インド共和国
भारत गणराज्य (ヒンディー語) Republic of India (英語)
国の標語:सत्यमेव जयते ラテン文字 転写: "satyameva jayate" (サンスクリット : まさに真理は自ずと勝利する)
国歌 :जन गण मन (ヒンディー語) ジャナ・ガナ・マナ
薄緑色は領有権をめぐり紛争中の地域。
インド (ヒンディー語 : भारत 、英語 : India )[ 注釈 2] またはインド共和国 (インドきょうわこく、ヒンディー語 : भारत गणराज्य 、英語 : Republic of India )[ 注釈 3] は[ 3] 、南アジア に位置し、インド亜大陸 の大半を領してインド洋 に面する連邦共和制国家 。首都はデリー (ニューデリー )[ 3] 、最大都市はムンバイ [ 4] 。
西から時計回りにパキスタン 、中華人民共和国 、ネパール 、ブータン 、ミャンマー 、バングラデシュ と国境 を接する[ 5] 。海を挟んでインド本土がスリランカ やモルディブ と、インド洋東部のアンダマン・ニコバル諸島 がインドネシア やタイ南部 、マレーシア に近接している。
インド本土はインド洋のうち西のアラビア海 と東のベンガル湾 という2つの海湾に挟まれて、北東部をガンジス川 が流れている。
1947年 に大英帝国 から独立。世界第一位の人口を持つ[ 5] 。国花 は蓮 、国樹は印度菩提樹 、国獣 はベンガルトラ 、国鳥 はインドクジャク 、国の遺産動物はインドゾウ である。
概要
インドは南アジア随一の面積(世界では7位 )と世界第1位 の人口を持つ国である[ 5] 。14億人を超える国民 は、多様な民族 、言語 、宗教 によって構成されている。国際連合 (UN)の予測では、総人口は2023年 に中華人民共和国 を抜いて世界最大になっており、2060年代には約17億人のピークを迎えると考えられている[ 6] 。また人口密度も世界上位であり、日本より高く中国の3倍である。
南にはインド洋 があり、南西のアラビア海 と南東のベンガル湾 に挟まれている。西はパキスタン 、北東は中国 とネパール とブータン 、東はバングラデシュ とミャンマー と地境になっている。インド洋ではスリランカ とモルディブ が近くにあり、アンダマン・ニコバル諸島 ではタイ とインドネシア との間に海上の国境がある。
インド亜大陸の歴史 は紀元前3千年紀 のインダス文明 に遡る。その時代において数々の最古の聖典はヒンドゥー教 としてまとまっていった。紀元前1千年 には、カースト に基づく身分制度が現れ、仏教 とジャイナ教 が起こった。
初期の統一国家はマウリヤ朝 とグプタ朝 において成立したが、その後は諸王朝が南アジアにおいて影響を持った。中世ではユダヤ教 、ゾロアスター教 、キリスト教 、イスラム教 が伝わり、シク教 が成立した。北の大部分はデリー・スルターン朝 に、南の大部分はヴィジャヤナガル王国 に支配された。17世紀 のムガル帝国 において経済は拡大していった。18世紀 の半ば、インドはイギリス東インド会社 の支配下に置かれ、19世紀 半ばにはイギリス領インド帝国 となった。19世紀末に独立運動が起こり、マハトマ・ガンディー の非暴力抵抗や第二次世界大戦 などのあと、1947年 に独立した。
2022年 、インドの経済 は国内総生産 (GDP)で比較すると名目では世界第5位であり、購買力平価 (PPP)では世界第3位である。1991年 に市場を基盤とした経済改革を行って以降、急速な経済成長を果たしている。インドはBRICS や上海協力機構 、G20 の加盟国である。しかし、貧困や汚職、栄養不足、不十分な医療といった問題に今もなお直面している。労働力人口の3分の2が農業に従事する一方、製造業とサービス業が急速に成長している。国民の識字率 は74.04%である。
ヒンドゥー教徒 が最も多く、ムスリム (イスラム教 徒)、シーク教 徒がこれに次ぐ。カースト制度 による差別はインド憲法 で禁止されているが、現在も農村部では影響は残っている。アジア開発銀行 はインドの中間層(1人1日消費額:2ドル - 20ドル〈2005年PPPベース〉)が2011年から15年間で人口の7割に達するとしている[ 7] 。また、アジア開発銀行と定義は異なるが、中間層(年間世帯所得5000ドル以上3万5000ドル未満)は2000年の約22%から、2017年に約50%まで上昇している[ 8] 。
連邦公用語 はヒンディー語 だが、他にインド憲法 で公認されている言語が21あり、主な言語だけで15を超えるため、インド・ルピー の紙幣には17の言語が印刷されている。人口規模で言えば世界最大の議会制民主主義 国家であり、有権者数は2023年時点で約9億7000万人である[ 9] 。
州政府が一定の独立性を持っているため、各州に中央政府とは別に政府があり大臣がいる。核保有国 そして地域大国 であり、2016年以降はモンゴル の人口に匹敵する程の世界で最も人数が多い軍隊(303万1000人〈2017年〉)[ 10] を保有し、軍事支出 は、2018年では、665億ドルで、GDP比で約2.4%支出しており、世界で4番目であった[ 11] 。
名称
インド憲法によれば正式名称はヒンディー語のभारत (ラテン文字 転写: Bhārat, バーラト)であり、英語による国名は India (インディア)である[ 12] 。政体名を付け加えたヒンディー語の भारत गणराज्य (ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)、英語の Republic of India を正式名称とする資料もあるが、実際には憲法その他の法的根拠に基づくものではない。
バーラト (サンスクリットではバーラタ )の名はプラーナ 文献に見え、バラタ族 に由来する[要出典 ] 。
英語(ラテン語 を借用)の India は、インダス川 を意味する Indus(サンスクリット の Sindhu に対応する古代ペルシア語 の Hinduš を古代ギリシア語 経由で借用)に由来し、もとはインダス川とそれ以東の全ての土地を指した[ 13] 。古くは非常に曖昧に用いられ、アフリカ大陸 東海岸をも India と呼ぶことがあった[ 14] 。
「India」は外来語であり、国際的に使用されるのは植民地時代の名残と捉えるナショナリストは、「Bharat」が正式名であるべきだと考える[誰によって? ] 。2023年のG20サミット では、インド政府が名札に「Bharat」を使用し、物議を醸した[ 15] [ 16] 。
イラン語派 の言語ではインドのことを、やはりインダス川に由来する Hinduka の名で呼び、古い中国ではこれを身毒 (『史記 』)または天竺 (『後漢書 』)のような漢字で音訳した[ 17] 。ただし水谷真成はこれらをサンスクリット の Sindhu の音訳とする[ 18] 。初めて印度 の字をあてた のは玄奘三蔵 であり、玄奘はこの語をサンスクリット indu (月)に由来するとしている[ 18] 。唐代以降の中国では印度の呼称が一般的になったが、日本では古代から明治にいたるまで天竺と呼ばれた[ 19] [ 20] 。明治期以後、日本では印度または印度をカタカナ書きした「インド」が使われるようになった[ 21] 。
国旗
1931年 にインド国民議会 が定めた3色旗 を基にしたデザイン 。トップのサフラン (オレンジ)色はヒンドゥー教 を、または勇気 と犠牲 を意味する。緑色 はイスラム教 を、白 は平和 と真理 を意味し両宗教の和合を表している。近年では宗派を連想させることを避けるため、それぞれ勇気、豊穣、平和という意味が付与された。中央には、アショカ王 の記念塔になぞらえたチャクラ(法輪) がデザインされている。なお法輪の中の24本の線は1日24時間を意味する。チャクラは、仏教 のシンボルであるため、上記2宗教と合わせて、世界四大宗教のうち3つが象徴されている[ 22] 。
歴史
ヴェーダ時代からラージプート時代まで
ナーランダ僧院 跡(ナーランダ大学)
紀元前2600年ごろから前1800年ごろまでの間にインダス川 流域にインダス文明 が栄えた。前1500年ごろにインド・アーリア人 (トリツ族 、バラタ族 、プール族 など)がパンジャーブ 地方に移住。のちにガンジス川 流域の先住民ドラヴィダ人 を支配して定住生活に入った。
インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン )を頂点とした身分制度社会(カースト制度 )に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特にバラタ族 の名称「バーラタ(भारत)」は、インドの正式名称(ヒンディー語: भारत गणराज्य, バーラト共和国)に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。
前6世紀には十六大国 が栄えたが、紀元前521年 ごろに始まったアケメネス朝 のダレイオス1世 によるインド遠征で敗れ、パンジャブ 、シンド 、ガンダーラ を失った。前5世紀に釈迦 が仏教 を説いた。紀元前330年 ごろ、アレクサンドロス3世 の東方遠征 (英語版 ) では、インド北西部のパンジャーブ で行われたヒュダスペス河畔の戦い でポロス 率いるパウラヴァ族 が敗北したものの、アレクサンドロス軍の損害も大きく、マケドニア王国 は撤退していった。撤退の際も当時の現地の住民であるマッロイ人の征服が行われた(マッロイ戦役 )。紀元前317年 、チャンドラグプタ によってパータリプトラ (サンスクリット : पाटलिपुत्रः 、現・パトナ )を都とする最初の統一国家であるマウリヤ朝 マガダ国 が成立し、紀元前305年 ごろにディアドコイ戦争 中のセレウコス朝 のセレウコス1世 からインダス川流域やバクトリア 南部の領土を取り戻した。紀元前265年 ごろ、カリンガ戦争 でカリンガ国 (現・オリッサ州 )を併合。このころ、初期仏教の根本分裂 が起こった。紀元前232年 ごろ、マウリヤ朝3代目のアショーカ王 が死去するとマウリヤ朝は分裂し、北インド は混乱期に入った。
ギリシア系エジプト人 商人が著した『エリュトゥラー海案内記 』によれば、1世紀にはデカン高原 にサータヴァーハナ朝 がローマ帝国 との季節風交易 で繁栄した(海のシルクロード )。3世紀後半にタミル 系のパッラヴァ朝 、4世紀にデカン高原でカダンバ朝 (英語版 ) が興り、インドネシア のクタイ王国 やタルマヌガラ王国 に影響を及ぼした。
これらの古代王朝の後、5世紀に、グプタ朝 が北インドを統一した。サンスクリット文学 が盛んになる一方、アジャンター石窟 やエローラ石窟群 などの優れた仏教美術が生み出された。5世紀から始まったエフタル のインド北西部への侵入は、ミヒラクラ (英語版 ) の治世に最高潮に達した。仏教弾圧 でグプタ朝は衰退し、550年 ごろに滅亡した。7世紀前半ごろ、中国の唐 から玄奘三蔵 がヴァルダナ朝 および前期チャールキヤ朝 を訪れ、ナーランダ僧院 で学び、657部の仏典 を故国へ持ち帰った。7世紀後半にヴァルダナ朝が滅ぶと、8世紀後半からはデカンのラージプート 王朝のラーシュトラクータ朝 、北西インドのプラティーハーラ朝 とベンガル ・ビハール 地方のパーラ朝 が分立した。パーラ朝が仏教を保護してパハルプールの仏教寺院 (現在はバングラデシュ領内)が建設され、東南アジア 各地のパガン仏教寺院 、アンコール仏教寺院 、ボロブドゥール仏教寺院 の建設に影響を与えた。日本 でも同時期に東大寺 が建立された。
10世紀からラージプート王朝のチャンデーラ朝 がカジュラーホー を建設した。
北インドのイスラム化と南インドのヒンドゥー王朝
11世紀 初めより、ガズナ朝 、ゴール朝 などのイスラム諸王朝が北インドを支配するようになった。一方、南インド では、10世紀後半ごろからタミル系 のチョーラ朝 が貿易で繁栄した。11世紀には中国(当時は北宋 )との海洋貿易の制海権 を確保する目的で東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国 に2度の遠征を敢行し、衰退させた。
13世紀にゴール朝で内紛が続き、アイバク がデリー・スルターン朝 (奴隷王朝 )を興してデリー に都を置き、北インドを支配した。バルバン の治世から、中央アジア を制覇したモンゴル帝国 の圧力が始まった。
14世紀初頭にデリー・スルターン朝 (ハルジー朝 )がデカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。アラー・ウッディーン・ハルジー の治世にはモンゴル帝国系のチャガタイ・ハン国 が度々侵攻してきた。デリー・スルターン朝(トゥグルク朝 )は、内紛と1398年 のティムール によるインド北部侵攻 で衰退し、独立したヴィジャヤナガル王国 やバフマニー朝 (その後にムスリム5王国 に分裂した)へと覇権が移った。
ヴィジャヤナガル王国
14世紀前半から17世紀半にかけてデリー・スルターン朝から独立したヴィジャヤナガル王国 が南インドで栄え、16世紀前半クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ 王の統治の下、王国は最盛期を迎えた。しかし、1565年 にターリコータの戦い でデカン・スルターン朝 に負け、ヴィジャヤナガル朝は衰退していき、王国最後の名君ヴェンカタ2世 (位1586 - 1614年)の奮闘も空しく、その没後に王国は滅亡した。デカン・スルターン朝もその後はお互いに争うようになり、ムガル帝国 がムスリム5王国全域を支配した。
ムガル帝国
ムガル帝国 の版図の変遷
16世紀、ティムール帝国 の末裔であったバーブル が北インドへ南下し、1526年にデリー・スルターン朝(ローディー朝 )を倒して ムガル帝国 を立てた。ムガルはモンゴル を意味する。ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国であった。第3代皇帝のアクバル は、インドの諸地方の統合と諸民族・諸宗教との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。しかし、第6代皇帝のアウラングゼーブ は、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派 のイスラム法(シャーリア )に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発した。彼は反乱を起こしたシーク教徒 や、ヒンドゥー教のラージプート 族(マールワール王国 、メーワール王国 )や、シヴァージー 率いる新興のマラーター王国(のちにマラーター同盟 の中心となる)を討伐し、ムスリム5王国の残る2王国すなわちビジャープル王国 (1686年 滅亡)とゴールコンダ王国 (1687年 滅亡)を滅ぼして帝国の最大版図を築いた。このころ、ダイヤモンド 生産がピークを迎えた。インド産は18世紀前半まで世界シェアを維持した。
