ミケーレ・アルボレート (Michele Alboreto , 1956年 12月23日 - 2001年 4月25日 )は、イタリア ミラノ 出身のレーシングドライバー。F1 やル・マン24時間レース などで活躍した。
経歴
ランチア・ベータ・モンテカルロ (1981年)
ジュニアフォーミュラ - スポーツカー世界選手権
1976年、19歳の時にモンツァ・サーキット で行われたフォーミュラ・モンツァに友人の作った車で初出場しキャリアがスタートした。1978年になるとイタリアF3 にマーチ・トヨタ で参戦開始。1979年に3勝を挙げランキング2位となる。同年はヨーロッパF3 にも進出し、翌1980年までに4勝と3度のポールポジション獲得など成功をおさめ、ティエリー・ブーツェン やコラード・ファビ 、フィリップ・ストレイフ らを破りシリーズチャンピオンを獲得した。ランチア の認める新しい才能としてランチア・ワークス より声がかかり同年よりフォーミュラと並行してスポーツカー世界選手権 (WEC)にランチア・ベータ・モンテカルロ で参戦することになった。
フォーミュラ2
1981年からヨーロッパF2 にステップアップし、ミナルディ から参戦。第7戦ポー市街地コースで初PP獲得、第11戦ミサノ で優勝を果たす。同年、若い才能の発見に長けるケン・ティレル からF1デビューのチャンスを与えられた。
ティレル時代
ティレル時代(1981年オランダGP )
1981年
ヨーロッパF2に参戦中だった1981年、ティレル のF1シートを得て第4戦サンマリノグランプリ でデビューすることになった。チームは新型マシンの製作が遅れ、旧作010 での参戦となっており、リタイアが多く予選落ちも経験したが、第12戦オランダグランプリ でチームメイトのエディ・チーバー から3戦遅れでようやくアルボレート用の新車011 が投入され、9位(DNF完走扱い)の同シーズン最高成績を出した。マルティーニ・ランチアから出場したWECではリカルド・パトレーゼ とのコンビでワトキンスグレン 6時間レースを制覇した。
1982年
ティレルは資金不足だったが、011のサスペンション構造変更や軽量化により信頼性は改善され、成績は上向く。第2戦ブラジルGPで4位に入り、F1初入賞。続くアメリカ西GP でも4位に入ると、第4戦サンマリノGPでは3位入賞、3戦連続のポイント獲得と共に初表彰台を達成した。その後何度かの入賞を経て、最終戦ラスベガスGP でF1初優勝を飾った。この勝利を見たエンツォ・フェラーリ は、「フェラーリにイタリアンを乗せれば、イタリア中のファンやマスコミによる過度のプレッシャーでそのドライバーをつぶしてしまう」という自身のポリシーに背いてでもアルボレートを獲得したいと思うきっかけになったという[ 1] 。マルティーニ・レーシング(ランチア・ワークス) からランチア・LC1 で出場したWEC では、パトレーゼやテオ・ファビ 、ピエルカルロ・ギンザーニ とのチームで出場した3戦すべてで優勝、スポット参戦であったがランキング5位となった。
1983年
参戦マシンは引き続き011であり3シーズン目の使用となったが、レギュレーション変更によるフラットボトム化、フロントウィング装着によるサイドポンツーンの小型化などがマッチングし011は戦闘力を維持できていた。またチームをベネトン がメインスポンサーとして支援し運営資金面も充実していた同年は、第7戦デトロイトGP で優勝しF1での2勝目を挙げる。この勝利は、フォード・コスワース・DFVエンジン (スペックは進化バージョンのDFYエンジン)の最後のF1勝利(通算155勝目)であるとともにティレル最後のF1勝利(通算23勝目)でもある。これを含め入賞は2回、リタイヤは15戦中8回と完走率は低かったが、チームメイトのダニー・サリバン よりも好結果を出し、ターボエンジン化の波に乗り遅れていたティレルでの活躍は高く評価された。エンツォ・フェラーリも前年から引き続き高評価していた一人であり、正式オファーを受けてスクーデリア・フェラーリ への移籍が決定。1973年 のアルトゥーロ・メルツァリオ 以来となる久々のイタリア人フェラーリドライバー誕生に、地元の期待は高まった。なお、ランチアからのWEC参戦 はフェラーリ加入によりこの年で終了となった。
