に明け渡した。
2020年ル・マンはポールポジションを獲得するが、折り返し地点でターボ系トラブルが発生して長時間のピットインを余儀なくされ、三たび8号車に敗北を喫した。しかしシリーズでは速さを示し、初のチャンピオンを獲得した。
2021年は引き続き7号車に搭乗。ル・マンではポールポジションを獲得。決勝では7・8号車に燃料系のトラブルが発生したが、チーム一丸となって解決策を見つけ出し、7号車はペースをキープした結果、遂に悲願のル・マン制覇となり、そのままシリーズも連覇した。同年12月24日、 東京運動記者クラブのモータースポーツ分科会から、2021年の最優秀選手賞に選出された[ 29] 。
2022年よりWECトヨタチーム代表を兼任する。
IMSA/デイトナ
2019年にキャデラック のセミワークス であるウェイン・テイラー・レーシング より、デイトナ24時間レースにとしてスポット参戦。チームメイトはジョーダン・テイラー 、レンガー・ヴァン・デル・ザンデ 、フェルナンド・アロンソ 。小林は夜間の4スティントを走行し、トップを死守。2度の赤旗と雨天による早期終了もあったが、1992年以来の日本人優勝を果たした。
2020年も同チームより参戦。チームメイトはヴァン・デル・ザンデに加えてライアン・ブリスコー とスコット・ディクソン が搭乗。小林は最終スティントを担当し、後続を引き離してトップチェッカーを受け、日本人初となる連覇を達成した[ 30] 。
2021年はアクション・エクスプレスとNASCARの強豪ヘンドリック・モータースポーツ のジョイントチームであるアリー・キャデラック・レーシングより、NAEC(ノース・アメリカン・エンデュランス・カップ)の4戦に参戦。近く導入されるLMDh 規定の絡み(トヨタにIMSA参戦の余地ができたため)により、おそらく最後の他ワークスからの参戦と位置づけて挑んだが、優勝は果たせなかった(最高順位はデイトナの2位)。
フォーミュラE
2017年11月15日、フォーミュラE にMS&ADアンドレッティ・フォーミュラE からスポット参戦することが発表された[ 31] 。小林は開幕ダブルヘッダーとなる第1戦、第2戦香港ePrixにトム・ブロムクビストに代わって27号車のステアリングを握る。同年10月に行われたフォーミュラEの公式テストに参加しなかったため、いきなりの実戦となった。スポット参戦には、チームのメインスポンサーである国内保険大手のMS&AD だけでなく、日本人ドライバーを欲していたシリーズ側の意向によると分析されている[ 32] 。日本人ドライバーのフォーミュラEへの参戦は佐藤琢磨 (2014-15年シーズン 第1戦)と山本左近 (2014-15年シーズン第10、11戦)に続いて3人目となる。
かねてより小林はフォーミュラEへの参戦に興味があることが伝えられていた。ただ、2014年に行われた自身のYouTubeチャンネル「KAMUI TV」の公開収録イベントで、レーススピードが物足りなかったりレギュレーションが自身の思い描くレース像と異なっていたりすることから、シートの話はあるものの参戦は控えていると語っていた[ 33] 。また、2017年9月に「フォーミュラEには興味があります。いくつかのチームと話はしていますが、すぐには乗れないでしょう」[ 34] とも語っていた。
2017年12月2日、フォーミュラ第4シーズン が開幕し、開幕戦である香港ePrixに小林はスポット参戦した。
第1戦、シミュレーターとフィルミングデーで50km/hでしか走らせたことのなかったフォーミュラEの車をうまく乗りこなせず[ 35] 、フリー走行1回目は19位、2回目は14位、予選は13位だった。決勝では無線トラブルもあり、ファンブーストで最多投票数(29%)を獲得したものの使用することなく15位で終えた[ 36] 。第2戦は回生ブレーキのトラブルに苦しみ、予選16位、決勝17位に終わった。
評価