アウラングゼーブの死後、無理な膨張政策と異教・異文化に対する強硬策の反動で、諸勢力の分裂と帝国の急速な衰退を招くことになった。
インドの植民地化
タージ・マハル
ヨーロッパ 諸国が大航海時代 に入り、1498年 にヴァスコ・ダ・ガマ がカリカット(コーリコード )へ来訪し、1509年 にディーウ沖海戦 でオスマン帝国 からディーウ を奪取した。1511年 にマラッカ王国 を占領してポルトガル領マラッカ (英語版 ) を要塞 化することによって、ポルトガルはインド洋の制海権を得た。このことを契機に、ポルトガル海上帝国 は沿岸部ゴア に拠点を置くポルトガル領インド (1510年 - 1961年 )を築いた。
1620年 、デンマーク東インド会社 がトランケバル にデンマーク領インド (1620年 - 1869年 )を獲得。1623年 のオランダ領東インド (現・インドネシア)で起きたアンボイナ事件 でイギリス はオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアで他の貿易先を探っていた。そのような状況で、ムガル帝国が没落してイギリス東インド会社 とフランス東インド会社 が南インドの東海岸に進出することになり、貿易拠点ポンディシェリ をめぐるカーナティック戦争 が勃発した。1757年 6月のプラッシーの戦い でムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍が敗れた。同年8月にはマラーター同盟 がデリーを占領し、インド北西部侵攻 (英語版 ) (1757年 - 1758年 )でインド全域を占領する勢いを見せた。1760年 のヴァンデヴァッシュの戦い でフランス東インド会社がイギリス東インド会社に敗れた。
一方、翌1761年 に第三次パーニーパットの戦い でマラーター同盟は、ドゥッラーニー朝アフガニスタン に敗北していた。1764年 のブクサールの戦い でムガル帝国に勝利したイギリス東インド会社は、1765年 にアラーハーバード条約 を締結し、ベンガル地方 のディーワーニー (行政徴税権、Diwani Rights )を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の植民地 化を推進した。イギリス東インド会社は一連のインドを蚕食する戦争(マイソール戦争 、マラーター戦争 、シク戦争 )を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となった。インドは1814年 まで世界最大の綿 製品供給国で、毎年120万ピースがイギリスへ輸出されていた。これに対して、1814年のイギリスからインドへの綿製品輸出は80万ピースであった。そこで産業革命 中のイギリスは関税 を吊り上げてインド産製品を駆逐する一方、イギリス製品を無税でインドへ送った。1828年には、イギリスへ輸出されたインド綿布が42万ピースに激減する一方、インドへ輸出されたイギリス製綿布は430万ピースに達した。こうしてインドの伝統的な綿織物産業は壊滅した[ 23] 。
1837年 のインド
1833年 、ベンガル総督 は、その職にあったウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク の下でインド総督 に改称された。1835年 からウィリアム・ヘンリー・スリーマン (英語版 ) がカーリー を崇拝する殺人教団「サギー教 」の掃討戦(1835年 - 1853年 )を開始した。イギリスは近代的な地税制度を導入してインドの民衆を困窮させた。インドで栽培されたアヘン を中国へ輸出するためのアヘン戦争 (1840年 )が行われ、三角貿易 体制が形成された。そしてこのころにタタ財閥 やバンク・オブ・ウェスタン・インディア が誕生した。
インド大反乱 (1857 - 1858年)をきっかけにして、イギリス政府 は1858年インド統治法 (英語版 ) を成立させてインドの藩王国 による間接統治 体制に入り、バハードゥル・シャー2世 をビルマ に追放してムガル帝国を滅亡させた(1858年 )。その後、旱魃 によるオリッサ飢饉 、ラージプーターナー飢饉 、ビハール飢饉 (英語版 ) 、大飢饉 (英語版 ) が続けて発生し、藩王国からイギリス直轄領に人々が移動したため支援に多額の費用を出費する事態になった。藩王国の統治能力を見限ったイギリス政府はインドの直接統治体制に切り替えることになり、1877年 にイギリス領インド帝国 が成立した。
1870年代から1890年代にかけて、4,000万人近いインド人が相次いで飢饉で命を落とした。歴史家のニール・ファーガソンによれば、「飢餓の窮状に対する無能、怠慢、無関心の明らかな証拠がある」というが、植民地行政はただ受動的であっただけで、直接的な責任はない。それどころか、ジャーナリストのヨハン・ハリ氏は、「イギリスは飢饉の間、何もしなかったどころか、事態を悪化させるために多くのことをした」と言う。当局は、インド国内で何百万人もの死者が出ていることを気にすることなく、大都会への輸出を奨励し続けたことだろう。歴史学者で政治活動家のマイク・デービスも、飢饉の時に「ロンドンがインドのパンを食べていた」という説を支持している。さらに、ロバート・リットン総督は、「不摂生」「労働能力なし」と言われることもある飢えた人々への援助を禁止した。被災していない地域の新聞は、飢饉のことをできるだけ報道しないようにと指示された。マイク・デイビスによれば、リットン卿は、「自由主義経済に固執することで、インドの人々を曖昧に助けている」という考えに導かれていたという[ 24] 。
イギリス統治時代
イギリスはインド人知識人層を懐柔するため、1885年 12月には諮問機関としてインド国民会議 を設けた。1896年 にボンベイ(現・ムンバイ )でペスト の感染爆発 (英語版 ) が発生した際に強硬な住民疎開 を実施したイギリスの伝染病対策官が翌年に暗殺 された。このとき、関与を疑われたロークマンニャ・ティラク が逮捕され、出所後に「スワラージ 」(ヒンディー語 : स्वराज )を唱えた。1899年、屈辱的な金為替本位制 が採用され、15インド・ルピー と1スターリング・ポンド が等価とされた。イギリスはインド統治に際して民族の分割統治 を狙って1905年 にベンガル分割令 を発令したが、分割への憤りなどから却って反英機運が一層強まった。ただし、この頃の目標は、イギリス宗主権下の「自治」である。
イギリスはさらに独立運動の宗教的分断を図り1906年 に親英的組織として全インド・ムスリム連盟 を発足させたものの、1911年 にはロークマンニャ・ティラク などのインド国民会議の強硬な反対によってベンガル分割令の撤回を余儀なくされた。
1905年 の日露戦争 における日本 の勝利などの影響を受けたこと、民族自決 の理念が高まったことに影響され、ビルラ財閥 などの民族資本 家の形成に伴いインドの財閥 が台頭し民族運動家を支援したことから、インドではさらに民族運動が高揚した。1914年 に始まった第一次世界大戦 ではインド帝国はイギリス帝国 内の自治領の一つとして、英印軍 が参戦した。挙国一致内閣 のインド相 は戦後のインド人による自治権を約束し、多くのインド人が戦った。
1916年 にはムハンマド・アリー・ジンナー ら若手が主導権を握った全インド・ムスリム連盟がインド国民会議との間にラクナウ協定 (英語版 ) を締結し、「全インド自治同盟 (英語版 ) 」(Indian Home Rule Movement )が設立された。第一次世界大戦に連合国 は勝利したものの、インド統治法 によってインドに与えられた自治権はほとんど名ばかりのものであった。このためインド独立運動はより活発化した。1919年 4月6日からマハトマ・ガンディー が主導していた非暴力独立運動(サティヤーグラハ )は、1919年 4月13日のアムリットサル事件 を契機に、それに抗議する形でそれまで知識人主導であったインドの民族運動を幅広く大衆運動にまで深化させた。さらに、ヒラーファト運動 とも連動したことで、宗教の垣根を越えて非暴力・不服従運動は展開された。しかし、1923年になると暴力運動が発生したことによる運動中止とムスリムとの対立再燃によって、国民会議派主体の運動は停滞した。代わりに、全インド労働組合会議 やインド共産党 が活動するようになった。
1930年 にはインド自治のあり方を検討するための英印円卓会議 (英語版 ) が開始された。また、世界恐慌の影響でインド経済も打撃を受ける中、「完全独立」を求めるジャワハルラール・ネルー が台頭してきた。また、再起したガンディーによる塩の行進 が行われ、ガンディーの登場はイギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。1937年には地方選挙が実施され、国民議会が勝利した[ 25] 。
1939年 に始まった第二次世界大戦 においては、イギリスの参戦により自動的にインド帝国もまた再び連合国 として参戦したが、国民会議派はこれに対して非協力的であった。太平洋戦争 において日本の軍隊が、マレー半島 や香港 、シンガポール などアジアにおいてイギリス軍を破り(南方作戦 )、さらにインド洋でイギリス海軍 に打撃を与え(インド洋作戦 )インドに迫った。こうした中、国民会議派から決裂したスバス・チャンドラ・ボース が日本の援助でインド国民軍 を結成するなど、枢軸国 に協力して独立を目指す動きも存在した。国民会議の一部も断固として分離独理を求める「インドを立ち去れ運動 (英語版 ) 」を展開していたが、ファシズム との闘いを優先したいネルーと、反英闘争を優先したいガンディーの間に溝があった。それでも、1942年8月には戦争継続中に限るイギリス軍の駐留容認を条件に全面的な会の方針となり、運動が本格化した[ 26] 。なお、ガンディーは戦争初期の日本軍に勢いがあったときに、日本軍との連携も考えたが、日本がやっていることも結局は英国の植民地支配と変わらないと考えたことや、ネルー派の反対から具現化はしなかった[ 26] 。
独立
インド初代首相ジャワハルラール・ネルー (左)と、インド独立の父マハトマ・ガンディー (右)
1945年 7月5日にイギリスで総選挙 が行われアトリー 内閣が誕生。その後、8月15日にイギリスを含む連合国に対し日本が降伏 した。それに先立って、インパール作戦 に失敗した日本軍はビルマ戦線 でイギリスに押し返されていた。ボースは戦線に加わり、外から国民蜂起を狙ったが、ネルーはもし侵攻してきたら抵抗するつもりだと述べている[ 27] 。なお、ボースは、日本の敗北を受けて、ソ連 と接触しようとする最中に事故死した。この「インパール戦争」(インド国民軍メンバーによる呼称)にてイギリスの排除を試みたインド国民軍 の将兵3人が1945年11月、「国王 に対する反逆罪」でレッド・フォート で裁判にかけられ、極刑 にされることが決まった。この見せしめのような裁判はインドの民衆から大きな反発を呼び、各地で大暴動が勃発。結果的にこの反乱は、インド独立に向けての大衆運動の大きな引き金となった[ 27] 。また、1946年 8月16日、ムハンマド・アリー・ジンナー が直接行動の日 (英語版 ) を定めると、カルカッタの虐殺 が起こり、国内の宗教間対立も激化した。
第二次世界大戦の疲弊と脱植民地化の流れからイギリス本国が独立を容認したものの、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、前日に成立したイスラム国家 のパキスタン とインド連邦 は分離独立 した。両国は、独立直後の10月にカシミール 帰属問題から印パ戦争 を起こし、それは三次まで続き、現在も解決がついておらず、互いに核 開発を競うなど憎しみを深めている。
インドの初代首相(外相兼任)にはジャワハルラール・ネルー が、副首相兼内相にはヴァッラブバーイー・パテール が就任し、この新内閣が行政 権を行使した。1946年12月から1950年まで憲法制定議会 が立法権 を行使し、それはインド憲法の施行後、総選挙で成立したインド連邦議会に継承された。司法権は新設置のインド最高裁判所 に移行した。さらに憲法制定議会議長のR.プラサード が大統領に、不可触賎民出身で憲法起草委員長のB.R.アンベードカル が法務大臣に就任した。
1948年 1月30日、マハトマ・ガンディーは、ムスリムに対するガンディーの「妥協的」な言動に敵意を抱いていた、かつてヒンドゥー教のマラータ同盟 のあったマハーラーシュトラ州 出身のヒンドゥー至上主義 「民族義勇団 」(RSS)活動家のナトラム・ゴドセ によって、同じヒンドゥー教のマールワール 商人ビルラ の邸で射殺された。インドは同年9月13日、ポロ作戦 でニザーム王国 を併合した。
独立後
インドは政教分離 の世俗主義 という柱で国の統一を図ることになり、1949年 11月26日にインド憲法が成立し、独立時の英連邦王国 から1950年 1月26日に共和制に移行した。
憲法施行後、1951年10月から翌年2月にかけて連邦と州の両議会議員の第一回総選挙が行われた。結果は会議派が勝利し、首相にネルーが就任した。ネルー政権下では民主主義が堅持される一方、幅広い支持基盤を獲得した与党・国民会議派が選挙で圧勝を続け、一党優位政党制 となっていた。独立後、他の社会主義国 ほど義務教育 の完全普及や身分差別 廃止の徹底はうまくいかなかった。1954年 、フランス領インド が返還されてポンディシェリ連邦直轄領 となった。1961年 12月、インドのゴア軍事侵攻 が起き、1961年 12月19日にポルトガル領インド がインドに併合された。1962年 に中印国境紛争 が勃発し、アクサイチン を失った。
第5・8代首相インディラ・ガンディー
1964年にはネルーが死去し、その後継のラール・バハードゥル・シャーストリー も1966年 に死去すると、同年から長期にわたってジャワハルラール・ネルーの娘、インディラ・ガンディー の国民会議派 が政権 を担った。