フェラーリ時代
フェラーリ時代(1985年ドイツGP )
1984年
名門の一員となったアルボレートは、第3戦のベルギーGP で初のポールポジション を獲得、決勝でも独走でフェラーリでの初優勝(通算3勝目)を挙げる。この年は16戦中8回のリタイヤを喫すが、6度の入賞を記録してドライバーズランキング4位に食い込み、在籍2年目だったチームメイトのルネ・アルヌー を上回り、フェラーリのエースとなった。イタリアのファンからの支持を得ることにも成功し、往年の名ドライバーアルベルト・アスカリ の再来と呼ばれるなどティフォシ 達の人気者になった。
1985年
マクラーレン のアラン・プロスト とチャンピオン争いを繰り広げ、F1生活でのハイライトと言われる年となった。アルボレートは第9戦ドイツGP でシーズン2勝目を挙げ、ランキングトップに立ち、この時点ではアルボレートも「タイトルを絶対獲れると思っていた」という[ 1] 。しかし、第11戦オランダGP にてプロストに逆転を許した。その後アルボレートは、それまで2度のリタイアを除いて全てのレースで表彰台と安定していた成績が突然乱れ、最終戦まで5戦連続ノーポイントに終わった(リタイア4回)。この失速の原因を1992年に受けた取材でアルボレート自身が説明しており、フェラーリとマクラーレン共にドイツのKKK社(Kühnle Kopp und Kausch )製のターボチャージャー システムを使用していたが、マクラーレンのパートナーであるポルシェ が同国であるKKKに「イタリアのフェラーリに加担しないで」と圧力をかけているという情報を知ったエンツォ・フェラーリが激怒。即時にKKK製ターボの使用中止を命令し、チームマネージャーのマルコ・ピッチニーニ はターボ一式をアメリカ のギャレット(Garrett Motion )社製に変更する決定をした。この変更はエンジンにも大きな仕様変更が必要で、新システムとのマッチングは当然時間を必要とするものだった。このターボ変更によってチャンピオンはわたしから消えてしまった、と述べている[ 1] 。このシーズン終盤の失速により、ランキングは2位に留まった。このドライバーズチャンピオンシップ2位はキャリアピークの成績となった。
1986年
チームが低迷期に入り、フェラーリ・F186 もエンジンパワーで劣り戦闘力を欠いた同年は入賞4回、2位表彰台が1回。ランキングでもチームメイトのステファン・ヨハンソン (ランキング5位)を下回る8位に終わった。開幕直後からフェラーリの戦闘力のなさに失望したアルボレートは、早々と第7戦デトロイトGP 開催期間からフランク・ウィリアムズ と本格的な移籍交渉を開始し[ 2] 、ウィリアムズ・ホンダ内で不仲となっていたネルソン・ピケ とナイジェル・マンセル のどちらかが移籍することになった場合はアルボレートがウィリアムズに行くことで合意に達していたが、この時はピケ・マンセルとも残留となったため話は無かったことになりフェラーリ残留となった。
1987年
完走できれば入賞・表彰台を獲得でき、高い性能を有していたがシーズン中盤までは熟成不足だったフェラーリ・F187 のトラブルによるリタイアも多く、8戦連続リタイヤを含む10度のリタイヤを喫した。マシンの熟成が進んだ終盤に2連勝したチームメイトゲルハルト・ベルガー が台頭、2年連続でランキングでチームメイトに敗れる(ベルガー5位、アルボレート7位)など、総帥エンツォの存在が無ければエースドライバーの座が危うくなりつつあった。しかしベルガーはアルボレートに一目置いており、日本GPでの優勝は予期していたか?と問われた際には「もしミケーレがスタートを失敗していなければ(アルボレートはスタートでストールし最後方に転落していた)、彼との戦いになったはずだ。予選を終えた段階で彼か僕のどちらかが勝つだろうという予感はあったが、僕が前とは限らないと思っていた。」とシーズン後のインタビューで述べている。
1988年
