ジュール・ルシアン・アンドレ・ビアンキ(Jules Lucien André Bianchi, 1989年8月3日 - 2015年7月17日)は、フランス・アルプ=マリティーム県ニース出身のレーシングドライバー。
経歴
初期の経歴
レーシング・カート
祖父は3度のGTチャンピオンであるマウロ・ビアンキ。また、マウロの兄(伯祖父)のルシアン・ビアンキ(Luciano "Lucien" Bianchi, 1934年11月10日 – 1969年3月30日, ベルギー出身)は1959年から1968年のF1世界選手権まで活躍したF1ドライバーで、耐久レースにおいても1968年のル・マン24時間レースに優勝したというレース一家の出身。
3歳で初めてレーシングカートに乗り、5歳からカートレースを始め、2005年はフォーミュラAでアジア・パシフィックチャンピオン、2006年はフランスチャンピオンとなる。
フォーミュラ・ルノー
2007年より4輪に転向。フランス・フォーミュラ・ルノー2.0とユーロカップ・フォーミュラ・ルノー2.0に参戦し、フランス・フォーミュラ・ルノー2.0では初年度にチャンピオンを獲得する。
フォーミュラ3
2007年の終盤よりフォーミュラ3・ユーロシリーズにARTグランプリから参戦する。このころ就いたマネージャーはARTグランプリのボスであるニコラス・トッド(ジャン・トッドの息子)だった。
2008年もARTグランプリよりフォーミュラ3・ユーロシリーズに参戦。選手権3位で終えた。また、マスターズF3にも参戦し優勝した。
2009年もARTグランプリよりフォーミュラ3・ユーロシリーズに参戦。バルテリ・ボッタス、エステバン・グティエレス、エイドリアン・ターベイとチャンピオン争いを演じ、この年最多の9勝を上げて見事チャンピオンに輝いた。フォーミュラ・ルノー3.5にモナコラウンドのみ参戦したがリタイアとなった。
GP2
2010年はARTグランプリよりGP2に参戦。しかし、F1と併催されたハンガリーGPのレース1のオープニングラップでDAMSのホーピン・タンとクラッシュ[2]。脊髄を損傷し、レース2の欠場を余儀なくされた[2]。しかし、次のベルギーGPでは無事復帰した。最終的には優勝はなかったものの選手権を3位で終えた。
2011年も名称は変わったLotus ARTからGP2に参戦。1勝を上げるも前年と同様に選手権は3位となった。
フォーミュラ・ルノー3.5
2012年はF1とバッティングしないフォーミュラ・ルノー・3.5に参戦[3]。ロビン・フラインスと最終ラウンドまでチャンピオンを争ったが、選手権2位に終わった。
F1
2009年末に発足したフェラーリ・ドライバー・アカデミー (FDA) の最初の所属ドライバーとなった[4]。2011年はフェラーリのテストドライバーとして契約した[5]。
2012年はフォース・インディアとリザーブドライバーとして契約し[6]、フリー走行1回目に9回出走した。
2013年
2013年はニコ・ヒュルケンベルグが移籍して空いたフォース・インディアのシートを、エイドリアン・スーティルと競ったがシートは獲得できなかった。しかし、マルシャと契約していたルイス・ラジアにスポンサーからの支払いが期限内に振り込まれないトラブルが発生したため、代わってシートを得ることが出来た[7]。チームメイトは同じくルーキードライバーのマックス・チルトン。
開幕戦オーストラリアGPでは、予選・決勝ともにライバルチームの1つであるケータハム勢に完勝し、ルーキー勢3番手となる15位完走。このレースでビアンキは、全体の11番手のラップタイムを刻む。このタイムは終盤のベストラップとはいえセバスチャン・ベッテルらと相違ないタイムであり、チーム・マシンのパフォーマンスを考えるとかなりの好タイムであった。第2戦マレーシアGPにて獲得した13位をケータハム勢が記録する事が出来なかった為、チームのコンストラクターズランキング10位獲得に貢献する。
2014年
2013年10月、シーズン終了を待たずに2014年もマルシャF1チームに残留する事が発表された[8]。第6戦モナコGPにて、ギアボックス交換を伴い21番グリッドからのスタートとなったが、粘り強い走りを見せ8位完走する。5秒ストップペナルティをセーフティカーが入っている最中に行ったとしてレース終了後実際のタイムにさらに5秒加算されたため、9位のロマン・グロージャンと順位が入れ替わり、9位で初入賞という形となった。また、マルシャチームにとっても、前身のヴァージン・レーシング時代を含めF1における初入賞であった。結果的にこの2ポイントが効いて、マルシャはザウバーを抜いてコンストラクターズランキング9位を獲得した。
事故による昏睡〜死去
2014年10月5日、鈴鹿サーキットで開催された第15戦日本GP決勝レースにおいて、折からの台風18号に伴う雨により、44周目のダンロップ・コーナーを旋回中だったビアンキのマシンにハイドロプレーニング現象が発生。マシンのコントロールを失ったビアンキはアウト側に速度を保ったままコースアウトした。同じ場所では1周前に、ほぼ同様のケースによりエイドリアン・スーティル(ザウバー)がコースアウトしてタイヤバリアにクラッシュしており[9]、このザウバーのマシンの撤去作業をしていた6.8 tのホイールローダー(クレーン車)の後方に、コントロール不能状態に陥っていたビアンキが潜り込むような形で追突してしまった。FIA安全委員会の調査によれば、衝突時の速度は126 km/hであり、衝撃は254 G(自動車が48 m / ビル15階相当の高さから地面に落ちた衝撃と同程度)に達していたという[10]。