東西冷戦 時代は、非同盟 運動に重要な役割を果した国であったが、パキスタンとはカシミール問題 と、3度の印パ戦争 が勃発し、長く対立が続いた。特に第三次印パ戦争 (1971年 12月3日 - 12月16日)にはソ連 とインドがともに東パキスタン を支援して軍事介入し、パキスタンを支援する中華人民共和国 と対立した。インドとソ連の関係が親密化したことは、中ソ対立 や米国ニクソン大統領の中国訪問 (1972年 2月)へも大きな影響を与えた。1972年7月、シムラー協定 でバングラデシュ 独立をパキスタンが承認 した。
1974年 5月18日、核実験 (コードネーム「微笑むブッダ 」)が成功し、世界で6番目の核兵器 保有国となった。
1976年 11月2日、憲法前文に「われわれインド国民は、インドを社会主義 ・世俗主義的民主主義 [ 30] 共和制の独立国家とし、すべての市民に保証することを厳かに決意する」と議会制民主主義国家であると同時に社会主義の理念が入った。インディラ・ガンディー政権は強権的な姿勢により支持を失い、1977年 の選挙ではジャナタ党 を中心とする野党連合に敗れて下野し、独立後初の政権交代が起こった。しかし成立したモラルジー・デーサーイー 政権は内部分裂によって支持を失い、1980年の選挙では、インディラ・ガンディーと国民会議派が返り咲いた。インディラはその後も首相の座を維持したが、1984年 6月に実施したシク教 過激派に対するブルースター作戦 への報復として、同年10月シク教徒のボディガードにより暗殺 された。そこで息子のラジーヴ・ガンディー が首相を引き継いだ。1983年 、隣国でスリランカ内戦 が勃発したため平和維持軍 を派遣した。
1987年 4月、ボフォール 社からの兵器(野砲)購入をめぐる大規模な汚職事件が明るみに出た[ 33] 。ラジーヴ首相も関わっているのではないかとの疑惑が広まった。これは1989年11月の解散総選挙につながった。1991年 5月にタミル系武装組織タミル・イーラム解放のトラ の自爆テロ でラジーヴも暗殺された。後を継いだナラシンハ・ラーオ 政権では、マンモハン・シン 蔵相の元で1991年 7月から始まった経済自由化 (英語版 ) によって経済は成長軌道に乗り、特にこれ以降IT分野が急成長を遂げた。1992年12月、アヨーディヤー のイスラム建築バーブリー・マスジド がヒンドゥー原理主義者 らに破壊される事件が発生、宗派対立となった。
第13・16代首相アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー
1996年 の総選挙でインド人民党 が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー 政権が誕生した。1997年6月25日、初の不可触賎民出身の大統領、コチェリル・ラーマン・ナラヤナン が就任した。
1998年 5月11日と13日、ヴァージペーイー政権がコードネーム「シャクティ 」を突如実施。核保有国 であることを世界に宣言した。5月28日と5月30日にはパキスタンによる初の核実験 が成功した。1999年 5月、パキスタンとのカシミール 領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争 に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。
2004年の総選挙 では国民会議派が勝利して政権を奪回し、マンモハン・シンが首相に就任した。同年12月26日、スマトラ島沖地震 が起こった。震源地に近いアンダマン・ニコバル諸島 を中心とした地域の被害は甚大であった(死者1万2,407人、行方不明1万人以上)。
2008年 11月26日、デカン・ムジャーヒディーン によるムンバイ同時多発テロ では、死者172人、負傷者239人を出した。
連邦下院の総選挙 が2009年 4月16日に始まり、5月13日まで5回に分けて実施された。有権者 は約7億1,400万人。選挙結果は5月16日に一斉開票され、国民会議派は206議席を獲得して政権 を維持した。一方、最大野党インド人民党 (BJP)は116議席にとどまった。
2014年5月開票の総選挙 ではインド人民党が大勝し、10年ぶりに政権交代 が実現。5月26日、ナレンドラ・モディ が第18代首相に就任し、人民党政権が発足した[ 39] 。2017年6月、印パ両国が上海協力機構 へ正式に加盟した。
2019年インド総選挙 では、インド人民党が過半数の議席を獲得した[ 40] 。
2024年インド総選挙 ではインド人民党がローク・サバー の過半数の議席を獲得できなかったが、与党連合は過半数の議席を維持した[ 41] 。
政治
インドの政治の大要は憲法に規定されている。インド憲法 は1949年に制定、1976年 に改正され、以後修正を加えながら現在に至っている。
インド人民党 (BJP)の基盤となっているのが、国父ガンジー の暗殺者 、ナトラム・ゴドセ を輩出したヒンドゥー至上主義 の極右 ・ファシスト 団体民族義勇団 (RSS)であり、党首のナレンドラ・モディ もこのRSSの元活動家である[ 42] [ 43] 。モディ率いるBJPは国民の8割を占めるヒンドゥー教徒 の優遇を鮮明にし、北部アヨーディヤ のイスラム教 のモスク 跡地に大規模なヒンドゥー教寺院を建立するなど、カースト を問わず支持を集めている[ 44] 。
一方で国連 人権審査は、BJPが人権活動家 、ジャーナリスト 、平和的なデモ 参加者を訴追 しており、イスラム教徒や宗教的少数派への攻撃とその為の扇動 、差別 、ヘイトスピーチ を発生させているとして警告している[ 45] [ 46] 。
選挙
日本の約9倍の国土に100万カ所以上の投票所 が設置される。2024年の総選挙では、投票所の管理や治安面の課題から、投票は州や地域を7つに分けて4月19日から順次実施し、6月4日に一斉開票する。543議席を小選挙区で選び、2議席は大統領が指名する[ 47] 。
行政
国家元首 は大統領 。実権はなく、内閣(Union Council of Ministers )の助言に従い国務を行う。議会 の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出される。任期5年。
副大統領は議会で選出される。大統領が任期満了、死亡、解職で欠ける場合は、副大統領の地位のままその職務を行う。任期は大統領と同じ5年だが、就任時期をずらすことで地位の空白が生ずることを防止する。また、副大統領は上院の議長を兼任する。
行政府 の長は首相 であり、下院議員の総選挙後に大統領が任命する。内閣は下院議員の過半数を獲得した政党 が組閣を行う。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。内閣は下院に対して連帯して責任を負う(議院内閣制 )。また、連邦議会の議事運営、重要問題の審議・立法化と国家予算の審議・決定を行う。
立法
議会は両院制 で、州代表の上院 (ラージヤ・サバー )と、国民代表の下院 (ローク・サバー )の二院により構成される。
上院250議席のうち12議席を大統領が有識者の中から指名する。任期は6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。大統領任命枠以外は、各州の議会によって選出される。下院は545議席で、543議席を18歳以上の国民による小選挙区制 選挙で選出し、2議席を大統領がアングロ・インディアン(British Indians 、イギリス系インド人。植民地時代にイギリス人 とインド人との間に生まれた混血 のインド人、もしくはその子孫の人々)から指名する。
任期は5年だが、任期途中で解散される場合がある。有権者の人口が多いため、選挙の投票は5回にわけて行われる。選挙は小選挙区制で、投票は用紙に印刷された政党マークに印を付ける方式であり、今日まで行われている。
なお、インドは民主的なプロセスを経て選挙が行われている国の中で世界最大の人口を誇る。そのためしばしば「世界最大の民主主義国家」と呼ばれることがある。
政党
司法
司法権 は最高裁判所と高等裁判所の2ヶ所に委ねられている。
法律
国際関係
インドが外交使節を派遣している諸国の一覧図(青)
独立後、重要な国際会議がインドで開かれ、国際的な条約や協約が締結されている。
1947年3月、デリーでアジア問題会議が開催され、新生のアジア諸国が直面視する諸問題が討議された。
1949年2月、デリーでアジア19か国会議が開催され、オランダ のインドネシア再植民地化が、批判すべき緊急の政治課題として討議された。
1949年11月、コルカタでインド平和擁護大会が開催された。
1949年12月、ビルマ(ミャンマー)に続いて中華人民共和国を承認した。
1950年10月、北インドのラクナウ で太平洋問題調査会の第11回国際大会が開催された。ネルーが「アジアの理解のために」と題して基調演説を行った。
1954年4月、中国の首都・北京 で中印双方は「中印両国の中国チベット地方とインドとの間の通商と交通に関する協定」に調印し、そこで平和五原則 (パンチャ・シーラ)を確定した。それは領土・主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和的共存からなっていた。
1955年4月、バンドン (インドネシア)でアジア・アフリカ会議 が開催された。14億の諸民族を代表する29か国の指導者が参加した。平和五原則に基づく諸原則を承認した。スカルノ 、周恩来 、ネルー 、ナセル などが参加していた。
1961年9月、ベオグラード (ユーゴスラビア )で第1回非同盟諸国首脳会議 が開催された。チトー、ナセル、ネルーなどがアジアとアフリカの25か国代表が参加した。戦争 の危機回避を求めるアピールが採択された。
インドの首相 ナレンドラ・モディ とマレーシアの首相 マハティール・ビン・モハマド (2018年5月31日)
インドは日本、米国、オーストラリアとQUAD を結成している[ 48] 。
領土紛争
カシミール 地方においてインドとパキスタン、中華人民共和国との間で領土紛争があり、特にパキスタンとは激しい戦闘が繰り返され(印パ戦争 )、現在は停戦 状態にある。インドの主張するカシミール地方は、ジャンムー・カシミール連邦直轄領 及びラダック連邦直轄領 となっている。中国の実効支配地域にはレアメタル が埋蔵されている。
これとは別に、インド東部アッサム州 北部のヒマラヤ山脈 南壁は、中国との間で中印国境紛争 があったが、中国側が自主的に撤退し、現在はインドのアルナーチャル・プラデーシュ州 となっている。
日本との関係
近代以前の日本 では、中国経由で伝わった仏教 に関わる形で、インドが知られた(当時はインドのことを天竺 と呼んでいた)。東大寺 の大仏の開眼供養 を行った菩提僊那 が中国を経由して渡来したり、高岳親王 のように、日本からインドへ渡航することを試みたりした者もいたが、数は少なく、情報は非常に限られていた。日本・震旦 (中国 )・天竺(インド)をあわせて三国と呼ぶこともあった。
1903年に日印協会 が設立される。第二次世界大戦では、インド国民会議から分派した独立運動家のチャンドラ・ボース が日本軍 の援助の下でインド国民軍 を結成し、日本軍とともにインパール作戦 を行ったが、失敗に終わった。チャンドラ・ボース以前に、日本を基盤として独立運動を行った人物にラース・ビハーリー・ボース (中村屋のボース)やA.M.ナイル らがいる。ラース・ビハーリー・ボースとA.M.ナイルの名前は、現在ではむしろ、日本に本格的なインド式カレー を伝えたことでもよく知られている。
1948年 、極東国際軍事裁判 (東京裁判)において、インド代表判事パール判事(ラダ・ビノード・パール 、1885年 1月27日 - 1957年 1月10日 )は、「イギリスやアメリカが無罪 なら、日本も無罪である」と主張した。またインドは1951年 のサンフランシスコで開かれた講和会議 に欠席。1952年 4月に2国間の国交 が回復し、同年6月9日 に平和条約 が締結された。インドは親日 国であり、日本人 の親印感情も高いと考えられているのは、こうした歴史によるものがある[ 49]
1957年 5月24日 、インドを訪問した岸信介 首相 を歓迎する国民大会が開催され、3万人の群衆の中、ジャワハルラール・ネルー は、日露戦争 における日本の勝利がいかにインドの独立運動に深い影響を与えたかを語ったうえで、「インドは敢えてサンフランシスコ条約 に参加しなかった。そして日本に対する賠償 の権利を放棄した。これは、インドが金銭的要求よりも友情 に重きを置くからにほかならない」と演説した[ 50] 。
チャンドラ・ボース 率いるインド国民軍 が基礎となって独立戦争を戦ったインドは、その過程での日本との関わりから、東京裁判史観 に否定的であり、1994年 に駐日インド大使館 の協力で日本の取材班が訪印し、インドの識者に対して、日本の戦争賠償 や戦争犯罪 に対する告発に賛成しなかったラダ・ビノード・パール の評価を尋ねたところ、インド教育省 (英語版 ) 事務次官だったP.N. チョプラ博士は、ラダ・ビノード・パール はインド政府 の立場を十分に説明しており、過去と現在を問わずインド政府 は全てのインド人 とともにラダ・ビノード・パール の判決を支持しており、インド政府 が公式に東京裁判史観 否定の立場をとっていることを明らかにした[ 50] 。
広島 の原爆記念日 である毎年8月6日 に国会が会期中の際は黙祷を捧げているほか、昭和天皇 崩御 の際には3日間喪 に服したほどである[ 50] 。また、1970年代ごろからは、日本プロレス 界でインド出身のタイガー・ジェット・シン が活躍し、当時人気があったプロレスを大いに賑わせた。しかし、インド人の日本への留学者は毎年1,000人以下と、他のアジアの国の留学生の数に比べて極端に少ないが、近年ではITを中心とした知的労働者の受け入れが急速に増加している。
2001年のインド西部地震 では日本は自衛隊インド派遣 を行い支援活動を行った。日本政府 は「価値観外交 」を進め、2008年 10月22日には、麻生太郎 、シン 両首相により日印安全保障宣言 が締結された[ 51] 。日本の閣僚としては、2000年 に森喜朗 総理大臣 (8月18日 - 26日 の東南アジア 訪問の一貫)、2005年 に小泉純一郎 総理大臣(デリー )、2006年 1月に麻生太郎外務大臣 (デリー)、2006年 アジア開発銀行 年次総会の際に谷垣禎一 財務大臣 (ハイデラバード )、2007年 1月に菅義偉 総務大臣 (デリーとチェンナイ )、2007年 8月に安倍晋三 総理大臣(ニューデリー とコルカタ )、2009年 12月に鳩山由紀夫 総理大臣(ムンバイ とデリー)がそれぞれ訪問している。