マクラーレン ・ホンダ MP4/4 の圧倒的な強さにフェラーリは歯が立たず。8月には総帥エンツォ・フェラーリが91歳で死去。その直後の開催となった第11戦ベルギーGP ではアルボレートはレース序盤からマクラーレンのプロストとセナに食いつき3位を走行し続け、レース終盤35周目までその位置をキープする亡きエンツォに捧げる力走を見せたが、ターボエンジンが白煙を吹きコース脇にストップ。マシンを降りたアルボレートが悔しさから手に巻いていたテーピング を剥がし投げつける様子がTVカメラで映し出されており、サーキット内のプレスルームでは「あの紳士的なアルボレートがこんなに悔しそうにするとは」と驚きの声が上がったという[ 3] 。第12戦イタリアGP では優勝したベルガーに次ぐ2位でフィニッシュし、フェラーリのモンツァ での1-2フィニッシュに貢献。ファステストラップも記録している[ 4] 。
総帥死去後は成績でリードしていたベルガーがフェラーリのエースとなり、アルボレートはデザイナーのジョン・バーナード との対立が深刻化(フェラーリ・639 のシャシーコンセプトとセミオートマチックトランスミッション をめぐってバーナードと大喧嘩した、と自身で語っている[ 5] )。チームは新たにナイジェル・マンセル と契約。アルボレートはこの年限りでフェラーリを離れた。ウィリアムズ、ブラバム 、オニクス と交渉したが合意に至らず[ 6] 、ティレルへの復帰を最有力に年末を迎えた。
ティレルへの復帰 ラルースへのスポット参戦
1989年
古巣のティレルに6年ぶりに復帰する。しかし契約金等はなく、マールボロ からの支援と獲得賞金の何パーセントかが手に入るだけだった。この年ティレルはハーベイ・ポスルスウェイト の手による非力ながらも洗練されたマシン、ティレル・018 を使用。サンマリノGP は予選落ちとなったが、モナコGP で5位入賞、第4戦メキシコGP では3位表彰台を射止めた。
このころ、足の故障が悪化したジョニー・ハーバート の解雇を考えていたベネトン から移籍の誘いを受ける。しかしベネトン側が資金の持ち込みを要求したことから交渉が難航。そのうちにベネトンとの交渉の話が外部に洩れたことから、ケン・ティレル は代わりのドライバーとして新人ジャン・アレジ を確保、ベネトンもエマニュエル・ピロ と契約したことからシートを失ってしまう[ 7] 。
その後2戦欠場を経て、スランプに陥っていたヤニック・ダルマス の後任を探していたラルース のチーム代表・ジェラール・ラルース から声が掛かり、第9戦西ドイツGPからラルース・ローラ・LC89 の29号車のシートを得た。ラルースはマールボロのライバルであるキャメル からの支援を受けていたことから、長年支援を受けてきたマールボロとの契約を打ち切ってのラルース加入であった。完走は第13戦ポルトガルGP の1回に留まった(11位)。4回のリタイヤを喫し、ラスト3戦は決勝に進むことができなかった。特にスペイングランプリとオーストラリアグランプリは、予備予選 すら通過出来ずに終わっている。
こうしてシート獲得に苦労した一年となり、不安定な状況を繰り返したくないと前年より早めに数チームと来季シート交渉を進め、ここ数年は常に複数回入賞し安定感のある中堅チームであったアロウズ に「1stドライバーとして」契約、第14戦スペインGPの時点で来季体制を確保し復活を期した[ 8] 。
フットワークA11C ポルシェ(1991年)
フットワーク時代
1990年
アロウズにNo.1ドライバーとして移籍加入。チームメイトはイタリアの若手アレックス・カフィ となった。日本の運輸会社「フットワーク 」がメインスポンサーとなりチームの財政基盤の安定が期待されたが、トップチームと比して非力な存在となっていたDFR・V8エンジン と、前年度シャシーの熟成版であったアロウズ・A11B は戦闘力が低く、カフィ共々3度の予選落ちも喫した。全16戦中8戦で完走を果たしたが、カフィがモナコGP でサバイバルレースを生き残りポイントを獲得したのに対し、アルボレートの最高位は9位で入賞には遠いシーズンとなった。
1991年
