ピエール=アンリ・ラファネル(Pierre-Henri Raphanel、1961年5月27日 - )は、フランス領アルジェリア(現在のアルジェリア)・アルジェ生まれ、フランス国籍のレーシングドライバー。1985年のフランス・フォーミュラ3選手権チャンピオン。
経歴
初期
1981年にレーシングカートのフランス選手権・エリートクラスで優勝。1983年にフランス・フォーミュラ・ルノーに参戦を開始。マルティニ・MK38・ルノーで2度の表彰台を獲得しランキング5位を獲得し頭角を現す。
フォーミュラ3
1984年からフランスF3選手権にステップアップすると、マルティニ・アルファロメオで2度のポールポジション獲得とF3初優勝を挙げランキング3位を獲得。この活躍により名門オレカから誘いを受け移籍。1985年シーズンは4勝、8PPとランキング2位となったヤニック・ダルマスに大差をつけてのシリーズチャンピオンとなった。なお、同年はモナコグランプリ前座のF3GPでも優勝した(2位にファブリツィオ・バルバッツァ、4位にデイヴ・スコット)。
フォーミュラ3000
1986年にオレカのF3000チームに昇格し、国際F3000選手権第10戦ル・マンでF3000初表彰台を獲得した。1987年にマーチのF3000ワークスチームとして参戦するマールボロ・オニクスに移籍。しかし同年のチームメイト、ステファノ・モデナが3勝を挙げチャンピオンを獲得する活躍を見せた一方で、ラファネルはリタイヤが多く、ポー・グランプリでのポールポジション獲得はあったが苦戦の年となった。
1988年にオレカへと復帰、チームメイトは前年のF3チャンピオン、ジャン・アレジであった。同年のマーチ・88Bシャシーが新興レイナード製シャシーを使用するチームとの性能差が大きかったため、オレカも第3戦から二台ともレイナードにスイッチするシーズンとなった[1]。ラファネルは第4戦シルバーストンで表彰台を獲得するが、アレジやエリック・ベルナールら後輩にランキングでは抜かれてしまった。同僚のアレジはこの年のチーム事情を、「オレカではレイナードにスイッチしても、結局F3000マシンに対応できるエンジニアがいなかった。オレカではまともに走らせるセッティングが出来ない。モレノ、ドネリー、ベルナール、グルイヤールたちはみんな勝てるマシンを持ってるのに、僕とラファネルには何もないんだ。全然うまく行かなくてチームと色々言い争ったり、88年のシーズン終盤は悲劇だった。」と証言するなど、チームは苦しい状況に陥っていた[1]。そんな中で同年11月、ラファネルにオーストラリアGPにてF1デビューするオファーが届いた。
フォーミュラ1
1988年最終戦オーストラリアGPにて、中耳炎で欠場となったヤニック・ダルマスの代役として、ラルース・ローラで出走したが、結果は予選不通過に終わる。このラルースでの代役参戦は前戦日本GPに引き続き鈴木亜久里にオファーが出されていたが、オーストラリアGPと同日の開催だった富士インターTECに鈴木がNISMOから参戦することが決定済みだったためラファネルに回って来たチャンスだった。
1989年にイタリアのコローニと契約しF1レギュラーシートを得た。チームメイトはロベルト・モレノ。しかし新型車が開幕に間に合わなかったコローニで使用された旧型マシンのFC188は、実力者モレノをもってしても中位以下の戦闘力しかなく、ラファネルは第3戦モナコGPでの決勝進出(これがキャリア唯一のF1決勝レース出走となった。)以外は全て予備予選不通過と苦しいシーズンを送る。第11戦ベルギーGPを前に、ドイツに拠点を置くリアルに移籍するも、資金に苦しむチームが同年用のマシンARC2をドイツのグライダー制作工房に依頼して作らせておりシャシー剛性が極めて低く[2]、コローニの新車より戦闘力が無い状態だった。結局リアルから参戦した全戦で予選不通過となり、同年最終戦オーストラリアGPがキャリア最後のF1参戦となった。なお、リアルもこのGPを最後にF1から撤退した[3]。
日本での活動
1998年から日本のレースへも参戦し、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権、全日本ツーリングカー選手権、全日本GT選手権に参戦。トヨタのドライバーとして活躍した[4]。
2006年からブガッティ・ヴェイロンの開発ドライバーを担当している。
レース戦績
フランス・フォーミュラ3選手権
* 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。
マカオグランプリ
年
|
チーム
|
エンジン
|
周回
|
合計タイム
|
LEG1
|
LEG2
|
総合順位
|
1985年
|
オレカ
|
アルファロメオ
|
23
|
57:23.350
|
13
|
Ret
|
16位
|
国際F3000選手権
F1
全日本ツーリングカー選手権
FIA GT
全日本GT選手権
ル・マン24時間レース
関連項目
脚注
- ^ a b インタビュー ジャン・アレジー 駆け上がる階段 グランプリ・エクスプレス カナダGP号 9-11頁 1990年6月30日
- ^ V.バイドラー いつまでもニッポンで走る! Racing On No.121 86頁 1992年6月15日発行
- ^ リアルも撤退が決定 ドイツチーム全滅 グランプリ・エクスプレス '90開幕直前号 7頁 山海堂 1990年3月10日発行
- ^ TOYOTA GT合同体制発表 本気になったトヨタの気合が伝わってくる Racing On No.290 15頁 1999年3月26日発行
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