2011年 8月1日 に日本・インド経済連携協定 が発効した。2012年 4月に日印国交樹立60周年を迎え、日本とインドで様々な記念行事が実施された[ 52] 。2014年 8月30日、モディが首相として初来日し、安倍首相 主催による非公式の夕食会が京都市 の京都迎賓館で開かれた。日印首脳会談は9月1日に東京で行われ、共同声明の「日印特別戦略的グローバル・パートナーシップに関する東京宣言」では「特別な関係」が明記され、安全保障面では、外務・防衛閣僚協議(2プラス2)の設置検討で合意、シーレーン の安全確保に向けた海上自衛隊 とインド海軍 の共同訓練の定期化と、経済分野では日印投資促進パートナーシップを立ち上げ、対印の直接投資額と日本企業数を5年間で倍増させる目標を決定した[ 53] 。
イギリスとの関係
17世紀、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進し、インド産の手織り綿布(キャラコ )がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争 が起こり、フランス東インド会社 の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い )、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。1765年にベンガル地方 の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社 主導の植民地化が進み、1763年のパリ条約 によってフランス勢力をインドから駆逐すると、マイソール戦争 、マラータ戦争、シク戦争などを経てインド支配を確立した。イギリス東インド会社は茶、アヘン 、インディゴ などのプランテーション を拡大し、19世紀後半にはインドでの鉄道建設を推進した。
イギリス支配に対する不満は各地で高まり、インド大反乱 (セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)となった。イギリスは、翌年にムガル皇帝を廃し、東インド会社が持っていた統治権を譲り受け、インド総督 を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王ヴィクトリア がインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国 が成立した。第一次世界大戦で、イギリスは植民地インドから100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。しかし、イギリスはインドに対して戦後に自治を与えるという公約を守らず、ウッドロウ・ウィルソン らの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて民族運動はさらに高揚したが、アムリットサル事件 が起きた。
しかし、非暴力 を唱えるマハトマ・ガンディー 、ジャワハルラール・ネルー により反英・独立運動が展開された。ガンディーは「塩の行進 」を開始したが成功しなかった。
第二次世界大戦では日本に亡命 したチャンドラ・ボース が日本の援助によってインド国民軍 を結成し、インド人兵士は多くが志願した。
インドは念願の独立後の1950年代以降も、多くのインド人が就職や結婚など様々な理由で、景気 の見通しが上向きであった英国に移住した。当時、英国政府 は移民の管理に懸命に務めたものの、1961年には既に10万人以上のインド人や隣国のパキスタン人 が定住していたと記録に残っている。彼らの多くは英国に既に移住している同郷人が親族を呼び寄せるという「連鎖移住」の制度を利用した。現在、英国に住むインド出身の人々は西ロンドンのサウソール、ウェンブリー 、ハウンズロー、バーネット、クロイドン 、郊外では東西ミッドランズ、マンチェスター 、レスター にコミュニティーを作っている。またイギリスでは医師の3割がインド人である。
インドは歴史的に反英感情がまだ少なからず残っているものの、旧宗主国 が普及させた世界共通語である英語 を使い、英語圏 中心に商売をしている。
アメリカ合衆国との関係
冷戦 期は非同盟中立 (実態は旧ソ連 寄り)のインドと、パキスタンを軍事パートナーとしていたアメリカ合衆国 との関係はよくなかった。冷戦終結を契機に印米関係は改善を見せ始める。1998年の核実験 を強行した際にはアメリカをはじめ西側諸国から経済制裁を受けたが、現在では経済軍事交流をはじめとして良好な関係を築いている。インドではソフトウェア 産業の優秀な人材が揃っており、英語を話せる人材が多いためアメリカへの人材の引き抜きや現地でのソフトウェア産業の設立が盛んになっている。そのため、ハイテク産業でのアメリカとのつながりが大きく、アメリカで就職したり、インターネット を通じてインド国内での開発、運営などが行われたりしている。NHKスペシャル の「インドの衝撃」では、NASA のエンジニアの1割はインド人(在外インド人 )だと伝えている。
また、アメリカとインドは地球の反対側に位置するため、アメリカの終業時刻がインドの始業時刻に相当し、終業時刻にインドへ仕事を依頼すると翌日の始業時刻には成果品が届くことからもインドの優位性が評価されるようになった(→オフショアリング )。
一時期、シリコンバレー は“IC”でもつと言われたことがあるが[誰によって? ] 、この場合のICは集積回路 のI ntegrated C ircuitsを指すのではなくインド人と中国人 を意味する。
英語の運用能力が高く人件費も低廉なため、近年アメリカ国内の顧客を対象にしたコールセンター 業務はインドの会社に委託(アウトソーシング )されている場合が多い。多くのアメリカ人 の顧客にとってインド人の名前は馴染みがないため、電話応対の際インド人オペレーターはそれぞれ付与された(アングロサクソン 系)アメリカ人風の名前を名乗っている。
アメリカとの時差 は12時間で、アメリカで夜にITの発注をかけてもインドでは朝である。そのためにアメリカで発注をかけた側が就寝して朝目覚めれば、インドから完成品がオンラインで届けられている場合もある。この言語と時差の特性を利用し、インドにコールセンターを置く企業も増えつつあるといわれている。
アメリカの科学者の12%、医師の38%、NASAの科学者の36%、マイクロソフト の従業員の34%、IBM の従業員の28%、インテルの従業員の17%、ゼロックスの従業員の13%がインド系アメリカ人 であり、インド系アメリカ人は100万 - 200万人ほどいると言われている。印僑の9人に1人が年収1億円以上、人口は0.5%ながら、全米の億万長者の10%を占める。彼らはアメリカのITの中枢を担っているためシリコンバレーに多く住んでおり、シリコンバレーにはインド料理店が多い。
また、アイビー・リーグ などのアメリカの大学側はインドに代表団を派遣して学生を集めるための事務所を構えたり、優秀なインド人学生をスカウトしたりするなどの活動もあり、アメリカに留学するインド人学生は多く、アメリカ合衆国移民・関税執行局 (ICE)調査によれば中国人学生の次に多い。インド人学生の4分の3以上が科学、技術、 工学、数学(STEM )分野を学んでいる。
また後述するように、アメリカ国内ではインド人に対する深刻な嫌がらせは基本的に見られない。強いて言うならばアメリカ同時多発テロ の際にアラブ系 と勘違いされインド系が襲われる事件があった程度である。
オーストラリアとの関係
インドはオーストラリア にとっての重要な輸出市場であり、オーストラリアは市場競争力と付加価値がある専門技術と技術的ソリューションを、様々な分野にわたって提供しているという。インド工業連盟(CII)は、「オーストラリアとのビジネス」と題したセミナーを主催、その開会の場でラーマンは、オーストラリアの専門技術と技術的ソリューションは、インドのあらゆる分野のビジネスで重要視されているとし、資源 開発、鉱業 、エネルギー 、インフラ、建築、飲食、農業関連産業、情報通信技術、映画 、メディア 、エンターテインメント 、小売り、金融と活用されている分野を挙げた。
オーストラリアは移民政策としてアジア人 を受け入れており、特にインド人は英語が話せるため多くが留学・移民として来ている。アメリカと同様にオーストラリアには多数のインド人が移民しており、距離が近い分、アメリカに行くよりオーストラリアに行くことを選んだインド人も多い。オーストラリアにおけるインド系企業は浸透し、オーストラリアの金融機関のシステム開発は当時から、インド系ソフトウェア会社の存在なしには成り立たなくなっている。
2005年ごろからオーストラリアの若者たちがレバノン 人を暴行する事件が相次ぎ、2007年ごろからインド人留学生を狙う暴力事件が相次いで発生した。インド人学生に対する暴行は、おもにメルボルン やシドニー などオーストラリアの都市部であり、地元の若者がグループで襲い物を奪ったり、ドライバーで刺したりする事件が相次いだ。オーストラリアの地元警察によると、大半が「愉快犯」といい、合言葉は「レッツゴー・カレー・バッシング 」だった。相次ぐインド人襲撃を受けて、オーストラリアのインド人学生ら数千人は抗議の座り込みをし、インド国内でも抗議する大規模デモが行われ、外交 問題にまで発展した。ボリウッド の大物俳優アミターブ・バッチャン は、クイーンズランド大学 から授与されるはずだった名誉博士号 を辞退したほか、ブリスベン で行われる映画祭への出席も見合わせた。インドのシン首相は「分別のない暴力と犯罪には身の毛がよだつ。 その一部は人種的動機から、オーストラリアにいるわが国の学生に向けられている」と抗議した。ケビン・ラッド 首相はシン首相との会談の際に、事件の背景に人種差別 があるわけではないと強調、オーストラリアは今でも世界有数の安全な国だとして平静を呼びかけた。
中国との関係
古代では、インドから中国に仏教がもたらされ、インドに留学した中国僧の法顕 、玄奘 、義浄 らを通じ、交流があった。植民地時代は三角貿易 でつながり、近代に独立してからも初代首相のネルーは「ヒンディ・チニ・バイ・バイ」(中華人民共和国とインドは兄弟[ 54] )を掲げ、非共産圏ではビルマ に次いで中華人民共和国を国家承認して最初に [要検証 – ノート ] 大使館を設置した国であった[ 55] 。平和五原則 で友好を深めようとするも、1950年代以降は中印国境紛争 や、ダライ・ラマ14世 とチベット亡命政府 をインドが中華人民共和国から匿い、パキスタンを印パ戦争で中華人民共和国が支援したことで冷戦 時代は対立関係になり、現在も国境問題は全面的な解決はされてない。
しかし、1988年にラジーヴ首相が訪中して国境画定交渉が進み、2003年にはバジパイ首相はチベットを中華人民共和国領と認め[ 56] 、中印国境紛争以来64年ぶりに国境貿易を再開する合意を交わした[ 57] 。さらに中華人民共和国の主導する上海協力機構 に加盟して中印合同演習も行うなど緊張緩和も行われている。経済面では2014年に中華人民共和国はインド最大の貿易相手国にもなった一方[ 58] 、2017年にはブータンとの係争地に進行してきた中国人民解放軍 にインド側の塹壕 を破壊され2か月にわたりにらみ合いになったり、カシミール地方インド領に入り込もうとした中国軍をインド軍が阻止し、投石騒ぎの小競り合いが起こったりするなど、いまだに国境問題は解決されていない。
パキスタンとの関係
宗教の違いや度重なる国境紛争で独立以来伝統的に隣国パキスタンとはかなり関係が悪く、互いに核兵器 を向けてにらみ合っている[ 59] 。近年もムンバイ同時多発テロ 以降、関係は悪化していたが、2011年には2国間貿易の規制緩和 やインドからパキスタンへの石油製品 輸出解禁が打ち出され、11年7月には両国の外相が1年ぶりに会談した。
2012年9月8日、イスラマバード で会談をして、ビザ 発給条件の緩和について合意したほか、農業、保険、教育、環境、科学技術などの分野での相互協力などが話し合われた[ 60] 。しかし、カシミール をめぐっては対立を続けており[ 61] 、空中戦(バーラーコート空爆 )や双方の砲撃と銃撃戦も起き両国で非難の応酬がされているなど緊張状態は続いている[ 62] [ 63] [ 64] 。
ロシアとの関係
ロシア とは大幅な防衛・戦略上の関係(India–Russia military relations )を結んでおり、インドはロシア連邦製兵器の最大の顧客となっている。
国家安全保障
共和国記念日パレード
航空母艦 ヴィクラント (建造中)
インド軍は、インド陸軍 、インド海軍 、インド空軍 および、その他の準軍事組織 を含むインドの軍隊 である。インド軍の法律上の最高司令官は大統領だが、事実上の指揮権はインド政府 (Government of India )のトップ(政府の長 )である首相(Prime Minister of India )が有している。インド軍の管理・運営は国防省 (Ministry of Defence )・国防大臣(Minister of Defence )が担当する。
インド軍の正規兵力は陸海空軍と戦略核戦力 部隊、インド沿岸警備隊 の約132万5,000人と、予備役 は合わせて約110万人である。世界で6番目の核保有国・原子力潜水艦 保有国でもある。インドの準軍事組織は、アッサム・ライフル部隊 (5万人)、特別辺境部隊 (1万人)である。以前は準軍事部隊とされた国境警備部隊 、中央予備警察 などを含む中央武装警察隊 (約77万人)や、民兵 組織のホームガード(約135万人)は 2011年から準軍事部隊に含めないとのインド政府の公式見解である。
グローバル・ファイヤーパワー社発表の世界の軍事力ランキング2014年版によると、インドは世界第4位の軍事力 となっている。志願兵制 を採用しており、徴兵制 が行われたことは一度もない。