鳴り物入りでのF1復帰となるポルシェ のワークスV12エンジンを獲得し、斬新なフロントノーズを持つニューマシン「FA12 」に多大な期待が掛けられたが、このV12エンジンは重量が非常に重い[ 注釈 1] だけでなく、パワーや信頼性も欠けており、開幕戦から予選通過にも苦労するテールエンドでの戦いが続いた。序盤の6レース限りでポルシェエンジンを諦め、第7戦からは前年使用していたフォードDFRエンジンを搭載する事態となった。「ポルシェV12用に設計したのにV8エンジンを載せてるから重量配分がめちゃくちゃ」とアルボレートがマシンを語る状況で[ 9] 、シーズン終盤に2度完走するに留まり、豪雨のため中断終了となった最終戦オーストラリアGP で記録した13位が最高成績と散々なシーズンに終わった。シーズン前半の成績が低調だったため、同年後半から予備予選 の出走義務が課され、1989年のラルース時代以来2年ぶりの予備予選不通過(ベルギーGP)の屈辱も味わった。予備予選落ち(ラルースでの2回を含め通算3回)の経験があり、なおかつF1優勝経験のあるドライバーは、アルボレートが唯一である。
1992年
チームは新たに無限ホンダV10エンジン を獲得し[ 10] 、新シャシー「FA13 」での参戦。フットワーク社がF3000 時代から支援する鈴木亜久里 がチームメイトとなった[ 11] 。フットワーク大橋渡 オーナー肝いりである亜久里は複数年契約での加入であり[ 12] 、実質上ファーストドライバー待遇であったため、フットワークには1台が昨年後半に続き予備予選の出走義務を課されていたが(アンドレア・モーダ の欠場により1、2、8戦目の予備予選は中止)、予備予選出走はアルボレートの担当となった。前年より明らかに速いマシン及びアルボレート自身の好調で予備予選は全戦通過。亜久里がリタイアや予選落ちをする中、アルボレートは第3戦ブラジルGPで6位入賞し自身1989年以来となる久々のポイントを獲得すると、第4戦スペイン・第5戦サンマリノと連続で5位に食い込み3戦連続入賞など状況が整えば速さが発揮できることを示した。ポイント獲得により後半戦は予備予選を免除され、全16戦中14戦を完走し、前年の最終戦からこの年のベルギーGPをエンジントラブルによりリタイアするまでの12レース連続完走も達成。7位完走が16戦中6回などあと一歩で入賞を逃す(当時は入賞ポイント獲得は6位まで)レースも多かったが、この年最も多くの周回数をこなしたF1ドライバーとなり[ 13] その実力が再評価される[ 14] 。アルボレート自身ものちに「いま思うと、この年がコンペティティヴなドライバーとして僕の最後のシーズンだった。」と述べている[ 15] 。
夏頃にはいくつか翌年に向けてオファーが届きはじめる中、フットワークに残ることもできたが、アルボレートは「ジュゼッペ・ルッキーニ (英語版 ) から、来季フェラーリV12エンジンを載せるから来ないか、という話が来た。加えて、フェラーリ社長のルカ・ディ・モンテゼーモロ も、僕がまたフェラーリエンジンで走れたらうれしいと言って後押ししてくれて、なびいてしまったんだ。フットワークに残るにしろ優勝を争えるわけではないので、それならイタリアンチームで戦ったほうが良いのではないかとその時は思ったんだ。結果は完全なる破錠に終わったけどね。」という理由で、スクーデリア・イタリア・フェラーリへの移籍を決断した[ 15] 。フットワークはアルボレートの後任として同年のSWC でプジョー・905 をワールドチャンピオンに導いたデレック・ワーウィック と新たに契約することになった。
スクーデリアイタリア時代(1993年イギリスGP )
スクーデリア・イタリア、ミナルディ時代、引退
1993年