日本企業の支援を受けてF1に昇格したという点では、F1ブーム 期以降の日本人ドライバーの系譜に連なる。しかし、トヨタのF1撤退で後ろ盾を失いながらデビュー2戦のパフォーマンスを評価され、2010年のレギュラーシートを確保するに至った。起用を決めたザウバーチーム代表のペーター・ザウバー は「彼は資金を持ち込まずにF1チームに加わった最初の日本人ドライバーだ」「彼はドライブ能力のおかげでF1にいる」と評価した[ 37] 。
しかし結局後に2013年の参戦にあたりチームは不明だが彼は10億円の資金持ち込みを要求された[ 38] 。
F1ジャーナリストの今宮純 は「小林はマクラーレンの候補リストに日本人として初めて名を連ねていた[ 39] 」と話している。元F1ドライバーの片山右京 は「僕らの夢が動き出そうとしている」とコメントを残した。
マシンの空力的性質上オーバーテイクが難しいといわれるF1において、積極的に追い抜きを仕掛ける姿勢は評価されている。2011年シーズンのオーバーテイク回数は99回で、これはミハエル・シューマッハ (116回)、セバスチャン・ブエミ (114回)についで3番目に多い。一方で、接触する場面もあることから海外を中心に「危険な走り」であると指摘を受けている。本人も接触の多さやアグレッシブ過ぎる部分については認めつつも、他車を巻き込んでのリタイヤは無いので危険ではない。安全だと主張している[ 40] 。
タイヤマネジメントに定評があり、タイヤ交換回数を減らしたり、他のドライバーと異なるタイヤを選択することで順位を大きく上げるレースが多い。一方で他カテゴリはともかくF1での予選の速さではチームメイトに劣ることも多く、ペドロ・デ・ラ・ロサ のシーズン途中での交代理由も、ザウバーが可夢偉の一発の速さを疑問視したからであった。
F1デビュー戦の2009年ブラジルGPでは、後方から迫るバトンに対して蛇行で牽制するようなブロックをみせた(通常は一つのコーナーに対してワンアプローチしか認められない)。チャンピオン争いをしていたバトンは可夢偉の走行に過剰に反応し、無線で自分のチームに抗議するよう求めたが「ルーキードライバーの(少々過剰な)行為」にクールになるように窘められている。また、ピットアウト直後に中嶋一貴 をブロックして接触し、中嶋はクラッシュした。レース後には全世界のファンの投票で選ばれる「マン・オブ・ザ・レース」に選出された。
2009年アブダビGPでは再びバトンとバトルを展開し、デビュー2戦連続で「マン・オブ・ザ・レース」に選出。バトンを追い抜いたシーンが同サイトの「ベストオーバーテイク」のファン投票で1位を獲得した。
2010年日本GP ではヘアピンへのブレーキングで5度のオーバーテイクを成功させ、ライバルや海外メディアに賞賛され、F1公式サイトのコメンタリでは「overtaking king Kobayashi」と絶賛された。レース後、イギリスのテレビ局BBC は小林に対して独占インタビューを行い、コメンテイターのエディ・ジョーダン 、マーティン・ブランドル より絶賛を受けた。デビッド・クルサード はコラムにおいて「日曜に彼が見せたオーバーテイクは驚異的だった。アグレッシブでありながらコントロールされており、非常に素晴らしかった」と述べた[ 41] 。また鈴鹿サーキット では、2011年の日本GP においてヘアピンの観客席を増設し「小林可夢偉応援席」として販売したが[ 42] 、通常発売期間を待たずして先行予約期間ですぐに完売してしまった[ 43] 。
この2010年日本GPでのオーバーテイク時に ハイメ・アルグエルスアリ と接触し、左サイドポンツーンのエアロパーツを破損して無くすことになるが、その後自身のベストラップを刻み、テレビ解説をしていた片山右京 に「彼は破損したマシンの方が速いんですね」と苦笑いをされてしまう。[ 44]
2010年、同じF1ルーキーのヴィタリー・ペトロフ やニコ・ヒュルケンベルグ 、GP2のジュール・ビアンキ やサム・バード 、世界ラリー選手権 (WRC)に転向したキミ・ライコネン らを抑えて、「AUTOSPORT Awards」のルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞した[ 45] 。