重い脳外傷を負ったビアンキは意識を失い[11]、救急車で四日市市の三重県立総合医療センターへ搬送され、緊急手術が行われた[12]。手術は成功し、ビアンキは人工昏睡状態におかれた上で同病院での治療が継続され、のちに自発呼吸の回復とバイタルサインの安定が認められた事から母国への移送ができると判断。11月19日にフランス・ニースのニース大学付属病院に転院した[13]。
しかし、9か月後の2015年7月13日にビアンキの親族がSNSで「現在楽観できない状況になりつつある」と発信。それから4日後の2015年7月17日夜、ビアンキは意識が戻らないままニース大病院で死去した[14]。25歳没。F1走行セッション中のドライバーの死亡事故は、1994年サンマリノグランプリでのアイルトン・セナおよびローランド・ラッツェンバーガー以来、21年ぶりのことであった。
死後
2015年7月20日、FIA会長ジャン・トッドはビアンキのカーナンバーだった『17』を永久欠番にすると発表した[15]。また、この事故が翌年からのバーチャル・セーフティーカー(VSC)システムの導入へのきっかけとなった[16]。またこのビアンキの事故と、この年にインディーカーで発生したジャスティン・ウィルソンの死亡事故[17]をきっかけに、これまでにも様々な事故で議論されていた頭部保護デバイスの導入が本格的に議論されることとなり、2018年からHalo(ヘイロー)と呼ばれる頭部保護デバイスが導入されることとなった。
ビアンキの死後最初のレースとなったハンガリーGPでは、7月26日の決勝レース前に全ドライバーが円陣を組み、1分間の黙とうを捧げた。また、各マシンには「#JB17」というステッカーが貼られた。
エピソード
- 2018年にF1デビューを果たしたシャルル・ルクレールと幼馴染だった。ルクレールと同様にニコラス・トッド率いる「オール・ロード・マネージメント(ARM)」のメンバーに加わった。ルクレールはビアンキの死後、彼も所属したフェラーリ・ドライバー・アカデミーに加入した。後に2019年にフェラーリ入りが決定、ビアンキが果たせなかった夢を実現させた[18]。この年でF1初優勝も達成した。またこのフェラーリ入りが発表される直前の2018年ベルギーGPでは、スタート直後にルクレールは多重クラッシュに巻き込まれ、他車のフロントウィング翼端板(エンドプレート)がマシンのHaloをかすめるという事故が起きた。FIAによる事故調査の最終報告書は、Haloが無かった場合、この部品がルクレールのヘルメットのバイザー部分に直撃していたと結論付けており、ビアンキの事故をきっかけに導入されることとなったHaloによって無傷で生還した[19]。
- 同郷の後輩ドライバーで、2017年にF1デビューを飾るピエール・ガスリーとも仲が良かった。
- 2013年ドイツGPはエンジントラブルでリタイアし車から離れたがマーシャルも車から離れてしまい、車を止めた場所が上り坂だったため車が独りでに動き出し、ゆっくりとバックでコースを横切った。車のギアがニュートラルになっていた為に動き出してしまったが、ルール上車から離れる際にはギアを抜きニュートラルにすることが求められているため、ビアンキに非はない。幸い他車との事故にはならなかったが、この件が原因でセーフティーカーが入りレースに影響が出た。
- 永久欠番となったカーナンバー「17」は第一希望であった「7」、第二希望であった「27」、第三希望であった「77」がいずれもキミ・ライコネン、ニコ・ヒュルケンベルグ、バルテリ・ボッタスに選択されたことによる第四希望であった(希望するカーナンバーが重複した際は前年のランキング順となるため、ビアンキは優先順位が低かった)。
- 2014年のイギリスGP後に実施されたシルバーストンテストで、イギリスGPの事故で負傷したキミ・ライコネンの代役としてビアンキがフェラーリのテストを担当した。ビアンキの死後、元フェラーリのチーム代表であるステファノ・ドメニカリは、ライコネンがチームを離脱する際には、後任にビアンキを乗せることが約束されていたと語っている[20]。なおライコネンは2018年末でフェラーリを離脱したが、そのライコネンの後任でフェラーリのシートを獲得したのはルクレールであった。
- ビアンキが在籍していたマルシャは、深刻な資金難によりビアンキの事故から2戦後のアメリカGPより、レースの欠場を余儀なくされた。しかしザウバー、ケータハムがこの年ポイントを獲得できずにシーズンを終えたため、マルシャはビアンキがモナコGPで獲得した2ポイントによってコンストラクターズ9位となった。この結果、マルシャに賞金が入り資金が調達できたため、2015年開幕戦にマノー・マルシャとしてF1に復帰。マノー・レーシングと名称が変わってはいるがチームは2016年までF1に参戦していた。マルシャと同じ時期に参戦困難となり、賞金も得られなかったケータハムF1チームは復活できず解散となっており、「ビアンキの9位」が命運を分けている。
- 2015年に向けては、フェラーリからパワーユニット供給を受けているザウバーと交渉し契約にサイン済であったとコリン・コレスがオーストリアのTV局に話している[21]。詳しくは『ザウバードライバー多重契約騒動』の項参照。
レース戦績
略歴
- † : ゲストドライバーとしての出走であるため、ポイントは加算されない。
フランス・フォーミュラ・ルノー2.0
ユーロカップ・フォーミュラ・ルノー2.0
フォーミュラ3・ユーロシリーズ
フォーミュラ・ルノー3.5・シリーズ
GP2シリーズ
GP2アジアシリーズ
フォーミュラ1
脚注
外部リンク
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