BMSスクーデリア・イタリア にNo.1ドライバーとして移籍。チームメイトに前年F3000 でチャンピオン争いをした新人ルカ・バドエル が加入し新旧イタリアンコンビとなった。しかしこの年チームが使用したローラ 製シャシー「T93/30 」はホイールベースが3030mmと長大すぎる欠点があり[ 16] 、予選通過にも苦しむ出来であった。搭載するフェラーリ V12エンジンとのマッチングも最悪であった。本家フェラーリも大不振のシーズンであり「カスタマーエンジン」はそれに輪を掛けたようにパワーが無く[ 16] 、5回の予選落ちを喫し決勝での入賞は一度もないという屈辱の年となった。アルボレートはこのシーズンを「スクーデリア・イタリアには現場でリーダーシップを取れる人間が誰もいなかった。そのしわ寄せを最も受けたのはドライバーだった。フットワークに残れていた方がよかったね。」と振り返った[ 15] 。
シーズン終盤には同じく資金難にあえぎF1参戦危機となったミナルディとのチーム合併へ向けた作業が本格化し、第14戦ポルトガルGP でヨーロッパラウンドが終了すると、スクーデリア・イタリアは終盤2戦(日本 ・オーストラリア )の渡航費用を捻出できずF1から撤退したため、アルボレートも欠場となった。予選成績ではバドエルに対し6勝8敗であった。
同年シーズン終了後の11月、リカルド・パトレーゼ と契約終了し翌年に向けてエースとなったミハエル・シューマッハ のチームメイトを探していたトップ4チームの一角であるベネトンからテストドライブのオファーを受けた[ 17] 。12月13日 からカタロニア・サーキット でベネトン・B193 を4日にわたって走らせ、延べ222ラップを担当。ベネトンのオーナーであるイタリア出身のルチアーノ・ベネトン (英語版 ) は、10年前にティレルを支援した時から旧知であるアルボレートの獲得を希望し[ 18] 、シューマッハも若いチームメイトではなく経験豊かなアルボレートの加入を強く推していた[ 19] 。この合同テストではJ.J.レート もオーディションとしてベネトンで走行しており、ベストラップ(アルボレート1分19秒77、レート1分18秒66)で1秒以上アルボレートを上回ったレートがベネトンに選ばれ、アルボレートはこのあと母国のミナルディと交渉することになった[ 20] 。また、ミカ・ハッキネン のパートナーが決定していなかったマクラーレンのロン・デニス とも交渉したという[ 18] 。
ミナルディ時代(1994年モナコGP )
1994年
トップチームのシートは得られず、前年所属したスクーデリア・イタリアと合併したミナルディから参戦することになった。ミナルディにはF2時代以来12年ぶりの帰還であった。ローランド・ラッツェンバーガー とアイルトン・セナ の死亡事故が発生した第3戦サンマリノ では、決勝レース中にタイヤ交換を終了したアルボレートの後輪がピットアウト時にホイールごと外れてしまい、高速で転がったタイヤホイールが他チームのメカニックにぶつかったため複数の負傷者が出てしまった。この事故はそれまで無制限だったピットレーンでの制限速度規制をF1に導入するきっかけとなった[ 21] 。第4戦モナコ ではサバイバルレースを生き残り、6位入賞を果たす。しかし、夏場になるとミナルディ・M194 に搭載のフォードHB・シリーズVIIエンジン にトラブルが続発し3戦連続リタイア[ 21] など完走率が低下。ハンガリーGP では7位で完走したが終盤戦では目立った活躍は出来ず、この年でのF1引退をメディアにほのめかすようになった[ 22] 。F1を去る要因として、パシフィックGP やドイツGP でのスタート直後の多重クラッシュで赤旗が提示されずレースが続行されたことなど、F1のレース運営への強い不満があり、ドイツGPではクラッシュに巻き込まれていたため競技委員から状況説明のため呼び出されていたが、「無理にでもレースを強行させる連中に何を言っても無駄だ。」と怒りのコメントをして聴取を拒否し帰宅。この行為に執行猶予 付きの出場停止処分が下されるなど、アルボレートとF1競技委員との関係が悪化していた[ 21] 。
F1最後のシーズンを終えた後でアルボレートは、「常々最後はミナルディで走りたいと思っていたんだ