エピソード
名前・ニックネーム
可夢偉(かむい)という名前はアイヌ の民族信仰で神とされる「カムイ 」と、「偉 大な夢 を可 能にする[ 46] 」という言葉の漢字3文字に掛けて命名された。
2012年のF1日本GP翌日に催されたファンミーティングでは「自身の名前が漫画『カムイ伝 』から採られた」「漢字は全くの当て字」と語った。小林の兄に「北斗」と命名したところ、後に『北斗の拳 』がブームになり、「マンガのタイトルからとれば将来いけるんちゃうん?」という父の考えから、カムイ伝から名前をもらった。
海外メディアではカウボーイ と小林を組み合わせてCowboyashi (カウボーヤシ )というニックネームを付けられている[ 47] 。
家族・出身地
実家は寿司屋を経営している。16歳からは家業の手伝いで寿司を握っていたことから、メディアでは「可夢偉はシートを失ったら実家の板前 に転職する」とジョークを言われた。2009年のトヨタF1撤退決定の直後は「レースが続けられないなら寿司屋の修行をする」[ 48] と語り、2010年の参戦決定後も「ザウバーと契約していなかったら今頃寿司を握っていたでしょう」と冗談を言った。実際のところ本人はエビ やカニ のアレルギー 持ちで「触ることすらできない」ため、板前には「なりたくてもなれない」という[ 49] 。ザウバー在籍時、公式HPのプロフィールには「好物は和食、ただし生魚を除く」と記載されていた[ 50] 。
父親は芸術大学を卒業して寿司屋の板前をやっており、職業は「自称陸サーファー 」。小林曰く「変な人」。また、株式会社「Dream win」の命名者である。
実家に近い三和本通商店街 が、2011年3月より小林の応援旗や垂れ幕を掲げるとともに「カムイロード」の愛称を付け応援するようになった[ 51] 。2012年日本GPでは地元商店街が中心となって、バス11台、総勢520人の大応援団[ 52] を結成し、2コーナースタンド可夢偉応援席(C席)最上段から応援した。3位初表彰台を獲得した小林は、特製の赤い応援旗の波と大歓声で迎えられた。
少年期・修行時代
子供の頃は最初からレーサーを志していたわけではなく、当初の夢はお笑い芸人 になることだった。地元尼崎市出身のお笑いコンビ ・ダウンタウン を尊敬しており、2009年にフジテレビ 系『すぽると! 』に出演した際、自らの夢を「テレビで浜田さん と共演する」と発言し、後日その浜田が司会を務めるフジテレビ系『ジャンクSPORTS 』で実現した。
少年時代に参戦したカート競技で父親自らが小林の車両のメカニック として携わっていたが、実は両親はレースに全く関心がなかったという。また、自身で乗用車 を2度ほど購入していたが、その両方の車を父親に売却された[ 53] 。
1998年に放送されたTBS の30時間特別番組『テレビのちから 』のコーナー「スーパーキッズ21世紀夢チャレンジ」にて、当時小学6年生だった小林は「天才カート少年」として紹介され、定岡正二 や元F1ドライバー鈴木亜久里 とカート対決を行った。亜久里とのレースでは勝利しながらもレース後目に涙を浮かべ、「悔しかった。遊ばれとった」と発言した。F1ドライバーになって以降も「この悔しかった心境を鮮明に覚えている」と発言している。
17歳の頃に、尼崎市の広報誌のインタビューを受けた際、免許を取得した後に乗りたい車はという問いに対して「速く走る必要も無いのでどんな車でも良いが、強いて言えば、いつも窮屈な車にばかり乗っているので、乗っていて楽な車が良い」と語っていた。
TDP監督として小林や中嶋一貴 を指導した関谷正徳 は、「可夢偉はやんちゃで、一貴は優等生タイプ[ 54] 」と評している。小林はヨーロッパに渡る直前、TDP関係者の知り合いの寺に送られ、2泊3日で修行させられた[ 55] (「車に乗せられて空港に行くのかと思ったのに、着いたら寺だった」)。寺の後は横田基地 に連れて行かれ、英語習得のためアメリカ人家庭でホームステイした[ 55] 。
