避暑地(ひしょち、英 : Hill station)は、避暑のために訪れる土地。
夏でも冷涼な気候であることが求められるため、標高の高い、または緯度の高い寒冷地が選ばれることが多い。
住宅地化、都市化の波に呑み込まれた地域もあるが、別荘や宿泊施設が建ち並ぶリゾート型の避暑地も多い。
日本を代表する避暑地として、軽井沢や箱根などが知られている。
概要
避暑地は、アメリカやアジア、アフリカなどにおける高温多湿な地域の近郊に需要があり、年間を通して基本的に冷涼な地域が多いヨーロッパでは、避暑という概念が必ずしも一般的ではない[注釈 1]。言い換えれば、ヨーロッパ人が高温多湿な地域にかつて入植などで移り住んだ際、夏でもヨーロッパのように涼しく過ごせるような土地を開拓していったのが、避暑地の起源である[1]。
逆の意味として「避寒地」があり、欧州のリヴィエラやアメリカのマイアミなどがこれにあたる。名称自体は日本では一般的ではないものの、年始・年末に多くの日本人が訪れるハワイやサイパンなどもこれにあたる。
地球温暖化は無論避暑地にも影響を与えるが、高温多湿な地域に比べると依然として格段に冷涼なため(気温差は変化していない)、その意味で避暑地としての体裁は保たれている。また、避暑地の多くは冷涼なため近年でも真夏日が少なく、猛暑日や熱帯夜になることは極めて稀である。避暑地が猛暑に見舞われた場合には、避暑地以外の地域はより一層酷暑となっている可能性が高い。
なお、”避暑地”というイメージが先行して、「実際は思ったほど涼しくない」といった意見や、さらにそれを前述の地球温暖化に結びつけてしまうようなバイアスも見られるが、たとえ避暑地として国内で最も涼しいエリア(北海道道東や標高1500m以上の地域など)においても、盛夏には平均最高気温が20℃を上回るため、日差しが当たると場合によっては汗ばむほどの体感となる。地球温暖化が問題となる以前の古い文献に「高原の日中はなかなか暑い」(1932年)[2]といった記述も見られている。
日本における避暑地
日本では、明治時代に欧米人の商人・宣教師・教師が外国人避暑地を日本国内に造ったのが始まりである。
これは当時の教師、宣教師などの一般が、欧米との為替不均衡により、わが国の感覚から見れば、いずれも破格の収入を得ていた「富裕層」であったためと考えられている[3]。
最初期の避暑地は、1870年代から1880年代にかけて日本各地で誕生した。その時期が各地で概ね一致している理由として、鉄道建設の発展が一般的に挙げられるが、しかし依然として各地への到達は容易ではなく、また鉄道の開通していない地域でも避暑地の開拓は行われている[3]。
開拓された地域は、土地の特性にある程度の共通項が見られ、大まかに有名温泉地型、海浜型、高原型(山岳や湖畔を含む)に分類することができる。これらの避暑地は、1、2か月の長期滞在型別荘地であることが多く、非日常的な旅行(観光)というよりも酷暑から逃れるという必然性から生まれた日常生活の延長としての面が大きかったが[1]、例外として、日本的な観光資源が豊富で江戸時代以前から観光地・景勝地・保養地として有名であった日光、箱根、鎌倉などといった避暑地では、訪日旅行者を含めた外国人観光客からも人気を博し、短期滞在者も多かった[3]。
本国から離れ、日本各地へ散らばって生活をしている外国人にとって、外国人避暑地は通信・交通が現在より不便だった時代、年1回集まって情報交換をするための重要な地区でもあった。東アジアの熱帯・亜熱帯地域からも日本の外国人避暑地に訪れる者が見られた。昭和初期にかけて、外国人避暑地は全盛期を迎え、各地で外国人向けの宿泊施設や娯楽施設が充実していき、高級リゾートホテル(クラシックホテル)も誕生した。
避暑概念は大正頃から次第に日本人の富裕層にも広がった。元来日本人からの人気がなかった高原は、外国人がその西洋的な魅力を見出して以降、避暑を主目的にしながらも西洋式生活の模倣の舞台となり、テニス、ゴルフ、乗馬、サイクリングといった西洋から輸入されたばかりのスポーツ、外国人との各種パーティーなど西洋式生活が上流階級を中心に積極的に行われていた[4]。この傾向は軽井沢で顕著に見られたが、六甲山、中禅寺湖など軽井沢以外の地域においても当時のハイカラな流行として西洋式リゾートライフが展開された[4]。この様相は堀辰雄をはじめとする当時の(主に軽井沢に滞在していた)作家たちにしばしば取り上げられ、大衆の間にも「避暑地」の特徴的なイメージとして認知された。