。僕のレース人生が始まったのも、無名の僕を最初にフェラーリに紹介してくれたのもジャンカルロ・ミナルディ なんだ。'94シーズン前は戦力の高いチームを諦めきれなくてベネトンやジョーダン とかなり接近したのは事実だけど、信頼できる友人であるジャンカルロの元でF1の幕を引けたのは良かったと思っている。F1以外の、ほかのおもしろそうな選択肢をじっくり考えてみるよ。F1の代替えになりうるのはDTMかな。」とコメント、ミナルディとの強い絆を述べている[ 15] 。
DTM時代(1995年)
事故死
1995年からアルファロメオ・155 でDTM(ドイツツーリングカー選手権) に参戦。インディ やル・マン などにも参戦し、1997年ル・マン24時間耐久レース ではトム・クリステンセン 、ステファン・ヨハンソンと組み優勝に輝いた。しかし2001年、ドイツ のラウジッツリンク にてル・マン24時間耐久レースのために行っていたアウディ・R8 のテスト走行中にタイヤがバーストしクラッシュ、ほぼ即死であった[ 23] [ 24] 。44歳没。
事故の一報はF1スペイングランプリ 開催ウィークだったカタロニア・サーキット のパドックにも伝えられ、ミカ・ハッキネン 、ミハエル・シューマッハ 、ルーベンス・バリチェロ など共にグランプリを戦ったドライバーがアルボレートへの追悼コメントを述べた[ 25] 。
エピソード
フォルツァ・ミケーレ
イタリア人ファンにとっては「イタリア人が運転するフェラーリが優勝する事 」が唯一最大の願いであり、そのファンの中でもミケーレ・アルボレートはイタリア人ファンに愛された。これにはミケーレの不運な境遇、超一流のドライビングテクニックに対する同情・賞賛がある。そのため、イタリア国内で行われるF1グランプリにはティフォシ と呼ばれるフェラーリ熱狂支持者が多数訪れるが、そのティフォシ達が絶叫する言葉は常に「フォルツァ・ミケーレ! (ミケーレ頑張れ! )」であったと言われている。
テクニック
F1カーがまだマニュアルトランスミッション を採用していた1980年代、アルボレートは「世界一のシフトチェンジテクニックを持つドライバー」といわれていた [要出典 ] 。F1ドライバーとして自身がもっとも脂がのっていた時期とフェラーリ低迷期が重なったが、そのドライビングテクニックは所属ドライバーに厳しく、時に怒りさえあらわにするエンツォ・フェラーリも高く評価しており、アルボレートからもエンツォにマシンの問題点について常に要求し、お互いにプレッシャーをかけられる関係であったという[ 1] 。エンツォ存命時のフェラーリではエンツォ・フェラーリの前でマシンへの批判的コメントは禁句だったが、それが認められたのは他にはニキ・ラウダ だけだった[ 26] 。
ヘルメットカラー
愛用のヘルメットは青地に太い黄色の一本輪で、少年時代から尊敬していたF1ドライバー、ロニー・ピーターソン のヘルメットカラーをモチーフにしたデザインだった。ピーターソンが死去するクラッシュが発生した1978年イタリアグランプリ の日も、会場であるモンツァを訪れており人目をはばからず泣いたという[ 1] 。1986年にはピーターソンのトレードマークであったバイザー上部にヒサシ付のヘルメットを使用した[ 27] 。
2代目フライング・ミラン(空飛ぶミラノ人)
1984年の活躍により、「アルベルト・アスカリの再来」と呼ばれ一躍人気者になったアルボレートだが、その彼もアスカリ同様、出身地がミラノであることから、アスカリと同じく「フライング・ミラン」とニックネームを付けられた。
余談だが、これまたアスカリ同様アルボレートも典型的な先行逃げ切り型タイプであり、1度トップに立つ(またはポールポジションを獲得する)とその後はその座を守り続けて優勝というパターンが多かった。
エンツォからの寵愛
フェラーリ入りを決めたのは、自身がイタリア人であることだけでなく、エンツォ・フェラーリから寵愛を受けたことだという。事実、エンツォは、妻と子どもの居たアルボレートに、4シーターにカスタムしたフェラーリの市販車をプレゼントしたという。しかし、1988年にエンツォの容態が悪化し死去すると、成績もベルガーに先行される事が増えていたアルボレートは後ろ盾を失い、同年限りでフェラーリからの放出が決まったが、それをチームから正式に告げられた時も「それほど悲しくはなかった。わたしはエンツォ・フェラーリあってのフェラーリ・ドライバーだったし、彼がいなければフェラーリに残る理由が無い。イタリア人レーサーにとってF1でフェラーリをドライブすることは人生で最高の出来事だった。素晴らしい日々だった。将来、フェラーリがワールドチャンピオンシップを獲得するのを願ってやまないよ。いまはマクラーレンやウイリアムズが強すぎるからすぐには無理だろうけど、1994年頃になるかな。」とコメントしフェラーリを去った。