プライベート
2010年の日本GP後にスポーツ紙や週刊誌においてタレント のあびる優 との交際が報道された。この件について、あびるの所属事務所であるホリプロ は「仲の良い友達の一人です」とコメントしていた[ 56] 。翌年の1月29日に小林との交際が順調であるかという質問を受けたあびるは「はい。(結婚は)するなら若いうちにしておきたい」と答えた[ 57] 。2011年シーズンは度々サーキットへ応援に訪れており、海外のF1メディアにはすでに「あびる優は小林のガールフレンド」と認知されていた[ 58] 。
吉本大樹 は親友であり「ずっと昔から、酒の飲み方から何から何まで本当に御世話になった[ 59] 」という間柄。F1日本GP(小林)やWTCC 鈴鹿(吉本)では互いの応援団長を買って出ている。
カート時代からの友人で2017年にはSUPER GTで共に戦った関口雄飛や、同じくF1ドライバーであった山本左近 とも仲が良い
セバスチャン・ベッテル とはF3時代にチームメイトだったこともあり仲が良い。2012年日本GPの表彰台インタビューでは、優勝したベッテルのことを「べっちゃん」と呼んだ。また、GP2で共に戦ったヴィタリー・ペトロフ とも仲が良い。
写真週刊誌[ 60] に載ったことにより喫煙者であることが知られるようになった。
フェルナンド・アロンソ とは3社に渡って同一メーカー陣営として共に所属した。
2022年に世界三大レース を制覇した3人(モナコグランプリ-セルジオ・ペレス 、インディ500-マーカス・エリクソン 、ル・マン24時間-平川亮 )はいずれもトップフォーミュラで小林とチームメイトの経験がある。
メディア出演
初めて出演したラジオ番組は、2010年8月17日にUstream で放送されたインターネットラジオ『タイムマシン部 』であった。収録内容はUstreamにアーカイブされており視聴可能 [1] 。
フジテレビ 『すぽると! 』に出演した際、ベッテルのようにマシンに名前を付けるとしたら?と尋ねられると、隣に座っていた本田朋子 アナウンサーの名前を取って「朋子」と答えた。
2012年9月にはバラエティ の『世界の果てまでイッテQ! 』特番に出演し、お笑いタレント の宮川大輔 とともにタイ の木の車祭りに参加した[ 61] 。
2016年4月からは、フジテレビ・関西テレビ のスーパーフォーミュラ情報番組『超速GO音 』で、中嶋大祐 と共にパーソナリティを務める。
2016年6月3日(関西地区)に放送された『探偵!ナイトスクープ 』で、依頼者の主婦とカートレースを行った。
2016年12月に発売されたトヨタ・C-HR の宣伝動画に、ケイ・コッツォリーノ とともに登場した[ 62] 。
その他
グッドスマイルカンパニー が2010年8月よりパーソナルスポンサーとなっており、「ねんどろいど 」と「figma 」で小林をフィギュア 化し、それぞれ2012年3月に発売した。ねんどろいど版はチャリティー企画「Cheerful JAPAN!」において“がんばれ日本Ver.”も作成・販売された。小林は2011年にグッドスマイルレーシング のスペシャルサポーターとなった。
ザウバーのスポンサーのひとつであるマッドクロック は、2011年より販売開始した日本におけるイメージキャラクターとして、小林とプロボクサーの粉川拓也 を起用した。
2011年11月には、ヘルメットのデザインをリンキン・パーク のジョー・ハーン に手掛けてもらった[ 63] 。
スーパーフォーミュラ の「オーバーテイク ボタン」(OTS)については、先行車が後続車の使用を確認できてしまうので無意味、という見地から批判的な立場を取っている。
レース戦績
主な戦績
2010年のヘルメット (鈴鹿サーキット ・レーシングシアター蔵)
1996年 - SL 宝塚シリーズカデットクラス(3位)