一方で有名温泉地は、外国人が避暑地とする以前から日本人にとって保養地としての役割を担っていたため、高原避暑型の西洋式生活を取り入れようというスタイルとは違い、日本古来の伝統である湯治をしながら豊かな自然を相手に風流に過ごす純日本的なものであった[4]。ここでは、宿泊に既存の旅籠や旅館が長らく使用されたことで別荘開発は遅れ、高原避暑型でみられたホテルなどでのパーティーを中心とした交流や、軽井沢のようなコミュニティ施設・組織は、雲仙など一部を除いて基本的には存在しなかった[3][4]。海浜は、そもそも高原避暑型に比べると外国人の割合が小さく、加えて海水浴や日光浴を目的とした大衆も集いはじめたため、次第に大衆色が強まっていった[1][4]。また避寒にも適する温暖な気候と、比較的東京から近距離にある地域が多かったため、定住利用も見られるようになった[4]。
第二次世界大戦が始まると、避暑客の大半を占めていた英・米人(連合国民)が敵国人となり、本国へ帰還したことから、彼らの外国人別荘は売却された。大戦末期には、箱根や軽井沢、山中湖などの一部避暑地が各国大使館や一般外国人の疎開先となり、これらの地域は日本本土空襲の被害に遭うことがなかった。
戦後になると、通信手段や交通手段(特に空路)、空調機器の飛躍的な発達や在留外国人を取り巻く環境(社会的地位・金銭的待遇等)の変化などから、外国人コミュニティが国内の特定の地域に集まってバカンスを楽しむことは少なくなり、外国人避暑地の趣は各地で次第に影を潜めていった。ノンフィクション作家の山口由美によれば、箱根、日光、軽井沢といったリゾート地から外国人の常連客の姿が見られなくなったのは1970年代に入ってからで、意外なことに戦争の前後を通じて、ずっと同じような夏が続いていたという[5]。
平成に入ってからも後述の日本三大外国人避暑地や中禅寺湖などの一部では未だに外国人コミュニティが夏に集う様子が確認されているが、それ以外の地域ではもはやほとんど見られず、規模は明らかに縮小傾向になっていたが、2010年代になるとインバウンドブームで観光目的ではあるが外国人観光客や外国人スキー客が訪れるようになった。
なお、西洋風別荘にテニスやパーティーといった、軽井沢をはじめとする戦前の外国人避暑地に見られた西洋式生活のイメージは、「避暑地」「別荘地」の土地イメージとして未だに根強く残っており、小説やテレビドラマ、映画などではしばしば古典的に描写される。
現在では空調機器の発達から長期的な避暑を行うことはまれである。別荘を所有することなく、短期の宿泊で避暑を行う者も増え、ホテル・旅館・コテージ・温泉などの宿泊施設がそれらの避暑客に対応している。特に夏季に酷暑が長期間となることが多い太平洋ベルト地帯の大都市住民の需要が大きく、主だった商業的避暑地は三大都市圏の近辺に多い。中央高地の山梨県・長野県・岐阜県に著名な避暑地が見られる。なお交通機関の発達により海外旅行が一般化したことで、海外の避暑地を訪れる者も珍しくなくなっている。
また令和になって以降 台湾、香港などから釧路市、鶴居村が訪問滞在先として人気となっている。
(外国人避暑地であった地域を太字で示す)
日本三大外国人避暑地
外国人より「山の軽井沢、湖の野尻湖、海の高山」と称され、これらは「日本三大外国人避暑地」とされる[6][7]。
なかでも軽井沢は、鉄道の開通によるアクセスの良さや土地開発による良好なリゾート環境などから、戦前まで毎夏1000-2000名程度の外国人が避暑に訪れていた(外国人別荘はおよそ300戸を数えた[8])[9]、日本で最も規模の大きな外国人避暑地であった[3][10][注釈 2][注釈 3]。
なお、先に触れた日光、鎌倉、箱根、雲仙といった避暑地については、外国人滞在者数こそ非常に多かったものの、日本三大外国人避暑地には含まれていない[注釈 4]。
七ヶ浜町の高山国際村は純粋に外国人のみが居住する避暑地であり、野尻湖の神山国際村は日本人との雑居状態が見られる[11]。どちらも一帯が私有地の立入禁止区域であり一般には公開されていないため(ゲーテッドコミュニティ)、世間からの認知度は低いが、外国人避暑地としての趣は未だに色濃く残っているとされる。
一方で軽井沢は、当時の外国人からの知名度に加えて日本人にもオープンな土地柄であったことから、著名人の来訪も相まって一大リゾート地へと発展していった。避暑地としての全国的な知名度は未だ確固たるものとしており、避暑外国人が集う様子も戦前に比べて人数は圧倒的に減少したものの未だ確認されている[12]。