近年は近代化を加速させており、軍事目的での宇宙開発、核の3本柱(Nuclear triad、ICBM 、SLBM 、戦略爆撃機 (先述のように狭義のそれはインドは保有しない))の整備、ミサイル防衛 システムの開発など多岐にわたる。国防費は2012年度で461億2,500万ドルで、年々増加傾向にある。また、最近では武器そのものの国産化を目指す動きが強くなっており、2023年時点での共和国記念日に開催された軍事パレードにおいては国産化へのシフト変更傾向が現れているとの指摘がされている[ 注釈 4] [ 65] 。
準軍事組織
インドは10の民兵組織 を維持している[ 66] 。
地理
インドの地形図
パキスタン 、中華人民共和国(中国) 、ネパール 、ブータン 、バングラデシュ 、ミャンマー とは陸上で、スリランカ 、モルディブ 、インドネシア とは海上で国境 を接する。パキスタンや中国とは領土問題 を抱える。
中国とブータンは、東北部とアルナーチャル・プラデーシュ州 とシッキム州 北部に接している。ネパールは東北東、バングラデシュはメーガーラヤ州 、トリプラ州 、西ベンガル州 の3州で国境を接する。ミャンマーはアルナーチャル・プラデーシュ州とアソム州 東部、マニプル州 、ミゾラム州 、ナガランド州 東部と接している。
インドの陸地はほとんどがインド洋 に突き出した南アジア の半島 上にあり、南西をアラビア海 に、南東をベンガル湾 に区切られて7,000キロメートルの海岸線 を持つ。多くの地域では雨季 が存在し、3つの季節(夏、雨季、冬)に分けられ、雨季を除いてほとんど雨の降らない地域も多い。北インド と中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドスタン平野 が広がり、南インド のほとんどはデカン高原 が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠 があり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈 が占める。インドが主張するインド最高点はパキスタンと係争中 のカシミール地方 にあるK2 峰(標高 8,611メートル)である。確定した領土 の最高点はカンチェンジュンガ 峰(同8,598メートル)である。気候は南端の赤道 地帯からヒマラヤ の高山地帯 まで多様性に富む。
インドの発展が遅れた主因は水不足であった[ 67] 。インド亜大陸 の平均降水量は年間約1,000ミリメートルであるが、地域差を反映しない。たとえばアッサム州 や西ガーツ山脈 では1万ミリメートル以上であり、シンド州 の一部では100ミリメートルも降らない。加えて時期による降水量差が生活を直撃する。モンスーン のもたらす降水量は5年周期で平均よりも25 - 40パーセント減る。10年に1度はさらに僅少となって、旱魃 による飢饉 は、灌漑 がなければ百万人単位で餓死者を出す[ 68] 。
気候
広大な国土を持つため、地域により気候 は大きく異なる。雨季には大きな洪水 が発生するほどの豪雨がある地域も多い[ 69] 。2016年 5月19日 には西部ラジャスタン州 ファロディで最高気温 が51℃ を記録し、1956年 に同州アルワル で観測されたこれまでのインド国内の最高気温であった50.6℃を60年ぶりに更新した[ 70] 。
北インド
バラナシ やタージマハル のあるアーグラー が属する北インド平野 では5月 が最も気温が高くなり、45℃を超すこともある。3月 下旬から9月 下旬までは厳しい暑さが続き、特に4月 から6月 は酷暑となる。7月 から9月は雨季だが、1時間程度の激しい雨が降る程度で湿度は高く蒸し暑い。一方、同じ5月にヒマラヤ 周辺の峠では積雪のために自動車が通行できないこともある。北インド平野でも冬季、特に12月 中旬から1月 下旬にはショール が必要なほど冷え込む。北インド平野の西部にあたるラジャスターン州 エリアは典型的な砂漠気候 で、特に3月下旬から9月下旬までは降雨も少なく厳しい乾燥地帯で、4月中旬から6月ごろは特に酷暑となる。12月中旬から1月下旬の約1か月強は、朝晩には防寒対策が必要なほど冷え込み、昼間と夜間の気温差が大きい[ 69] 。
南インド
南インドは年中暑いが、夏季の気温は北インドの方が砂漠気候であるため大幅に上回る。年間を通しての気温差は少なく、低くて20℃超、普段は30 - 35℃程度。6月から9月の雨季の4か月間は激しい豪雨に見舞われ、毎年のように洪水が発生してムンバイ のような大都市の都市機能が麻痺することもある。南インド でもベンガルール は標高 が800メートルある高原 であるため年間を通し過ごしやすく、外国企業が集まるIT 都市として発展したほどである[ 69] 。
東海岸とコルカタ
コルカタ や東海岸は、夏季の気温は高く東海岸では湿度も高い。6月から9月の雨季は気温が40℃近くになり、湿度90パーセントを超えることもある。12月と1月の冬は北インド平野ほどではないが冷え込みがある[ 69] 。
ケララ州
年間を通し気温の変動が少なく常夏ともいえるが、5月下旬から9月の雨季の降雨量は多い[ 69] 。
ヒマラヤ地方
冬場は気温は低く、奥地では道路が凍結で通行止めになることがある。シムラー やダージリン は他地方が酷暑の時期に避暑地 となる。ダージリンの雨季は6月から9月で多雨。ヒマラヤも見えない日が多い[ 69] 。
地方行政区分
インドは28の州と8つの連邦直轄領 から構成される。ただし、ジャンムー・カシミール連邦直轄領 、ラダック連邦直轄領 はその全域をパキスタンとの間で、またジャンムー・カシミール連邦直轄領の一部とラダック連邦直轄領、アルナーチャル・プラデーシュ州 のほとんどを中国との間で、それぞれ領有権 をめぐって外交 ・国際政治 の場で激しく争われている。ジャンムー・カシミール連邦直轄領、シッキム州を除いて州独自の旗が禁止されている[ 71] 。
多くの少数民族や先住民を抱える民主主義国家であることから、州の分割を求める動きは繰り返し発生し、世論を二分してきた。実際に分割に至った州もあり、2000年には中部と北部、東部で3州が新たに誕生した。14年にも南東部アンドラプラデシュ州の一部がテランガナ州として分割となった[ 72] 。
主要都市
都市
行政区分
人口
都市
行政区分
人口
1
ムンバイ
マハーラーシュトラ州
13,662,885
11
ジャイプル
ラージャスターン州
2,997,114
2
デリー
デリー
11,954,217
12
ラクナウ
ウッタル・プラデーシュ州
2,621,063
3
ベンガルール
カルナータカ州
5,180,533
13
ナーグプル
マハーラーシュトラ州
2,359,331
4
コルカタ
西ベンガル州
5,021,458
14
インドール
マディヤ・プラデーシュ州
1,768,303
5
チェンナイ
タミル・ナードゥ州
4,562,843
15
パトナ
ビハール州
1,753,543
6
ハイデラバード
テランガーナ州
3,980,938
16
ボーパール
マディヤ・プラデーシュ州
1,742,375
7
アフマダーバード
グジャラート州
3,867,336
17
ターネー
マハーラーシュトラ州
1,673,465
8
プネー
マハーラーシュトラ州
3,230,322
18
ルディヤーナー
パンジャーブ州
1,662,325
9
スーラト
グジャラート州
3,124,249
19
アーグラ
ウッタル・プラデーシュ州
1,590,073
10
カーンプル
ウッタル・プラデーシュ州
3,067,663
20
ヴァドーダラー
グジャラート州
1,487,956
1991年・2001年実施の国勢調査 データを元にした2008年時点の推定予測値[ 73]
経済
インドの経済は1991年から改革に取り組んでいる。1997年5月に政府は低品質の米 の輸入を自由化し、民間が無関税で輸入することを許可した。それまで全ての形態の米の輸入はインド食料公社によって独占されていた。小麦は1999年3月から製粉業者が政府を通さずに加工用の小麦 を輸入できることが決まった。2002年4月に米・小麦の輸出制限が廃止された。改革により、IT産業のほか、自動車部品・電機・輸送機器といった分野も伸びており、加えて産業規模は小さいもののバイオ ・医薬品 といった産業の発展に力を注いでいる。特に2003年以降はおおむね年間7 - 9パーセント、2010年度も8.5パーセントの高い経済成長率 を達成している。
インドの労働力 人口は2050年にかけて毎年約1パーセントずつ増加していくと見込まれており、その豊富な労働力が成長の礎となることが予想されている。また、それらの人口は将来的に実質的な購買力を備えた消費者層(=中間層)となり、有望な消費市場をもたらすものと考えられている。
貿易については、産業保護政策をとっていたため貿易が国内総生産 (GDP)に与える影響は少なかったが、経済自由化後は関税が引き下げられるなどされ、貿易額が増加、GDPに与える影響力が大きくなっている。主な貿易品目は、輸出が石油製品 、後述する農産物と海老 、輸送機器、宝飾製品 や医薬品、化学品 、繊維 などである。輸入は原油・石油製品、金 、機械製品などである。
世界銀行によると、インドのGDPは2021年には3兆1,700億ドルであり、世界で5番目に大きな経済である[ 74] 。 またインドのGDP PPPは8.6兆であり、アメリカと中国に次ぐ3番目に大きな経済となる。
2030年代には15億人を超え、2050年には16.6億人になると予想されている。
インド都市圏第2位のムンバイ。インド国内経済の中心地である。
主な産業
第一次産業
主な農産物の生産地域
農業 をはじめとする第一次産業 は世界第2位の規模を誇り、植物育種や灌漑 設備の整備、農薬 の普及といった「緑の革命 」を実践している。独立後60年あまりで人口が12億人にまで増えたにもかかわらず、自給自足 達成国となった[ 76] 。米 の主要輸出国の一つで、2006年には450万トンを輸出した。インドの農地面積は1億7,990万ヘクタール あり、農業は労働人口の52パーセントが従事し、GDPの16パーセントを占めるインド経済の中心である。農業部門が経済成長率 に及ぼす影響は大きく、一部の例外を除き農業部門が不振であった年は成長率が4パーセント台に押し下げられた。
農民の9割近くは2ヘクタール未満の農地しか持たない零細農民であり、農産物の国内流通や貿易の自由化には強く抵抗する。2020年、インド政府はアジア圏の経済連携協定 であるRCEP交渉 から離脱。同年9月には、生産地近くの卸売市場以外でも自由な取引を認める新法を施行したが、大手小売チェーンによる安値での買い叩きを懸念する農民による抗議デモが発生した[ 77] 。
穀物 収穫面積の約4割が水田 であり、米の生産量は中国に次いで世界2位である。米輸出量では2012年 - 2013年に世界一を記録した[ 78] 。小麦 も生産量でこそ第2位であるが、歴史で述べたように完全自給できていない。2003年時点で砂糖 、魚介類 、野菜・果実は完全自給できている。大豆 の自給率が96パーセントであった。綿花 は植民地時代からデカン高原 で栽培されており、糸車 をもとに国章をつくるだけあって、今なお生産量が中国に次ぎ第2位である。茶 も同様である。鶏卵 生産量は中国が抜群の世界一で、アメリカとインドが順に続く。インドの養鶏 は国内需要の高い鶏肉 の生産量を向上させている。インドでは牛 が宗教上神聖な動物とされており、牛乳 の生産量が1980年から2004年の四半世紀で約3倍、世界一となった[ 81] 。カシューナッツ 、マンゴー 、ココナッツ 、生姜 、ウコン と胡椒 、ジュート 、落花生 なども生産している[要出典 ] 。
灌漑はムガル帝国 時代から行われてきたが、帝国が衰退してから堆積物に埋もれた。植民地時代に凶作 による税収減を看過できなくなってから、それまでの世界史上最大規模の灌漑事業が行われた。それは特にパンジャーブ 地方で大きな成果をあげ、インドは食料純輸出国となり、アスワンダム 建設に経験が活かされた[ 68] 。
1960年代から農業生産が飛躍的に増加した。もっとも、チューブ式井戸 主体の灌漑によるためにエネルギーコストが利益を減じた。1980年 - 2000年の間に化学肥料 の消費量は約3倍に増えた。それに、新しい農法がもたらす恩恵においてパンジャーブやハリヤーナー という北西部が優位であるのは植民地時代から変わっていない[ 82] 。
デルタ が多いベンガル地方 は必ずしも農業に適しない。ここは19世紀前半にコレラ のパンデミック の震源となった。カルカッタ は西のフーグリー川 と東の塩湖 に囲まれ、かつては海抜 10メートル以下で、排水に難儀した。河川は10月から3月までを除いて逆流した。上水供給と下水処理は各居住区の懐具合に応じて設備が向上していったが、1911年に首都がデリーに移転してからは政治的・経済的混乱がベンガルを苦しめるようになり、当分それ以上の改善が見込めなかった[ 83] 。
第二次産業
マヒンドラ マヒンドラXUV500
鉱業は後述の化石燃料 のほか、インド・ウラン公社 がウラン やトリウム を採掘している。その他種種の金属鉱石が産出される[ 84] 。現在、国営企業であったコール・インディア の株売却が進行しており、このまま民営化 するのか注目される。
インドは世界第14位の工業生産国であり、2007年において工業でGDPの27.6パーセント、労働力の17パーセントを占める。経済改革は外国との競争をもたらし、公的部門を民営化しこれまでの公的部門に代わる産業を拡大させ、消費財の生産の急速な拡大を引き起こした[ 85] 。経済改革後、これまで寡占 状態で家族経営が常態化し、政府との結びつきが続いていたインドの民間部門は外国との競争、とりわけ、中国製の安価な輸入品との競争に曝されることとなった。コストの削減・経営体制の刷新・新製品の開発・低コストの労働力と技術に依拠することにより、民間部門は変化を乗りきろうとしている[ 86] 。
製造業 の花形である輸送機械産業はオートバイ 、スクーター 、オート三輪 の生産が盛んであり、ヒーロー・モトコープ やバジャージ・オート 、ホンダ などが生産販売をしている。インドの二輪車市場は年々伸び続け、2012年 には中国を抜いて世界第1位(1,300万台以上)で今後も拡大が続くと見られ、2020年 までには2,000万台を大きく超えると推測されている。自動車は、タタ・モーターズ 、マヒンドラ&マヒンドラ 、ヒンドゥスタン・モーターズ などの地場資本の自動車メーカーのほか、スズキ やルノー などが、1991年 まであったライセンス・ラージ のためインドの地場資本と提携する形で進出している。自動車生産は1994年 が24.5万台であったが、2011年 には自動車生産台数は393万台で世界第6位で、輸出もしている。造船 、航空機製造も成長の兆しを見せている。