1997年 - TOYOTA SL全国大会カデットクラス(優勝)
1998年 - JAFCUP西地域シリーズカデットクラス(優勝)
1999年
全日本ジュニアカート選手権(ランキング5位)
TOYOTA SL全国大会SストックDクラス(優勝)
2000年
全日本ジュニアカート選手権(シリーズチャンピオン・優勝3回)
鈴鹿カート選手権RSOクラス(シリーズチャンピオン)
2001年
全日本カート選手権ICAクラス(シリーズチャンピオン・優勝3回)
アジアパシフィック選手権ICAクラス(2位)
フォーミュラ・トヨタ・レーシング・スクール(FTRS)受講・スカラシップ獲得
2002年
ヨーロッパカート選手権FAクラス(ランキング14位)
エッソ・フォーミュラ・トヨタシリーズ<Rd.10にスポット参戦>(決勝DNF)
2003年
エッソ・フォーミュラ・トヨタシリーズ(#7 ウルトラフロースカラシップFT/FT30)(ランキング2位・優勝2回)
マカオGPフォーミュラ・ルノー参戦
2004年
フォーミュラ・ルノー2.0イタリアシリーズ(ランキング7位・優勝2回)
マカオGPフォーミュラ・ルノー参戦(18位)
2005年
フォーミュラ・ルノー2.0イタリアシリーズ(シリーズチャンピオン・優勝6回)
フォーミュラ・ルノー2.0ユーロシリーズ(シリーズチャンピオン・優勝6回)
2006年
F3ユーロシリーズ(ASM Formula3 #17 Dallara F305 Mercedes)(ランキング8位・最高位2位・Rookie Cup2006を獲得)
F3Ultimate Masters(ASM Formula3 #17 Dallara F305 Mercedes)(決勝11位)
F3マカオGP(ASM Formula3 #6 Dallara Mercedes-HWA)(予選PP・決勝19位)
2007年
F3ユーロシリーズ(ASM Formula3 #2 Dallara F305 Mercedes)(ランキング4位・優勝1回)
F3マカオGP(ASM Formula3 #9 Dallara Mercedes-HWA)(予選7位・決勝13位)
2008年
GP2アジアシリーズ(DAMS #10)(ランキング6位・優勝2回)
GP2メインシリーズ(DAMS #10)(ランキング16位・優勝1回)
2009年
GP2アジアシリーズ(DAMS #8)(シリーズチャンピオン・優勝2回)
GP2メインシリーズ(DAMS #17)(ランキング16位・最高位3位)
F1世界選手権<Rd.16,17に参戦>(Panasonic Toyota Racing #10)(ランキング18位・入賞1回)
2010年 - F1世界選手権(BMW Sauber Ferrari #23)(ランキング12位・入賞8回)
2011年 - F1世界選手権(Sauber Ferrari #16)(ランキング12位・入賞9回)
2012年 - F1世界選手権(Sauber Ferrari #14)(ランキング12位・入賞9回)
2013年 - FIA世界耐久選手権・LMGTE-PROクラス(AFコルセ #71/フェラーリ458 GTE)(シリーズ7位)
2014年 - F1世界選手権(Caterham Renault #10)(ランキング22位・入賞0回)
2015年 - 全日本選手権スーパーフォーミュラ(KYGNUS SUNOCO Team LeMans #8/ダラーラ・SF14 )(シリーズ6位)
2016年
FIA世界耐久選手権・LMP1クラス(TOYOTA GAZOO RACING #6/TOYOTA TS050 HYBRID)(シリーズ3位・1勝)
全日本スーパーフォーミュラ選手権(SUNOCO Team LeMans #8/ダラーラ・SF14)(シリーズ17位)
2017年
FIA世界耐久選手権・LMP1クラス(TOYOTA GAZOO RACING #7/TOYOTA TS050 HYBRID)(シリーズ5位)