なお野尻湖の神山国際村は、軽井沢の大規模なリゾート地化(特に物価の上昇)を好まなかった軽井沢の一部宣教師たちが、新たな避暑地を開拓しようとして生まれたコミュニティである。
日本三大外国人避暑地
南アジア・東南アジアの避暑地
インドをはじめ南アジアや東南アジアでは3~7月にかけて熱波に見舞われ、最高気温が40℃を超える日は珍しくない。
西欧列強による植民地時代以降に避暑地が設けられたところが多い。
パキスタン
インド
主にヒマラヤ山麓と、西ガーツ山脈、東ガーツ山脈に位置しているものが多い。
スリランカ
ネパール
ミャンマー
マレーシア
インドネシア
インドネシアは活火山が多く存在するため、その山麓やカルデラ内に避暑地が造られることが多い。
タイ
カンボジア
ラオス
ベトナム
フィリピン
脚注
注釈
- ^ 夏季にバカンスとして海や山などの自然豊かな地域に移り静養する文化は古くから存在するが、あくまでも「避暑」(暑さを避けること)を目的とはしていない。「Summer Resort」「Summer Place」などの単語が「避暑地」として訳されることもあるが、これはあくまでも日本人の視点から馴染みのある近い言葉に訳されただけであり、本来の意味合いを持つものではない。
- ^ ちなみにこの規模は、明治半ばの外国人居留地と同程度あるいはそれ以上のものである(1885年時点での神戸外国人居留地と横浜外国人居留地における在留欧米人の人口がそれぞれ約400名、約1200名(藤岡ひろ子「外国人居留地の構造—横浜と神戸—」『歴史地理学』第157巻、1992年、58-84頁。 p.62))。
- ^ 高山は1934年時点で外国人別荘が38棟、同避暑客が150-170名程度、野尻湖は同年の別荘数が100戸との記録がある(上田卓爾「第二次世界大戦以前の日本のリゾート(外人避暑地)について」(名古屋外国語大学 現代国際学部紀要 第5号, p.111, p.113, 2009)。
- ^ これは温泉や名所寺社巡りといった観光を主目的としていた短期滞在者数を考慮したものと考えられる。実際、外国人別荘数は当該地域と比べても軽井沢が最も多く、また当該地域には軽井沢のように避暑文化すなわち西洋文化が在来文化を有意に侵食した痕跡は見られない。
出典
- ^ a b c 十代田朗「近代日本における
『避暑』思想の受容と普及に関する研究」(J.JILA 59(5), pp.105-108, 1996)
- ^ 堀辰雄の随筆『エトランジェ』(1932年発表)より、軽井沢についての描写。
- ^ a b c d e 江川良武「別荘地・軽井沢の発展過程の研究 その一」(信濃 [第3次] 67(8), 563-580, 2015-08, 信濃史学会)563-580頁
- ^ a b c d e f 十代田朗・渡辺貴介・安島博幸「戦前の関東圏における別荘の立地とその類型に関する研究」(日本建築学会計画系論文報告集 第436号, pp.79-86, 1992年)
- ^ "「レッドライト」(連載第12回) ホテルニューグランド"ヨコハマNOW
- ^ 学院史編纂室便り No.16 (2002年11月20日)(関西学院学院史編纂室)
- ^ 避暑地軽井沢とA.C.ショー(三田評論 No.1139(2010年11月号) 慶應義塾大学出版会)
- ^ 花里俊廣「戦前期の軽井沢の別荘地における外国人の所有・滞在と対人的環境の様態」(日本建築学会計画系論文集 第77巻 第672号, pp.247-256, 2012年2月)248頁
- ^ 内田順文「軽井沢における『高級避暑地 ・別荘地』のイメージの定着について」『地理学評論』第62巻第7号、1989年、495-512頁、doi:10.4157/grj1984a.62.7_495。 499頁
- ^ 斎藤功「わが国最初の高原避暑地宮ノ下と箱根 —明治期を中心に—」『筑波大学人文地理学研究』第18巻、1994年、133-161頁、hdl:2241/00127075。 p.146
- ^ 上田卓爾「第二次世界大戦以前の日本のリゾート(外人避暑地)について」(名古屋外国語大学 現代国際学部紀要 第5号, pp.89-127, 2009)
- ^ 軽井沢と宣教師, 新日本風土記アーカイブス, 2011年, NHK.
- ^ 高山ビーチカンパニーが管理。当避暑地に別荘がある者とその家族・知人が利用できる。
- ^ 野尻湖協会 (Nojiri Lake Association)が管理。会員になれば利用できる。
関連項目