石油・エネルギー産業は1984年にボパール化学工場事故 を起こしながらも、石油化学を中心に発展を遂げた。インドの財閥系企業リライアンス・インダストリーズ 社が1999年に世界最大級の製油所を建設して以降、2002年に東海岸沖合の深海で大規模な天然ガス 田を、2006年には同区内の深海鉱区で大規模な原油・ガス田を発見。2004年にはラージャスターン州で複数の油田が発見された。1993年からはONGC が国有化され、海外にも事業を展開している。こうしてインドは全体の需要を上回る石油製品の生産能力を保有するようになり、今日では石油製品の輸出国となっている。
製薬 産業や 繊維産業の世界トップクラスの生産国である。鉄鋼 業も盛んであり、エレクトロニクス産業もある。
第三次産業
IT時代の到来と英語 を流暢に話し教育された多くの若者たちにより、インドはアフターサービス や技術サポートの世界的なアウトソーシング の重要なバックオフィスとなりつつある。ソフトウェア や金融サービスにおいて、高度な熟練労働者の主要な輩出国となっている。
ソフトウェア産業
IT企業の集まるベンガルール
近年の高成長は主にIT 部門の成長がもたらしている。インドは先進国企業の情報技術導入が進むなかで、ソフトウェアの開発および販売、欧米企業の情報技術関連業務のアウトソーシング の受注を拡大させている。ソフトウェア産業は1990年代を通じて年率50パーセント近い成長を遂げ、IT不況を迎えた21世紀に入っても20パーセント台の順調な成長を続けており、2003年時点では国内GDPの2.6パーセントを占めるまでに至っている。工科系の大学 を中心として毎年30万人を超える情報技術者を輩出していることや、労働コストが低廉であること、さらに、インド工科大学 やインド科学大学院 といった優れた教育機関 を卒業後、待遇面のよさなどを背景にアメリカのシリコンバレー などに移住するインド人技術者は増加傾向にあり、その結果ソフトウェアの輸出と在外居住者からの本国向け送金は、インドの国際収支 を支える重要な外貨 獲得源となっている。
情報サービス業
インドの大手IT企業インフォシス 社
テランガーナ州 のショッピングモール
1990年代から2000年代にかけてインド経済を牽引していると言われていたITなど情報サービス 業は、2000年代後半には優位性が揺らいできている。また、インド国外だけでなくインド国内にも情報サービス業の大きな市場があるにもかかわらず、インド企業は国外ばかりに目を向けているため、国内市場への欧米企業進出を許している[ 87] 。
当初、インド企業の強みであった低コストは、為替 変動と国内の人材不足により優位性を失いつつある。加えて、インド企業に仕事を奪われた欧米企業は、インド国内に拠点を設け、技術者を雇うことによって劣勢であったコストの問題を挽回した。同時に、単なる業務のアウトソーシング に留まらず、ビジネス コンサルティング などの高度なサービス提供によって差別化 を図っている[ 87] 。特にIBM の動きは活発で、企業買収を繰り返しわずか2年でインド国内でも最大規模の拠点を築いた。インド国内市場にも積極的に営業を行っており、市場シェアトップとなっている[ 87] 。
こうした状況に、インド国内からは情報サービス業企業の革新を求める声があがり始めたが、上述の通りインド企業の経営陣は海外にばかり目を向け国内市場には長い間目を向けておらず、エリート意識からインド企業の優位を信じて革新に対する意識は低い状況にあるという[ 87] 。また、ギルフォード証券のアナリスト 、アシシュ・サダニはインド企業は25パーセントという高い利益率となっていることを述べたうえで、「それほど高い利益率を維持できるのは、未来のための投資を怠っているということの表れなのだ」と評し、今後の成長のためには目先の利益だけでなく、将来へ向けた投資をしなければならないと指摘している[ 87] 。大学や研究機関などには直径十数メートルから数十メートルのパラボラアンテナ が地上や屋上に設えてあり、人工衛星 を用いてインターネット 接続ができる。現在のインドIT産業の規模は2012年に800億ドル(8兆円)から、14年には1,180億ドル(12兆円)に達する見通しで、これはGDPの8パーセントに相当しており、インド経済を支える柱の一つになっている[ 88] 。
小売業 は大型店や電子商取引 も育ちつつあるものの、売上高の9割は「キラナ」と呼ばれる零細商店が占める[ 89] 。地場財閥系資本の食品スーパーやハイパーマーケットなどモダン流通店舗も急拡大している。小売業大手のリライアンスリテールはインド国内に1,400店の舗展開しており、都市部にはショッピングモールは珍しくない。
医療ビジネスは、インドの医療レベルは飛躍的に進歩し、欧米で研修をした医師が帰国している。英語が第二公用語であるため、医療関係でも英語圏との結びつきが強い。インドでは海外からの医療観光 ツアーのPRが行われており、「アポロホスピタルグループ」はインド内外で38の病院を経営し、4,000人の医師を抱えるインド最大の病院チェーンで、特に心臓手術では施術例5万5,000人、成功率99.6パーセントという実績があり、心臓手術では世界五指に入るという。先進国より破格に治療費が安いことが魅力であり、医療費が高い米国とインドの手術費用を比較すると、米国ではおよそ350万円かかる心臓手術がインドでは80万円程度という4分の1以下の安さである。計画委員会のレポートによると、インドには約60万人の医師と100万人の看護師、200万人の歯科 医がおり、そのうち5パーセントが先進国での医療経験を持つ。現在、6万人のインド人医師が米国やイギリス、カナダ 、オーストラリアの医療機関で働いているという。世界的に見て医師の水準が高く各国で活躍するインド人医師の数は6万人に上り、イギリスでは外科 医の40パーセントがインド人医師で占められ、アメリカにおいても10パーセントを超える外科医がインド人医師である。
他の部門ではバイオテクノロジー 、ナノテクノロジー 、通信、観光が高成長の兆しを見せている。
観光
ジム・コーベット国立公園 やハワー・マハル 、アンベール城 を始めとした数多くの名所を抱えている。
交通
道路
ムンバイ・プネー高速道路 (英語版 )
高速道路 などは計画・建設中の段階である。デリー 、コルカタ 、チェンナイ 、ムンバイ を結ぶ延長約5,800キロメートルの道路(通称「黄金の四角形」)が2006年 中に完成した。また、国内を東西方向・南北方向に結ぶ+型の延長約7,300キロメートルの道路(通称「東西南北回廊」)も2007年 末に完成する予定である。これらの高速道路は通行料金(Toll)が必要な有料道路(Toll way)であり、ところどころに料金所があるが、一般道と完全に分離しているわけではない。大都市では片道3車線以上で立体交差であるが、数十キロメートル郊外に行けば片道2車線で一般道と平面交差し、近所の馬車 や自転車も走る。これ以外の道路も舗装はされているが、メンテナンスが十分でなく路面は凸凹が多い。
鉄道
ニルギリ山岳鉄道
デリーメトロ
インドの鉄道 は国有(インド鉄道 )であり、総延長は6万2,000キロメートルを超えて世界第5位である。現在では鉄道 が移動の主体となっている。経済格差が激しいのにあわせて、使う乗物によってかかる費用が大きく違う(例としてムンバイ、デリー間では、飛行機の外国人料金が6,000ルピーなのに対し、二等の寝台列車 は400ルピーである)。また日本の新幹線 を基にした高速鉄道 や貨物鉄道 も計画されている。
インド全土に広がる鉄道網は、以下のように分割管理されている。
以下の鉄道は公社化されている。
航空
ムンバイ のチャットラパティー・シヴァージー国際空港
インディラ・ガンディー国際空港
かつて旅客機 は一部の富裕層でしか使われていなかったが、2000年代 に入り国内大手資本により格安航空会社 (LCC)が多数設立され、それにあわせて航空運賃が下がったこともあり中流階級層を中心に利用者が増加している。
航空会社としては以下のものがある。
首都のニューデリーのインディラ・ガンディー国際空港 をはじめ、各地に空港がある。インド政府は、地方都市の割安な航空路線を支援するUDANという制度を設けている。滑走路 を備えた空港を整備できない地域も多く、2020年10月末には、グジャラート州アーメダバード とその南東200キロメートルにあるケバディアを結ぶ、インド初の水上飛行機 による定期便が就航した[ 90] 。
科学技術
宇宙開発
火星探査 計画マーズ・オービター・ミッション
チャンドラヤーン1号 (サンスクリット語: चंद्रयान-१)はインド初の月探査機 である。無人の月探査の任務には軌道周回機とムーン・インパクト・プローブ と呼ばれる装置が含まれる。PSLV ロケットの改良型のC11で2008年10月22日に打ち上げられた。打ち上げは成功、2008年11月8日に月周回軌道に投入された。可視光、近赤外線 、蛍光X線 による高分解能の遠隔探査機器が搭載されていた。2年以上にわたる運用が終了し、月面の化学組成の分布地図の作成と3次元の断面図の完成が目的だった。極域において氷の存在を示唆する結果が出た。月探査においてインド宇宙研究機関 (ISRO)による5台の観測機器とアメリカ航空宇宙局 (NASA)や欧州宇宙機関 (ESA)、ブルガリア宇宙局 など、他国の宇宙機関による6台の観測機器が無料で搭載された。チャンドラヤーン1号はNASAのLROとともに月に氷が存在する有力な手がかりを発見した[ 91] 。
2013年11月5日、最初の火星探査機 打ち上げに成功した[ 92] 。正式名称は「マーズ・オービター・ミッション 」で、通称として「マンガルヤーン」と呼ばれている[ 93] 。2014年9月24日に火星の周回軌道に投入され、アジアで初めて成功した火星探査機となった[ 94] 。
国民
人口
インドの鉄道網 と人口密度 を示した地図。特に北部に人口が集中している。
2023年国勢調査 の人口は14億2000万人[ 95] であり、総人口は世界第2位の中華人民共和国 (14億1,000万人)より僅かに多く、世界第1位である。人口密度は中国の3倍であり、日本よりも高く過密である。
インドの人口は1950年以降、毎年1,000万から1,500万人の勢いで増加し続け、政府による人口抑制策を実施したが、2005年には11億人を突破した。国連の予測では今後もこのペースで増加すると考えられており、2023年 に中国を追い抜き、世界一の人口を擁する国となった。ただし、2030年代 以降は毎年500万から700万人増と人口増加はやや鈍化すると予想されている。
インドは増える若年層に十分な雇用や生活インフラを提供できておらず、地域間の出稼ぎ も多い。このため一部の州は、子供が2人以下の世帯を経済的に優遇するなど人口抑制策をとっている[ 96] 。インド全体の人口増加率は、1971年から2001年までに、2%台から1%台の1.97%に下落している[ 97] 。
インドの人口ピラミッド (2017年)
インドの人口の推移と予測
年
人口(万人)
増加率 (%)
1950
3億5,756
×
1960
4億4,234
2.2
1970
5億5,491
2.3
1980
6億8,885
2.2
1990
8億4,641
2.1
2000
10億169
1.9
2005
11億337
×
2007
11億3,104
×
2010
11億7,380
1.4
2020
13億1,221
1.1
2030
14億1,657
0.8
2040
14億8,571
0.5
2050
15億9,000
0.3
2100
17億9,000
0.3
人種・民族
インド亜大陸の民族については、インド・ヨーロッパ語族 、ドラヴィダ語族 、オーストロアジア語族 、モンゴロイド系のシナ・チベット語族 の4つに大別されるが、人種的には約4000年前から混血している。
大半がインド・アーリア語系の分布で、南はドラヴィダ族が分布し、オーストロアジア語族、シナ・チベット語系は少数な分布となっている。
Y染色体 やMtDNA の研究結果によると、インド人の大半は南アジア固有のハプログループ を有している[ 98] [ 99] 。
ミャンマー と国境が接している北東部は、チベット・ビルマ語族 の民族がいる。
言語
南アジアの言語の分布(緑=インド・アーリア語派 、暗緑=イラン語派 、黄=ヌーリスターン語派 、青=ドラヴィダ語族 、橙=チベット・ビルマ語族 、紫=オーストロアジア語族 )
インド国内の主要言語割合 (2011年国勢調査)[ 100] [ 101]
言語
第一言語者数 (万人)[ 102]
第一言語割合 %
第二言語者数 (万人)[ 103]
第三言語者数 (万人)[ 103]
総話者数 (万人)
総話者数÷人口 %
ヒンディー語
5億2835
43.63
1億3900
2400
6億9200
57.10
英語
0000 26
0 0.02
00 8300
4600
1億2900
10.60
ベンガル語
00 9724
0 8.30
000 900
0 100
1億0700
0 8.90
マラーティー語
00 8303
0 7.09
00 1300
0 300
00 9900
0 8.20
テルグ語
00 8113
0 6.93
00 1200
0 100
00 9500
0 7.80
タミル語
00 6903
0 5.89
000 700
0 100
00 7700
0 6.30
ウルドゥー語
00 5077
0 4.34
00 1100
0 100
00 6300
0 5.20
グジャラート語
00 5549
0 4.74
000 400
0 100
00 6000
0 500
カンナダ語
00 4371
0 3.73
00 1400
0 100
00 5900
0 4.94
オリアー語
00 3752
0 3.20
000 500
00 39
00 4300
0 3.56
パンジャーブ語
00 3312
0 2.83
000 223
00 72
00 3660
0 300
マラヤーラム語
00 3484
0 2.97
0000 50
00 21
00 3600
0 2.90
サンスクリット語
0[ 104] [ 105] [ 106]
0 000
000 123
0 196
000 319
0 0.19
インドはヒンディー語 を連邦公用語 とする。ヒンディー語圏以外では各地方の言語が日常的に話されている。