全日本スーパーフォーミュラ選手権(KCMG #18/ダラーラ・SF14)(シリーズ7位)
SUPER GT・GT500クラス<Rd.6スポット参戦>(LEXUS TEAM WedsSport BANDOH #19 WedsSport ADVAN LC500/RI4AG)(シリーズ17位)
FIA フォーミュラE選手権<Rd.1,Rd.2スポット参戦>(MS&AD ANDRETTI FORMULA E #27/ANDRETTI ATEC-03)(シリーズ24位)
2018年
SUPER GT・GT500クラス(LEXUS TEAM SARD #39 DENSO COBELCO SARD LC500/トヨタ・RI4AG)(シリーズ13位・1勝)
全日本スーパーフォーミュラ選手権(carozzeria Team KCMG #18/ダラーラ・SF14)(シリーズ10位)
ル・マン24時間レース(TOYOTA GAZOO RACING #7/TOYOTA TS050 HYBRID)
2018-19年 - FIA世界耐久選手権・LMP1クラス(TOYOTA GAZOO RACING #7/TOYOTA TS050 HYBRID)(シリーズ2位・2勝)
2019年
ロレックス・デイトナ24時間レース(Konica Minolta Cadilac #10/Cadilac DPi-V.R)
ル・マン24時間レース(TOYOTA GAZOO RACING #7/TOYOTA TS050 HYBRID)
全日本スーパーフォーミュラ選手権(carozzeria Team KCMG #18/ダラーラ・SF19 )(シリーズ6位)
2019-20年 - FIA 世界耐久選手権・LMP1クラス(TOYOTA GAZOO RACING #7/TOYOTA TS050 HYBRID)(シリーズ2位・2勝)
2020年
ロレックス・デイトナ24時間レース(Konica Minolta Cadilac #10/Cadilac DPi-V.R)
ル・マン24時間レース(TOYOTA GAZOO RACING #7/TOYOTA TS050 HYBRID)
全日本スーパーフォーミュラ選手権(carozzeria Team KCMG #7/ダラーラ・SF19)(シリーズ16位)
2019-20年 - FIA 世界耐久選手権・LMP1クラス(TOYOTA GAZOO RACING #7/TOYOTA TS050 HYBRID)(シリーズ1位・4勝)
略歴
フォーミュラ3・ユーロシリーズ
GP2シリーズ
GP2アジアシリーズ
F1
スーパーフォーミュラ
SUPER GT
フォーミュラE
(key )
スポーツカー
FIA 世界耐久選手権
ウェザーテック・スポーツカー選手権
ル・マン24時間レース
デイトナ24時間レース
NASCAR
Cup Series
脚注
参考文献
AUTO SPORTS YEAR BOOK(三栄書房)
AUTO SPORTS(三栄書房)
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
小林可夢偉 に関連するメディアがあります。
外部リンク
世界耐久選手権 世界スポーツプロトタイプカー選手権 スポーツカー世界選手権 FIA 世界耐久選手権
現在の関係者※ 過去の関係者 現在のドライバー 過去のドライバー 車両 関連組織
※役職等は2023年 4月時点。
1998年 - 1999年 LMGT1 / LMGTP
1989年 - 1993年 IMSA GTP
1968年 - 1970年 グループ7
関連項目
創設者 主なチーム関係者 ドライバー
F1マシン
主なスポンサー
第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回
(2011.11.28) 鏑木毅
第11回 第12回
(2012.03.24) 李大浩
第13回 第14回 任命者
溝畑宏 (観光庁長官)
坪田知広(観光庁スポーツ観光推進室長)
志村格(観光庁観光地域振興部長)
関連項目