人物
非常に義理堅い人物であった。フェラーリで活躍していた1987年当時、モンツァ近くにあるボロボロのホテルに入る所を川井一仁 と今宮純 が目撃。アルボレートはこのホテルにわざわざご飯を食べに来たのだと言う。ホテルの女性オーナーも「あらミケーレ!よく来たわね!」と喜んでおり、アルボレートはジュニア・フォーミュラ若手時代より世話になったホテルとの縁を大事にしていたのだった。
フェラーリ所属最終年となった1988年の夏には、翌1989年に向けて複数チームからオファーがあったが、他のチームのオファーは断り(フェラーリ移籍が決まったナイジェル・マンセル と入れ替わる形で)ウィリアムズとの交渉に一本化し、最終段階まで進んでいたが土壇場でウィリアムズ側から一方的に破棄された[ 2] (ウィリアムズと新たにエンジン供給契約をしたフランスのルノーエンジン搭載に不可欠であったフランス語 を話せるティエリー・ブーツェン を起用することが優先され、チームがリカルド・パトレーゼ の残留を選択したため)。アルボレートは「イタリアGP 前にウィリアムズがパトレーゼとブーツェンの起用を正式発表した時、ただただ驚いた。その瞬間から僕は酷い苦境に立たされた。来年ウィリアムズに乗ることは決まったと信じていたから、イタリアGPまでの2か月間他チームとは全く交渉を絶っていた。突然乗るマシンが無くなってしまったなんて」とその時の心境を吐露している[ 2] 。夏にアルボレートにNo.1ドライバー待遇でオファーをしていた他のチーム(ブラバム 、オニクス など[ 28] )は既に別のドライバーで席を埋めており、このためアルボレートはまだ空席を残していたが大口スポンサーを失い資金面で苦しい状況の古巣・ティレルと契約した。
1989年のティレルでは、開幕時にチームスポンサーが無く、アルボレートが個人的に支援を受けていたマールボロたばこ からの資金も重要なものだったが、6月カナダGP 終了後にオーナーのケン・ティレル からアルボレートに電話が入り「チームは今週からキャメル がスポンサーについてくれることになった。今後もティレルで走りたいなら、君とマールボロとの契約はすぐに破棄してほしい」との内容だった。アルボレートは「僕は84年以後今までマールボロから大きな支援を受けてきた。ケンはそれを知ったうえで今季僕と契約しておいて、今回事前に何の相談も無く一方的にこんな電話をしてきて、こういうやり方に僕は大いに気分を害している」とコメント[ 29] 。アルボレートがマールボロブランドを持つフィリップモリス 社に事の顛末を報告すると、マールボロの担当者は「君のキャリア継続に重要なことだから、スポンサーフィーを返したりしなくて良いし、何も気にせずキャメルカラーのマシンに乗っていいよ」と寛大な言葉を掛けられたが[ 30] 、これを聞いたアルボレートは自分が身を引くべきと考えティレルを離れた。こうして一度はF1シートを喪失したが、1ヵ月後、結果的にキャメルの支援を受けるラルース へと加入することになった[ 31] 。
1993年オフにはベネトンの空席シートをかけてJ.J.レート と同じ合同テストに参加する状況となり、トップチームのシートを争うライバルとなったが、同テスト中にまだ若いレートに話し掛けマシンについてディスカッションをし、走行後取材では「僕も彼も十分に速いってことはもう誰もが知ってると思う。どちらが選ばれるかはチームの判断で、それはチームに任せるよ」と話し友好的な関係を築いていた[ 18] 。
趣味