インドで最も多くの人に日常話されている言葉はヒンディー語で、約4億人の話者がいると言われ、インドの人口の約40パーセントを占める。
方言 を含むと800種類以上の言語が話されているインドでは、地域が異なればインド人同士でも意思疎通ができない場合がある。
植民地時代に家では英語だけで子供を育てたことなどから、英語しか話せない人もいる。しかし一方で、地域や階級によっては英語がまったく通じないこともしばしばである。
1991年の国勢調査によると、17万8,598人(調査対象者の0.021パーセント)が英語を母語 にしており、9,000万人以上(同11パーセント)が英語を第一、第二、ないし第三の言語として話すとしている。インド社会は国内コミュニケーションの必要上から第二公用語の英語を非常に重視しており、結果として国民の英語能力は総じて高い。インドの大学では全て英語で講義を受けるため、インド人学生の留学先にアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどの英語圏が圧倒的に人気が高い。
インド憲法には1950年の憲法施行後15年で英語を公用語から除外するとしている。現在、憲法はヒンディー語で翻訳され、正文とされているが、15年を経過しても英語を除外することができず、公用語法において英語の使用を無期限延長することとしている。
ただし地名に関しては英語離れとでもいうべき動きが進んでおり、ボンベイ、カルカッタ、マドラスという大都市は、それぞれムンバイ 、コルカタ 、チェンナイ という現地語の名称へと公式に改められた。こうした傾向はインド国内でのナショナリズム の拡大・浸透が続く限り進むものと見られるが、連邦公用語のヒンディー語はいまだ全国に浸透していない。特にインド南部タミル・ナードゥ州 などではヒンディー語を連邦公用語とすることへの反発が強い。
インドの言語は北部のインド・ヨーロッパ語族 インド語派と南部のドラヴィダ語族 に大きく分かれる。ドラヴィダ語族の言語は主に南部のアーンドラ・プラデーシュ州 、カルナータカ州 、ケーララ州 、タミル・ナードゥ州 で話され、それ以外の地域がインド・ヨーロッパ語族に含まれる。このように北部と南部とで言語が大きく異なっているため、インド・ヨーロッパ語族に含まれるヒンディー語がドラヴィダ語族の人々への浸透の遅れる原因ともなっている。
1980年代以降のヒンドゥー・ナショナリズム の高まりとともに、サンスクリット を公用語にしようという動きも一部で高まっている。もともと中世以前においてはインド圏の共通語 であったと考えられているサンスクリットは、各地方語の力が強まりその役割が果たされなくなったあとも、上位カースト であるブラフミン の間では基礎教養として身につけられてきたという経緯がある。しかし古い言語であるだけに、現在(学者・研究者による会議の席上や特殊なコミュニティなどを除けば)日常語として話している人はほとんどおらず、またその複雑さゆえに同言語の学習に多年を要することなどもあり、実際の普及は滞っているのが現状である。
連邦公用語
インド憲法第343条1項により、連邦公用語はデーヴァナーガリー 文字で書かれたヒンディー語 と定められている[ 107] 。
多言語社会であるインドにおいて、国家が国民統合を推し進めるうえで、また実際に行政運営を行ううえで言語は常に重要な位置を占める。独立運動の過程では、植民地の行政言語(公用語)であった英語に代わって、北インドを中心に広く通用するヒンドゥスターニー語 を新たに独立インドの象徴として積極的に採用していこうというガンディー らの意見があり、それが反映された。憲法起草段階から現在に至るまで南部のタミル・ナードゥ州 を中心に反対意見が根強いが、連邦政府は折につけ各地でヒンディー語の普及を推し進めている。
それ以外にもインド憲法の第8付則では22言語が列挙され、「指定言語」(Scheduled languages)[ 108] や「第8付則言語」と呼ばれる)。
これら22言語は、憲法によって「公用語」として規定されているわけではなく、あくまで「公的に認定された言語」という曖昧な位置づけに留まっている。たとえば、サンスクリット語 やシンディー語 などはいずれの州でも公用語として採用されておらず、また逆にミゾラム州 の公用語の一つであるミゾ語 などは、この22言語の中に含まれていない。
公的に認定された言語
州・連邦首都圏・連邦直轄領の公用語
第二公用語は除く。憲法第8附則に明記されている言語、および連邦公用語は太字 で示す。英語は全ての地方の公用語となっている。
連邦首都圏と連邦直轄領
婚姻
インドにおける結婚式 は、地方や宗教、地域社会によって異なる面がある。また、その違いには新郎新婦の個人的な嗜好も絡んで来る場合がある[ 109] 。
インドは年間約1,000万件の結婚式を祝っており[ 110] 、その内の約80%がヒンドゥー教の結婚式 (英語版 ) で占められている。
一方で、インドは児童婚 大国の1国と見做されるほど、児童婚が広く蔓延している現状がある。児童婚の程度と規模については、情報源の間で推定が広く異なっている。例えばUNICEF による2015年から2016年の報告書はインドの児童婚の割合を27%であると推定した[ 111] 。
また幾つかの州では結婚を遅らせようとするインセンティブを導入している。
人名
インドにおける姓は、地域毎に異なる様々な制度と命名規則に基づく形で成立している。名前は宗教やカーストの影響も受け、宗教や叙事詩から引用される場合もある。
教育
2002年の憲法改正および、2009年の無償義務教育権法により、6 - 14歳の子どもに対する初等教育 の義務化、無償化が図られている。後期中等教育 (日本の高等学校 に相当)は2年制と4年制に分かれている。高等教育 を受けるために大学 へ進学するには、4年制の高校で学ぶ必要がある。インドの学校は日本などと同じ4月入学 を採用している[ 112] 。
インドの教育は公立の場合には、連邦公用語たるヒンディー語と現地の言語で行われている。さらに21世紀突入以降は、事実上の世界共通語にして旧宗主国の公用語でもある英語 の授業が早期に行われるようになった。ニューデリーの公立学校では初等教育 から教授言語 が英語である。インドの私立学校では初等教育から英語で教育が行われている。
保健
医療
宗教
ムンバイ のゾロアスター教寺院
インドの人口に占める各宗教の割合はヒンドゥー教徒79.8パーセント、イスラム教徒 14.2パーセント、キリスト教徒 2.3パーセント、シク教 徒1.7パーセント、 仏教 徒0.7パーセント、ジャイナ教 徒0.4パーセント(2011年国勢調査)[ 3] [ 113] 。また、『ブリタニカ 国際年鑑』2007年版によれば、ヒンドゥー教徒73.72パーセント、イスラム教徒11.96パーセント、キリスト教徒6.08パーセント、シク教徒2.16パーセント、仏教徒0.71パーセント、ジャイナ教徒0.40パーセント、アイヤーヴァリ 教徒0.12パーセント、ゾロアスター教 徒0.02パーセント、その他1.44パーセントである。
ヒンドゥー教徒
ヒンドゥー教徒 の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教 、イスラム教 に続いて、人口の上で世界で第3番目である。
ヒンドゥー教はバラモン教 から聖典やカースト 制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教 である。ヴェーダ 聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受容・同化してヒンドゥー教へと変化していった。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになり、以降はインドの民族宗教として民衆に広く信仰され続けてきた。神々への信仰と同時に輪廻 や解脱 といった独特な概念を有し、四住期 に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制 などを特徴とする宗教である。
世界最大の党員数(一億人以上)を有するインド人民党 (BJP)の母体となっているのが、ヒンドゥー至上主義 団体民族義勇団 であり、党首のナレンドラ・モディ も同団体出身者である[ 114] [ 115] [ 116] 。RSSやモディ政権によるインドと国内外における非ヒンドゥー教徒などへの弾圧が問題化している。
ジャイナ教
ジャイナ教とは、マハーヴィーラ (ヴァルダマーナ、前6世紀 - 前5世紀 )を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー (不害)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行 ・禁欲主義 をもって知られるインドの宗教 。仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろし、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。
仏教
仏教 発祥の地であるが、信仰者はごくわずかである。
1203年 のイスラム教徒ムハンマド・バフティヤール・ハルジー 将軍によるヴィクラマシーラ大僧院 の破壊により、僧院組織は壊滅的打撃を受け、インド仏教は、ベンガル地方 でベンガル仏教徒とよばれる小グループが細々と命脈を保つのみとなった。
一説では、東南アジア ・東アジア に仏教が広まったのは、インドで弾圧された多くの仏教関係者が避難したためとされる。
1956年、インド憲法起草者の一人で初代法務大臣を務めたアンベードカル が死の直前に、自らと同じ50万人の不可触民 とともに仏教徒に改宗し、インド仏教復興の運動 が起こった。
チベット仏教
ラダック連邦直轄領 、ヒマーチャル・プラデーシュ州 の北部、シッキム州 など、チベット系住民が居住する地方では、チベット仏教 が伝統的に信仰されている。
シク教
16世紀 にグル・ナーナク がインドで始めた宗教。シクとはサンスクリット語 の「シシュヤ」に由来する語で、弟子 を意味する。それにより教徒たちはグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グル とは導師または聖者という意味である)。総本山 はインドのパンジャーブ州 のアムリトサル に所在するハリマンディル (ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。教典 は『グル・グラント・サーヒブ 』と呼ばれる1,430ページの書物であり、英語に翻訳されインターネット でも公開されている。
イスラム教
イスラム教徒(ムスリム )もインド国内に多数おり、インド国内ではヒンドゥー教に次ぐ第2位の勢力である。インドネシア 、パキスタン についで、インドは世界第3位のムスリム人口を擁する。ヒンドゥー教から一方的に迫害されることはないが、ヒンドゥー教徒の力が強いためにイスラム教徒との勢力争いで暴動が起きることもある。そのためイスラム教徒がヒンドゥー教の寺院を破壊したり、その逆にヒンドゥー教徒がイスラム教のモスク を破壊したりといった事件も後を絶たない。近年はイスラム主義 過激派によるテロ も頻発している。
キリスト教
インドのキリスト教徒の多くはローマ・カトリック教会 に属しており、インド南部のゴア州やケーララ州などに集中している。これはイギリス統治時代以前のポルトガルのインド侵略による影響が大きい。インドでは東方教会 の一派であるトマス派 が存在しており、マイノリティ であるものの、一定の影響力を維持してきた。これとは断絶する形で、イギリスの植民地化以降はカトリックやプロテスタント 諸派の布教が進み、トマス派を含めて他宗派の住民が改宗し、プロテスタントでは20世紀 に北インド(合同)教会 (Church of North India )、南インド(合同)教会 などが起こった。
ゾロアスター教
サーサーン朝 の滅亡を機にイスラム化が進んだイラン では、ゾロアスター教徒 の中にはインド西海岸のグジャラート地方 に退避する集団があった。Qissa-i Sanjan の伝承 では、ホラーサーン のサンジャーン (英語版 ) から、4つあるいは5つの船に乗ってグジャラート州南部のサンジャーン (英語版 ) にたどり着き、現地を支配していたヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住することになったといわれる。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原 のホラーサーン に派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火 をサンジャーンに移転させたといわれている。インドに移住したゾロアスター教徒は、現地でパールシー(「ペルシア人 」の意)と呼ばれる集団となって信仰を守り、以後、1000年後まで続く宗教共同体を築いた。彼らはイランでは多く農業を営んでいたといわれるが、移住を契機に商工業に進出するとともに、土地の風習 を採り入れてインド化していった。
社会
社会問題
金融
現在、次に列挙する深刻な腐敗が指摘されている。株式ブローカーのHarshad Mehta とKetan Parekh 、金融インフラSatyam スキャンダル 、Chain Roop Bhansali[ 117] のミューチュアル・ファンド 、複合企業主のSubrata Roy 、Saradha Group の金融スキャンダル 、NSEL をめぐる金融犯罪 、石炭割当をめぐる政治スキャンダル 、2G 周波数システム設計を政府がN・M・ロスチャイルド&サンズ に募らせるなどのモバイルをめぐる数々の癒着 [ 118] 。2016年4月から12月にかけてインド準備銀行 が実施した金融犯罪統計で、ICICI銀行 が最大件数となり、SBIホールディングス 、スタンダード・チャータード銀行 、HDFC が順に続いた[ 119] 。
貧困
2004年から高度成長期に入り、2010年には中間層が2億4,000万人と増加した反面、1日65ルピー 未満で暮らす貧困人口は3億人を超えており、貧困に苦しむ人が多い。アジア開発銀行 が2011年に発表した予想によれば、インドの中間層が向こう15年間で人口の7割に達するとの見方もある。2009年 - 2010年の国立研究所調査では、都市部で中間層世帯が初めて貧困層を上回った。インド政府は年成長率9パーセントを目標に2012年からの第12次5か年計画で約1兆ドルのインフラ整備計画を打ち出しており、発電所、鉄道、飛行場、港湾、都市交通道路の設備投資も急速に進めると同時に、貧困層を10パーセント削減する予定だった[ 120] 。世界銀行によれば、貧困率(一日2.15ドル未満で暮らしている人の割合)は、1993年には47.6%であったが、2004年には39.9%となり、2019年には10%にまで低下している[ 121] 。
