ジャスティン・ボイド・ウィルソン(Justin Boyd Wilson、1978年7月31日 - 2015年8月24日)はイギリス(イングランド)、シェフィールド出身のレーシングドライバー。身長191cm、体重88kg。
経歴
フォーミュラ・ヴォグゾールなどの下位カテゴリーを経て国際F3000に出走し、2001年にはチャンピオンを獲得した。同年にはジョーダン・グランプリのテストにも参加した。
2002年にはミナルディのテストドライバーとなり、翌2003年にはレギュラードライバーの座を得てF1に参戦した。しかし彼は191cmという長身であったため、ミナルディは大きなモノコックを製作する必要があった。
2003年のドイツグランプリ以降は、アントニオ・ピッツォニアの解雇によりジャガー・レーシングに移籍した。同年のアメリカグランプリでは8位に入賞し、初の選手権ポイントを獲得した。
2004年以降は活動の場をアメリカに移し、チャンプカーに参戦。2005年トロントで初勝利し、通算4勝の実績を残す。
2008年からはチャンプカーのインディカーとの統合に伴いインディカーにニューマン・ハース・レーシングから参戦。第16戦デトロイトで初勝利を挙げた。年間ポイントランキングでは11位に入り、ルーキーの中では武藤英紀に次いで2位であった。
2009年はニューマン・ハース・レーシングのシートを失ったが、デイル・コイン・レーシングのシートを獲得し引き続きインディカーに参戦。開幕戦のセント・ピーターズバーグではチームにとって共に最上位である予選2位・決勝3位のリザルトを残すと、第9戦ワトキンス・グレンでは予選2位から逆転で優勝を飾り、チームに旧インディカー時代から通算で参戦23年目での初優勝をもたらした。年間ポイントランキングでは9位に入った。また、この年の2強チームであったペンスキー、チップ・ガナッシ以外で勝利を挙げた唯一のドライバーであった。
2010年はドレイヤー&レインボールド・レーシングからインディカーに参戦。第2戦のセント・ピーターズバーグと第4戦のロングビーチで2位表彰台を獲得した。また、第10戦のトロントでは自身初のポールポジションを獲得すると、決勝でも優勝争いを展開し最多リードラップを記録したもののレース終盤にスピンをして遅れたこともあり7位フィニッシュにとどまった。結局この年は勝利をあげることは出来ず、年間ポイントランキングは11位だった。
2011年も前年に引き続きドレイヤー&レインボールド・レーシングからインディカーに参戦している。
2012年には古巣デイル・コイン・レーシングに移籍、テキサスでオーバル初優勝を記録した。
2015年シーズンから、アンドレッティ・オートスポーツに移籍。第14戦ミッドオハイオでは、予選14番手から巻き返し、グレアム・レイホールとのバトルに敗れながらも、2位表彰台も獲得した。
2015年8月23日に行われた、第15戦ポコノでのレース中、単独スピンでウォールにクラッシュしたセージ・カラムのマシンから飛散したやや大きめのパーツ片がヘルメットを直撃。意識を失ったウィルソンのマシンは惰性でイン側のウォールに接触し停止した。直ちにセーフティークルーによってマシンから救出されたウィルソンは、ドクターヘリでアレンタウン (ペンシルベニア州)のリーハイバレーシーダークレスト病院に搬送されたが、当日深夜、ウィルソンが意識不明の危篤状態であることがインディカーより発表された[1]。ドライバー仲間や、モータースポーツ界からも回復を祈る声が寄せられたが[2]、翌8月24日、意識が戻ることがないまま、同病院にて死去した。37歳没[3]。ウィルソンの事故の1ヶ月前には、かつて参戦していたF1でもレース中の事故で頭部に大怪我を負ったジュール・ビアンキが亡くなったばかりであったためこの事故はF1界にも大きな衝撃を与え、頭部保護デバイスの導入の議論が過熱することとなり、F1ではHalo(ヘイロー)と呼ばれる頭部保護デバイスが導入されることとなった他、インディカーでも頭部保護の一環としてエアロスクリーンが導入されることとなった。
ウィルソンは自らのレース活動を支えるための企業であるJustin Wilson plcを設立し、この企業への出資を募ることでレース参戦資金を確保している。これは、多くの新人ドライバーが少数の企業や資産家から直接資金援助を受けていることに対して、独特な手法である。
レース戦績
フォーミュラ
国際F3000選手権
ワールドシリーズ・バイ・ニッサン
F1世界選手権
(key)
フォーミュラE
(key)
アメリカン・オープンホイール
チャンプカー・ワールド・シリーズ
インディカー・シリーズ
インディ500
スポーツカー
ル・マン24時間レース
デイトナ24時間レース
脚注
リンク