趣味は「F1でレースすること」と公言し、フェラーリを離れて以後、他カテゴリーの好条件のオファーがあっても、低迷するチーム状況で不遇にあってもF1でレースすることにこだわって走り続けた。不遇でも明るさは失わず、1993年にナイジェル・マンセルがインディカーに転向した際にインディ仕様のローラ・シャシー「T93/00」に乗り優勝するなど好走を見せ、自身がドライブするF1用のローラ・シャシー「T93/30 」はF1最下位に低迷する状況をして「僕はもう、インディドライバーと呼ばれているよ」とジョークを言っていた。また、1993年オフのベネトンテスト(前述)後にベネトンのシートを得られなかったら?との質問にも「ベネトンのテストドライバー就任は全く考えていない、僕はF1でレースがしたいんだ。F1ドライバーとしてまだまだ良い仕事ができると思っている。テスト走行でのF1ドライブも好きだけど、レースがしたいね」[ 18] とコメントし、レギュラーシートを求めてミナルディに移籍した。
プライベートでは読書 も趣味であった。
死後
フェラーリを去った後も「エンツォの寵愛を受けた最後のドライバー」として、ティフォシ達に敬愛、尊敬されていたアルボレートは死後に行われたF1グランプリのスタンドで、その死を悼んだティフォシによって喪章を付けたカバリーノ・ランパンテのフラッグを掲げ、ミケーレコールが行われた。また、1985年西ドイツGPで果たした優勝は、30年以上が経過した2020年時点でも『フェラーリで優勝した最後のイタリア人ドライバー 』の記録となっている。
没後20年となった2021年イタリアグランプリ にて、モンツァ・サーキット の最終コーナー「パラボリカ」の名称が、アルボレートに敬意を表し「クルヴァ・アルボレート 」と名付けられたことが発表された[ 32] 。夫人や家族、F1グループ の最高経営責任者 (CEO)ステファノ・ドメニカリ も式典に参加し、アルボレートにあらためて敬意が示された[ 33] 。
レース戦績
ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
F1
ル・マン24時間レース
ドイツツーリングカー選手権
国際ツーリングカー選手権
アメリカン・オープンホイール
インディ・レーシング・リーグ
シーズン
所属チーム数
レース数
ポール
優勝
表彰台 (Non-win)
Top10s (Non-podium)
インディ500 優勝
選手権タイトル
2
1
5
0
0
1
3
0
0
インディ500
年
シャシー
エンジン
スタート
フィニッシュ
チーム
1996年
レイナード・95I
フォード・コスワース・XB
12
30
チーム・スカンディア
脚注
注釈
^ 1987年までマクラーレンが使用していた80度V6ターボエンジンからターボを外し、そのV6エンジンを2つ繋げたものが基本構成となっていた。次期NAエンジンとしてこのV12を提案されたマクラーレンは、設計図を見てポルシェとの契約を終了してホンダエンジンと契約を望む一因となった。
出典
関連項目
創設者 主なチーム関係者 主なドライバー
1970年代 1980年代 1990年代
太字はティレルにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。
車両 主なスポンサー
チーム首脳※ チームスタッフ※ F1ドライバー F1車両 主なスポンサー 関連組織 F1チーム関係者
主なF1ドライバー
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
※年代と順序はフェラーリで初出走した時期に基づく。 ※フェラーリにおいて優勝したドライバーを中心に記載。太字はフェラーリにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。斜体はフェラーリにおいて優勝がないものの特筆されるドライバー。
創設者 主なチーム関係者 主なドライバー F1マシン
主なスポンサー 関連項目
創設者 主なチーム関係者 主なドライバー F1マシン (ダラーラ) F1マシン (ローラ) 主なスポンサー 関連項目
ヨーロッパF3選手権
ユーロF3
ヨーロッパF3選手権
FIA F3選手権