汚職
2019年に行われた独立系の反汚職組織の調査では、過去1年の間、賄賂 を支払った経験があるとする国民は少なくとも2人に1人の割合になると報告された。特に汚職が著しいのは不動産登記や土地問題の分野で、4分の1以上が関連当局に支払ったと回答した。警察が19%で、税務当局、運輸関連や自治体関連企業などが後に続いた[ 122] 。
電力供給
砂漠地帯の風力発電パーク
電力 の供給能力は経済成長に追いつけず、日常的に停電 が発生する。インドの経済成長の主軸とされるIT産業にとって不可欠な通信設備の普及も立ち遅れている。
大気汚染
インドでは急速な経済発展に伴って世界最悪の大気汚染 が起きており、2018年時点で世界保健機関 によれば世界で最も大気汚染が深刻な14都市のすべてはインドである[ 123] 。大気汚染対策として二輪車および三輪タクシー などの電気自動車 化を推し進めている[ 124] 。インドの公的調査機関「科学環境センター」は大気汚染 の最大要因を車の排気ガス と分析する。特に 12月中旬から2月中旬に北インドで発生する濃霧 期間は、風が吹かず大気汚染が酷くなる傾向にある。対策として欧州連合 (EU)の排ガス規制「ユーロ4」に相当する排ガス規制「バーラト・ステージ(BS4)」が導入されている。エネルギー価格の高騰は2018年現在も解消されておらず、国民生活を圧迫する政治問題となっている。
衛生
インドではトイレ を持たない家庭も多く、政府は屋外排泄 行為根絶を目指す「クリーン・インディア」政策を2014年から進めている[ 125] 。
ナクザリズムとテロリズム
インドは長い間、テロ の被害を受け続けている。インド政府内務省 によると、インド国内のいくつかの州は戦闘行為やナクザリズム (ヒンディー語版 ) の影響を受けており、特にジャンムー・カシミール州、オリッサ州、チャッティースガル州、ジャールカンド州、および北東部の7つの姉妹州が危険な状況に見舞われている。2012年には、国内640地区のうち少なくとも252地区が程度の差こそあれ、反政府勢力やテロ活動の被害に遭っていた[ 126] 。
印僑
印僑 は華僑 、ユダヤ人 、アルメニア人 に並ぶ世界四大移民集団で、インド国外で成功を収めている。大英帝国 の植民地時代から世界各国の国へ移民し、特にイギリスの支配下であった英語圏 に圧倒的に多いのが特徴である。在外インド人(NRI =印僑 )は、インド外務省 によれば、2,500万人以上と世界各地に存在しており、その一部は上祖の出身地たるインドへの投資にも積極的である。特にインド系移民の存在感が大きな諸国として東アフリカ のタンザニア や、ケニア 、モーリシャス 、南アメリカ のガイアナ 、西インド諸島 のトリニダード・トバゴ 、オセアニア のフィジー などが挙げられる。
治安
インドは現時点において着実な経済発展を遂げており社会情勢は全般的に安定しているが、それに反して都市部では人口の集中、失業者の増大、貧富差の拡大を背景として一般犯罪の発生件数が増加傾向にある。主な犯罪として窃盗 や強盗 、詐欺 、強姦 、誘拐 などが多発しており、同国に滞在する際には充分な注意が必要となる。治安はたいへん厳しい状況である。
他方では宗教間対立や多民族といった複雑な国内事情もあり、過激派組織が活動している点からテロ事件も発生していて危険性が高まっている現状がある[ 127] 。
法執行機関
警察
ニザマバード市警察のパトカー ベースとなっている車両はトヨタ・イノーバ クリスタ
インド警察庁 (英語版 ) (IPS)が主体となっている。
人権
少数派への迫害、下位カーストへの暴力が後を絶たない[ 128] 。
パキスタンとの係争地で実効支配を続けるジャム・カシミール州では分離運動もありインド軍による拷問、暴力が報告されている[ 129] 。
女性の権利
1992年~1993年の統計データによると、インドで女性が世帯主となっている世帯はわずか 9.2% となっている。しかし、貧困線以下の世帯の約 35% は女性が世帯主であることが判明した[ 130] 。
マスコミ
インドには500を超える衛星放送 チャンネル(内80以上はニュース専用チャンネル)、約7万社の新聞社が存在し、同時に毎日1億部以上が売られる世界最大の新聞市場を抱えている[ 131] 。
新聞
現在インドには約1000紙のヒンディー語 の日刊紙が存在し、総発行部数は約8千万部となっている。第二言語 である英字紙は、日刊紙の数で見ると約250紙あり、総発行部数は約4千万部となっている[ 132] 。影響力のあるヒンディー語新聞にはDainik Jagran や Dainik Bhaskar 、Amar Ujala 、Devbhumi Mirror 、Navbharat Times 、Hindustan Dainik 、Prabhat Khabar 、Rajasthan Patrika ,Dainik Aaj がある。
インドの日刊紙
Ref: Indian Readership Survey Q4 2019 pdf
Ref: Indian Readership Survey Q1 2019 [1]
Ref: Indian Readership Survey Q1 2019 [2]
放送
ラジオ放送は1927年に開始されたが、1930年には国家の責任に限られるようになった[ 133] 1937年に全印ラジオと命名され、1957年からはAkashvani とも呼ばれるようになった[ 133] 。テレビ番組は放送期間を限定しながら1959年に始まり、1965年に完全に放送を開始した[ 133] 。1991年の経済改革 以前、インド国内では情報・放送省 が、テレビ局であるドゥールダルシャン を含む視聴覚機構を所有・管理していた[ 134]
文化
食文化
文学
哲学
音楽
映画
美術
被服
建築
世界遺産
祝祭日
インドの国民の祝日(National Holidays)は以下の3日である[ 135] 。
このほかに全国的な行事(Gazetted Holidays)と、州ごとに異なる地方的行事(Restricted Holidays)をあわせた年中行事が数百あり、それぞれがひとつないし複数の宗教と関係がある[ 135] 。日付は宗教ごとに決まった暦を使用するため、大部分は移動祝日 になる。主要な行事には以下のものがある[ 135] 。
スポーツ
クリケット
クリケット専用スタジアムのナレンドラ・モディ・スタジアム 。収容人数は13万2000人[ 136] 。
クリケット はインド国内で最も人気のスポーツ となっている[ 137] [ 138] 。最も象徴的な現代エンターテインメントとも言われ、ボリウッド 映画より人気が高いと評される[ 139] 。国内のあらゆる地域でプレーされており、重要なインドの文化の一つとなっている。歴史的には1700年代後半にイギリスの植民地主義者の好意によってインドに伝わり、1792年にインドで最初のクラブであるカルカッタ・クリケットクラブが設立された[ 140] 。イギリス領インド帝国 時代には、マハーラージャ であるランジットシンジ がケンブリッジ大学 を卒業し、クリケット選手として大きな功績を残した[ 141] 。インドのクリケットの発展・普及に大きく貢献したことから、「インドクリケットの父」と呼ばれている[ 142] 。
ナショナルチームのインド代表 は世界屈指の強豪チームであり、クリケット・ワールドカップ で2度の優勝(1983年 、2011年 )、ICC T20ワールドカップ で2度の優勝(2007年、2024年)、ICCチャンピオンズトロフィー で2度の優勝(2002年、2013年)を誇る。インドの歴代のテレビ視聴者数もクリケットの試合が上位を占めており、とりわけライバル関係にあるパキスタン との一戦は絶大な盛り上がりを見せる。2023年には国際クリケット評議会 が発表する世界ランキングにおいて全3形式で同時に1位になるいう偉業を達成した[ 143] 。
2024年のT20ワールドカップ 優勝後、モディ 首相の祝福を受けるヴィラット・コーリ 。インド首相 執務室にて
インドクリケット管理委員会 (BCCI)が国内組織を統轄しており、国内大会はランジ杯、ドゥピープ杯、デオダール杯などがある。またトゥエンティ20 ルールのプロリーグであるインディアン・プレミアリーグ (IPL)は最も人気のある国内リーグであり、また世界最大のクリケットリーグであることからも世界中の多くの一流選手が所属している。IPLの1試合当たり放映権料では約11億4000万ルピー(約20億円)であり、サッカーのプレミアリーグ を超えている[ 144] 。女子クリケットも急速に普及しており、2023年には女子プレミアリーグ (WPL)が開幕した。
インドを代表する歴代の選手では、「クリケットの神様」とも評されるサチン・テンドルカール が挙げられる。その高い功績からマザー・テレサ も受賞歴のあるバーラト・ラトナ賞 をスポーツ界の人物として初受賞した。ランジットシンジ 、スニール・ガヴァスカール 、カピル・デヴ 、ラーフル・ドラヴィド 、マヘンドラ・シン・ドーニ も歴代のインドクリケット界を代表する選手である。ヴィラット・コーリ は2010年代から2020年代におけるインドを代表する選手である。2020年に国際クリケット評議会より、過去10年間における世界最優秀選手賞を受賞した[ 145] 。インドではスポーツ界を越えたスーパースターであり、インド映画 のトップスターを抑え、インドで最もブランド価値の高い著名人 に選出された[ 146] 。コーリは2023年にInstagram 公式アカウントのフォロワー数がアジア人として史上初の2億5000万を超えた[ 147] 。
フィールドホッケー
フィールドホッケー の国際試合
イギリス 統治時代から盛んだったフィールドホッケー も盛んであり、インドホッケー連盟がナショナルチームをはじめとした国内組織を統轄している。ホッケー・ワールドカップ でも1975年 大会の優勝実績があり、オリンピック では金8個・銀1個・銅2個のメダルを獲得している。プロリーグとしては2005年 より『プレミア・ホッケーリーグ』があり、テレビ中継も開始されている。
サッカー
インド国内では近年サッカー の人気が若者を中心に急上昇しており、クリケットに次ぐ地位を得ている。2014年 にプロサッカーリーグのインディアン・スーパーリーグ が、かつて欧州主要リーグで活躍し晩年を迎えた選手を、助っ人として次々とリーグに参戦させ華々しく開幕した。国際的なスポーツマン・芸能人のマネージメントを引き受けるIMGや、インド最大のエンターテインメント 企業であるSTARとのタイアップ を図ることで、国技であるクリケットに次ぐインド国民が熱狂する「スポーツエンターテインメント」の確立を目指している。
全インドサッカー連盟 (AIFF)によって構成されるサッカーインド代表 は、FIFAワールドカップ には未出場(1950年大会 は予選通過するも、本大会は出場辞退[ 148] )であるが、AFCアジアカップ には4度の出場歴があり1964年大会 では準優勝に輝いている。また、南アジアサッカー選手権 では大会最多8度の優勝を誇る。AFCチャレンジカップ では2008年大会 で初優勝を飾っている。
モータースポーツ
2011年 からは、インド国内としては初めてのF1 開催であるインドGP を開催している。ただ、これまでサーキット用地買収や運営する国内モータースポーツ連盟の分裂・混乱などの問題が発生、開催時期は当初の2009年 から2010年 、そして2011年 と延期が続いた。インドにとってのF1は2005年 より関係が深まっていき、その年にジョーダン・グランプリ から参戦し2006年 と2007年 はウィリアムズ のテストドライバーを担当していたナレイン・カーティケヤン が初のインド人ドライバーとなった。
2008年 よりキングフィッシャー航空 の創業者でユナイテッド・ブリュワリーズ・グループ の会長を務めるインド人実業家のビジェイ・マリヤ が、インド初のF1チームであるフォース・インディア を設立。2010年にはインド人2人目のF1ドライバーであるカルン・チャンドック がヒスパニア・レーシング・F1チーム よりデビューしたため、インド国内でのF1への関心は高まりつつあり、インドGPのF1初開催が2011年に現実のものとなった。
その他の競技
インドの伝統的なスポーツであるカバディ 、コーコー (英語版 ) 、ギリ・ダンダ (英語版 ) なども全国で広く競技されている。さらにインド南部ケララ地方古来の武術 であるカラリパヤット や、ヴァルマ・カライ (英語版 ) も行われている。2008年 の北京五輪 の男子エアライフル ではアビナブ・ビンドラー (英語版 ) が優勝し、同国で個人競技として初めての金メダルを獲得した。また、近年ではテニス もデビスカップ インド代表の活躍もあって、急速に人気を博している。他方で、競馬 などのスポーツも存在する。
著名な出身者
脚注
注釈
^ 日本の学校教育では(財)世界の動き社『世界の国一覧表 』の2002年 度版がデリー首都圏 の行政機構改革によりニューデリーが包摂されたことを反映して首都を従前の「ニューデリー」から「デリー」に変更しており、同年以降は文部科学省 の学習指導要領 でも首都を「デリー」としている。
^ インド憲法 上の正式名称。
^ ヒンディー語 の名称भारत गणराज्य (ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)を日本語訳したもの。
^ 2023年現在、同国軍が保有する武器の約半分はロシア製となっている。
出典
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参考文献
関連項目
外部リンク
加盟国
脱退国
1 1はイギリスの植民地・保護国だったことのない国。
加盟国 パートナー国 首脳会議 金融 研究 スポーツ 関連項目
座標 : 北緯21度 東経78度 / 北緯21度 東経78度 / 21; 78 (インド )
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